また、後で

 此花さんが目覚めて、一緒に夕食を食べた翌日の午後。私は彼女の父親である和幸さんに声をかけられ、面談室とプレートの張ってある部屋に来ていた。

 そこはその名の通り医師と面談するためだけの部屋らしく、部屋の中は長テーブルが一つとその両脇に椅子が三つずつあるだけの寂しいものになっている。

 部屋に入った時点ですでに此花さんの主治医の先生が奥の椅子に座っており、私と和幸さんは手前の椅子に座って先生とテーブルを挟んで対面する形となった。

「さて、此花美桜さんの容体についてなのですが——」

 私たちが腰を下ろすのを確認した先生がおもむろに口を開いたので、私はそこに割り込む。

「あの、すみません。……私ここにいて良いんですか?」

 こういうのは普通、患者やその親族が面談するものではないのだろうか。此花さんと知り合いとはいえ、私はどう考えても部外者なのだが。

 私の言葉を聞いた和幸さんがこちらに顔を向ける。

「良いんだよ。今の美桜の状態を知ってるのは、先生以外だと私と真璃ちゃんと萌果ちゃんだけだし。私一人だと心細いからね」

 萌果……。ああ、此花さんが萌姉と呼んでいたあの看護師か。

 不意に出てきた名前を頭の中で思い出していると、和幸さんが言葉を続けた。

「本当は萌果ちゃんも連れて来たかったんだが、彼女も仕事があるから。後で伝えるという事にしたんだ」

「確かに、萌果さんとは親しそうにしてましたね」 

 何気なく出た言葉だったが、和幸さんはしっかりと補足を入れてくれる。

「ああ。私も妻も、向こうのご両親とは萌果ちゃんが生まれる前くらい昔からの顔見知りでね。お互い子供を連れてよく会っていたから、美桜と萌果ちゃんも姉妹のように仲良くなっていたよ」

 なるほど、それで萌姉か。

「……でも、事情を知っているとはいっても、私はただこの病院で知り合っただけの人間ですけど」

 しかしそれを聞けばなおさら私と此花さんの繋がりは弱い気がする。本当にここで話を聞いても良いものなのか。

「この前も言ったけど、記憶を無くす前の美桜は、真璃ちゃんの事を凄く楽しそうに話してたんだ。美桜が友達の話をあんなに楽しそうにする事なんて今まで全然無かったから、私も嬉しかった。真璃ちゃんには感謝しているんだ。……だからこそだよ、ここに君を呼んだのは」

 真剣な顔で言う和幸さんに、私は俯き気味に言葉を返す。

「……感謝するのは私の方です。私は、彼女に助けてもらいましたから……」

 そう始め、私はこれまでの事を話した。

 私の命がもう長くないらしい事。だから、此花さんに辛く当たってしまった事。それでも此花さんが私と仲良くしようとしてくれていた事。——そして、私の心を救い出してくれた事を。

 和幸さんも先生もずっと黙って聞いてくれていたが、私の話が終わると、和幸さんが少し間を置いて口を開いた。 

「だったら、なおさらここにいてもらわないとな」

「……え?」

 和幸さんの言葉に驚き、顔を上げる。

「美桜に感謝しているなら、美桜の置かれている状況をちゃんと理解して、これからも仲良くしてやってほしい。美桜にとっては、それが一番嬉しいはずだ」

 こちらに真摯な眼差しを向ける和幸さん。私はわずかに潤んでしまった目を伏せるようにして、黙って頷いた。


「……さて、では話しますよ」

 それまで静観していた先生が、こちらの話が終わった空気を察して、今度こそ話を始める。

「此花さんの容体について、色々と再検査をしたのですが、以前お伝えした通り脳に異常は認められませんでした。勿論外傷もありません。今回の記憶障害は、精神的な要因で引き起こされていると思われます」

「精神的、と言いますと……。やはりあの事故が関係しているのでしょうか」

 和幸さんの言葉を受けて、先生は続けた。

「おそらく……、という他ありません。何しろ確証がありませんから。ただ此花さんが倒れた時の状況を考えれば、その可能性が高いとは思います。事故でお母さんが亡くなったという事もありますし……。その事故の時に見た何か『思い出したくない記憶』を強く封印していて、それを思い出してしまった時、思い出すまでに経験したそれまでの記憶も引っ張られる形で再び封印される。——という事が、脳内で起こっているのかもしれません」

 そこまで話すと、先生は一度黙ってしまう。

 ……先生自身も、此花さんの状態について完全に把握できていない。だからこそ、「そんな事があり得るのか」と思いはしても声には出せなかった。多分それは和幸さんも同じだろう。

 少しの間部屋の中に沈黙が流れたが、先生が再び言葉を発した。

「……私は、まずは本当に例の事故の事が原因で、今回此花さんが記憶を失ってしまったのか、確証を得たいと思っています」

「どうやって、ですか?」

 私が返した言葉に、先生がまっすぐこちらを見て答える。

「もう一度、此花さんに事故の事を伝えます。そしてまた同じ事が起きれば、間違いないと言っても良いでしょう」

 それを聞いて、私は此花さんが倒れた時の事を無意識に想起した。

 とても此花さんが出しているとは思えないうめき声をあげて、苦しそうに頭をおさえる彼女を。

「……私は、もうあんな此花さんは、見たくありません」

「……確かに、また此花さんが苦しむ事になるかもしれません。しかしこの状況から前に進むためには、それしかないのです。幸いこの町では彼女は有名人です。もし事故の話題が彼女にとってタブーなのだと分かれば、病院や町ぐるみで緘口令かんこうれいを敷くのも難しくはないでしょう。……流石に此花さんも違和感は感じるはずですし、永遠に隠し続けるのは無理でしょうが」

 私はちらりと和幸さんを見やる。和幸さんは黙って目を閉じ、先生の言葉を吟味しているようだ。

「勿論私の独断で行うわけにはいきません。最終的な判断は、此花さんのお父さんにお任せします」

 そう声をかけられた和幸さんは、しかし返事をしない。

 重い沈黙が部屋を支配する中、私も口を開くことは出来ず、ただ和幸さんの次の言葉を待つ事しか出来なかった——。



          ◆ ◆ ◆ ◆



 約一時間の面談を終えて時計が十五時過ぎを指した頃、私は和幸さんと先生と共に病室まで戻ってくる。すると、その扉の前に此花さんが立っていた。

「あ、雛本さん——、とお父さんに先生?」

 こちらに気付いた此花さんが笑顔を向けてきたが、和幸さんと先生の存在にも気が付くと、途端に不思議そうな表情に変わる。

「そこで偶然真璃ちゃんに会ってな。話しながら来たんだ」

「ふぅん、そうなんだ」

 和幸さんの説明を特に疑うような事もせずにそう返す此花さん。そして和幸さんは続けた。

「ところで、お父さんと先生な、美桜に大事な話があるんだ。病室に戻ってもらえるか?」

 言われた此花さんが、「えー」と抗議の声を上げる。

「私、雛本さんに話があったんだけど」

「じゃあ、すぐに来てくれ。お父さんは先生と一緒に病室で待ってるからな」

 そう言い残し、二人は此花さんの病室に入っていった。

 此花さんは私に向き直ると、不満そうな顔をして口を開く。

「なんでそんな急に言うかなー。私、雛本さんにまた絵を教えてもらおうと思ってたのに」

 そんな事を言う此花さんは、よく見ると後ろ手にスケッチブックを持っていた。

「でも先生もいたみたいだし、ほんとに大事な話なのかも……。……ねぇ、雛本さん。話が終わったら、また病室にお邪魔しに行ってもいい?」

 私は此花さんの顔を見れないまま、俯き気味に言う。

「ええ。いいわよ」

「……どうしたの? 元気ない?」

 私の様子に違和感を感じたのか、此花さんは私の顔を覗き込むように顔を傾けた。

「そんなことないわ。……大丈夫よ」

「そう? ……じゃあ、また後でね」

 私がなんとか返した言葉をどう思ったのかは分からないが、此花さんはわずかにトーンの落ちた声でそう言うと、自らの病室へと入っていく。

「……また、後で……」

 私はもう姿の見えなくなった此花さんに向けてぽつりとつぶやいた後、ゆっくりと自分の病室に入り、ベッドの上に座り込んだ。


 あの後。此花さんに事故の事を再び話す事を、和幸さんは了承した。

 ……了承したのは良いのだが、その事故についての話を、今すぐにするという事になったのだ。

 どうして、そうなるのだろう。彼女は昨日目覚めたばかりだというのに。もう少し間を開けてあげても良かったのではないか。

 またあんなに苦しい思いをするかもしれないというのに。目覚めて記憶を失っていて、まだ完全に状況を呑み込めていない彼女に、追い打ちをかけるみたいにする必要なんて無いのに。


 ……しばらくすると、隣の病室から、あの日のような大きなうめき声が聞こえ始めた。

 聞きたくない。そんな声を、私はもう聞きたくないのに。


 私は両手で耳を塞いで膝を折り、ベッドの上で丸くなると、ただただ、時が経つのを待つのだった。

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