第420話 安らぎのひととき
うららかな日差しが窓辺から差し込んでいる。
その光りは暖かな光を街に注いで、並木道を、堀を、そして家々の屋根を照らしている。
ただその街は屋内にあった。
窓から差し込んだ光が降り注いでいるのだから当たり前の話ではあるのだけれど、屋内にある街というのはどういうことだろうか。
答えは簡単、それは本物ではなくミニチュアの街なのだ。
つまりここは居館の内にあるクラスクの私室、彼の趣味であるジオラマが置かれた部屋、ということになる。
街の脇に控える巨人は緑色の肌をしていた。
その巨人は街の横で手元を見ながら何かの作業に没頭している。
指先を器用に動かして作り上げたその大きな…けれど彼からすれば小さな小さなお屋敷を、今まさに街に着地させんと奮闘しているクラスクである。
そして…その小さな街に差す光には大きな影が伴っていた。
まるで日差しが山稜に遮られたかのような影…けれど山肌と呼ぶにはその稜線は随分と柔らかな丸みを帯びていた。
三つに連なる山の輪郭…その左右の二つが小さく揺れる。
それは羽だった。
人の頭と、その左右の羽がまるで陽光を遮り、ミニチュアの街に差す山峰の影のように見えていたのだ。
この街にいる有翼の
クラスクが籠るその部屋に…いつの間にやら当たり前のようにいるイエタである。
一時期は目の回るような忙しさだった、北部の村々への他部族のオーク達の入植も一段落し、クラスクは己の時間を多少持てるようになっていた。
そこで以前の攻城戦の折に目覚めたこの模型作りの趣味にのめり込み、隙を見てはこの部屋に籠るようになっていた。
正直街のトップが趣味に没頭しすぎるのは少々問題なのだけれど、クラスクの場合公務は全部先延ばしにせずしっかりこなした上での事なので他の者もなかなか文句が言いづらい。
特にこの街は公的の土地は全てクラスクの所有物という事になっているし、彼の財産たるその土地はどんどんと広がっている。
この街に人が集まってくるのはこの街が魅力的だからだ。
なぜ魅力的かというと『食い詰め物がやってきてもとりあえず外敵の脅威がなく日々安心して食っていける』からだ。
これは戦乱が絶えず困窮した生活をしている者が多いこの地方、この世界に於いてとてつもない魅力である。
なぜ食べていけるのか。
拡大中のこの街には幾らでも仕事が転がっているからである。
そして農作業を代表とするその仕事の多くが日当制の賃金労働であり、その日働けばとりあえず金がもらえ、その金があれば食料を通年で大量に産出するこの街に於いて喰うに困る事がないからである。
つまりいつ来ても仕事があって、いつ仕事しても金がもらえる。
これにより収穫期を待たねば換金するための麦が手に入らぬ上、凶作や野盗、それこそオークの襲撃などによってその収穫すら安定しない通常の小作人などと比べると遥かに安定した生活が可能となる。
ただし以前も述べたがこの日々の労働に対する賃金の対価、というのは即ち土地が彼らの所有物ではない事を意味している。
豊作だろうが凶作だろうが労働さえすれば金が手に入るし、土地に対する一切の責任を負う必要がない一方で、その土地に対する一切の権利を持たぬ、ということだ。
ゆえにどんなに土地を開墾しても、開拓しても、それでその土地が彼らの所有となることはない。
その全ては…市長であるクラスクに還元されているのである。
そういう意味で彼は完全な専制君主である。
全ての土地、全ての畑、全ての住居は彼の私有であり、その気になればいつでも奪い、破壊し、作り直す事ができるのだ。
だから本来であれば彼はもっと好き勝手振る舞ってもいい。
無理難題を言っては様々な種類の税金を増やし、集めた金を専横に使い込んだって許される立場なのだ。
だか彼は市長として街の住人のために常に心を砕きつつ率先して仕事をしているし。
集めた金はミエや仲間と相談し出来る限り街の生活に還元する。
そんな彼なればこそ、個人的な趣味の時間くらいは許されようというものであ
一方のイエタはどうだろうか。。
彼女は教会の仕事をこなしつつ、開校間近の初等学校で教師を務める予定の者達に教師の心得や授業内容などを説明し、そして空いた時間にここにやって来る。
とは言っても特に用事するわけではない。
単にクラスクの趣味を見学しているだけだ。
この部屋の窓はやや外側に突き出した出窓となっている。
彼女はそこに腰かけ、己の膝に立てた拳の上に顎を乗せ、無言のままじぃと彼に仕事を眺めている。
いや…彼女の視線はクラスクの丁寧な指先を見ていない。
どちらかと言えばもっとぼんやりとした、全体的な…
言うなれば、彼女はクラスクを見ていた。
いつからだろうか。
彼女がこの部屋に入り浸るようになったのは。
いつからだろうか。
彼女の瞳がその興趣たる模型ではなく彼自身に注がれるようになったのは。
いつからだろうか…
この時間がとても落ち着く、心地よいものだと感じるようになったのは。
わからない。
わからない。
つい最近のことかもしれないし、或いはこの部屋に最初に入ったあの時からずっとそうだったかもしれない。
ただいずれにせよ確かなのは…今、彼女がこの空間に於いて不思議な安らぎと心地よさを得ている、ということである。
イエタの眉がほんの少し動いた。
クラスクの指先が止まり、彼の身体が強張ったからだ。
どうやらお屋敷を作る際の難所に突き当たったらしい。
先人がいるわけではない。
この世界に於いて彼こそがこの道の先駆者である。
クラスクは自らが突き当たった難問をどにかしようと四苦八苦し、そして街の職人達から買い上げた加工用の素材…木の葉や家の壁の元となるもの…塗料やら何かの破片やら、或いは蜜蝋で固められた自然そのままの素材やら…などを指先で器用に組み合わせ、屋敷に塗り付けた。
「デキター!」
いや実際には彼はそんなことを言ってはいない。
ただクラスクの眼を見開いた大喜びの表情がどう見てもそう言っているようにしか見えぬ。
そのどこかコミカルで、それでいて一切包み隠さぬ素直で素朴な表情に、イエタは嬉しそうに目を細める。
このオークは、純朴だ。
感情を包み隠さず、ありのまま出してくる。
それは彼の特性というよりどうやらオーク全体の特質らしく、オーク達は己の感情の発露に躊躇がない。
ただ普通の…他の村のオーク達は喜びを表情に出すのが苦手なようで、そのあたりはこの村のオークの性質と言えるかもしれないが。
ともあれ彼は感情を素直に表に出す。
素直に出してくる感情の、そのどれもが真面目で、まっすぐで、優しく、そして善良なのだ。
それは驚くべきことだった。
特に彼の優しさは、強く外に向けられていた。
家族だけでなく仲間に。
仲間だけでなく部下に、己の種族に。
そして己の種族だけでなく他の部族に、街の皆に。
この世界、この時代に於いてこれほど外に強く向けられた善性を、彼女は聖職の者以外に知らぬ。
彼の妻であるミエ以外には。
こんな思考が、人物が、教会の外にいるだなんて。
はじめはそんなことから興味を持った。
だが今はどうなのだろう。
今自分は、彼をそんな興味だけで観察しているのだろうか。
イエタはふとそんな事を考えた。
違う、と思う。
でもなぜ違うのかがわからない。
どう違うのかがわからない。
彼女は…自分自身の内に抱いているその想い、
己の心地よさの正体に…未だ気付いていない。
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