美桜
此花さんと関わるようになってからというもの、すさんでいた私の心はある程度落ち着きを取り戻し、死を待つだけのつまらない日々の繰り返しだと思っていた毎日にも、幾分かの楽しみが持てるようになった。
そしてもう一つ。私の心の変化があったとするなら、それは——。
「私、延命治療、受けてみようかと思うんだけど……」
その日、朝食の後にお見舞いにやって来た両親に、ベッドの上でそう告げてみた。
窓際の花瓶の花を交換していたお母さんはその手を止め、見開いた目をこちらに向けて。椅子に座って一息ついていたお父さんも、やはり同じようにこちらに顔を向ける。
少しの沈黙の後お母さんがベッドの脇まで歩み寄ってきて腰を下ろすと、数週間前に談話室で絵を描く私を見つけた時のように、そっと私の体を抱き寄せた。私はそんなお母さんの背中に手を回して抱き返す。
そのままお父さんを見ると、その目はわずかに潤んでいた。
「……そうか。何度もお母さんとも家で話し合ってな。真璃が嫌だと言うなら、もうこれ以上私達からは何も言わないようにしようと決めていたんだ。……しかし、そうか。……そうか、そうか」
噛みしめるようにそう何度も呟きながら、お父さんは目頭を押さえるように顔を伏せる。
抱き合っていて顔は見えないが、耳元で聞こえる息遣いから、お母さんも多分涙を流しているであろう事が分かった。
「……あの時はごめんね、お父さん」
自然とそんな言葉が口からこぼれる。お父さんは俯きながらも、首を横に振った。
「いや。私こそすまなかった。熱くなって、手を出してしまって……」
「ううん。私の事を本気で考えてくれてる事は分かってたから。……でもあの時の私は、それを素直に受け入れるだけの余裕が無かった。……だから、ごめん」
そう言うと、お父さんは細かく頷く。そしてその頷きがおさまった後、口を開いた。
「しかし、どうして突然……?」
お父さんの口から出たそれは、当然の疑問。これまで自分達が何度説得しても首を縦に振らなかったというのに、急に心変わりしたとなっては、その理由が気になるだろう。
私がどう答えようかと迷っていると、私から体を離したお母さんが微笑みながら言う。
「そんなの決まってるじゃない。……美桜ちゃんのおかげでしょ?」
「……ん……」
その言葉に私は一瞬声が出かけたが、すぐに頷く事はしなかった。……というより、出来なかった。なんとなく、認めるのが気恥ずかしかったからだ。
おそらく——、なんて言い訳がましい言葉を付けるまでもなく、この決心をさせたのは此花さんなのだけれど。
散々拒絶してきた両親の前でそれを認めようとすると、こう、胸の奥がむずむずするような感覚になって、素直に口に出すことが出来なかった。
黙ってしまった私だったが、お母さんは「よし」と声をあげて立ち上がる。
「じゃあ、早速先生に伝えに行きましょう。ね、あなた」
「あ、ああ。そうだな。そうしよう」
急に話を振られて驚いた風ながらも、お父さんもそう返して腰を上げた。
私もそれに続いてベッドから降りようとしていた時、病室の扉がノックされた音がした。返事をすると、扉が開いて此花さんが姿を現す。
此花さんは病室の中を見て私の両親を確認し、自分が居づらい雰囲気だと感じたのか、
「あー、おはようございます。……出直します」
と言い残して病室を出ようと再び扉に手をかけた。
そうか。記憶を失う前の此花さんは私のお母さんとある程度交流を持っていたが、今の此花さんにとっては少し姿を見かけたことがあるくらいのほぼ初対面の状態なんだ。よそよそしくなってしまうのも当然か。
一応お母さんには此花さんが記憶を失ってしまっている事を話してあるから、此花さんの態度に違和感を持つことは無いと思うけど。
呼び止めようかと考えていた所で、その気持ちを代わりに口に出してくれたのはお母さんだった。
「待って、美桜ちゃん」
声をかけられた此花さんは、「え」と短い声をあげて振り返る。
お母さんは振り返った此花さんの肩に優しく両手を乗せて、しっかりと思いを伝えるように言葉を紡いだ。
「ありがとう、美桜ちゃん。真璃と友達になってくれて」
「え? えっと、はい……?」
突然そんな事を言われて状況を掴み切れていないであろう此花さんは、不思議そうにしながらもそう返す。
「真璃に用事があるんでしょ? 連れて行って良いわよ。良いでしょ、あなた」
「そうだな。先生には私達から伝えよう。すぐにどうこうという事も無いだろう。真璃、行きなさい」
一連の会話の中で、此花さんはおろおろと私と両親の顔を交互に見比べていた。
私は両親の言葉に頷くと、今度こそベッドから降りて此花さんの方に足を動かす。
「此花さん、行きましょう」
「え、でも、良いの?」
自分が親子の会話を邪魔したのではないか。と、多分此花さんは心配しているのだろう。彼女はまたも困惑気味に私たちの顔を何度も見た。
「良いのよ」
そんな此花さんを安心させるように声をかけて、私は自然と彼女の右手を自分の右手で掴み、病室の扉を開ける。
「あ——」
そう小さく此花さんの声が聞こえた気がしたが、私は構わずその手を引いて病室から出た。
廊下をしばらく歩いたところで、成り行きで繋いでしまっていた手を離す。
「ごめんなさい。無理やり掴むみたいにしてしまって」
「え、いや、そんな事はないです! 雛本さんさえ良ければずっと繋いでても良いですよ!?」
何故か顔を赤くして敬語で言う此花さん。
「それはさすがに恥ずかしいわね」
思ったまま言葉を返すと、此花さんは「ですよね」と少し残念そうにしたが、すぐに立ち直って口を開いた。
「私友達と手を繋いだのなんて多分小学生以来だったから、ちょっと緊張しちゃった」
言われて、私も考えてみる。……確かに、私もだ。
そう思うと、急にさっきの自分の行動や、繋いでいた此花さんの柔らかい手の感触が思い出されて、私も若干顔が熱くなるのを感じる。
しかしそれを出来るだけ表に出さないように振る舞い、声をかけた。
「……それで、どうする? 話があるなら、とりあえず談話室で良いかしら」
「あ、うん。むしろ談話室に行こうとしてた。——というか、中庭に行きたかったんだ。雛本さんと」
◆ ◆ ◆ ◆
此花さんの要望通りに談話室まで足を運ぶと、ガラス張りの窓の向こうの中庭には、二、三日前と同じとは思えないほどの鮮やかな桃色が広がっていた。
私はそれに目を奪われながらも、此花さんの後について中庭へと出る。
一昨日、桜の下のベンチで此花さんと話をした時、満開の日も近いとは思っていたが。
「……こんなに綺麗な物なのね」
ここまで大きな桜の満開を見たことが無かった私は、その美しい姿にそう呟かずにはいられなかった。
「凄いでしょ? 花が開ききったら絶対雛本さんにすぐ言いに行こうと思って毎日見てたからね。今が一番綺麗だよ、きっと」
そう言いながら私に笑顔を向ける此花さんを見て、私も自然と笑顔になる。——そういえば、私がこの病院に来て初めて笑ったのも、この子の微笑みを見た時だったか。
そして、此花さんは困ったように笑いながら続ける。
「でもこれを見るとねー、名前負けしてるみたいに感じちゃうんだよねぇ……。私の名前、『美しい桜』でしょ? こんなに綺麗な桜見たら、そんな凄い人間にはなれないよなぁ、って思っちゃうんだ」
……そんな事は無い。
此花さんは、自分が思っているよりももっと凄い人だ。少なくとも、私なんかよりはよっぽどよく出来た人間であることに間違いはない。
この子は、人生に絶望して閉じ切っていた私の心を優しく開かせてくれた。その笑顔と言葉にどれだけ大きい力があったか、私は知っている。
私が今こうして自然と笑っていられるのはこの子の笑顔のお陰だし、自分の心と素直に向き合えたのはこの子が諦めないで言葉を重ねてくれたからだ。
だから私は、此花さんの自己評価を聞いて、ひどく納得できない気持ちに襲われた。
それをどう伝えるべきか。そもそも私はそれを伝えられるだけの力があるのか。
と考えていた所だったが、此花さんはそれを待たずに言った。
「まぁ、そんな事言ってもね。私は神社でずっと継がれてる苗字なんかよりも、私の名前の方が好きなんだ。この前も言ったけど、お母さんとお揃いの字が入ってる所とか、大好きな花の名前が入ってる所とかね」
そこまで言うと、此花さんは桜に向けていた視線を外して、私の方に顔を向ける。
「だからね、……その」
しかし、此花さんは私に向けた顔を俯かせると、何かを言いかけて黙ってしまった。
そして顔を上げたかと思うと、
「ごめん、なんでもない。ベンチの所行こうよ。気持ちよさそうだし」
そう言って一昨日も一緒に話したベンチの方へと歩き始めてしまう。
でもなんだろう。私は今の此花さんの言いかけた言葉を、ここでそのままにしてはいけない気がした。
「このは——」
——あ。そうか。
その背中を呼び止めようとした所で、ふと気づく。
いや。正確には、呼び止めようと苗字を呼ぼうとした所で、だ。
「——美桜」
簡単な事だった。
この前からしきりに名前の話を振ってきた理由。
そんな簡単な事に、私は気付くことが出来なかった。
名前を呼ばれた彼女は、足を止めて、ゆっくりと振り返る。
大きな目をさらに大きくして、私の顔を見た。
「……聞き間違えたかもしれないから、……もう一回言って?」
「美桜」
彼女の言葉に、私はもう一度、心を込めるようにしてその名を呼ぶ。
「……うん。——真璃」
嬉しそうな顔、というには、言葉が足りない。そんな屈託のない溢れんばかりの笑顔を向けて、ふわりと桜が舞い散る中で、彼女は私の名前を呼んだ。
二〇一八年、四月中旬。快晴。
美桜と初めて出会ってから約二ヶ月。
私にあとどれだけの時間が残されているかは分からないけれど。
それでもあえて言うならば。私は今日この時、やっと美桜の隣でスタートラインに立てた気がした。
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