第374話 イエタの休日
「せんせーさよーならー!」
「はい、さようなら。また明日来てくださいね?」
「「「はーい!!」」」
元気よく返事をして子供たちが教会から飛び出してゆく。
『初等学校』なる教育施設を作る事が決まったとはいえ、街の子供達を全員収容できる施設が一日二日できるわけもなく、教会は未だ青空教室として開放されていた。
「ええっと…」
子供達が読み捨てた教科書を拾い纏め、その後ガラガラと黒板を壁際に寄せる。
この黒板は単なる板ではなく蜜蝋を利用した造られたクリアボードであり、獣毛で芯を作ったフェルトペンでこのボードに書かれた内容は、水拭きすればすぐに消えるという便利な代物で、つい最近売り出されたものだというのにすっかり天翼族の教会に欠かせないものになってしまっていた。
そのあたりはまとめ買いするとお安くなるからだのなんだのと複音教会に売り込みをかけたアーリの有能さの賜物でもあるのだけれど。
ただ全く問題がないわけでもない。
例えば辺境の寒村などであれば集まる子供も少なく使う黒板も小さくて済む。
一方でこの街程度の大きさになれば自由参加とはいえ生徒の数もそれなりに増え、黒板の大きさも相応に大きくなる。
そうすると空を飛ぶために己の重量を可能な限り減らしている
そこで当初は板のみだったこの教会の黒板は、シャミルの図面を元に彼女の亭主たるリーパグが工作して板の下に馬車のような車輪を取り付けた。
これで持ち上げることはできなくとも押すだけで教会の中を自由に運搬できるようになったわけだ。
このアイデアは便利だとただちに正規の商品に採用され、後に大きめの黒板を作成する際の標準装備となるに至ったが、これはまあ置いておこう。
さて黒板を脇に寄せたイエタは、身の回りの物をまとめるとそのまま教会の外に出た。
正面の扉は開けっ放しにして誰でも入れるようにしているが、そこに『只今外出中です』の板を下げておく。
街中の雑踏を一人ゆっくりと歩くイエタ。
もちろん羽を出して空を飛べば手っ取り早いのだが、
たとえばその天翼族が敵兵で城壁の上から急襲してきたり、或いは空の上から城の構造を観察して敵に報告するかもしれないからだ。
ただイエタ自身はその禁止事項を特に不満と思っていないようだ。
人々が楽し気に街を歩いている様を間近で見るのが好きだからである。
道行く人がイエタとすれ違うたびに頭を下げる。
この街に来て短い間だけれど、彼女がこの街唯一の教会の聖職者であり、神の使いとして神聖魔術を操る事ができるのをこの街の住人は皆既に知っており、深く敬意を払っているからだ。
街の西側北寄りにある教会から東方面に向かい主街道を進むイエタ。
このまままっすぐ行けば大広場、さらにまっすぐ進めば東門。
広場から北西方向へと向かえばこの街の中心部たる居館がそびえている。
「あら…?」
イエタはその中途、街の北部住宅街の方へと向かう辻で、挙動不審なオークを見かけた。
なにやら周囲をきょろきょろと見回して、道行く人に声をかけようとして躊躇して、またきょろきょろとあたりを見回している。
「もし…? 何かお困りですか?」
かつての彼女はオーク族は危険な種族だと、彼らの村へ訪れ帰還した聖職者は誰一人いないのだと教えられてきた。
けれど彼女がこの街で見かけたオーク達にはそうした印象はまるでなく、イエタはそのオークに自然と声をかける。
「俺、言葉、覚エタバカリ。話ス、言葉!」
「まあ、
「ソウ! 俺、言葉、覚エル! コノ街、出入リ、デキル!」
「なるほど…?」
イエタは改めてそのオークを観察する。
言われてみるとこの村で普通に出歩いているオーク達とは恰好や雰囲気が少し違うようだ。
こうなんというか…小洒落ていないというか、垢抜けていないというか、朴訥な感じなのである。
イエタでなければ正直にダサいとか野暮ったいとか言いそうな風体なのだ。
逆に言うとこの街に住んでいるオーク達がとても文化的で、洒落者が多いと言うことなのだが、これは女性の略奪が禁じられ、交渉や交際によってのみ婚姻が認められているために、皆必死になってそうした社交術を身に着けたからに他ならない。
人間…もといオークも必要に迫られれば社交的になれるという良い証左であろう。
「つまり上手に
「ソウ! オ前頭イイ!」
「ふふ、ありがとうございます」
にこやかに微笑むイエタ。
その眩しい笑顔は目を真ん丸にして見つめるオーク。
「…俺オ前気ニ入ッタ」
「まあ、ありがとうございます」
真顔になって呟くオーク。
笑顔でお礼を言うイエタ。
ただ、二人の間には大きな認識の違いがある。
「俺オ前村連レ帰ル」
「あら?」
「俺ノ女ニスル」
「まあ」
「俺オ前イッパイ抱く。子供イッパイ産マセル。育テサセル!」
「あら、まあ、どうしましょう」
言葉を継ぎながらどんどん興奮してゆくオークは、イエタの手首をがっしりと握りそのまま引っ張ってゆこうとした。
イエタも流石にそれは困るので抵抗はしたいのだが、なにせ人間族を遥かに上回る怪力のオーク族である。
強引に引っ張られるとろくに抵抗できないのだ。
「あらあらあら、まあまあまあ」
なにもできずに引きずられてゆくイエタ。
ざわざわとざわめく通行人たち。
数人の住人たちが衛兵達を呼びに行こうと駆けだそうとしたその時…
「オイ、待テ」
ごいん、という鈍い音と共にその垢ぬけないオークの頭上から正拳が降ってきて、彼の後頭部を直撃した。
たったの一撃で意識を失ったそのオークはふらりとよろめき、そのまま昏倒する。
ただ彼はイエタの腕を握っていたため、倒れる際に彼女をそのまま巻き込んでしまう。
イエタは彼に引っ張られるようにバランスを崩し、思わずつまずいて宙に舞い…
…舞い過ぎた。
普通の人間ならそのままけつまずいて地べたにすっ転ぶところなのだがそこは
手を引かれた勢いで地面を軽く蹴った彼女は、まるでその身に重さがないようにふわりと宙に浮かび、そのままくるりとその身を回し落ちてくる。
羽を広げて空を飛ぶか。
いや上下逆さになっている時点でそれは無意味だ。
なによりこれだけ地上に近い場所だと広げた羽が誰かに当たる危険がある。
イエタはなすすべなくそのまま地面に向かって落下して…
そのまま、何者かに抱き留められた。
「大丈夫カ」
「まあ、貴方は…」
イエタが顔を上に上げると、すぐ目の前に見知った顔があった。
「おお…」
「市長様…」
「クラスク様だ!」
イエタを抱きかかえ…というかお姫様抱っこしているのはこの街の市長、クラスクであった。
見事な救出劇に観衆が歓声を上げその後拍手が続く。
「オオイ、イルダロ、クラウイ!」
クラスクが叫ぶと物陰からわたわたと別のオークが駆けて来た。
ラオクィクの下、オーク隊の分隊長の一人、クラウイである。
「族チ…市長!」
「オ前が試験官ダロ。オ前が止めなくテドウスル」
「スイマセン! スイマセン!」
クラウイは幾度も幾度も頭を下げてクラスクに謝罪する。
が、クラスクはなぜか鋭い目つきで彼を見据えた。
「謝ル相手が違ウ」
「アー、コ、コレハ大変申シ訳ナク…!」
言われて気づいて慌ててイエタに謝罪するクラウイ。
「まあ、大丈夫ですわ。こうして助けていただきましたし」
クラスクに優しい手つきで地上に降ろされ、そのまま自分の足で立ち上がるイエタ。
「どうかお気になさらないでくださいませ」
彼女のあまりの美しさと寛大な態度に群衆がざわざわとざわめく。
「おお…聖女…」
「聖女だ…」
「聖女様だ…」
ざわざわ、ざわざわと口々に囁き合う。
そんな周囲をざっと見回したクラスクは…
「イエタ。こっち来ルカ」
と親指で街の北の方を指差した。
どうやら今からそちらに向かうらしい。
「はい。ではお供させていただきます」
噂の渦中にある己を気遣っての事だろぷとすぐに察したイエタは、クラスクに深く頭を下げ、その好意に甘えることにした。
まあそもそも今日の彼女の用件はこの市長に会うことだったのだが。
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