第887話 不可解
ミエは目をぱちくりとさせながらその光景を見つめている。
再び時は戻り、クラスク市。
その中央にそびえる居館、円卓の間。
女性型の
策も勝算もあったものではない。
ただコルキを死なせたくない一心である。
だからどんな目に合っても仕方ないと思っていた。
このまま殺されてしまうかもしれないとも。
だというのに……この状況はなんなのだろう
「…シャミルさん」
「ウム」
台所からそっと顔を出したシャミルがおっかなびっくり近づいてくる。
ミエは下唇を噛み眉を八の字に寄せて彼女の方に向き直った。
「なんなんでしょう、これ」
「わからん」
二人が目にしているもの……それは先刻の
ただしなぜかミエを斬り殺するでもなく拉致するでもなく、小さく悲鳴を上げてミエの前から後ずさり、壁の隅に自ら追い詰められこちらを怯えた瞳で見つめガタガタと震えているのだ。
「あのー……もしもし? 大丈夫ですか?」
そのあまりに弱弱しい様子がつい心配になってしまったミエは、あろうことか自らを殺しに来たはずの相手にのこのこと近寄って声をかけてしまう。
背後でシャミルが目を真ん丸に見開いて青筋を浮かべ『あほー!』と全力全開で叫びかけていたけれど、相手をいたずらに刺激したくないらしくその声が漏れ出る事はなかった。
「だいぶ怯えてらっしゃるみたいですけど……どこかお加減でも?」
「ヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!?」
その時のその
まるで化物でも見るような目つきでミエを見て、青白い肌を層倍に真っ青にして後ずさろうとして、背後が壁でこれ以上下がれないとなるとわたわたと壁に背をこすりつけながら横にずれて、狼狽しながら全力で距離を取り、そして……
「無理無理無理無理無理無理ムゥゥリィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」
と絶叫しながら部屋を飛び出て消え去ってしまったのだ。
なんか貴重そうな赤い剣を放り捨ててまで。
ミエは下唇を噛んだままシャミルの方を向く。
シャミルもまた下唇を噛んだままミエの方を向く。
そして互いに眉の根を寄せて不可思議そうに首を捻った。
「いったいなんなんでしょう」
「わからん」
本当に、さっぱり、わからない。
「なんて仰ってました?」
「無理だ無理だ、と叫んどったように聞こえたの」
「無理……?」
ミエには魔族の言葉はわからない。
シャミルにその訳語を聞くが、今度はその意味がわからない。
怪訝そうに腕を組み首を傾げる。
「シャミルさんさっき魔族さん達は私が目的だって言ってましたよね?」
「いやその結論は今も変わっとらんぞ。そのはずじゃ。そのはずなんじゃが……?」
シャミルも何が起こっているのかさっぱり理解できず、しきりに首を捻る。
いや間違いなくミエを狙っていた。
太守でありこの街の最高戦力であるクラスクを釣り出し、街の各所に主要戦力を分散させて、その上でわざわざ居館を攻めてくる以上、クラスクと並びこの街の象徴であるミエが狙いであることは火を見るよりも明らかだ。
理屈の上でも戦術面でも状況証拠的にもその推論が正しいであろう事が証明できる。
ただ先刻の魔族の取った態度だけが理解できぬ。
「うーん埒があきませんねえ」
「これミエ何を考えておる……っておおい!」
わけのわからぬまま、だがこれまで狭い場所に押し込められていた反動からかミエはすぐに行動に出た。
なんとそのまま円卓の間の扉を開けて外の様子を窺い始めたのだ。
「待て! 待たんか! 他の連中が先程の魔族と同じ反応をするとは……!」
シャミルが叫ぶがもう遅い。
壁の向こうからは先刻からずっと剣戟の音が聞こえていた。
外で何者かが戦っているのである。
「もしもーし?」
ミエが扉からひょっこり顔を覗かせると、壁際でまさに衛兵の一人と魔族が一体戦いの真っ最中であった。
正確には衛兵は四人いたらしい。
ただ既に三人は倒れ伏し、残った一人がどうにか魔族と渡り合っている、といった戦況のようである。
他の衛兵は普通の兵士だが最後に残った衛兵は元翡翠騎士団の一人、キャスの配下だった男のようだ。
剣の腕も相当なもので、互いの実力にそこまで隔絶した差はなさそうに見える。
だが魔族には物理障壁があり、高速の自然治癒がある。
たとえ戦闘力に格段の差がなくとも、相手のダメージの殆どを防ぎ僅かに受けた傷を戦闘中に回復させてしまう魔族ども相手では、渡り合えるだけでは一方的にすり潰されしまうのがオチだ。
今の状況もまさにそれである。
「ミ、ミエ様! 御無事だったのですか! ですがいけません! まだ危険です! 早くお戻りください!」
必死に防戦していた衛兵が扉の隙間からこちらをじいと見つめている視線に気づきぎょっとして思わず叫ぶ。
当たり前だろう。
命を賭して守っているはずの相手にのこのこと出てこられてはたまったものではない。
「うーんそれなんですけどねえ」
じいと目を細め、疑いの眼差しのようなもので戦いの趨勢を見守っていたミエは、何を考えているのかそのまま扉を開けてすたすたと彼の元へと向かってきた。
衛兵は混乱し、狼狽した。
クラスク村時代から奇異な事をする御仁だと思ってはいたけれど、一体この太守夫人は何を考えているのだろうかと。
「あのー」
「ヒッ!?」
ミエが二人の戦いに割って入り、上体を前に傾け、下から覗き込むようにしてその魔族を見上げた。
上目づかいで、前髪を掻き上げながら。
「えっと、
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
びくんと身を竦ませ、悲鳴を上げて飛びずさる。
その魔族はぶるぶると全身を震わせながら、真っ青な顔でミエを見つめた。
その表情には明らかに畏怖と恐怖のそれがある。
「あのー……?」
「デ、デタアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
なおも近寄ろうとするミエを前に魔族が絶叫する。
魔族語ゆえミエには何を叫んでいるのかはわからぬが、その態度から彼がどういう状態なのかは明らかだった。
怯えている。
ミエを見て怯えている。
それも重度に怯えている。
そしてミエを上から下まで畏怖の瞳で見つめた彼に、ミエが「うん?」と小首を傾げると、びくんを身を竦ませたその魔族は一目散に逃げ出した。
目をまん丸く見開きその姿を見送った衛兵は、そのままその表情を隣にいるミエに向けた。
「ミ、ミエ様……?」
そして呆然とする彼の前に、後からやってきてその様子をうかがっていたシャミルが呆れたように肩をすくめ、さらにその背後から扉を鼻先でぐいと押し開けたコルキがやってきた。
「…どうやら先刻の奴だけではなく複数の魔族がミエを恐れておるようじゃの」
「先刻と言えばついさっき円卓の間から逃げ出した女性がいらっしゃいましたが……」
「あれも魔族じゃ」
「先ほどはミエ様に注進に来たと!? え? 魔族!? というか何故逃げ出したのです?!」
「こやつに怯えて逃げ出した」
「おお!」
衛兵が感嘆の声を上げて畏敬の眼差しでミエを見つめる。
「ミエ様は凄いですな!」
「そうじゃな、大したものじゃ」
「ばうー! ばうばう!」
衛兵と共にコルキが妙にはしゃいで跳ねまわる。
『ごしゅじんさますごい! すごい!』と尻尾をぶるんぶるん振り回しながら大はしゃぎ大興奮の体である。
まあ己が歯が立たなかった相手をミエが見ただけで追い返してしまったのだからそうした態度にもなるのも納得ではあるが。
そしてミエは……再び下唇を噛みながら眉を八の字に寄せて、逃げ去る魔族の背を見つめながらなんとも不本意そうな表情でこう述べた。
「なっとくいかないんですけど!」
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