第915話 戦略的撤退
「ウオオオオオ! ミエ! 好き! 愛シテル!」
「ミエさんかー、会ってみてえなあ!」
「お前ダメ」
「なんでだよ! いーじゃん!」
「ダメ」
クラスクが最愛の妻の名を叫びながら斧と剣で挟み込むように斬りかかり、彼女の名を呟きながらオーツロが≪気煌剣≫で斬りかかる。
その後のやりとりは特に戦術上の意味はないが、まあ気力に余裕のある証拠だろう。
グライフはそれらの攻撃をすべて捌き切っているけれど、先ほどまでとは戦況が変わっていた。
先刻まではグライフの圧倒的な攻撃を必死に凌ぎながら一瞬の隙を突いての反撃が多かったクラスク達が、攻撃を継続できてる。
そのほとんどが防がれてこそいるものの、『旧き死』の方が防戦に追いこまれているのだ。
その名を聞くだけで他の魔族どもが震えあがる幻の大皇女、ミエ。
彼女の名を聞いてもグライフに表面上の変化はない。
他の魔族どものように怯えないし、竦み上がらないし、逃げ惑いもしない。
普通に軽口も叩けるし戦闘もできる。
もしミエが目の前にいれば当たり前のように殺害すらできるだろう。
だが……それでも彼女の名を聞くたび僅かに反応が鈍る。
それは圧。
周囲の魔族どもからの圧だった。
冒険者達が連呼するその恐怖の名。
それによりこのあたり一帯の魔族どもが抱く恐怖の圧が、とめどなく彼に流れ続けてくるのである。
精神感応によって彼ら魔族の情報はすべて共有される……が、誰もが好きなように命令できるわけではない。
魔族は厳格な階級社会であり、情報は常に上役へと集約されそこから下位の者達に指示が飛ぶ。
完全なる上位下達の構造だ。
そしてこの戦場に於ける最も高位の魔族は彼、『旧き死』グライフ・クィフィキだった。
クラスクがドルムへの突入行の際感じた僅かな隙…己の操縦に合わせて為される魔族どもの魔術妖術の雨、そのわずかなタイムラグ。
それがこの情報の集約と伝達の差である。
それはつまり上司がいる際には魔族どもは常に上司に情報を発信し指示を仰いでいる、ということだ。
クラスク市襲撃の際、空から飛び掛かって来た(?)ミエに怯え硬直してしまったかの
情報が集まるがゆえに、恐怖の感情もまた集約して叩きつけられる。
それが今『旧き死』の精神を圧迫し、ほんの少しだけその動きを阻害しているのだ。
無論それは本当にわずかな差であって、ほとんどの相手はそれに気づく事すらなく撫で斬りにされるだろう。
相手がクラスクとオーツロでさえなければ、彼らの手にしている武器がグライフに致命傷を与え得るものでなければ、何の問題もなかったはずだ。
だが現実はそうではない。
僅かな遅れ、微かな隙を見逃す相手ではない。
先程までとは逆に、グライフは二人の攻撃の隙を突いて反撃をするまでに追い詰められていた。
「ほら! お前達も叫べ! ミエさんだ!」
「ミエ? 人の名前? そんなんで魔族が……」
「「びびってるわ」」
「ミエ! ミエ! うおマジだ!」
「ミエー! 結婚してくれ!」
「貴様ー! ミエ様だ! ミエ様最高と言いなさい!」
「うおおミエ様最高! ミエ様最高!」
…とまあ、対魔族戦が有利になると伝え聞いた冒険者達が次々に彼女の名を連呼しはじめた。
ミエが聞いたら頭を抱えそうな光景が、冒険者達の間に見る間に広がっていったのだ。
そして彼らのその叫びを聞くたびに、そして彼らの叫びを聞いた魔族どもの恐怖心をあらゆる方向から浴びるたびに、グライフの動きがほんのわずかに落ちる。
そしてクラスク達はそれを見逃すことなくすかさず追撃をかけてゆく。
これは、いささか不利だ。
グライフは、そう認めざるを得なかった。
彼自身は負けているつもりなど毛頭ない。
ないのだが他の魔族どもが勝手に生み出し勝手に育てた『弱点』が、同種であるという理由で彼にも付与されてしまっていた。
そしてその弱点が彼を苛み、その動きを僅かずつ鈍らせてゆく。
言ってみれば常時デバフがかかつっているような状態である。
それでもこれまでの相手であれば大した問題ではなかったろう。
100の実力が90になろうが80に落ちようが10や20程度の木っ端相手に後れを取るはずがない。
けれど今回の相手は違った。
この地方最高の冒険者集団の団長として彼の物理障壁も外皮もすべて貫く光の刃を持つ戦士オーツロ。
そして彼の物理障壁を無効化する聖剣と、無効化こそできないもののその吸血効果により彼の高速治癒と再生を阻害し続けさらには『力場』まで破壊してのける奇怪な大斧を持つ、オーク族の戦士クラスク。
そして彼らを援護し続ける生意気な術師ども。
どれもこれも厄介で、面倒な相手である。
そして彼らの刃はいつか己の身に届き得ると、この魔族の弱点を連呼されている状況下に於いては己の命を奪い得るものだと、グライフは不承不承認めざるをえなかった。
となればとるべき行動はひとつ。
撤退である。
己が退散すればドルム攻略戦は失敗に終わるだろう。
その責は取らされるに違いない。
だがそれでも己が滅びるリスクに比べれば多少の降格など安いものだ。
なに向こう百年の楽しみができたと思えばいい。
問題はこの場にいる連中が彼を逃がしてくれるか、である。
グライフは高位魔族であり、妖術として〈
だがこれは位階が高い妖術なので≪妖術高速化≫ができない。
つまり使用のためには精神集中と一瞬の間が必要であり、それは攻撃される隙を生む。
そしてその隙に攻撃を叩きこまれてしまえば痛みによって精神集中が乱れ、妖術が霧散しかねない。
妖術であっても
だがグライフは高位魔族である。
腕や足を一本斬り落とされる程度の痛みであればそのまま精神集中を乱さずに妖術を発動可能だと、彼は自己判断した。
つまり片方だけだ。
オーツロとクラスク、どちらか一方の攻撃からの被弾を覚悟するのであれば〈
グライフは二人の同時攻撃を、オーツロからのものを力場で捌きクラスクからの攻撃を尾で反撃することで間合いを開けて大きく後ろに跳んだ。
と同時に高速化した妖術を解禁し間合いを開けた二人に氷柱の散弾を放つ。
素早く横に散開し間合いを保ち、けれど危険な攻撃に距離を詰められぬ二人。
ここだ。
このタイミングしかない。
彼は一息に精神集中し、魔力を高める。
グライフの異変に気付いた二人が被弾覚悟で一気に間合いを詰めんとする。
だが遅い。
グライフはそのまま宙に浮いて空で〈
クラスクもオーツロもその攻撃は白兵戦が主体で飛び道具と言えば自在に空を飛ぶ聖剣
だが
そして
そう、空に昇ればすべて解決するのである。
なぜ彼がこれまでそうしなかったと言えば答えは単純、使う機会がなかったからだ。
最初から空に浮いて手の届かぬ高さから攻撃魔術や回数無制限の妖術などを延々と雨のように降らせればそれだけで勝利できていたけれど、当初彼らはそこまでの相手ではなかった。
よりよい餌にするためにはより強い絶望が必要だ。
単なる力の差を見せつけるだけでは諦観になってしまう。
諦めは美味くない。
だからもう少し努力すれば何とかなると、そう思わせ続けて疲弊させ、最後の最後に種明かしをして絶望してもらうのが一番良いと、そう判断し封印していたのだ。
だがそうこうしている内にクラスクが不本意にも彼に付与されてしまった弱点を見抜いてしまい、そして周囲のそれが冒険者にも広がって、瞬く間に窮地に陥ってしまったのである。
先刻まではいつでも空に跳びたてる余裕があったのに使おうとせず、だがいざ飛行の優位が必要になった時には己の動きに常に負荷がかかって飛行の妖術を起動させるための隙を相手が許してくれぬ。
そういう意味では完全にグライフの自業自得である。
だがそれでも過ちは速やかに修正すればいい。
この速度なら二人の斬撃は届いたとしても宙に浮きかけた時脚部がせいぜい。
足を斬られたところで空を飛ぶなら行動に支障はない。
オーツロの光の剣やクラスクの手にした聖剣に斬られれば高速の自然治癒や≪再生≫は働かなくなるが、その場合普通に呪文で傷を癒せばいいのだ。
蘇生は神聖魔術の特権だとしても、治癒治療の呪文は魔導術にもあるのだから。
まあ魔導術の治療呪文の場合、神聖魔術のように何もないところから傷を治療する(正確には異界から治癒のエネルギーを召喚しているのであって、何もないわけではないのだが)のではなく、他者の生命力を奪ったり自身の傷を他人に移植したリといった類の呪文なのだけれど。
その時、巨大な破裂音が響いた。
前線を駆けるクラスクとオーツロ、その二人以外にもう一人ここには魔法剣士がいたはずだ。
そう、荒鷲団所属のエルフの魔法剣士、ヴォムドスィである。
だが彼は聖職者であるフェイックから離れた対岸で被弾し、遠隔の治療呪文でも届かぬ位置で身動きが取れなくなっていた。
彼を助けるために隠密を解除し割って入った盗族スラックスともどもほぼほぼ戦力外…のはずである。
その彼が、〈
この呪文は宝珠を生み出した時点で呪文が完了しているため魔術結界の効果を受けぬ。
魔族は音属性の攻撃に耐性を持たぬため当たればそのままダメージを与えられる。
その一方で宝珠はすぐに使わないと砕けてしまうし、対象に命中するという基本的な呪文効果を持たぬ(宝珠を作り出した時点で呪文が完了しているのだからこれは当たり前である)ため手で投擲し、狙いを付けて相手に命中させなければならぬ。
ゆえに放物線を描きグライフの下へと向かったその宝珠は、グライフがその腕から放った角状の突起……弾丸のように射出できる…によって簡単に空中で迎撃されてしまった。
「ッ!?」
だが……次の瞬間、グライフは己の身に起きた現象に戦慄することになる。
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