想いは、消えないのかもしれない
「真璃の……、お母さん?」
そちらに向き直ると、女の人は頷いて話し始めた。
「真璃といつも仲良くしてくれてありがとうね」
「い、いえ……。私こそ、全然覚えてなくて、ごめんなさい」
言いながら頭を下げると、真璃のお母さんが首を振る。
「仕方がないわ。あなたの『それ』は、どうしようもない事だもの」
そう言って、次に咲の方に視線を移した。
「そちらの方は?」
「あ、わたし、咲っていいます。……えっと……」
咲が言葉に詰まっているので、私は「友達です」と補足を入れる。
「そう。……ごめんね、真璃のわがままに付き合わせて」
そして、真璃のお母さんは私に向けてそう言葉を紡いだ。
「わがまま……?」
「ええ。だって、自分の事を知る前にまず真璃の事をどう思ってるか考えろ、だなんて。突然言われて、美桜ちゃんも困っちゃうでしょ?」
困ったように言う真璃のお母さんは、どこか疲れているように見える。
……でもそれも当然かもしれない。真璃が集中治療室に運ばれて、親が一番気に病むに決まっている。
「……確かに最初はよく分からなくて、驚きもしましたけど。でも今は違います。ちゃんと考えるって決めましたから。私自身の事も、勿論気にはなりますけど、今は真璃の事を優先します」
私はしっかり目を合わせてそう答えた。
真璃のお母さんはそれを聞いて微かに笑った後、口を開く。
「私も真璃も、美桜ちゃんには随分お世話になったから、こんな事までさせちゃって申し訳ないとは思うんだけどね。けどやっぱり真璃は私の娘だから。応援したくなっちゃうの」
そこまで言って、真璃のお母さんはコートのポケットから私が持っている日記帳くらいの大きさのノートを取り出した。……というより、それは恐らく日記帳そのものだった。
「これね、真璃が書いてた日記なの」
その言葉に、私は驚いた声を上げてしまう。
「真璃も? 日記を書いてたんですか?」
「美桜ちゃんが記憶を無くしちゃう事が分かった頃から、ずっと書いてたみたい。……役に立つか分からないけど、美桜ちゃんに預けるわ」
私の目の前まで歩いてきた真璃のお母さんが、私の手を取ってその日記帳を握らせてくる。
「勝手を言っているのは分かってるけど……。あの子の想いが届く事を、願ってる……」
祈るように私の手を握りしめ、真璃のお母さんは最後に呟くようにそう言った。
そしてゆっくりと私の手を離し、私と咲に一礼すると、静かに談話室の方に戻っていく。
私はそんな真璃のお母さんの真剣な様子に声をかける事も出来ず、ただお辞儀を返すだけであった。
◆ ◆ ◆ ◆
「中、戻らなくていいんですか?」
「うん。ここで見た方が良い気がするから」
そう短い会話をした私と咲は、つぼみの付き始めている桜の下にあるベンチに腰かけて、真璃の日記を開く。
『此花さんが記憶を失ってしまうなら、せめて私は絶対に忘れないよう、今日から日記をつける事にする』
日記はその言葉と共に始まった。
この日記が始まった時は、真璃は私の事を『此花さん』と呼んでいたようだ。……そういえば、私の日記も最初の方は『雛本さん』と書かれていたっけ。
ページをめくっていくと、真璃の日記には私と過ごした思い出が、一日一日びっしりと書き込まれていた。
本当に些細な話をした事や、どんなご飯を一緒に食べたかという事など、細かい事もしっかり書いてあって、私の割とさらっと書いてある日記とは大違いだ。
「凄いですね、真璃さん」
一緒に日記を見ていた咲が、そう声を出した。
「そうだね。真剣に書いてるのが伝わってくる感じ」
答えながら日記を読んでいくと、四月の終わりあたりには私の事を『美桜』と書いている。名前呼びはこの頃が初めてだったのだろうか。
そして八月。
『美桜と一緒に屋上で花火を見た。打ち上げ花火を生で見るのは久しぶりで、本当に綺麗だった。しかし花火を見たい気持ちと一緒に、隣にいる美桜の横顔も見たいという気持ちもあって、少し困った』
「——だそうですよ、美桜さん」
ニヤニヤしながらそんな事を言ってくる咲に、気恥ずかしさを隠すように目を逸らした。
「もう。今は真面目に読んでるんだから。からかうの禁止」
そう咲を制して、再び日記帳に視線を落とす。
『美桜とキスしてしまった。変な動揺をしていなかっただろうか。いつも通りにふるまえていただろうか。あまり覚えていない。やっぱり、多分、私は美桜の事が好きなのだ』
十月三十一日。ハロウィンの時の日記だ。珍しく日記の文が短く、字が周りより少し乱れている。真璃がひどく動揺していることが見てとれた。
「美桜さんの事が好きだっていうのは、このあたりでちゃんと自覚した感じですかね」
「…………そう、かもね」
私は自分の顔が熱くなるのを感じながら、思わず小さくなってしまう声で答える。
自分に関する、しかも恋愛沙汰の事を分析するのは本当に恥ずかしい。
しかしその日記を読みながら、私は昨日真璃に告白された時と同じように、心が嬉しいと訴え始めているのを感じていた。
そんな感情を抑えながら、ページをめくるために手を動かす。
十二月が終わり、新年を迎える一月のページが来るはずのそこには、何も無かった。
いや、正確には一月から二日前に私が目覚めるまでのページが無かった。日記帳を少し強く開いて中央の部分をよく見てみると、破られたような形跡がある。
「……真璃さんが破ったんでしょうか?」
「分からない。……そうだとしても、なんでそんな事……」
唐突に終わりを迎えてしまった日記帳に何とも言えない虚無感を味わっていたが、一応ぺらぺらとページを流していると、日記帳の一番最後のページに、一行だけの言葉が書いてあるのを見つけた。
『記憶が消えたとしても、想いは消えないのかもしれない。美桜の言葉を信じてる』
ただ、そう書かれていた。
……私の、言葉?
私が、真璃にそう言ったのだろうか?
「美桜さん。これって……」
咲が語りかけてくるが、私はその一行から目が離せない。
記憶が消えたとしても——
「——想いは、消えないのかもしれない」
確かめるように、声に出す。
思えば、不思議だった。
二日前に目覚めた時、何も覚えていない私は、なんで病室を出たいと思ったんだろう。
何も覚えていないのに、なんで談話室に行こうと思ったんだろう。
気になったら遠くからじっと見てしまう癖があるというのに、なんで自然に真璃に歩み寄れたんだろう。
いくら真璃が綺麗だったとはいえ、なんで私は同じ女の子の行動にあんなにドキドキしてたんだろう。
——なんで、真璃が私の事を好きだと伝えてくれた時、あんなに嬉しかったんだろう。
そんないくつもの疑問に、この一言で、全て、答える事が出来てしまう。
「私の中に——、真璃を想う気持ちが、残ってる……」
日記を頼りに色々な所を回った時、その場所場所で感じた不思議な感情も。当時の私がそこで感じた感情だったのかもしれない。
……そうだ。プレイルームで絵が上手だと言われた時、私はなんて考えた?
——絵を教えてもらっていた記憶は無くなっていても、体や感覚が覚えている、みたいな事があるのだろうか——
そう考えたじゃないか。だったら、心が感情を覚えていても、不思議ではないのではないか。
思考が脳内を駆け回る。ぐるぐる、ぐるぐると、この三日間を頭の中で繰り返す。
あの時も、あの時も、あの時も。
きっと私の心が、真璃への想いを覚えていたんだ。
「美桜、さん……?」
その声にはっとして意識を戻すと、私を心配そうな目で覗き込む咲の顔が見えた。
「咲……。私、分かったかもしれないよ。真璃の事、どう思ってるのか」
震える口で言葉を絞り出すと、私はベンチから立ち上がり、空を見上げる。
「覚えてない記憶から感情は生まれないって言ったけど、そもそもが違くて……。生まれた感情が残ったまま、記憶だけが消えてたんだ……」
言いながら、私の頭の中では、この二日間で見た真璃の顔が次々に浮かび上がっていく。
表情豊かで。
いつも笑顔で。
真剣な顔をすると案外怖くて。
でも、やっぱり笑顔ばっかり浮かんでくる。
空を見上げる私の視界が、揺らめいていく。
雨も降っていないのに、私の頬を水滴が伝っていくのを感じた。
「私、ずっと、真璃の事、好きだったんじゃん……っ!」
決壊したように、言葉と涙が溢れた。
「記憶が消えたから想いも忘れちゃったように感じてただけで! ここにちゃんと残ってたのに!」
締め付けられるように苦しい胸を抑えて、私は溢れ出る言葉を口にする。
「私、こんなに真璃の事……大好きなんだよ……!」
そこで、私の体は横から温かい何かに包まれた。それは咲が私を抱きしめている温度。
「美桜さん。……答え、出たんですね」
「……うん」
私は咲を抱きしめ返すと、しっかりと頷く。
「……ありがとう、咲。あの時咲と話せてなかったら、私きっと、もっと重い気持ちのまま病院の中回ってただろうから。……もしかしたら、今みたいな結果に辿り着けてなかったかもしれない」
私の言葉を聞いた咲は、私の腕の中で首を横に振った。
「そんなことはありません。どんな過程を辿るにせよ、美桜さんはわたしがいなくても今と同じ答えを出せていました。わたしは知っています。わたしはただ、それを近くで見せてもらっていただけです」
そう言って、咲は私から体を離す。
「さ、早く真璃さんの所に行ってあげてください。わたしの事はもういいですから」
そして私に背を向けて、「また、後で会いましょう」と呟く咲。
私はもう一度頷いて、日記を握りなおすと、談話室の方へと足早に戻った——。
◆ ◆ ◆ ◆
急いで集中治療室に来ると、なんとその扉の前ではお父さんが待っていた。
「美桜。答えは出たのか?」
「……お父さんまで、関わってたの?」
「まぁな。真璃ちゃんのやりたい事を聞いて、お父さんはそれを受ける事にしたんだ」
「やりたい事……?」
お父さんは私の言葉には反応せず、もう一度こちらに向けて口を開く。
「それで? 答えは出たんだな?」
「……うん」
頷いた私を見たお父さんは、静かに扉の前から身をずらした。
「真璃ちゃんは今目覚めているよ。先生にも面会の許可は取ってある。……行きなさい」
私はお父さんの横を通り過ぎると、集中治療室の扉を開く。
中のベッドでは、腕から何本かの管を伸ばして、口元が酸素マスクで覆われた真璃が横になっているのが見えた。
二人の看護師さんが中にいたようだが、私の姿を見ると、二人とも廊下に出てきてしまう。
それを見届けて、室内に足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める直前。
「頑張れよ。美桜」
お父さんの声で、そう聞こえた気がした。
集中治療室に真璃と二人きり。心電計のピッピッという無機質な音だけが淡々と繰り返される世界。
私は静かにベッドに歩み寄ると、真璃の手を握って声をかける。
「真璃。来たよ」
私の声に気付いた真璃は、弱々しく微笑んで見せた。
「……美桜。……ごめんなさい。こんな形になっちゃって……」
「真璃が謝る事なんて何も無いでしょ。それより私の気持ち、聞いてくれる?」
そう語りかけるも、真璃はゆっくりと首を横に振る。
「待って。……その前に、私の話を聞いて。……その後で、もしまだ覚えていたら、美桜の気持ちを聞かせて……?」
「? ……うん。分かった」
少し不思議に思いながらも真璃に答えて、私は次の言葉を待った。
たっぷりと時間を空けた後、真璃は静かに口を開く。
「……美桜。あなたは去年の一月の終わり頃、隣の県の温泉街に家族旅行に行こうとしたわ」
「……え?」
急に切り替わった話題に、頭が追い付いていなかった。
何? 去年の一月?
そんな私を気にせず、真璃は続ける。
「その温泉街に行く途中の高速道路にあるトンネルで、事故に巻き込まれた……」
「……何言ってるの?」
その瞬間。
心臓が、音が周りに聞こえるんじゃないかと思うほどに早く動き始めた。
頭が割れるような痛みに襲われた。
息が急に浅くなり始めて。
視界がぐにゃりと歪んでいく。
脳が警報を上げている。それ以上聞いてはいけないと。
私はもう立っていられず、真璃の手を握りながらベッドの横に膝をついてしまった。
「そして——」
聞いてはいけないその先を、しかし真璃は言葉として発した。
「あなたのお母さんが、その事故で亡くなったわ」
「うああああぁぁぁぁァァァァッッ!!!!」
とても自分の喉から出ているとは思えない音が遠くから聞こえる。
頭の痛みも、肺の苦しみも、耐えられる許容値を超えている。
痛い。痛い。痛い。痛い。——痛い!
ぐにゃりと歪んでいた視界が元に戻り始める。
真っ暗な中に、車がぐちゃぐちゃに敷き詰められていて。
大きなトラックが横倒しになっていて。
ごうごうと赤い炎を噴き出している。
「やだぁぁ……っ! やだ……っ!!」
お母さんが——。
何かの。
下敷きに、なって。
ぶつり。
私の意識が完全に途切れる音。
いつもことごとく私の記憶を奪っていく、悪夢の姿が、そこにはあった。
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