ちゅーしてたじゃん

 小児病棟へと続く渡り廊下は左右にいくつか窓があるのは勿論、天窓も付いていて、気持ちの良い日差しで照らされていた。

 穏やかな日差しを体で感じながら、廊下を抜けて小児病棟へと足を踏み入れる。

 壁自体は一般病棟と同じく白一色だが、その壁は色画用紙でできた可愛らしいクマやウサギなどで装飾されていた。廊下の窓の端の方にはハート型のステッカーとかも貼ってあったりして。いかにも小児病棟といった雰囲気……、いや、なんとなく幼稚園のような雰囲気に近いものがある。

 それを見た咲は、心なしか目を輝かせているようだ。こういう雰囲気が好きなのだろうか。……私も好きだけど。

「そういえば咲って何歳なの?」

 そんな咲の様子を見て、ふと気になったことを聞いてみる。

 クマの壁面装飾をまじまじと見ていた咲が、こちらに振り返った。

「十五歳です。中学三年です」

「へー、そうなんだ」

 私……、の一つ下か。一年間の記憶のずれがあるせいで、つい自分の歳を一つ間違えそうになる。

 そっか。私の一つ下だから中学三年生か。そっかそっか……。

 ……。…………。

「あれ? そういえば、私って中学卒業できたのかな」

 なんかすっかり忘れてたけど、私って今十六歳で、普通だったら高校一年生なんだよね。

 でも私去年の一月からこの病院にずっといたわけで。

 高校に行ってないのは当然として、そもそも中学ってどうなったんだろうか。

「それまでちゃんと通ってたなら、卒業自体は出来てるんじゃないですか? 二月の間行ってないだけで卒業出来ないっていうのは流石に無いと思いますけど……」

「そ、そうだね……。そうだといいな」

 中学を卒業出来てないかもしれないという焦りで若干冷や汗をかいた体を、息を吐いて落ち着かせる。

 そして話を終えてまた別の壁面のクマを見始めている咲の背中に声をかけた。

「クマ好きなの?」

「好きです! 本物はちょっと怖いですけど……。クマのベーちゃんとかは特に大好きですよ」

 咲はそう言いながらスマホを出して、そこに付いている黄色いクマのキャラクターのストラップを見せてくる。それは、偶然にも私も好きなクマのベーちゃんというキャラクターの物だった。

 あまり有名じゃないしそもそも幼児向けアニメのキャラクターのため、この歳まで好きなのはちょっと恥ずかしい気がして、私はあまり人には言わないんだけど。

「咲も好きなの!? 実は私も好きなんだ、べーちゃん」

 私と歳の近い子で好きな人がいたんだという嬉しさで、つい興奮気味に食いついてしまった。

「え? 美桜さんも好きだったんですか?」

 咲は驚いたように私を見る。おそらく私と同じ理由で驚いているのだろうか。周りにべーちゃんが好きな人って全然いないからなぁ。

 ……まぁ、いても多分恥ずかしくて自分からは言わないから、べーちゃんを好きな人同士が巡り合えないんだろうけど。

「私もそれと同じストラップ持ってるよ。あとこのくらいのぬいぐるみとか」

 言いながら、両手で20センチくらいの大きさを表す。

 すると咲はそのストラップを見つめてぽつりと呟いた。

「そっか……。そうだったんですね」

 少し雰囲気が変わった気がして、どうしたのだろうかと不思議に思っていると、突然左横から元気な声が私の耳を貫いた。

 

「あー! ちゅーのお姉ちゃんだ!」

 

 声の大きさに驚いてそちらを見やると、おそらくまだ幼稚園生くらいであろう女の子が、こちらを指差している。

 というか今なんて言った? ちゅー?

 声の勢いやら突然の事でしっかり聞き取れなかった言葉やらに困惑している私を気にせず、女の子はこちらに駆け寄ってくる。

「今日はこの前とは違うお姉ちゃんと一緒なの?」

 女の子は咲を見て、そんな事を言った。

「この前って……、もしかしてハロウィンの時の事かな?」

 小児病棟の方で私に『この前』と語りかけるという事は、多分そういう事なのだろうと思い聞いてみる。

 すると女の子は「うん」と元気よく頷くと、そのまま続けた。

「今日もちゅーするの?」

 無垢な瞳でこちらを見上げる女の子。

「……ちゅー?」

 私は全く理解できないまま、とりあえずその言葉を返して膝を折って女の子と視線を合わせる。

「……ちゅーって……、どういう事?」

 聞くと、女の子は驚いたように口を指差しながら言った。

「え? ちゅーって、ちゅーだよ」

 ……もしかしたら何かの間違いかと思ったが、どうやらこれは本当にキスの事を言っているようだ。

 ちょっと待って。今日もするの、ってどういう事? そもそもさっきのちゅーのお姉ちゃんて何!?

「今日はそのお姉ちゃんとちゅーするの?」

 混乱の真っただ中にいる私を気にもせず、女の子は咲の方を見ながらよく分からない方向に話を進めている。

「ちょ、ちょっと待って……! ハロウィンの時、私、ちゅー、してたの?」

 明らかに動揺を隠しきれていない声が出た。女の子はまたも驚きの表情をこちらに向ける。

「忘れちゃったの? お姉ちゃん、この前一緒にいた髪が長いお姉ちゃんの事押し倒して、ちゅーしてたじゃん」

「押し倒……っ!?」

 押し倒すなんて言葉良く知ってるな、幼稚園生。……いや、そんな所に突っ込んでる場合じゃないんだけど!

「……美桜さん……」

 後ろから声をかけられ振り返ると、咲がジトっとした目で私を見ている。

「美桜さん……。こんな小さい子の前で何やってるんですか……?」

「いや……。いやいやいやいや! そんな事しないから! 私! そんな事しないから!」

「そんなに我慢できなかったんですか……?」

「違うって! 多分違うから!」

 咲の疑いの視線と言葉に、冷や汗をかきつつも激しく抗議の声を上げ、私は再び女の子の方に向き直る。

「な、何か見間違えたんじゃない? そうだよね?」

「ううん。皆で遊んでる時に急に抱き着いてちゅーってしてたよ」

 …………。何やってるんだ私は。

 ひたすら無言。後ろから咲の視線を感じる。振り向きたくない。

 え、どうしようこれ。どうすればいいの、私。

 嫌な汗が噴き出て止まらない。


 そんなどうしようもない状況を打ち破ったのは、その子の後ろに続く廊下の奥から歩いてきた看護師さんの声だった。

「まゆちゃん、こんな所にいたの? 急にいなくなるからびっくりしちゃった。ほら、一緒に診察行こうね」

 まゆちゃんと呼ばれたその女の子は、顔をしかめて口を開く。

「えー。行きたくない……」

「早く行かないと先生困っちゃうよ」

 まゆちゃんに優しく言ってその手を取りながら、看護師さんは私たちに気付いて視線を移した。

「あら、此花さん。その節はありがとうね」

「その節って、ハロウィンの事ですか!?」

 かけられた言葉に、思わず立ち上がり食い気味に聞き返す。

「え、ええ。そうだけど」

 私の謎の勢いに戸惑っている看護師さんに、さらに続けた。

「ハロウィンの時に私と真璃と一緒にいたんですか!?」

「いたけど……?」

「私と真璃が……、その、キスしてたっていうのは本当ですか!?」

 なりふり構ってられない私は、とにかくその事を看護師さんから聞き出そうと必死に言葉を紡ぐ。

 そうすると、看護師さんは「あー」と困った顔で答えた。

「その話ね……。実はその時、私含めて一緒にいた看護師は、子供たちに配るお菓子を用意するためにちょっとだけ席を外したんだけど。その間に色々あったみたいで、私たちも子供たちからその話を聞いたの」

 看護師さんはまゆちゃんの手を引きながら、言葉を繋げる。

「でもその時その場にいた子供たち全員がそう言うものだから、私たちもびっくりしてね。この病棟でもちょっとした話題になっちゃたの。『あの此花さんがー』、って感じで」

「そ、そうですか……」

 小児病棟で有名になったって、そういう事……。

「ごめんね。私この子を連れて行かないとならないから、もう行くわね。もし他の子にも話を聞いてみたいなら、プレイルームに行ってみるといいわ。子供はそこで遊んだりしてるし、ハロウィンパーティーしたのもそこだから」

 そう言い残してまゆちゃんを連れて廊下の奥に消えていく看護師さん。

 取り残された私の後ろから、咲が呆れた声を出した。

「……美桜さん。時と場所は考えた方が良いと思います」

「…………突然人に抱き着いてきて匂い嗅ぐ人に言われたくない」

 もはや言葉を返す気力すら無くなりつつあったが、最後の抵抗でそう返す。

「あれはま——……っ! ……まじで、目の前に美桜さんがいたので……。……ごめんなさい。私もどうかしてましたね、あの時……」

 しおらしく謝ってくる咲。

「……とりあえず、プレイルームってとこに、行ってみようか……」

 絞り出した私の声に、小児病棟の中を知っているらしい咲が「あっちです」と指をさして教えてくれる。

 咲の案内によって、私はプレイルームへと続く廊下を憂鬱な気分で歩き始めた——。

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