第14話 草原デート
リルと安樹を乗せた馬は、草原をゆっくりと走って小高い丘へとたどりついた。
あたりは見渡す限りの草原だ。
果てしなく広がる草の海の中にポツンと小さな島のような丘があり、その上に一本の木が立っていた。
二人がはじめて言葉を交わした延安の草原によく似た風景だった。
囚われの身である盾作りの気晴らしのため、リルはよくここへ安樹を連れて来ていた。
安樹は馬から下ると、大きく伸びをする。
「ふう、やっぱり外の空気はいいな。ありがとうございます、姫様」
「フフフッ、感謝しろよ。私がいないと、おまえはオルド・バリクから外に出られないんだからな」
「それはもちろん。でも、あまり無理をなさらないでください。このことが偉大なるハーン様に知れたら」
「大丈夫さ、父様は何も言えない。なんといっても、私がいないと戦に勝てないんだからな」
丘の上にあるのは桃の木で、今の季節、満開に花を咲かせていた。
舞い落ちる花びらがリルの髪に止まる。彼女は長くて美しい黒髪を二つのお団子に結っていた。
安樹は黒髪にとまった桃色の花びらを丁寧に取り除いた。
「きれいに咲きましたね。驚きました。この草原でも桃が花をつけることができるのですね」
二人の顔が近づく。
リルは頬を朱に染めて、プイっと安樹に背を向けた。
「そりゃあ、もう五年も経つのだからな」
そんなリルを見る安樹の表情に、微笑みが浮かぶ。
「五年ですか。姫様はお綺麗になられました」
決してからかったわけじゃない。けれど、リルは顔を真っ赤にして答えた。
「な、何を言ってるんだ。私は前からきれいだったぞ」
安樹はさらに微笑んだ。
「そうですね。覚えておられますか? はじめてお会いしたときも、こんな風に桃の花が咲いていましたね」
「忘れた。おまえは五年間でずいぶん口が達者になったな。漢族の男は皆そうなのか?」
リルはぶっきらぼうに答えた。
けれども、この丘に桃の木を植えさせたのがリルだということを安樹は知っていた。故郷から遠く離れた安樹が淋しくないようにという彼女の心遣いで、部下たちに命じて中原から桃の木を掘り起こして無理やり運ばせたのだそうだ。
さらに日々の世話にも特別に人員を割き、乾季には毎日十里離れた井戸から水を汲ませている。そのあまりの熱心さに、部下たちの間では、この木を枯らせてしまったものは首を刎ねられるという噂がまことしやかに流れていた。
さらに安樹とリルにとって、この桃の木にはただ洛陽を懐かしむというだけではない思い入れがあった。
この五年の間に、リルの母親が病でこの世を去っていた。
キヤト族は、誰かが死ぬと数週間にわたって葬儀を行い死者を悼むが、その後定期的に墓参りをするような習慣はない。
生前に安樹とリル、そしてリルの母親の三人でよく訪れたこの桃の木の丘は、二人にとって母の思い出の場所だったのだ。
安樹は、木の下に立って南を眺めた。
物心ついた頃から男手一つで育てられた安樹にとって、優しいリルの母はまるで自らの母親のような存在だった。
自分を捨てたという本当の母親は、今頃どうしているのだろうか。
生きているのか、死んでいるのか、それすらも確かめる術はない。
そして、田常は?
祖父として安樹を育て、師匠として鍛えてくれた老盾作り。必ず戻ってくると言ったものの、あれからもう五年が経った。年齢もとうに六十を過ぎているはずだ。
「何を見てるんだ」
リルが心配そうに安樹の顔を覗き込んできた。
「いえ、何も」
安樹の目の前には、地平線まで見渡せる広大な草原が広がっている。
動いているのは、風にそよぐ草だけだった。
「じい様を待っているのか」
リルは、おそるおそるといった様子でたずねる。
「師匠のことですか? 彼は本当の祖父ではありません。それに師匠は戻ってきませんよ」
「……」
「師匠は言っていました。解放されたほうが戻らなければ、残ったほうも命を長らえる事ができると。まあ、事実その通りですし」
そう言って、安樹はまた遠くの草原に視線を戻す。
そんな若き盾作りの表情をリルは不安げにみつめていた。
「寂しいのか? 洛陽に帰りたい…とか?」
リルが心配していることに気がついて、安樹はわざと明るい声を出した。
「そんなことありません。ちょっと考え事をしてたんです。師匠が別れ際に私に出した問題がありまして、姫様はご存知ですかねえ。矛盾っていうんですけどね」
それから、安樹は以前に田常から出された問題について説明した。
楚に盾と矛を売る商人がおり、盾を自慢してこう言った。「我が盾は大変硬いので、これを貫き通す武器はない」さらに矛を自慢してこう言った。「我が矛は大変鋭いので、これで貫けないものはない」
すると、客の一人が訊ねた。「あんたの矛であんたの盾を貫こうとしたらどうなるね?」
商人は答えることができなかった。
「どうなる思います? 全てを貫く最強の矛で、全てを防ぐ最強の盾を突いたら?」
安樹に訊ねられて、リルはうーんと腕組みをした。
「そんな真剣に考えなくてもいいですよ。もともと答えのある話じゃないんです」
「大丈夫、私は漢族の文化に慣れ親しんでいるからな。こういうなぞなぞは得意なんだ」
「……なぞなぞじゃないんですけど」
「ええと、どんな盾でも貫く矛で、どんな矛でも通さない盾を突いたらどうなるか? うーん、そうだ、わかったぞ!」
「えっ?」
「これは引っかけ問題なんだ。つまり、矛と盾がどうかってことじゃなくてだな。この場合の解決方法はただ一つ。『最強の矛で最強の盾を突いたらどうなるか?』なんて尋ねてきやがったその客を、矛で脅して黙らせればいい」
「そんな無茶な」
「無茶じゃないぞ。こっちには無敵の矛と盾があるんだから怖いモンなしだ。文句を言うヤツはみんなぶっ潰せばいい!」
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