第629話 クラスク市、夕暮れ時

「あらそろそろ夕暮れですね…」


窓から空を見てミエが呟く。


「あ、ホントだ…」

「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいますねー」

「は、はい!」


思わず上ずった声で返事をしてしまうエィレ。

なにせ理想の女性像に限りなく近い(※当人である)相手との雑談である。

楽しくないはずがない。


しかもミエが語る事は彼女には初めてのものばかりで…これは単にエィレが知らぬこの世界の話の事もあれば、クラスク市でしか知られていない特殊な知識だったりもした…新しい知識を得るたびにエィレは感嘆の声を上げミエの説明を耳を傾け聞き入っていた。


あまりに面白くって楽しくって、ひょっとして楽しんでいるのは自分だけなんじゃないかしら、ミエさんはこんな物知らずで世間知らずな娘にいちいち説明していて退屈なんじゃないかしら、などと心の内で杞憂を抱いていただけに、ミエの口から楽しかったと聞いて興奮のあまり思わずどもってしまったわけだ。


赤面してしゅんと肩をすぼめるエィレ。

そんな初々しい少女の姿を見ながらミエは実に嬉し気に微笑んだ。


ミエの方はミエの方でエィレとの会話を存分に楽しんでいた。

まずかわいい。

エィレはとても可憐な美少女でとにかく可愛い。


そして利発だ。

頭の回転が速く記憶力も良く、なにより新しい知識に対して貪欲で拒絶反応を示さない。

彼女自身の常識…言ってみればこの世界の常識…と異なる話であっても、思考の末納得できればすぐに吸収してしまう。

仮に教師と生徒だとするのなら、実に優秀で教え甲斐のある生徒と言えるだろう。


そしてかわいい。

エィレはとにかく可愛いのである。


「たいへん! 挨拶してすぐに宿を探すつもりだったのに!」

「ほうほう。それで何人くらいで来たんです?」

「私も含めて12人です。私とじいや…お付きのエズソムエムズに、翡翠騎士団の騎士が十人になります」

「ふむふむ。でこの街に留まるのはそのうちのどれくらいなんです?」

「半分ですね。私とじいやと騎士達が四人ほど」

「なるほど。では全員分の宿はこちらで用意しましょう」

「いいんですか?!」

「はい。なにせ王国からいらした外交官御一行ですから。田舎町ですけどせいいっぱいのもてなしはさせてくださいな」

「田舎だなんてそんな…!」


想像以上に発展したクラスク市の街並みを思い返しエィレがそう叫ぶ。

そもそも上水道と下水道に水洗トイレに冷蔵庫と熱コンロと、この台所だけで王城にないものばかりである。

広大なアルザス王国の、それも王都にそびえる王城である。

それより遥かに進んだ思想と設備があるこの街を、エィレは田舎町だなどと到底呼ぶ気にはならなかった。


「そう言っていただけると嬉しいですねー。では行きましょうか」

「はい!」


ミエの後に続いてエィレが台所を後にする。


「お待たせしてすいません。こちらの都合でお姫様をお引き止めしてしまって」

「いえ、わたくしが太守夫人をお引止めして話し込んでしまいました。皆さん、お待たせしました」


すっかり公務の姿となった二人が応接室で待機していたおつきの執事と騎士達に挨拶する。

騎士達はなにやら真面目な話をしていたようだ。


第四王女警護の任を受けた重責と、オークの支配する街で暮らさねばならぬという不安。

だがそれらを抱いてこの街にやってきた彼らに今帰来しているのは驚嘆の感情であった。


この居館…城に入るまでに彼らが目にしてきたもの。

それは辺境の地に忽然と現れた巨大都市。


整然とした街並み。

溢れる活気。

威勢のよい掛け声。

なにより行き交う人々の幸せそうな顔、顔、顔。


これがオークに支配された街の光景なのか…?

彼らにはにわかに信じ難かった。


けれど信じざるを得ない。

だって街中に当たり前のようにオークが歩いているのだ。


オークが獣人ドゥーツネム達と雑談しながら荷物を運び、酒瓶を抱えたまま店の前で肉を値切り、恥じらう年頃の娘と手をつなぎ堂々と大通りをデートしているのである。

オークが支配しているのでもなければこんな光景お目にかかれるはずがない。


それに彼ら翡翠騎士団の面々はクラスクについて知っている。

自分達の騎士隊長と副隊長の総勢四人がかりでも歯が立たなかったあの圧倒的な強さと技量を知っている。


彼ほどの人物が治めているのであれば、確かにこうした街が現出せしめるのではないか…そんな風にすら思えてしまうのだ。


「自己紹介は先刻致しましたよね。太守の第一夫人ミエと申します。それでは参りましょうか。王女様のご寝所はこちらで用意してあります。騎士様方の宿舎もその近くに」


先導するミエに導かれるままエィレとじいや、そして騎士達がぞろぞろと城の外に出る。

居館の外の空は一面紅かった。

夕暮れ時である。

城の正門は西側であり、城門の向こうで今にも陽が沈もうとしていた。


騎士達が手持ちのランタンレームソルムに火を灯そうとする。

街中とはいえ夜は暗い。

灯りを持たねばまともに歩けはしないだろう。

そう判断してのことだ。


「あら、馬でご移動ですか?」

「いえ、夜道に馬は万が一がございますので、馬たちは引いてゆきます」

「わかりました。ですが夜道についてはさほど気になさらなくても大丈夫かと」

「は…どういう意味でしょうか」


騎士の一人がミエと問答をしながら首を傾げる。

目の前の女性…先刻彼らの前に現れた時はクラスク市太守第一夫人ミエ。と名乗っていた。

つまるところあの巨躯たるオークの妻女である。


こんな美しい娘がオーク族の妻となっていることにも驚きだが、なにより驚いたのはその表情である。

なんとも楽しそうで、嬉しそうで、そして幸せそうなのだ。


無論公務の時にはしゃいだりは(少なくとも彼らの前では)していなかったけれど、ミエが幸せそうなのは見ただけでわかった。

まるで体中から幸福を訴えるオーラがにじみ出ているかのようなのだ。


オークの街。

オークの支配。

そんな彼らの陰鬱としたイメージを覆すほどに、彼女は輝いて見えたのである。



だが…彼らがこの街で目にする輝きは、彼女だけではなかった。



ランタンレームソルムのいらない理由は…ほら、もうお目にかかれますよ」


ミエがすっと前方を指さした。

正確には前方やや上である。


「「……………?」」


騎士達は怪訝そうに彼女が指さした方向へと振り返る。


そこには大通りがあった。

居館の脇を抜け西へと続く大通り。

そのしばらく先には大きな交差点があり、どうやらそこが街の中心部のようである。


その交差点の中心には池があった。

薄暗くてよく見えぬが、池の中心にはなにやら柱のようなものがそびえている。

高さは15フース(約4.5m)ほどだろうか。

そしてその柱の上に……何かの円盤のようなものが取り付けられていた。


唐突に、音が鳴り響く。

鐘の音だ。

鐘楼の音が大きく。大きく、街中に鳴り響いてゆく。


それと同時に池の水が真上に向けて噴出し出した。

どうやら噴水のようだ。

そして…それを合図にするかのように…



光が、灯った。



彼ら騎士達の横、街の中心まで伸びる大通り。

その左右には、金属の柱が立っていた。


高さは凡そ8フース(約240cm)ほど。

それが通りの左右、馬車が行き交う中央部と歩行者が歩く道路端、その間を区切るように等間隔に並んでいた。


その柱の頭頂部…

それがぽん、と光った。


噴水のある交差点の方から、四方の街道へ。

ぽん、ぽん、ぽぽんと灯りが灯ってゆく。


唐突に噴水の方からどよめきが起こった。

噴水の水面の下が突如明るくなり、噴き出る水が明るくライトアップされたのだ。


と同時に噴水の中央の柱の正体も判明した。

石像である。

それはそれは美しい、羽を生やした女神の像だった。


その女神像は頭上に何かを掲げている。

先ほどうっすら見えた円盤である。


それには12までの数字が刻印され、その中を長い針と短い針が、それぞれ一番上と下を指していた。


そう、それは時計だった。

時刻を示す柱時計である。






そして街道の左右に立っている柱の正体は…街灯。

街を明るく照らす、昨今のクラスク市夜の風物詩である。





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