第16話 男だか女だか、忘れてしまうようなひと。

 その日はちょうど、二人とも特に用事は無かった。

 かと言って格別に話すことがある訳でもない。中にはその日あったことを息せき切って話さずにはいられない人もいるだろうが、この二人はそうではなかった。

 食事をしたらお茶を飲み、点けっぱなしにしてあるTVの野球に目をやる。それが終わったら、新聞やら、適当に転がっている雑誌に目をやるとか、そんなことで時間がだらだらと過ぎていくだけだった。

 ただ、その時不意に。

 つん、とつつかれた。


「……何?」


 彼女は興味があるとも無いとも、驚いたともそうでもないような、曖昧な表情で自分を見ていた。

 どうしたんだろう? と彼は大きく目を開いた。


「や、綺麗だなあ、と思って」


 そう言われるとは、思わなかった。彼はにっこりと笑って返す。


「ありがと」

「本当ですよ?」


 嘘を言ってる訳ではない、と彼も思った。このひとはそういうひとではない。嘘をわざわざ言う手間をかけるくらいだったら黙っているほうだ。

 だけど少し、面白くなっていた。


「だって男の肌だよ? いくら何でも違うじゃない」


 そう言って、今度は彼のほうから彼女の頬に触れた。普段から化粧をばりばりにしている女性達と違って、荒れていない。


「ほらずっとすべすべ」

「……くすぐったいですよ」


 くすくす、と彼女は笑った。細い目が無くなってしまいそうな、笑顔。


 あ。


 彼女は手を外そうとする。彼は思わずその手を取っていた。


「DB?」

「黙って」 


 左の手の指は、ひどく堅かった。ギタリストの指だ、と改めて彼は思った。

 その手に、軽くくちづける。


「仕事してる、手なんだよね」

「そりゃあそうですね」


 すると今度は彼女の方が、近寄ってくる。頬に触れる。


「アナタは今はこれがお仕事しているもの、でしょう?」

「うん」


 すると彼女はその頬に唇を寄せた。ひどく軽く。ふわり、と羽根が乗ったくらいの軽さだった。


「くすぐったい」

「じゃどのくらいなら、いいですか?」


 そうだね、と彼は正面から向き合う。


「このくらい」


 ……そう言えばこのひと女の人だったんだよな、と彼は翌朝、今更のように考えた。

 真っ赤な髪を広げて眠っている姿を見ると、確かにそうだ。

 決して広くないベッドの中で触れてしまう身体の感触もそうだ。毛布の中にこもっている匂いとか、それは明らかに女性のものなのだ。

 だけど何か、女性と寝た様な感じがしなかった。何故だろう、と彼は天井の染みを見ながら考える。何度も、何度も視線が染みと天井の端を横断する。


 ああそうか。


 はたと彼の頭は、一つのことに思い当たる。


 僕が一方的に何かしらするという訳じゃなかったからだ。


 郷里に居た高校時代、彼を誘った上級生や、可愛いわね、と声をかけてきた女子大生、家庭教師の女性、皆彼に、何をしろこれをしろ、と要求してきた。

 言葉にしていた場合もあるし、無言で要求していた場合もある。

 別段自分で進んでそうしたかった訳ではない。なのに終わった後で、こんなものなの、という顔をされた時には、自分が何をしているのか訳が分からなくなることがあった。

 だけどこのひとの場合は。

 手慣れてはいない、と思う。

 どちらかというと、好奇心のほうが勝ってた様に思われる。

 ただその好奇心の矛先が、相手であるDBだけでなく、P子さん自身にも向かっていたよゆうに、彼には思えた。

 不思議な反応だ、と彼は思った。

 無論全ての女性を同一視している訳ではない。だがあまりにも、彼女は客観的だった。

 何となく、彼はそう思った。自分が触れた時の、彼女自身の反応も、彼女がDBに触れた時の反応も、彼女にとっては等価値のように、彼には感じられたのだ。

 ああそうなんですね、と彼女は何度か口の中でつぶやいた。なるほど。そういうもんなんですね。

 およそ、そんな時に聞く言葉ではない、と彼は思っていた。

 確かに自分たちの間に、そんな恋愛めいた感情が存在するとは思ってはいなかったが、それでも、していることがことなのだ。何かしら、それらしい言葉が出るのではないか、と思っていたのだ。


 だがしかし。


 彼女は一つ自分が仕掛けると、同じことをDB自身にもやり返す。じゃあこれは、と次には彼女のほうが仕掛ける。曖昧な笑い。だけどそこには打算の一つも無くて。


 不思議で、曖昧で、とろとろと、溶けるような感じで。


 自分が彼女を抱いているのか、彼女に自分が抱かれているのか、DBは最初から判らなかったし、最後まで判らなかった。たまたま持っている器官が一つ違うだけだった、のかもしれない。



「……あれ、起きてたんですか?」


 目が合う。起きてた、と彼は短く答えた。そしておはよう、と。


「朝、ですね」

「うん。朝だね。いい天気」

「いい天気ですね」


 そしてんー、と言いながら彼女はゆっくりと身体を起こす。何度か首を回し、肩をもむ。


「何か、身体が痛いですよ」

「僕も」


 変ですねえ、と言いながら、彼女は何度かまた首を回し、床に落ちていたTシャツを拾った。そう言えば昨夜風呂に入ってなかったことを思い出したのか、のそのそとそのまま彼女は風呂場に入っていった。

 彼は少し考えたが、Tシャツとスウェットをつけると、一気にシーツを取り外した。少しばかり考えるべきことがあったような気がするのだが、その時の彼には思いつかなかった。


 それから、時々そんなことがある。



「……ホントに、しょうが無い子」


 ふう、と閉店後、片づけをしながら夢路ママはため息をついた。


「だけどあんな風に、言いたいことずはずばと言える子ってのは、いいですね」


 髪につけていたリボンを取りながら、DBは言う。実際そう思ってもいた。


「何、好み?」


 テーブルを軽く拭きながら、たまきさんが笑顔で問いかける。


「違うよ。うらやましいなあ、って思って」

「でもねえDB、お客なんてのはそういう子は好かないのよお」


 彦野さんは厚みのある手をぽん、と彼の肩に乗せた。


「や、それは人によると思うね」


 くす、とお葉さんはグラスを両手に持ちながら話に加わる。


「中にはああいう女の子に振り回されたい、って奴も居るよ」

「まああなたのお客はそうでしょうね」

「ふふん」


 にやり、とお葉さんは笑う。少しばかりDBはひやり、としたが、これはこれで、「彼女」達は仲がいいのだ。お互いの相手にするタイプが違う、というのは重要だ、とDBは肝に銘ずる。


「だけどDBちゃんの好きなタイプって、どういうひとなの?」


 たまきさんは男とも女とも限定せずに問いかけた。


「どういうひとって」

「ふふん。聞いたわよ。今いいひとのとこから通ってるって言うじゃない」

「それは」


 彼は言葉に詰まる。


「あんたが好きであんたを好きなんだから、よほどなひとな気がするけどねえ」


 うーん、とDBは苦笑する。

 どう答えたらいいのだろう。嘘でごまかすのは苦手だった。P子さんだったらあの曖昧な笑顔でさらりと逃げるのではなかろうか、と思うのだが。


「……うーんと」


 うんうん、と「彼女」達三人は耳を傾ける。


「何かね、僕が男だか女だか、忘れてしまうようなひとなの」


 それだけ、と曖昧な笑顔でごまかす彼に、三人とも顔を見合わせて首をひねった。

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