みぃちゃん
「美……咲……?」
木花神社の百代目の巫女。咲神命の力を持った少女。……私の、子ども?
舞い散る雪の中、思わずその名前を復唱してしまった私に、咲————、美咲がふわりと笑った。
「うん。やっと本当の名前で呼んでもらえた。ママが付けてくれたんだよ」
その笑顔が本当に嬉しそうで。そしてあまりにも衝撃的な事で。私は言葉に詰まってしまう。
「ママはみぃちゃんって呼んでくれてたけど、萌姉は『みぃちゃんが二人になっちゃったよ』って困ってたなぁ」
そう続ける美咲の言葉の中に、よく聞き慣れた単語があって、つい聞き返した。
「萌姉って……」
「ん? ああ、ママがそう呼んでたでしょ? 小さい頃からそれを聞いてたから、わたしもそう呼ぶようになっちゃったんだよ。うっかり『萌姉』って言っちゃった時はちょっと焦った……」
ふぅ、と息を吐いた美咲は、「まぁ、ママの事『ママ』って言いかけた時の方がもっと焦ったけどね」と付け加える。
私はそこまで聞いて、美咲の表情から冗談を言っているようには見えないと感じながらも、まだ完全に信じる事は出来なかった。
「突然ママって言われても……。やっぱり分かんないよ」
「まぁ、そうだよね、うん。……正直、わたしもそんな簡単に信じてもらえるとは思ってなかったし」
若干顔を曇らせつつ、美咲は私の腕から力の抜けた真璃の体をそっと離し、車椅子に戻す。
「わたしの事、信じなくても良いよ? でも、真璃さんの病気を治せるっていうのはホントにホントだから。それだけは信じてほしいな」
車椅子の上でぐったりとしている真璃の両肩に手を置いて、美咲が寂しそうに微笑んだ。
「わたしが願えば、すぐに治ると思う。そうすれば、ママがこれ以上悲しまなくてすむの。……だから、もうさっさとやっちゃうね」
何も言えずひたすら聞く事に徹していた私から視線を外し、美咲は真璃の肩に乗せた手に力を込めるようにして、静かに目を閉じる。
本当に真璃の病気が治る?
だとしたら、それは願っても無いことで。私にとってはとても嬉しい事のはず。
——でも、なんだろう。
話を信じるか信じないかはさておき、私は美咲のその表情に、何とも言えない違和感を抱いていた。
もし……。もし私がお母さんを助けられるような力を持っていたら。多分私は喜んでその力を使いに行く。
そう。喜んで使いに行くんだ。だって、今更どうする事も出来ないはずの事をどうにか出来ちゃうんだから。
なのに、どうして。
「どうして、そんなに辛そうな顔してるの?」
今まさにその力を使おうとしていたであろう美咲の手を掴む。止められると思っていなかったのか、美咲は目を見開いてこちらに顔を向けた。
「……やだな。そんな顔するわけないじゃん」
「ううん。してるよ。美咲、今すごく辛そう」
真璃の病気を本当に治してもらえるなら、素直にお願いしたいし、止めもしない。
でも、こんなに辛そうな顔をしている子を見て見ぬふりは、私には出来なかった。
今まで嬉しそうに笑ってたのに、急にこんな顔になるなんて、絶対何かある。
「ねぇ。その力って、どういう物なの?」
そもそも私は、百代目の巫女が咲神命の力を持って生まれてくるなんて話は信じてなかった。だから、それについて書かれている古い本が家の倉庫にある事を知ってはいたけど、読もうとは思わなくて。
しかしもし実在するというなら、色々疑問はある。
そんな力を持った子が生まれてきたとして、それが無限に使えるなら、きっと大変な事になるんじゃないだろうか。やり放題の叶え放題。神様がそんな事を許してくれるのか……。
分からないけど、その力に何か制限があっても何ら不思議じゃない。
そしてそれは、美咲の表情の変化からも察する事が出来た。
——多分このまま力を使わせたら、何か嫌な事が起こる気がする。そう感じた。
「どういう物も何も、咲神命が出来る事がわたしにも出来るようになる物だよ。ママも伝説とか聞いた事あるでしょ? 山の植物の病気を治したり、過去に戻って問題を取り除いたり。そういう事を本気で願えば、叶えてくれるの」
「それは何回でも使えるの?」
美咲の肩が不自然に揺れた。
その反応を見て確信する。やっぱり、私の考えは的外れではないのだ。
「ねぇ、美咲。私、まだちゃんと信じきれてないけど、信じたいとは思ってるよ? ……だからね、もっと話してほしい。美咲の事」
「わたしの……、こと」
呟くように言った美咲は、今にも泣きそうな顔になっていた。
「……すごいなぁ、ママは。真璃さんの事で頭いっぱいのはずなのに、どうしてわたしにそんな優しく出来るの?」
「それは……、なんでだろうね。私にも分かんないけど。このままじゃいけないって、なんとなく感じたから」
真璃の事は勿論心配だ。今も意識を失ったまま車椅子に力なくもたれかかっている真璃を見ると、胸が締め付けられるような思いがする。けど今は、どうしても美咲の事も心配で。
——ごめんね、真璃。少しだけ待ってね。
心の中で謝って、真璃の手を握る。そして空いている手をベンチに置いて美咲に隣に座るように促すと、無言のまま私にすり寄るようにベンチに腰を下ろした。
美咲は俯いたままで、前髪に隠れて顔が見えなくなってしまったが、やがてぽつりぽつりと口を開き始めた。
「わたし、ママの事大好きだったの。優しくて、いい匂いで、いつも笑いかけてくれて。でもね、たまに遠い所を見るような目をして、悲しそうにする時があったんだ。その時はただ不思議に思ってただけだったけど、今思うと、真璃さんの事思い出してたんだね。写真見ながらぼーっとしてた時もあったし」
少し小さいその声を聞きもらさないように、ひたすら黙って耳を傾ける。
「わたしがここまで来て真璃さんの病気を治そうって決めたのも、ママのその顔が忘れられなかったからなんだけど、もう一つ大きな理由があってね」
そこで一旦間を置いた美咲は、意を決したように息を吸って、続きを口にした。
「ママは、わたしをかばって車にひかれて死んじゃったの。一瞬の事だったよ」
「……え?」
予想だにしていなかった事を告げられた私は、体が強張って思考が止まってしまう。
未来の私が死ぬ。それ自体がすでに驚くべき事だけど、それ以上に——。
「おばあちゃんと、似てるんでしょ? 萌姉が泣きながらおじいちゃんと話してるの聞いたよ。どんな数奇な運命だって」
……そうだ。お母さんと似てる。
お母さんが私をかばったように、今度は私が子どもをかばって命を落とす。一体どんな不幸な偶然だろう。
衝撃的な事実に何も言えずにいる私に、美咲は話を続けた。
「それからかな、萌姉が少しおかしくなったのは。……ううん。おかしくは、ないか。ただ、ママが死んじゃったのが本当にショックだったみたいでね。せめてわたしのママの代わりになろうとしてくれたみたいで、何かと面倒見てくれて。……意地悪とかされたわけじゃないんだよ? でも、凄く厳しくて。わたしを立派に育てようとしてくれてるのは伝わってくるんだけど……、なかなか大変だったよ」
乾いた笑いが聞こえてくる。これまでの想いを漏らすかのようなその笑い声が、私の頭に響いた。
「それでママの事、なんとかして助けたいって思ったんだ。そのために真璃さんの病気を治そうって決めて、ここまで来たの」
そこで、ずっと話し続けていた美咲の声が途切れる。
美咲の話と想いを聞いていた私は、もう我慢出来ず、その体を抱き寄せた。
「……凄いよ、美咲は」
だって私は、目の前でお母さんが死んじゃった事から目を逸らした。自分の記憶を消して、現実から逃げようとしてしまった。
真璃が引き戻してくれなかったら、私は忘れる日々を繰り返して、もしかしたら永遠にあの悪夢から抜け出せずにいたかもしれない。
だけど、この子はそうならなかった。それだけでも、私から見たら立派だ。
「私なんかよりずっと凄い。頑張ったね」
純粋に思った事を伝えて、その背中を撫でる。私の胸に顔を押し付けている美咲の口から、嗚咽が漏れてくるのが聞こえた。
「——っ……。わたし、辛かったよ……っ。わたしのせいでママが死んじゃったんじゃないかって思って。皆もそう思ってるんじゃないかって……」
「うん。分かるよ。私はその思いに耐え切れなかったから」
少しずつ、美咲の嗚咽が大きくなっていく。
「ママとわたしが似てたんだって分かった時とか……っ! おかえりって言ってくれた時とか……! 懐かしい匂いがした時もっ……、凄く、嬉しかった……っ」
「そっか。ごめんね、変な風にあしらったりしちゃったね」
美咲は私の腕の中で首を横に振りながら、その勢いで口を開く。
「ずっと、謝りたくてっ……! ごめんなさい……! わたしのせいで……っ、ごめんなさい!!」
「ううん。それじゃ駄目。ちゃんと私の想いに気付いて。……きっと私は、美咲に謝ってほしくてかばったわけじゃないはずだよ」
それは、今の私だから分かる事。
「——きっと私は、美咲の幸せを、最後まで願ってたと思う」
母親とは。
人を愛するという気持ちは。
きっとそういう物だ。
「だからさ、美咲——」
……いや、違うかな。この子に呼びかけるなら、こうじゃないね。
「——みぃちゃん?」
びくっと、美咲の体が震えた。
この子にとっての母親は、この子をこう呼んで、きっとこう言う。
「ねぇ、みぃちゃん。分かるでしょ? ごめんなさいじゃないよ」
精一杯の優しさを込めて、胸に抱き寄せた美咲の頭を撫でる。
遂にその顔を上げて、美咲が泣き声とともに声を振り絞った。
「ありがとう——、ママっ……!!」
「……うん」
大きな泣き声を上げる美咲を落ち着かせるように抱きしめて、そっと背中を叩く。
私には、これくらいしか出来ないけど。多分、間違ってはいないはずだ。
泣きじゃくる美咲の背中を叩きながら、私はお母さんと未来の私に思いを馳せていた。
——こういう事だよね? 私が感じた事、この子にしっかり伝えられたかな。
そうして、美咲の泣き声が落ち着くまで、私はしばらくそのままでいるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
しばらくして落ち着きを取り戻してきた美咲は、私に抱き着いたまま、まだ少し震えている声で再び話し始めた。
「この力に気付いたのは、幼稚園に入ってすぐの頃でね。ママが包丁で指を切っちゃったのを見て、痛そうだなって思ったから、治れって願ったら本当に治ったの。あの時ママは物凄く驚いた顔をしてて。……でもその後、ママは倉庫にあった文献を色々調べてきて、わたしに『もう絶対に使っちゃ駄目』って怒ってきた」
「それは、なんで?」
そこに、先ほど美咲が辛そうな顔をしていた原因があるんだろう。
美咲は数秒何かを迷うように沈黙した後、かすれた声を出した。
「…………限度が、あるから」
「限度? 回数、ってこと?」
聞くと、美咲はこくりと頷く。
「この力は——、えっと……、三回しか使えないの。だから、大切な時に、大切な人のために使いなさいって、ママは怒ったの」
「そう、なんだ?」
美咲の歯切れの悪さが気になりつつも、考える。
……という事は、私の指の怪我を治したのが一回目。過去に戻ってくるので二回目。真璃の病気を治す事に力を使えば、それが三回目になる。
「真璃さんの病気を治したら、わたしは元の場所には帰れなくなるから。……どうしても、不安になっちゃって。……それだけなの」
目を伏せる美咲に、どう声をかけるか迷った。
やっぱり帰った方が良い……なんて、美咲の想いを聞いた後には言えないし。——それに私も、真璃の病気を治してほしいと、思ってしまう。
しかし、病気を治してもらってさようなら、なんて使い捨ての道具のような事も当然出来るわけもなくて。
「……じゃあ、私と一緒に暮らそう? 色々問題はあるだろうけど。お父さんは私が説得するから。……うん、そうしよう。ね?」
ただの思い付きだった。でもそれが一番良い気がした。
萌姉もお父さんも、全力で説明すれば分かってくれそうな……、気がする。
それに。……その。一応、私の娘、らしいし。
私の言葉を聞いた美咲は、きょとんとして私の顔を見た後、泣き腫らした瞳を細めて、破顔した。
「うん。ママと、一緒に暮らしたい。また……、一緒に……。それくらいの幸せ、最後に想像するくらい、良いよね……?」
美咲の最後の言葉が引っかかり、私はむっとした気持ちになる。もしかして、私信用されてない?
「想像じゃないよ。私がなんとかするってば」
そう返すと、美咲はもう一度笑いながら、私から体を離す。
「ありがとう。……じゃあ今度こそ、真璃さんの病気、治すからね」
ベンチから下りた美咲は、ゆったりとした足取りで真璃の前まで歩き、しゃがみ込んだ。
そして真璃の手を握り、私に視線を向ける。
「————ママ。大好き。……大好きだよ。本当に、ありがとう」
その姿が、少し前の真璃と被って見えた。
まるで最後の別れの前に、ありったけの想いを吐き出すようなその姿。
「……美咲?」
私の不安の呟きを聞かないかのように、美咲はそっと目を閉じた——。
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