第564話 閑話休題~ラオさんちの子守り~

「どうしましょう。流石にここまで泣いたことは今までなかったような……」


不安がらせぬようにと静かにしていてもダメ。

あやしてもダメ。

寝かしつけようとしてもダメ。


オークの赤子…姉嫁であるゲルダの息子が一向に泣き止んでくれぬ。


この村には妊婦や経産婦が多いため彼女らに助けを呼べばいいのかもしれないが、今の身重なエモニモにはそれはそれでなかなかの難事だ。

ただでさえ小柄な肢体カラダにオークの子を宿しているのだからまあ当然と言えば当然なのだが。


現在ゲルダは街の方に仕事に出ているし、ラオクィクはそもそもクラスクと共にこの街を出立していて当分戻らない。


普段であればもっと早くに乳母が来てくれて役目を変わってもらえるのだが、今日は珍しく遅れているらしい。

一体どうしたらいいものだろうかとエモニモはベビーベッドの隣で頭を抱えた。


「…………?」


しばらく赤子をあやしていたエモニモは、だがやがて彼が必死に伸ばす手に気づいた。

何かを探るように上に突き出された、手。


「これは……もしかして……」


おずおずと手を伸ばし、おっかなびっくり抱き上げる。

赤子はたちまちエモニモの腕にしがみつき、そしてそのまま彼女の身体に抱き着いた。


泣き声はもう上げない。

どうやら抱いて欲しかったようだ。


ほっと安堵の溜息を吐いて、エモニモは赤子をそっと撫でつける。


「よしよしツォグム。もう少しの辛抱ですからねー」


身体をゆっくりと揺すりながら優しい声をかける。

もし彼女の部下たちが聞けば普段との声音の落差に目を丸くしていただろう。


エモニモ自身の子はまだ産まれていない。

臨月ゆえ近いうちに生まれてくるのだろう。

だがもし己の子供が無事生まれたらこんな感じにあやすのだろうか。

そんな愚にもつかぬことを考えながら赤子を優しくなでつける。


「あら?」


だが…それはオークの子だ。


「あらら?」


どんなに幼くともオークの男の子である。


「あのー……ツォグム?」


ゆえにその赤子は、全力で己を主張した。


「あん、ダメ、私は貴女の母親ではないありません。まだ妊婦ですからそこは……!」


そう、その赤子…ツォグムは、エモニモの胸に吸い付いて乳を吸おうとしたのだ。


エモニモは人間族の中でも小柄であり、その体型もやや未成熟だ。

胸部もあまり発達しておらず、種族的に胸があまり大きく育たぬエルフ族の血を引くキャスバ隊長と共に色々と己の体型に対する不満を語り合ったこともある。


だが流石に妊婦ともなれば話は別である。

赤ちゃん用の粉ミルクなどが市販されているわけでもないこの世界に於いて、子を宿せば当然母乳を出さねばならぬ。


田舎の貧しい村などでは仮に出産し母となっても栄養不足でろくに乳房が張らぬといったこともあるようだが、流石にこの街ではそのようなことはない。

そうでなくとも女性、特にオークの妻となった者には厚い手当てがつく街だ。


妊婦でも食欲がなるべく減退せぬ食べ物なども大量に用意されており、ゆえに妊婦が飽食することはあっても栄養失調の心配だけはないのである。

まあ食べ過ぎは食べ過ぎであまり母体にはよろしくないのだけれど。


ともあれ栄養十分であれば胎児を宿した母親は乳腺が発達し乳房が大きくなる。

エモニモもその例に盛れず、普段は目立たぬその胸部も今ではそれなりに立派な乳房として自己を主張しており、腹が張って普段通りの生活もままならぬ現状ではあったけれども、エモニモは己の胸を少し誇らしく想っていたりした。


まあそれなりに発達してしまった胸だからこそ、オークの赤子に狙われてしまったわけなのだが。


「あ、ダメです、ダメですってば。まだ出ません。もう、だいたい服の上からですよ…」


流石に赤子には強く出れぬのか、困惑しながらなんとか落ち着かせようとするエモニモ。

だがツォグムは全くひるむことなく服の上から乳首あたりに吸い付いている。


「もう…よだれでびしょびしょなないですか…」


溜息をつきながらエモニモは赤子を一度ベビーベッドに降ろしたあと片袖をはだけで胸部をまろびだす。

どうせ出るわけでもないのだが、せっかくなので気の済むまで付き合ってやるつもりらしい。


再びぐずり始めたツォグムを抱き上げ、己の胸にあてがうエモニモ。

ツォグムはすぐに乳首に吸い付いて全力で吸い始めた。


「ほんとにもう…誰に似たんですかねー…」


皮肉を言っているようでその口調は優しげだ。

よしよしと赤子の頭を撫でて目を細める。


だが…


「…あら?」


何か様子がおかしい。

いやおかしいのは己の胸だ。

一体全体これはどういうことだろう。


「お乳が……出てる……?」


少し驚いてエモニモは己の胸を凝視した。

確かに何かが吸い出されるような感覚がある。

ツォグムが吸い付いていない方の乳首は未だ服の下なので、仕方なくもっと吸わせろと暴れる彼を少し引き離し、彼が吸い付いていた乳首を己で摘まんでみた。


「でてますね……?」


エモニモは貴族の家を出て女だてらに騎士を目指したその出自ゆえ、誰より必死に騎士や騎士道について学んできた。

一方でそんな己が女の幸せなど手に入れられるはずもなしと、いわゆる女性的な知識…妊娠や出産や育児についての知識はあまり仕入れてこなかった。

無論この村に来て色々あってオーク族と結ばれて、遂には妊娠までする身になった以上色々と他の母親達から話は聞いていたけれど、それでもあまり詳しいとは言えない。


言えないが…それにしても出産する前から母乳が出るという話はあまり聞いたことがなかった。


「遅れてすいませーん!」

「エモニモさぁーん! 大丈夫ですかぁー?」

「その声は……!」


その時玄関の扉が開いて二人の女性が入ってきた。

やや間延びした声は乳母マルトのもの、

そしてもう一人が…


「ミエ様。どうしてこちらに?」

「あ、ついさっきまでマルトさんにうちの子達の相手をしてもらってたんです…あーこらクルケヴ勝手に走らないー!」


ミエの息子クルケヴは一人でよたよたと歩きながら部屋のあちこちへ進んでゆく。

まだ方向が定まらず、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。

ただオーク族のせいかやたらと早い。


一方娘のミックとピリックは未だミエが押してきたベビーカーの中だ。

ただ目は覚めていて、柵に掴まり立ちしながら周囲の景色を興味深そうに観察している。


「ごめんなさいねぇ、来るのが遅れちゃってぇ、その身体で大変だったでしょぉ」

「いえお気になさらず。マルトさんがお忙しいのは重々承知ですから」

「そうなのよねえ。最近出産が相次いで色々引っ張りまわされて…ギスちゃんもだいぶ忙しくしてるみたいだけどねえ」


口を止めぬまま手早くエモニモの腕からツォグムを抱き上げて、さっと片乳を出すと乳を吸わせる。

抱き上げられた時一瞬ぐずったツォグムだったが、乳を与えられるとたちまち大人しくなった。


「あら授乳なさってたんですか?」

「はい。それでその…ミエ様。ひとつお伺いしたいことが…」

「なんでしょう。私にわかることであれば」

「実は……」


エモニモは己の身に起こった事を軽く説明する。


「あら」

「まあ」


するとミエとマルトは目をぱちくりとしばたたかせながら互いに顔を見合わせ、その後嬉しそうに笑った。


「問題ないと思いますよ」

「そうなのですか? よかった…」


どうやら異常事態ではないらしい。

エモニモはほっと胸を撫でおろす。


「少数ですけど出産前に乳房から母乳の素のようなものが出る方もいるらしいですし」

「なるほど…?」

「ただエモニモさんの話ですとかなり量が出たようですしそうしたものではないようですね。ちゃんとした母乳だと思います」

「え? それじゃあやっぱりなにかおかしいんじゃ…」


エモニモの不安そうな問いに、ミエがふるふると首を振る。


「確かに母乳は出産した後に出る方が多いですね。個人差もありますが出産後二か月ほど出ない方もいらっしゃるそうですし」

「そんなに」

「で、なんで乳の出が悪いのかって言うとですね…こう体質や栄養面の問題ももちろんあるんですが…その、乳首の刺激が足りてないとそうなりやすいそうです」

「乳首の……刺激?」


エモニモの不思議そうな問いに、なぜかミエはポッと頬を染める。


「妊娠すると母乳を出すための準備が徐々に体内で進められ、そして赤ちゃんが乳首を吸う事で授乳が必要になったと身体が認識し、その後母乳が出やすくなるわけですよ」

「ああ…なるほど」


便利にできているものだとエモニモは感心する。

だがなぜ目の前の太守夫人はこれほど頬を赤らめ視線を逸らしているのだろう。


「なので……その。ゲルダさんが出産直後からお乳の出がよかったのも、エモニモさんが出産直前でもうお乳が出るのも、その、割と最近まで乳首をよく吸われていたからなのかなー、ってー…」

「あ………」


ようやくミエの言わんとすることを理解して、エモニモの顔がぼん、と真っ赤に茹で上がり、その後爆発した。






どうやらこの家の夫婦生活は、なんやかやで割と円満のようである。






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