私、美桜のことが好き

 ——ふと気が付くと、視界はオレンジ色に染まっていた。

 そして私はベッドに横になっている。

 ここが夕焼けの色に染まった病室だと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 確か萌姉と話してる時に急に頭が痛くなって……。

 そこで記憶が途絶えているという事は、私はそこで意識を失ったという事だろうか。 

 どうしてそんな突然……。


「美桜」


 不意にかけられた声に、私は驚いて声のした方に頭を動かす。

 そこには、私を心配そうに見つめる真璃の姿があった。

 私はだるい体に力を入れて上体を起こすと、改めて真璃を見る。

「真璃、いたんだね。ごめん、気付かなかった」

 言うと、真璃は安心したように息を吐いて微笑んだ。

「良かった。私の事覚えてるわね」

「? 何言ってるの。当たり前でしょ」

 そういえば萌姉にも同じような冷やかしを受けた気がすると思い出しながら、私は真璃に言葉を返す。

 時間を確認すると、十七時三十七分。そろそろ夕飯の時間である。

 とすると、私が気を失っていたのはだいたい三時間ってところか。

「ごめん真璃。私ちょっと出てくるね」

 声をかけながら布団をめくり、ベッドから降りる。

 もちろん私は萌姉の所に行くつもりだ。

 私が倒れたせいで会話が中途半端に打ち切られたから、もう一度話を聞きに行きたい。

 大丈夫。今度こそ冷静に話す。……話せるはず。


 しかし真璃の横を通って扉の方に歩こうとした私の足は、突然左腕を掴んできた真璃の手によって止まった。

「なに?」

 真璃を見ると、いやに真剣な表情でこちらを見つめている。

 彼女の笑顔ばかり見慣れていた私が気後れするには十分なものだ。

「また萌果さんの所に行くつもりでしょ? ……行かない方がいいわ。また倒れるだけ——、ううん、もっと酷い事になるかもしれない」

 その言葉を聞いた時、私の心がざわつき始めるのを感じた。

「なに、それ。真璃も知ってるの? ……私が知らない事」

 自分でも分かるほど震えている声で尋ねると、真璃は静かに首を縦に振った。

 その瞬間、私は自分が怒りに震えるものだと思った。

 まだ知り合ってから一日しか経ってないけど心の距離をいとも簡単に縮めてきた真璃に、私はすっかり心を許していたから。

 そんな彼女すら私に嘘をついていたのだ。

 当然怒りが沸かないわけがない。


 ——だっていうのに、私の心に広がるのはただ深い悲しみだけだった。

「そっか……。真璃も私に嘘つくんだ」

「違うわ。私はあなたに隠し事をしてるだけ」

「どっちだって一緒だよそんなの!!」

 私は真璃の手を払いのけて声を荒げる。

 いつのまにか視界がぼやけているのに気付き、私は自分の目に涙が溜まっていた事を知った。

 悲しみと一緒に溢れ出す涙はそのまま私の頬を伝っていく。

 真璃は今私が払ってしまった手を、涙を拭うように私の頬に優しく這わせた。

「ごめんね、美桜」

「……謝るくらいなら教えてよ。お母さん、今どこにいるの?」

 喉からひび割れたような声が出る。

 私の頬に触れている真璃の手を握ると、真璃も私の手を握り返し、ぐいっと引っ張ってきた。

 私は促されるまま体を折り、真璃の顔に私の顔を近づける。

 真璃はそのまま顔を突き出し——


 ——そして、私の唇と真璃の唇が重なった。

 

 完全に虚をつかれた私は、何が起こっているのか理解できなかった。

 私の体は突然の事に声も出ず、払いのける事も出来ず、ただその数秒を受け入れている。

 時が止まったかのようなその数秒は、真璃が私から顔を離したことによって唐突に終わりを告げた。

 そして、たった今私の唇を奪ったその口から、声がする。


「私、美桜のことが好き。大好き」


 流石の私も、ここまでされた後にこの言葉を聞いて意味を取り違えるほど馬鹿ではない。

 頬にキスをされるとか、そういうレベルではなく。

 これは、間違いなく愛を伝えるための告白に他ならなかった。

 だからこそ、私の頭は混乱する。

「……私、女だよ?」

「知ってる」

 混乱する中で精一杯ひねり出した言葉を、真璃はあっさり返してくる。

「こんなの、良くないよ」

「どうして?」

「だって——……」

 言葉は続かなかった。

 真璃がその隙に割り込むように口を開く。

「美桜は私のこと少しも意識しなかった? 私と過ごした時、私に何も感じなかった?」

「それは……」

 無いと言えば嘘だった。

 私は真璃の起こす行動にいちいちドキドキしていたし、真璃の事を心から可愛いとも思った。

 ……だから何だというのか。

 そんなのは他の人がしないような事をしてきたから驚いただけだし、可愛いと思ったのもただの容姿の問題だ。

 会って二日目の、しかも自分と同じ女の子を、私が好きになるなんて、考えられるわけがない。

 そんな事は絶対にありえない。


 私の瞳から再び涙が落ち始める。

 しかし、今やそれは悲しみじゃないを吐き出す物になっている事を、なんとなく私は感じ取っていた。 


 私はそれに気づかないふりをして、必死に言葉を絞り出す。

「女同士だし……、それに私たち知り合ってからまだ一日しか経ってないし……、おかしいよ……」

「私はあなたの事を一年前から知ってるもの。同性っていうのはさておき、好きになる時間としては十分よ」

「それは私がずっと寝てた時の事じゃん……! そんなのただ知ってるってだけで、好きになる理由にはならないでしょ!」 

 またもあっさり返してくる真璃の言葉を、私は震えながらも語勢を強くして否定した。

 そんな私から真璃は一切目を逸らさず、しっかりとした口調で諭すように言う。

「ううん、違う。私は美桜とちゃんと言葉を交わして好きになった。ちゃんと美桜と一年過ごして、時間を積み重ねて好きになったの……っ」

 ——真璃の言うことが、私には理解できなかった。

「……なに言ってるの?」

 聞いた私に、これまですぐに言葉を返していた真璃が、急に顔を伏せて黙り込む。


 ……いや、黙り込むというよりは何かに耐えているような……。

 よく見るといつの間にか真璃の両手は、車椅子のひじ掛けの部分を爪が真っ白になるほど強く握りしめていた。

 表情が見えない真璃の口から、「はっ、はっ」と空気が漏れるような息遣いが聞こえる。

「真璃……?」

 真璃の様子がおかしい事にようやく気付いた私がそう声をかけたと同時に、真璃は息を大きく乱しながら両手で抉るような勢いで胸を押さえ始めた。

「真璃!? どうしたの!?」 

 今までの会話の流れなど忘れ、私は真璃の横に膝をつく。

「……っ! ——……ぅっ!」

 声にならない声を漏らしながら苦しむ真璃に、私はどうすることも出来ず慌てて周りを見る。

 そうだ、ナースコール!

 視界に捉えたそれに手を伸ばした途端、制止するかのように真璃がその手首を掴んできた。

「ごめ……っなさい。私……っ! こんな……つもりじゃ……っ!」

「いいから!!」

 苦しみの中言葉を紡ごうとする真璃を黙らせるように声を出し、私は手を伸ばそうとする。

 しかしどこからそんな力が出ているのか、私の手を掴む真璃の手はそれを許してくれない。

「私は……、美桜……っ、を、苦しめるために……、隠し事、してるわけじゃ……っ! ない……の……、しん、じて……」

「分かったからっ!!!!」

 なおも手を離さず、真璃は続ける。

「美桜が、……好きだからっ————…………」


 その時、真璃の体からふっと力が抜けた。

 私の手を恐ろしいほどの力で掴み続けていた手も、ぱたりと落ちる。

「……真璃? ……真璃!!」

 今度こそ私は無我夢中で、祈るようにナースコールを押し込んだ。



          ◆ ◆ ◆ ◆



 看護師さんと先生に運ばれていく真璃に出来ることは、私には無かった。

 じっと、目の前に出された夕食の野菜炒めを見つめる。

 喉を通るわけがない夕食とにらみ合いを始めて、かれこれ十五分ほどが経過していた。

 そして考える。

 

 ——私は真璃に告白された時、なんでと思ってしまったんだろう。

 

 あの時私の心はどうしてしまったんだろう。

 真璃の告白を頭では否定しているはずなのに、心が受け入れようとしていた。

 まるで私の頭と心が別の生き物になっているかのようで。

 私は自分で自分が分からなくなっていた。


 コン コン


 扉がノックされた音がして、ゆっくりと扉を見据える。

 返事はしなかったがその扉が開かれて、姿を現したのは萌姉だった。

「萌姉……。真璃は?」

「今は安定してるけど、しばらく面会は無理かもしれない……。病室も移されるって」

 深刻な声色で言いながら、萌姉は私の横まで歩いてきた。 

 そして手の付けられていない夕食を見ると、箸を持って私に差し出してくる。

「心配なのは分かるけど、食べないとみぃちゃんまで元気無くなっちゃうよ」

 私はそれを見ながら、しかし受け取らない。

 代わりに、言葉を投げた。

「真璃が言ってたの。私と一年ちゃんと過ごして、言葉を交わして、時間を積み重ねたって」

 こちらに箸を差し出していた萌姉の手が戻る。

「萌姉……。私、一年間意識不明だったんだよね……?」

 聞きながら萌姉を見ると、萌姉はそっと目を逸らした。


 ——ああ、またこれだ。

 お母さんの事も、私自身の事すらも、私は嘘をつかれてるんだ。


 私は箸を持つ萌姉の手を握って、口を開く。

「教えてよ、お願いだから……! お母さんの事でも何か隠してるのは分かってるけど、自分の事くらいはちゃんと自分で分からせてよ……!」

 しかし私の必死の懇願は届かなかったのか、未だ萌姉は目を逸らして黙り込んだままだった。

「どうして——っ!」

 そしてまたも声を荒げそうになった瞬間、病室の扉が開け放たれた。

 見ると、そこには私が昨日目が覚めた時に色々対応してくれた先生が立っていた。

「すみません、外から会話が聞こえてしまいました」

 言いながら、先生は私の元まで歩いてくると、言葉を続ける。

「此花さん。あなたの事は、私が説明しましょう」

「先生!?」

「良いんです。雛本さんが望んでいます」

 先生の言葉に驚いたように声を上げた萌姉だったが、真璃の名前を聞いて口を噤んだ。


 そして先生は、おもむろに私の前に数冊の小さめのノートを出す。

 それは、私が先生に渡された日記帳と同じものだった。

「これ、日記帳……?」

「そうです。是非、中身を確認してみてください」

 先生にそう言われ、私は数冊の内の一冊を手に取り、適当に開いてみる。



 ————そこには、明らかに私の字で書かれている、二〇一八年五月三日の日記があったのだ。



 

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