ブストサル 第四巻

かつたけい

第一章 育まれる生命、消える生命

     1

「だからむらぁ、そこで上がるっ! パスコース切れるし、もしなかが奪ったらそれ貰って一気にチャンスになるんだから。って、何度も何度も何度もいわせんなあっ!」


 わたしはむらなえを怒鳴り付けた。わたしの旧姓が木村なので、ちょっと呼びにくいのだけど、この部では慣習として昔から練習中は苗字で呼び合っているようなので是非もない。


「はいっ!」


 元気の良い返事だ、木村。なら次は期待しよう。

 いま以上の雷を落とすとなると、もう殴るしかなくなっちゃうしな。もしくは二階からパイルドライバーを食らわすとか、気をてらうしかない。


 木村早苗は新入部員。フットサルは中学からやっていたとのことだけど、この部に入った時には技術はそれほどのものではなかった。

 わたしがちょっと本人の意識を変える手伝いをしてあげたところ、目に見えて技術が伸び始めた。

 成長を見ていて気持ちいいし、性格も明くて気持ちいい。個人的にいま注目株の子だ。


 などと心の中で褒めてやっていたら、あん畜生、なかしようとの連係ミスで、ぶざまにもボールを失って、きようかわさくらにシュートを打たれて失点だ。


「だから、木村ああ! と、中江もお!」

「すみませんすみません、先輩い。さっきいわれたことにだけ意識がいっちゃって」


 木村は頭を両腕で抱えてうろうろばたばたしていたかと思うと、その頭をわたしに向けて深々と下げた。

 初々しいな。許そう。

 しかし仕草が若いな。羨ましいな。


「気をつけまあす。ドンマイドンマイ!」


 片や中江は、舌を出して笑っている。わたしより一歳下のくせに、最近どんどん生意気になってるな。

 だいたいドンマイなんて自分でいうことじゃないだろ、このバカ。いつか北倉庫か第二資料室か菓子七班実験室内暗室にでも呼び出して、しめてやる。またはシャワーの温度少し高くしたり、バスタオルにちょっと水をぶちまけて濡らしておいてやる。


 ここは株式会社ミタヤ食品の保有する、屋外人工芝フットサルコートだ。


 今日は晴天。空気もからっとしており気持ちが良い。

 壁の大時計を見ると、時刻は午後五時半。

 赤く大きな夕日が、ビルの間へと沈みかけている。


 ここでいまなにをしているのかというと、部員を二手にチーム分けして練習試合をしているところだ。


 人工芝のフットサルコートで、夜は一般人に貸し出しているのだが(特に安くはない)、それまでの時間はわたしたちこの社のフットサル部員が利用するのである。


 と、そろそろここで自己紹介をしておこうか。

 わたしの名前はたか

 ミタヤ食品という会社のフットサル部で、選手と監督とを兼任している。


 正式には監督代行という身分だ。

 外部から招いていた、まだ四十代の男性監督がいたのであるが、去年、不幸にも急逝してしまい、新たな人事が決まらぬまま主将であるわたしが率い続けているというわけだ。


 なお余談ながら、我が社の業務内容であるが、要するに名前の通り食品メーカーだ。

 有名なものとしてはスーパーやコンビニなどに置いてあるお菓子や調味料であるが、近々、製薬事業にも乗り出す予定らしい。


 最近赤字続きの会社のくせに大丈夫かなと思うが、だからこそ起死回生の策に打って出るということか。

 下手したら会社の存続に係わる大損害だが、一社員がとやかくいっていても仕方がない。


 わたしたちフットサル部員は、東京支社のビルで朝九時から午後二時まで働いて、それから敷地内にあるこの人工芝コートへと移動して練習を開始する。


 一般社員から見ればパートタイマーと同じなわけで、だからリーダー職など責任ある役は押し付けられることないし、勤務時間も短く、「優遇されて楽でいいね」などと嫌味をいう者もいる。


 本気でそう思うのなら、お前がなってみろ。社名という看板と責任を背負って、試合に出て戦ってみろ。

 などと面と向かっていったことはないけど、不満であることに違いはない。


 特にわたしのいる職場なんかサービス残業が当たり前の班で、深夜近くなってもみんな当然のように残っているため、必然的にわたしも仕事に戻らざるを得ないわけで、結局のところまったく優遇などされていない。

 無給でてめえより遥かに多く働いてるじゃんかよ、庶務一課のうら! などと、心の中でくらい叫びたくなるというものだ。


 まあ、優遇不遇は分からないけれども、会社での仕事に差し支えが出るという面も間違いなくあるんだろうけどね。差別云々ではなく、どうしようもない事実として。


 やれる職種が限られる。

 人材が育ちにくい。

 他の社員とのチームワークが取りにくい。

 部を引退した後に、どんな仕事を割り振ればいいのか人事を悩ませる。うちの社のフットサル部は、わたし以外に正社員はいないのであまり関係ないことだが、バレー部所属の社員の人事で担当の愚痴を聞いたことがある。


 と、この通り色々と社にかかる迷惑というものがあり、第三者が文句をいいたくなる気持ちも分からなくはない。


 でも、社内での昇格難しく、昇給も微々たるもの、社になにかあればまっ先に切られる立場、と、リスクは充分に背負った上で会社の広告塔として頑張っているんだから、理解して欲しいという思いも我々は持っている。


 他に午後から練習させてくれる部は、男女テニス(のごく一部の選手)と女子バレー部だけ。

 テニスはたけりゆういちという、いつ退社してプロになってもおかしくないような有名人がいるから周囲の理解があるかも知れないけど、バレー部はきっとうちらと同じくらい肩身が狭いだろうな。今度合同で飲み会でも開いて傷でも舐め合うか。


 などとぐだぐだいっていても仕方ないか。

 とにかく頑張るだけだ。

 頑張って頑張って、部員の一人一人が女子フットサル部の竹井隆一になればいいのだ。

 リーグ戦で全勝優勝でもして、一気に知名度を上げてしまえばいいのだ。


 フットサルは監督力が重要で、結局のところわたしの双肩にずっしりどっさりと様々なものがのしかかってくるのであるが。


 愚痴はあと。いまは練習中だ。


「よし、じゃあはなぞえ! あたしと交代!」

「はい!」


 わたしの声にはなぞえのぶが、はいだかひゃいだか分からない滑舌悪い珍妙な声を上げると、汗だくでいまにも死にそうといった表情で交代ゾーンへと走って、いや歩いてきた。手だけはぶんぶん激しく振ってるけど。


「あとよろしくです」


 花添信子はただでさえ細い目をさらに細め、腕を高く振り上げた。


「うわ、汗が飛んできたよ。もう、そんなに走ってないくせに」


 なんでいつもちょっとピッチに立ったくらいであっという間に汗だくになるんだよ、こいつは。夏場ならともかく、冬であろうともこうだからな。まあ、真剣にやっているからだと思ってあげるか。


 パン、とタッチの音を響かせて、わたしはピッチの中に入り、そのまま花添のいたピヴォのポジションに付いた。


 やまもとが、木村早苗からパスを受けた。


 わたしは前へ出ているべきところを、あえて下がった。味方であるぞのが敵からボールを奪い取りそうな、そんな匂いを感じたからだ。


「木村、見てなよ」


 現在敵チームであるが、成長に期待を掛けている木村早苗に、わたしは注意を促した。


 予感的中、小園真奈が山本万理亜からボールを奪い取った。

 それをはっきり確認するよりも前に、既にわたしは前方へと走り出していた。


 わたしの足元に、ボールがあった。小園真奈が奪いざまに、わたしの進行方向へとボールを転がしてくれたのだ。

 少し引いていたためにマークのずれが生じて、わたしはいとも簡単に敵陣突破することが出来ていた。


 いや、

 横からなかしようが突っ込んできていた。

 よく油断してわたしに叱られているくせに、時折こうやって鋭い読みを見せるよな。この能力を伸ばしてやったら、フィクソに転向させてもいいかも。

 層が薄いところだから、もしかしたらうちの部で一番のフィクソになれるかも知れないしな。


 でも、それは未来の話だ。読みが鋭かろうがなんだろうが、そう簡単にこの梨乃様を止められると思うなよ。


 わたしは中江を引き付けて、かわすと、風のように抜けた。


 中江、さらに上を目指したいのならその動きの一本調子なところを直さないとな。いないも一緒だぞ、それじゃ。


 わたしは正社員の単なる一部員という身分に係わらず、中江に続いて選手契約で入社した者たちを個人技で次々とぶち抜いて行った。


 まさか、こんなにうまく抜けるとは。

 きっもちいいっ!


 比較するのを探すのも難しいほどの優越感だ。

 あえていうならば、なんだろうか。

 そうそう、高校生の頃に放課後の教室で、おとなしそうな童貞男子を数人並ばせて、

 あ、いや、例えが悪かった。そんなもんとフットサルを比較するものじゃないよな。いまはどうでもいい話だ。


 とにかくわたしはそのままスピードにのったドリブルで前へと進み、PAペナルテイエリア内に入った。


 我が部の守護神、ゴレイロのうきすみれはボールから目を逸らさず、腰を低く落とした。


 わたしは、自分から見て右に蹴ると見せかけて、逆をついて左隅に、冷静に流し込んだ。


 ゴールネットが揺れた。

 浮田すみれは、ぴくりとも反応することが出来なかった。


     2

「悔しいなあ。年齢かなあ」


 シャワーのしょわしょわばちばちいう音や煙る湯気をかい潜って、うきすみれのぼやき声がわたしの耳に届いて来る。


 すみれの声って低音に、かすれた高音が混じったような感じなんだけど、シャワー浴びながらだと高音が消されて別人みたいになる。

 そんな別人の声で先ほどからこいつがなにをしきりと愚痴っているのかというと、要するに練習試合でわたしにシュートを決められたことだ。

 ボールの動きは目にはっきりと追えていたというのに、身体がぴくりとも反応せずに、そろそろとゴールに吸い込まれてネットが揺れるのを見送っただけということがなんとも癪らしい。

 で、自分で年齢のせいにして逃げているのだ。

 わたしがそうやってからかうと、ババア扱いすんなと怒ってくるくせにまったく勝手なものだ。


「身体がさ、まだ戻ってないってだけじゃない?」


 わたしは優しくフォローしてやった。珍しく。


「いやあ、だってもう四歳だよ。反対に聞くけどリノエモンはなんでそんな戻ってんのさ? 戻るもなにもピーク時を知らないけど、でも動きキレキレで、主将なんかも任されてるわけじゃんか。下の子って、何歳だっけ?」

「うちも四歳だよ」

「あ、そうだっけ? ええー、じぁあなんでなんかなあ。あたし結構子育てを旦那に任せて、自主トレもしてたよ」

「じゃあ、自分でいう通り年齢のせいなんじゃない? だってえ、すみれちゃんももう三十を幾つ越え……うわ、あちちちちっ!」


 にゅっと伸びてきたシャワーの先端から、わたしの身体に熱湯が降り注がれたのだ。

 そのタイミング、わたしの言葉を予想してすでに温度を上げていたとしか思えない。


「皮膚呼吸出来なくて死んだらどうすんだよ。もう、いい年齢してさあ」

「またかけるよ」

「自分で年齢年齢いってんだから、自分にかけろよ!」


 などと湯煙の中で下らないやりとりをしていると、


「なんですか、またママさんトークですかあ? すみれ先輩とリノエモン先輩って、本当に仲いいですねえ」


 なかしようの声だ。端の方でシャワーを浴びているらしい。


「お前も産みたくなったか?」


 と、すみれ。


「まっさかあ。結婚もまだなのに」


 祥子は笑った。


「来年だっけ?」


 わたしは尋ねた。


「そのはずだったんですけどね。彼氏のお母さんの病気が良くないので、様子見なんですよね」

「そっか。早く良くなるといいね」


 どんどんいじって彼氏のことや結婚についてなど色々と聞き出してやろうと思ったけど、病気といわれちゃあこういうしかない。


 でも、大人の付き合いって色々あって大変だよな。学生なんかは二人だけのノリで簡単に交際を始めてしまうけど、結婚ともなればこうして親の状態や、周囲の環境、時には他人のはずの人間の心象や家庭の事情なんかも大きく左右してきたりして。


 わたしは父子家庭だったけど、しっかりと育ててもらって無事に結婚出来たから良かった。


 でもいま、その父親とは冷戦状態なんだよね。

 色々あってさあ。米ソどころではない、凄まじいまでの冷戦状態なんだよね。


 と、突然わたしの身体に熱湯が浴びせられた。


「あちちちっ、なにすんだすみれっ!」


 わたしは飛び上がり、声を裏返しながら怒鳴った。


「いや、ぼけっとしてんのか話し掛けても反応がなかったからさあ」

「はああ? だからって熱湯かける?」


 ひょっとしてこいつ、バカ?

 わたしより六歳も年上の、三十二のくせに。


     3

 タオルで全身の水気をざっと拭き取って、ドライヤーで軽く髪の毛を乾かすと、黒いスーツに着替えて本館へと戻った。


 他の部員たちはみんなもう帰社するだけだと思うけど、わたしの所属している研究チームはまだまだ仕事中であり、だからわたしも戻って続きをやるしかないのだ。


「おう、遊んできたか?」


 部屋に入り、ドア横のパイプハンガーにかけておいた白衣を着ていると、たけ課長がそんな声をかけてきた。


 メガネ、ハゲ、デブ、いかにもといった中年オヤジだ。

 ちなみに独身。奥さんに愛想尽かされて娘も連れていかれてしまった、ともっぱらの噂。


「はい、楽しかったです」


 課長の毒舌はいつものことなので、わたしは特に気にすることなく自席について、パソコンを起動させた。


 わたしの仕事は、食物の栄養成分分析が主たるものだ。

 粉砕して遠心分離にかけたりフラスコに入れて薬品注入したり、などの物理的な作業は別に担当がいるのだけど、そこで上がってきた数値を、上層や別チームの役に立つようまとめるのがわたしの役割だ。


 端くれといえども栄養学のプロということで、月に二回ほどお母さん向けの食のセミナー講師も担当している。結局は社の商品を売るためではあるのだけれど。


 わたしは子供を産むために大学を休学し、復学、卒業、そしてこの会社に入ったわけだけど、よくそんな不安定な人生送っている者にこんな仕事を任せてくれたものだと思う。苦難を知っている母親ということから、課長が推してくれたのかも知れないな。


 と、それくらい現在の仕事には重みを感じているし、頑張れば頑張るほど社にとっても健全な利益をもたらすはずであると信じている。


 だから、せっかく掴んだこの仕事のポジションをフットサルのために失わうことがないように、本来なら仕事を免除されているこの時間帯も、こうして戻って頑張っているのだ。


 仕事が好きで、フットサルも好きだからこそ。

 本当はここに、「母親であることが好き」も付け足せれば良かったけど、お義姉さんに子育て押し付けて好きにやらせてもらっている身としては、やはりそれは自分の心の中だけであっても主張をためらってしまう。


 でも今日は金曜日。

 明日と明後日は休みだ。


 わたしと旦那と子供二人で、ディズニーシーだかマザー牧場だか鴨川シーワールドだか、とにかくどこかに出かける予定だ。


 だから今日は仕事を頑張るぞ。

 そして明日は、しっかり母親をやるぞ。


     4

「お客さん、ちょっと、お客さん!」


 そんな声が、先ほどから聞こえていたが、わたしは他人事のように右の耳から左の耳に受け流し、まどろみ続けていた。


 せっかく人が気持ち良く寝ているんだ。邪魔すんな。

 と、寝返りを打とうとした瞬間、身体ががっきと引っかかり動きが取れなくなり、足だけが回転してしまい、そして次の瞬間、


「つった!」


 びきっ、と足の筋肉を襲った衝撃に、わたしは寝っ転がったまま叫んでいた。


「いてくそ、足つったあ!」


 わたしは必死にもがくが、なんだか狭く暗いところに身体が埋まっているようで、まったく身動きが取れない。どこだここ?


 足がねじ切られる痛みに呻き、なおもばたばたもがき、なんとか足の逃げ場を探してがっと伸ばした。つった時の対策で足の裏を押さえて身体を丸めようとしたが、ガッ、となにかに顔を激しく打ち付けてしまった。

 うお、と呻き、ばたばたもがき、ふと偶然に触れた手掛かりを掴んで、はい上がるように上体を起こした。


 突然視界が明るくなった。

 鉄道の小太り乗務員さんが、わたしを見下ろしていた。


「そんな変なとこで寝られちゃ困りますよ」

「ああ……」


 そうか、特急列車に乗って座って、そこで意識が落ちてしまったのか。

 意識どころか身体も落ちて、座席前の隙間に冬眠する小動物よろしくうずくまって眠ってしまっていたらしい。


 確か東京駅から乗った時には前のシートにも乗客がいたはずだけど、単に目的駅に着いて降りた? それともわたしが邪魔して追い払ってしまった? 分からん。寝てる時の自分が怖い。

 起きている時でさえ無意識に独り言をいって、人を怒らせたりするからな、わたし。

 路上で寝てて、目覚めたら半ケツ状態だったこともあるし。


「すみません」


 とにかくいつまでも座席の隙間に埋まったままでちんまり肩身小さくしていても仕方ないので、起き上がり、座り直した。

 改めてわたしの顔を見た乗務員は、


「あーっ、あなたこの前も同じことしてた人だっ。まったくもう」


 あーっ、この前のずんぐりむっくり坊主頭の乗務員。

 嫌なところを見られてしまった。


「すみません、残業続きだったので。これから気をつけ……」


 せっかく這い上がったわたしの意識であるが、ふっと一瞬にしてまた落ちてしまっていた。


     5

 本当に、ここのところ残業続きだったからな。

 もともとが、夜七時に帰ろうものなら「お、早退?」などといわれるようなところだから。わたしのいる研究班は。


 フットサルの練習が終わって、仕事場に戻って、科学班に解析に出していたデータを受け取って、機械に打ち込んで、分析して、レポートまとめて、矛盾点を見付けて、他の班に依頼に行って、担当がいなくてあくせく駆け回って、他の課のオヤジからセクハラ受けて、で、ようやく帰社の時間だ。


 近くに住んでいる人たちはまだまだ会社に残って働いているけど、わたしだって電車の中でノートパソコン広げて仕事をしているのだから後ろめたいことはなにもない。

 でも今日は本当に眠くて眠くて、電車の中でパソコンを操作するなどとても無理だった。乗務員に何度起こされたか。


 女子中学生とか女子高生とかOLとか主婦とか、よくあんなスマートホンだかなんだかいうちっこい機械と二十四時間睨めっこしてられるよな。電車の中であんな酔狂な真似するくらいなら、わたしはひたすら寝るわ。


 さて、現在わたしがいびきをかきながらガタンゴトン揺れているのは特急列車の中であることは前述の通り。

 現在、帰宅の途中である。東京都北区にある会社から、千葉県とり市まで。


 この特急列車で千葉駅まで行き、そこから成田線に乗り換えてJRわら駅で下車、そこから徒歩で旦那の実家であるたか家まで帰るのだ。


 わたしは大学二年生の時に妊娠が発覚した。

 相手は幼なじみで、高校の時から付き合っていた彼氏だ。


 大学を休学して二十歳で結婚したわたしは、自分の実家のすぐそばにある高木家で暮らすことになり、そこでさらに二人目を授かった。一人目は男の子で、次が女の子だ。


 高木家は狭いながらも大家族で、ようやく自身の子育てが少し落ち着いてきていたお義姉さんの好意を受けて、わたしは大学へ復学、そして卒業、就職をした。


 義姉に甘えることなく自分でもなるべく子供の世話をしなければ、そう考えて比較的近場であるなり市に本社のある企業を選んだのであるが、なんたることか半年も経たないうちに東京への転勤辞令が下された。

 二人の子供がいることは上司も知っていたはずで、ちょっと信じられなかったが、他の人から聞いた話では要は不景気による人減らしのためで、異動に耐えられずに退社してくれるならそれが一番ということらしかった。


 採用しておいてなんだそりゃあと思ったが、思ったところでどうしようもなく、選択肢は二つに一つ。悔しいけれど退社するしかないと思っていた。

 しかし、いの一番にリストラのやり玉に上がったわたしの悔しさを義姉が察してくれたか、「子供はしっかり面倒見るから、会社に食らい付いていって見返してやんなよ。じゃないとなんかあたしまで悔しいよ」などと背中をバンバン叩かれて転勤を選ぶことに。本当に、義姉には感謝の言葉もない。


 義姉だけではない、高木家のみんなや、近くに住んでいるわたしの家族(父と、その再婚相手である母)に助けられ、ひたすら仕事を頑張って、役職としてはそれほどのものではないもののたかだか二年足らずの若輩にしては充分に満足出来るくらいのポジションにまで上ることが出来た。


 転勤を選んで良かったと思えたのは、そうした仕事面の充実だけではなかった。

 東京支社には、なんとフットサル部があったのである。


 わたしがヨダレを垂らさないわけがなく、転勤早々にして入部願いを出しに行った。

 が、あっさり却下されてしまった。

 上層部と人事部の許可がなければダメだ、ということだった。


 クラブ活動にどうしてそんなところの許可などが必要なのかさっぱり分からず、仲良くなった人事のお姉ちゃんに聞いてみたところ、要は我が社のフットサル部は完全な広告塔であるということ。

 実業団のバレーボールチームなんかが有名だけど、あれと同じなのだ。午前はとりあえず雑務など会社の仕事をやって、午後は社の仕事を免除されてフットサルの練習。

 最初からそういう契約で入社及び入部するわけで、つまりは選手としての能力を買われて職として雇われており、一般社員が入部するものではないということなのだ。その有能さを買われたからこそ、仕事の半分を免除されてフットサルに没頭出来るのだから。


 他の会社は知らないけど、我が社のフットサル部はそういう仕組みらしい。

 しかしせっかく部があるのなら、フットサルやりたい。

 わたしは、時の上司というか現在も上司だが、竹部課長をくどき落として最終的には「誰より仕事頑張るからっ!」ということで、上層に掛け合ってもらい、許可を得たのだ。


 だが、無能選手は部には不要。入部にあたっての能力テストが行われた。

 入部すれば仕事免除なのだから当然といえば当然だが。


 テストの点数は分からないが、見事に入部決定。

 あっという間に監督からキャプテンを任される身分になったことを考えると、かなり高成績だったのではないだろうか。


 出産からまだ身体が完全に戻っていない状態でそうであったことを考えると、わたしって実はもの凄い才能があるんじゃないだろうか。


 自惚れることなく、でもご褒美程度にほんのちょっとだけ自惚れて努力への原動力にして、仕事もフットサルも頑張って、監督の要求も選手の個性も少しずつ理解出来るようになってきて、さあこれからだって時に、監督が四十代の若さで急逝。


 外部から雇っていた監督であり、とりあえずキャプテンであったわたしが監督代行になり、現在に至るというわけである。


 それから数ヶ月が経過しているが、まだ新監督の噂すら聞かない。

 前監督の遺産か、選手個々の能力か、それとも実はわたしの手腕なのか、リーグ戦では上位であるため、このままならばお金を出してまで獲得しようというつもりがないのかも知れない。


 わたしとしては、早く兼任をやめて選手だけに集中したいのだけど。

 たまに社の残業がまったくない日であっても、監督の仕事のせいで帰りが遅くなったり、電車の中で色々考えなければならず、気が休まる時がないからだ。


 現在子供は五歳と四歳。なるべく一緒にいてあげたいしね。

 だからこうして、終電に間に合う限りは帰るようにしているのだ。


 遅くに帰ったところでたいがいの場合、子供らは既に戦隊ヒーローと可愛いクマの枕に顔をうずめて夢の中なのだけど。


 でも一緒に寝て、朝にちょっと触れ合える時間も作れるのだから、わたしにはそれで充分だし、子供たちにとってもまったく会えないよりはよほど良いだろう。


 そう、両親二人ともに終日まったく会えないよりはよっぽどましだ。旦那様も東京で働いているのだけど、あいつちょっと遅くなるとすぐに会社の宿泊棟に泊まりやがるからな。

 遅くとも仕事は二十二時には終わるらしいから、泊まればそりゃあ遊ぶ時間も出来るし通勤も楽なんだろうけどさあ。


 でもまあ、女のわたしよりも旦那の方にこそしっかり働いてもらわなければならないんだから、仕方のないところか。

 それでキャバクラだの通ってたら許さないけど。などと己の悪行を棚に上げるわたし。


「……お客さん、お客さんっ! 起きて下さい!」


 先ほどの乗務員の声だ。

 ぐっすりであったわたしの意識は、深遠の暗闇から急速に引き上げられていた。


「お客さんってば! こんなとこで寝ないで下さいよお。 ……てめブス」

「聞こえた!」

「あ、いえ、ボクなにもいってませーん」


 とぼけやがって。まあいいや、こっちも悪い。

 また座席の隙間に落ちて、丸まって眠ってしまっていたようだ。


 わたしは手を伸ばし、座席に手をかけ、はい上がろうとした。

 その瞬間であった。

 足の筋肉をぐりりと捻られる衝撃、痛み。


「やべ、またつったあ!」


 ミネラルちゃんと摂っているのに、アスリートたる者がなんたることだ!


「大丈夫ですかあ、お客さあん!」


     6

「姉ちゃん!」

「はい」


 弟がわたしを呼んで、注目を促した。


「見てて」


 薄暗く湿った狭い庭に、四、五歳くらいの小さな子供が三人。そのうちの一番ワルガキっぽいのが、おもちゃの刀を振り上げた。

 わたしは縁側に座り、いわれた通りそれを見ている。


「必殺、らいじんめいどうけん!」


 どどどーん、などと擬音まで叫びながらくるくる回り始めたかと思ったら、地面に足を滑らせて転んでしまった。そういう技なわけでなく、単に滑って転んだだけであろう。


 ここは店の裏側にあるほとんど活用されていない庭で、隣家に囲まれ日がまったく当たらないからいつも苔で湿っており、油断しているとこのような目にあうのだ。


「姉ちゃん!」

「なあに、じゆん

「見てて」


 弟、順也は素早く立ち上がるなり、また剣を振りかざし、回り始めた。今度は成功させて、さっきの失態をなかったことにしたいらしい。


「凄いだろ、姉ちゃん」

「バカだなあ、姉ちゃんじゃなくて僕の母ちゃんだぞ」


 しゃがんで妹と遊んでいたわたしの長男であるしんすけが、立ち上がって順也に近付いた。


「あ、そうか、そうだよな。シン君を生んだ人なんだから、母ちゃんだよな。それじゃあ、せえの」

「母ちゃん!」


 二人は揃ってこっちを向いて、大声でわたしを呼んだ。

 アホなのかこいつらは。

 五歳とはこんなものなのか、世の中。


「違うでしょ。あたしとお兄ちゃんにとってのお母さんは、順君にとってはお姉ちゃんでしょ」


 わたしの長女、ふたが二人に説明してあげている。

 まだ四歳なのに。


 やっぱり世間一般にいう通り、女の子の方が賢いのかな。

 高校、大学、社会人、常にアホな女たちに囲まれて生きてきたからよく分からないけどね。

 などと、自分を棚に上げてみる。はいはい、わたしもそのアホの一員でしたよ。


 いま、なにをしているのかって?

 別になにもしていない。

 ただ、伸介と双葉を近所の実家に連れて来て、父の子でありわたしの弟である順也と遊ばせているだけだ。


 順也は父と再婚した母との間に出来た、わたしにとって腹違いの弟だ。

 つまりわたしは姉なわけであるが、姉ちゃんと呼ばれるのって、なんだかこそばゆい感じ。

 二十年以上も一人娘だったわけだからな。


 だからこそ、わたしの方から率先してそう呼ばせて、そう呼ばれるようになったというのに、いまだに慣れない。

 他にどう呼ばれてもしっくりくるものなんかないから、姉ちゃんといわれるのが一番良いんだろうけどね。ちゃんなんて呼ばれるのも妙だし、梨乃などと呼ばれたら反射的にぶっ飛ばしてしまうだろうし。


 この建物はむら豆腐店の倉庫であり小売り用の販売店舗であり、そして住居つまりわたしの実家でもある。


 元々はここで豆腐を作って販売も行っていたのだが、営業努力により提携店舗が増えて、近くの敷地を買い取って工場を作ったため、現在では生産拠点はその工場に完全移転している。


 地元の昔からのお客さんも大切にしようということで、店舗という形態も残して小売りしているのだ。


 わたしは幼なじみと結婚して旦那の実家に住んでいるため、ここは徒歩であっという間の距離。だからこうしてよく子供を遊ばせに連れて来るのだ。


 足元に目をやれば陽光ほとんど差し込まぬヌメヌメとしたなんとも辛気臭い地面であるが、首を上げれば狭い隙間から見えているのはからりとした青い空だ。


 天気予報でも晴天といっていたから、だからわたしたち夫婦と子供、弟の五人で、どこか遊びに行こうと予定していたのだけど、残念ながら旦那に急な仕事が入って、休みが取れなくなってしまったのだ。


「ライジンジャー、らいじんどう切り!」

「ライジンジャー、らいゆうどう!」


 弟の順也と長男の伸介が、ふにゃふにゃしたおもちゃの剣をぶつけ合っている。


「なんでどっちもライジンジャーなんだよ。シン君、ひやくめんていガボスね」

「ええ、なんでよりによって?」


 伸介のリアクションに、わたしはぷっと吹き出していた。

 よりによって、という言葉に受けてしまったのだ。


 いつどこで、そんな言葉を学んだんだろう。

 子供の吸収力の凄さには、ほんと恐れ入る。


 わたしも、もしもこの頃から本格的にサッカーやフットサルをやっていたならば、どうなっていただろう。

 中学の終わりからだからな。始めたのがあまりにも遅すぎる。おかげで常に劣等感と隣合わせだ。


 だからこそ頑張れたともいえるし、白紙であった最初の数年こそ自分がどんどん吸収していく気持ち良さを感じていたけれど、同時にどんどん限界が見えてくるようになって焦っていた。それでも少しずつ成長はしていると思うけど、それをいうなら周りだって成長しているのだから、やっぱり焦る。


 だからこそ、神経系を幼い頃より充分に発達させておけばよかったと思うのだ。

 っと、いかんいかん、過去を悔やむのはやめよう。


 過去がほんの少しでも違っていたら、弟や子供たちと会えなかったかも知れないんだぞ。現在あるは細々した事象の積み重ね、現在あるは奇跡なり。


 それはそれとして、なんか欠伸出ちゃうね。こうなんにもないと。

 まあ昨日まで残業残業残業残業で、ちょっと寝たくらいじゃさして眠気が取れていないということなんだろうけど。


 しかし子供は元気だ。

 大人がこんなであるだけに、よりそう思う。

 面白そうなものがなに一つなくたって、刀を振り回したり自分がくるくる回ったり滑ったりして、楽しそうにいつまでも遊んでいるんだからな。

 長男も、長女も、弟も、このまま心身すくすくと育っていって欲しいな。


たいざんめいどう! らい!」


 順也が言葉の意味も知らないくせに、ヒーローの技の名前を叫びながら、おもちゃの刀でわたしに切り付けてきた。


「うわ、あぶね、くそ」


 ふにゃふにゃ刀だから例え目を突かれても大丈夫なんだけど、とにかくわたしは弟の攻撃をひらりかわすと、反撃で腕を十字に交差させてウルトラなんとかビームをお見舞いしてやった。


「くおお」


 ばったり倒れる水郷怪獣サワラゲドン。

 かくしてリノトラの母によって地球の平和は守られたのであった。


 しかし、ちょっとおとなしめなうちの子二人と違って、異常なまでに元気だよな、弟は。

 この豆腐屋も、いい跡取りが出来たもんだ。

 自分、女だし、家を出てしまった身だからな。


 でもまあ、継ぐ意志があるかなどその時になってみないと分からないし、そもそもその時まだ豆腐屋が存在しているかなど分からないけどね。


 終わらぬ不景気の中でさらに襲った大豆価格高等云々などの逆境を、ひたすら営業努力で頑張り抜いてここまで大きくきくなったのだから、そう簡単にはなくなることはないと思うけど。


 と、その時である、部屋の奥からどんどんどんとなんだか重たい足音が。


 え、お父さん? やば!

 縁側に座っていたわたしはびくりと肩を震わせると、あたふたきょろきょろ。ここしかないっと縁側の下に潜り込んだ。


 ぐちゃ。と、冷たい感触と音。

 ああもう、ぬかるんでいるところ這いつくばったせいで、泥や苔で服がぐちゃぐちゃだ。でも、そんなこと気にしている場合じゃない。


 お父さんとは世界史でいう米ソ冷戦の関係で、顔を合わせるのがとにかく気まずいのだ。


 まあ、あの人はちょっと鈍いから、冷戦状態になっているということ自体にも気づいていないのだろうけど。だからって向こうがなにも気付いていないまま、こっちが普段通りに接しなどした日には、こっちの負けではないか。癪ではないか。


「あれ、梨乃ちゃん?」


 わたしの継母であるきぬさんの声だ。つまり、どたどた足音はお父さんではなかった。


 はあ。

 あたふた必死で隠れた虚しさに、わたしの身体プシュとしぼんだ。このまま痩せられるならいいが、ひと呼吸ごとに戻ってしまうんだなこれが。


「ここ、ここにいるよ、お母さん」


 わたしは縁側から這い出た。

 泥まみれ苔まみれだ。

 大人のそんなみすぼらしい姿に、子供らが指を差して笑っている。くそ、子供は残酷だな。


「ちょっと梨乃ちゃん、そんなとこでなにしてんの? ぐちゃぐちゃじゃない。隠れんぼ?」

「いやあ、お父さんかと思ちゃってさ」


 足音の重量感が似てたんだもの。

 お母さん、最近よく太った太ったいっているけど、本当だったんだな。見た目では全然分からなかったけど。

 着痩せってだけでなく、この前も一緒にお風呂に入っ時にもまったく気付かなかったというのに。


「やだあ、まだ仲直りしてないの? って、それどころじゃないんだよ。けいちゃんから電話っ。携帯が繋がらなかったから、こっちに来てるんじゃないかってお店の電話にかけてきた。大事な緊急の用事だって」

「え?」


 なにかな、大事な話って。

 ひさと三人で遊んだ時のケーキ食べ放題の代金、三人でほとんど割り切れたのに端数出たとかわけ分からんこといって九十七円ちょろまかしてしまったことがバレたのだろうか。やっぱりあれおかしいよね! って。

 でも、そういうのに食いついてくるのって景子より久樹だしな。


「もしもし、電話代わった。梨乃です」


 わたしは絹江さんから子機を受け取り、耳に当てた。

 どうせ緊急といいつつ、他愛のない話なのだろう。でないと、後でかけるとかいってわたしが電話に出ず、それきりかけ直さないことがあるからな。


 今回もどうせそんなものだろうと思っていた。

 話を上手くはぐらかして、彼氏でも出来たかーみたいな話題に持っていって、からかってやろうか。


 そんなわたしのにまにま笑顔、景子の声を聞いた瞬間、すーっと消えた。その口調に、ただごとではないことを察したからだ。


 だというのに、第一声を聞き終えた次の瞬間にはもう笑っていた。

 笑うしか、なかったからだ。


「嘘でしょ」


 景子の言葉を軽く吹き飛ばしてやろうとした。

 だって、信じられるはずがない。

 信じたくなんかない。

 だから……


 でも、こんなことで景子が嘘などつくはずがない。

 そう分かっているからだろうか。わたしの目には涙が滲み、そして、こらえきれずにぼろぼろとこぼれ落ちていた。


 景子からの電話は、わたしたちの高校時代の仲間が交通事故で亡くなったという連絡だったのだ。


「分かった」


 わたしは声を詰まらせながら返事をしていた。


「……日取りと場所、決まったら教えてね。あたしからは誰にも伝えなくていい? そう。うん、ありがとう。それじゃ、また」


 通話を切ると、ずっと鼻をすすった。

 お母さんと子供たちが、わたしの顔を心配そうな表情で見つめていた。

 腕で目をこすり涙を拭くと、子機をお母さんに返した。


「大人のね、大事な話」


 受話器を受け取ってこんな態度を取った以上は、お母さんには話さなければならないけど、今こんな小さな子供らの前で話せるはずがない。だから伸介の頭を撫でながら、そういってごまかした。


     7

 もう枯れきったと思っていた。

 ひからびるくらいに。


 だけどらくもとおりの死に顔を見た瞬間に、一体どこに貯まっていたのだろうというほどの涙がどっと溢れて、わたしの視界を邪魔した。


 ずっと泣いていて皮が剥けるほどこすったものだから、まぶたは赤く腫れて、ひりひりとして痛い。それなのに、拭っても拭っても、涙が次から溢れてこぼれた。


 楽本織絵は、高校時代の部活仲間だった。

 卒業してからは同窓会など数えるほどしか会っていない。会ってはいないけどそんなの関係なく、間違いなくわたしたちは友人、戦友であった。


 彼女と一緒にフットサルをやった者なら、誰でもそう思うだろう。

 あの明るさに、折れそうな心を何度助けて貰ったか。

 あの安定した守備に、どれだけチームが助けられたか。


 久し振りの対面が、まさかこんな形になるなんて。


 ここはとり市内にある葬儀場だ。

 夜七時から開始された告別式の最中である。


 お坊さんが木魚を叩き続ける中で、一般参列者によるご焼香が行われているところだ。


 会社の関係と思われる人たちや、わたしたち高校時代の仲間、他にも友人であろうと思われる男性に女性に、と凄い数。みんな織絵の人徳のなせるわざなのだろう。


 死因は交通事故。

 交通量の多い車道に飛び出して、トラックにはねられたのだ。


 日頃からぼーっと正体なく徘徊しているところが目撃されており、だから自殺ではないらしい。


 なんでも彼女は身重だったとのこと。

 相手は同じ職場の彼氏で、あろうことか妊娠発覚を知って責任を取らずにさっさと退職して逃げるように田舎に帰ってしまったらしいのだ。


 織絵は、最初は狂ったように暴れていたのだが段々と抜け殻のようになっていって、住居である世田谷区のアパート近くを昼夜問わず徘徊するようになった。

 両親がいくら話しかけても心ここにあらず。強制的に香取市の実家に引き取ろうとしたまさにその日に、悲劇が起きたのである。


 ご両親は自分たちが死なせてしまったと悔いているようであるが、二人に罪はないだろう。


 人殺しは、その相手の男だ。

 なんの覚悟もない軽い気持ちでただ遊んで、母と子、二人の生命を奪ったのだ。


 わたしの場合は、しっかり旦那が責任を取ってくれたから良かったけど。

 もともとお互いに将来結婚するつもりで付き合っていたから良かったけど。


 織絵のやつ、バカな男なんかに引っ掛かって、せっかく親から貰った生命だってのに……ほんと、勿体ない。


 あんなに、奥手だったわたしに恋愛指南してくれたじゃないか。


 あんなに、彼氏を取っ替えては手を繋いで幸せそうな顔で通学していたじゃないか。同窓会だというのに、その時に付き合っている彼氏を無理矢理に呼んで連れてきたり。


 あんなに幸せそうな恋愛をしていたくせに、それがなんで恋愛で不幸になってんだよ。

 わたしみたいなガサツ者がしっかり恋愛をして幸せを掴んでいるというのに。

 ほんとバカだ。

 バカすぎる。

 まったく。

 涙、ぼろぼろと、止まらない。


 これ悲しくならないと止まらないのかな。

 それとも止まりさえすれば悲しくなくなるのかな。


 分かんないから、とりあえずもうミイラになってもいいから涙止まってくれ。

 いくら泣いても悲しみが止まらないんだから、じゃあまぶたの痛くなり損じゃないかよ。


 ごしごしとまぶたをこすっていると、焼香を終えたゆうが外へと出てきて沈んだ顔でわたしの隣に立った。


 佐治ケ江優は、わたしや織絵の高校時代の後輩で、現在はプロのフットサル選手で、日本女子代表でもある。この場ではなんの関係もないことだが、この後おおいに関係してくることなのでここで説明しておく。


 佐治ケ江は外に出た後も、まだ数珠をぎゅっと握り締めて、目を閉じてなにかぶつぶつ呟いて必死に祈っている。


「ちゃんと、子供の分まで祈ってあげた?」


 わたしは尋ねた。


「はい。……あたし、生まれてこなければ良かったのになんて思っていた時があるんです。じゃけえ、それって生まれて、生きているからいえることなんですよね。生まれたくとも生まれることが出来なくて、思いたくとも思うことが出来なくて。ほんま可哀想で。……あたしなんかが祈ったところで、なんにもならないかも知れんけど」


 佐治ケ江は俯きながらまぶたをこすった。

 優しいよな、佐治ケ江は。本当、名前の通りに。

 子供の頃に、相手を殺しても殺したりないような酷いいじめを受けていたらしいけど、根っこの純真さが歪むことなく成長したんだろうな。


 優しいが故に競争意識に欠けるという点がプロのアスリートとしてどうなんだろう、などと老婆心ながら気になってしまうところだが、それを補って余りある常人離れした技術を持っているから心配いらないか。だから実際に代表にだってなれているわけだし。


 などと余計なことを考えて、溢れる涙を押さえ込もうとしたが無駄だった。

 やっぱり悲し過ぎるよ。

 高校時代の戦友である、まだ人生これからという若い仲間の死は。


 この先、何十年と生きていれば、こういう辛い別れをたくさん経験していくのだろうけど。

 でも、早過ぎるよな。

 だって、まだ二十六歳だよ。


「いっつも元気そうに笑ってて、誰よりも長く、百年だって二百年だって生きそうだったのにな」


 わたしはふと呟き、ずっと鼻をすすった。


「だったらさあ」


 焼香を終えたえんどうゆうが、建物の外に出て来た。

 なんだかにこにこと、楽しそうな表情で。


「あたしら全員が、百年以上二百年以上生きりゃあいいじゃんっ! でしょ?」


 遠藤裕子は、佐治ケ江優同様にわたしや織絵の高校時代の後輩だ。

 王子というあだ名の通り男っぽくからっとしており、織絵とは明るい性格同士、いつもバカみたいなやりとりで盛り上がっていた。


 だからこそ、裕子は織絵を明るく天国へ送り出してやりたかったのだろう。


 でも、そこまで裕子の心も強くはなかった。

 いや、こうしたことに関しては、誰よりも弱かった。


 く、と声を詰まらせると、口を押さえ、礼服が汚れるというのに構わず膝をついて、号泣を始めたのである。声を詰まらせると、口を押さえ、礼服が汚れるというのに構わず膝をついて、号泣を始めたのである。

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