それじゃ理由になりませんか?
此花さんが真剣な表情で、談話室のテーブルの上に置かれている二十センチほどの黄色いクマのぬいぐるみを見る。
そしてスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる。
私は此花さんの後ろに立ってそれを見、我慢出来ずに口を開いた。
「だから、もっとよく見なさい。形はどうなっているのか。大きさはどの程度なのか。光はどこから当たってるのか。影はどんな風についてるのか。絵の力以前にあなたには観察力が足りてないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る暇があったら対象を見る」
——私がこの穂乃咲病院に入院してから五日が経った。
あれから此花さんとは、普段積極的に関わりに行くことは無いが一日のうち一時間ほど集まって私が絵を教えるという不思議な関係が続いている。
ちなみに彼女の絵心の無さは相当な物で、正直教えるのは苦労していた。
……延命治療の方は、返事は保留中だ。
あの後また両親と話したり、一人で考えてみたりもしたが、どうしても踏ん切りがつかない。
両親の本気の思いをぶつけられてもなお、やはり私にはそれを受けたいと思えるような最後の決め手という物が無かった。
「そこは丸みがあるでしょ。どうしてそんなに角張ってるの」
「ごめんなさい……」
「分かったら直す」
言いながら時計を見ると、こんなやり取りを続けて約一時間が経つ。今日はそろそろお開きの時間だ。
そう考えて視線を戻し、私は此花さんの隣の席に腰をかける。
「今日はこのあたりで終わりましょう」
「は、はいぃ。ありがとうございました……」
此花さんは緊張から解き放たれたように机に突っ伏すと、大きく息を吐いた。私はそれを横目で見て、紙コップのお茶を飲みほす。
真面目にやってるのは分かるんだけど、この子を教えるのは随分骨が折れそうだ。
呆れ気味に私も息を吐いたところで、此花さんが「そういえば」と顔を上げて話し始めた。
「私、雛本さんの絵、見せてもらいました」
「は?」
思いもよらなかった言葉に思わず声を上げるが、彼女は続ける。
「昨日雛本さんが検査で病室にいなかった時に、雛本さんのお母さんが絵を持って来て、内緒で見せてくれました」
「私に言った時点で内緒じゃなくなってるんだけど」
言うと、此花さんは唸り始めた。
「あー、えっと。そうなんですけど。でも、やっぱり伝えたくて。……すごく、綺麗でしたって」
こちらに向き直り、此花さんは真剣な顔で言う。
「私、芸術とか、そういうの全然分からないので、うまい言葉で感想は言えないんですけど……。でも、すごく綺麗でした。何度でも見返したくなるような……。私、感動したんです」
そこまで言って、此花さんはスケッチブックと鉛筆をこちらに差し出すと、頭を下げた。
「だから、もっと雛本さんの絵を見せてください。お願いします」
私はそのスケッチブックをしばらく見た後、しかしそれを手で押し返す。
「……この前も言ったでしょ。私が絵を描く意味はもう無いの。何度も言わせないで」
すると、此花さんはこちらに目を合わせたかと思うと、私の手をものともせずスケッチブックを私の胸に押し当ててきた。
「私が見たいんです。それじゃ理由になりませんか?」
返す言葉を失った。
あまりの強引さに驚いたから。そして、此花さんの目と手にこもる力を感じたから。
——多分この子は、心から本気でそう言ってるんだ。
「……あなた、随分ぐいぐい来るようになったわね」
「ほんとはあんまりぐいぐい行くの好きじゃないですけど……。雛本さんのお母さんによろしくされたので。ぐいぐい行こうかな、と」
「あの人、そんな事まで言ってたの?」
聞いた私に、此花さんは頷き返してくる。
「『真璃と仲良くしてあげて。よろしくね』って言われました」
溜め息しか出なかった。
というか、いつ間にうちの親とそこまでの交流を持つようになっていたんだ、この子は。
私は此花さんに押し付けられたスケッチブックを一旦手に取り、それをテーブルに置いた。
「申し訳ないけど、描く気にはなれないわ」
しかし私はそう告げる。
彼女の思いを感じ、気持ちが動かなかったわけではない。だが、やはり私自身が絵を描く理由にまでは成りえなかった。
私の言葉を受け、さっきとはうってかわって、此花さんは俯き気味になり、沈んだ心を紛らわすようにクマのぬいぐるみを抱き寄せる。
「そうですか……。やっぱり、私なんかじゃ理由にならないですよね」
私は無言で席を立つと、「また明日」とだけ告げ、談話室を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
次の日の午後。私は病院の図書室に足を運び、読書をしていた。
今日此花さんは昼食の後に怪我の具合について色々と診察が入っているらしいので、終わり次第図書室に集合して絵を教えるという事になっている。
そして私は、図書室で木花神社についての本を見つけ、読んでいた所だった。
そもそも私がここに転院してきたのも、木花神社で祀られている『
しかし、木花神社についての話は、どれもこれもいまいち信憑性に欠ける物ばかりだ。
例えば、木花神社を経営する家庭で生まれる第一子は必ず女の子であり、先祖代々第一子が巫女をしている、とか。そのため必然的に、木花神社では夫は婿養子となるそうだ。
また、木花神社で巫女をすることを義務付けられているその第一子には、生まれながらにして不思議な力が宿っており、咲神命の力を一部借りて行使する事が出来るとか。
ただし使い過ぎれば神の供物として捧げられてしまう、とかなんとか……。
……本当なのだろうか。
もしこれが本当なら、あの子にも何か特別な力がある事になるが……。
「……まぁ、あり得ないわね」
そんな力を持つ子供が代々生まれてたとしたら、それはとんでもない事である。とてもじゃないが信じられない。
というわけで話半分という感じに本をめくり進めると、次に木花神社で祀られる咲神命についての話が書かれているページが現れた。
咲神命はそもそも山を守る神様だったらしく、その守っていた山の木は全て桜の木だったそうだ。
山を守って毎年桜の花を無事に咲かせる、という所から転じて、健康や安産、農業、厄除け等々のご利益があるとされているらしい。
——なるほど。この病院の中庭にあれだけ大きな桜の木があったのも、この話にちなんでの事だったのか。
読み進めると、咲神命が持つ力についての伝説が書かれたページに辿り着く。
咲神命はその山を守るために、山の植物が病気にかかれば指の一振りでその病気を全て取り除き、山に何かしら取り返しのつかない致命的な問題が発生した場合に至っては、時を遡りその問題の根源を絶ちに行くという事までやってのけるそうだ。
……もはやなんでもアリである。
しかし咲神命の力が最大限に発揮されるのは、意外にも桜の花が咲いている時期ではなく、桜の木につぼみが付き始めた頃らしい。
それは桜のつぼみを見た咲神命が、そろそろ花が咲き始める時期だからここが正念場だ、と気を引き締めるからだと綴られていた。
そこまで読んだところで、私は静かにその本を閉じた。これ以上読んでも特に得るものは無い気がしてきたからだ。
……まぁ、この咲神命に限らず神様の伝説なんて大体こんな物だろう。
私は席を立ち、本が元あった棚に戻す。
此花さんはまだ来ないようだし、次は何の本を読んで時間を潰そうか。
そう思ってあても無く棚の間を歩いていると、図書室の一番奥の棚に新聞が保管されているのが見えた。
病院のお世辞にも大きいとは言えない図書室のため、町の図書館のように沢山の量が保管されているわけでは無さそうだが、見た感じ一、二ヶ月程度の量はありそうだ。
私はふと此花さんと夕食を食べた日の事を思い出す。
一ヶ月ほど前にあった、高速道路での大きな事故。此花さんの話を聞いて思い出したあの事故の記事を、少し見てみようと思い立った。
左から新しい順に並んでいるようなので、右に指を走らせていく。
恐らくこの辺りだろうという新聞を二、三部引き出してみると、それは簡単に見つかった。
二〇一八年一月二十八日の日曜日。その日の新聞の一面で、例の事故の記事が大きく取り上げられている。高速道路のトンネルから黒煙が立ち上っている写真が載っていた。
読んでみたが、事故の内容としては私が思い出した事と同じである。
事故に遭った人たちの名前などは勿論載っているはずは無いので、新しく得られる情報は無いかもしれない。
……いや。一つあった。
この事故が起こった場所。
隣の県の高速道路だったが、その高速道路が通っているのは、温泉街で有名な町がある市だ。
……確か、此花さんは家族で温泉旅行に行こうと準備しているのが最後の記憶だと言っていた。
もしその行き先がこの場所だったとしたら——。
「雛本さん。お待たせしました」
声にはっとして顔を上げ振り返ると、いつの間にか此花さんが後ろに立っていた。
「新聞見てるんですか? 何か気になる事、ありました?」
そう言って私の手元を覗き込んでくる此花さんから、私はとっさにその面を折って隠してしまう。
そんな私に、此花さんは怪訝そうな目を向けてきた。
「何見てたんですか?」
私はそれを聞こうか聞かざるか数秒迷っていた。
しかし、彼女だって自分の抜け落ちている部分の記憶が気になっていると言っていた。もしこれで思い出せるなら、悪い事ではないのではないか。
「……あなた、最後に覚えてるのが、家族と温泉旅行に行こうとしてた事だって言ってたわね?」
「え? あ、はい。そうですけど……」
突然投げられた質問に、此花さんは不思議そうに答える。
「それ、どこに行こうとしてたか、まで覚えてる?」
聞かれた此花さんは、腕を組み考え始めた。
「えっとー……。……あれ? どこだっけ。全然思い出せない……」
独り言のように言う此花さんに、私は質問を繋げる。
「隣の県にある、温泉街で有名な所だったりしない?」
「……隣の……、県? ……そう、いえば、そう、だった……、気が、する……」
ぶつ切りになっていくその言葉に違和感を覚えながらも、私はとっさに隠してしまっていたその新聞の一面を開くと、此花さんに見せた。
「その温泉街がある市を通ってる高速道路で、丁度あなたが病院に運ばれたって言ってた一ヶ月くらい前に大きな事故があったの」
此花さんはその記事を無言で見つめながら、新聞を手に取る。
「もしかして、この事故に巻き込まれたんじゃないかって思ったんだけど……」
そこまで言い切ったところで、彼女はぶつぶつと何かを呟き始めた。
「……此花さん?」
ぶつぶつぶつぶつ、と。
何を言っているのか聞き取れないほどの小さな呟きが続く。
そしてぐしゃっという音と共に、此花さんが新聞を握りしめた。
「————うぁぁァ……っ!」
それを皮切りに、彼女はこれまで聞いた事が無いようなうめき声とともに膝をつく。
「此花さん!?」
私は訳も分からず彼女の肩に手を置き、その体を支えた。
図書室を利用していた他の患者も、こちらの異変に気付いて近寄ってくる。
「やだ……っ! やだぁぁ……っ!!」
此花さんは一心不乱にそんな事を口にしながら、頭を振る。
「此花さん、落ち着いて!」
状況が理解できないままとにかく此花さんに声をかけるが、彼女の様子は一向に良くなる気配が無い。
「ごめ……っなさい……っ! ごめん、なさいっ!」
そしてそう叫んで私の肩を痛いほどに握りしめた後。
此花さんは力尽きたように私の胸に頭を預けて、その体からは力が抜けていった。
私は必死にその体を抱き抱える。
「……此花さん?」
返事が無い。彼女は完全に意識を失っていた。
「……先生を呼んでください! 誰か!」
——こちらに近寄ってきていた他の利用者にそう必死に訴えかける事しか、今の私に出来ることは無かった。
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