何かを感じたのかもしれないわ
夕食を摂った後真璃は自分の病室に戻り、私は病院のシャワーを貸してもらってさっぱりしてから、一人ベッドテーブルの上で日記を書いていた。
「……これでよし、と」
目覚めたら一年と二ヶ月ほど経っていた事。
真璃と出会ってすぐに仲良くなった事。
そんなことを書き記し、私は日記帳を閉じた。
さて、病院の消灯時間まではまだ時間がある。
早めに横になるか、テレビでも見て時間を潰すか。
「まぁ、とりあえずトイレかな」
良い子は寝る前にトイレに行くものだ。
私はスリッパを履くと、トイレに行くため病室の扉を開ける。
廊下に出ると、肌寒い空気が漂っていた。
私はトイレに向かって廊下を歩き始めたが、その少し先に誰かが立っていることに気が付く。
見ると、髪をツインテールに結び、フワフワの白いコートを着た女の子が立っていた。
今日談話室から出ようとした時に私と真璃を見ていた子だ。
その子はその時と同じように、こちらをじっと見つめている。
何か私に用事でもあるのだろうか。
しかし、もしそうだったら見てるだけじゃなくて話しかけてきそうなものだが。
私はそのまますれ違おうか迷ったが、やはり気になったので声をかけてみる事にした。
「あの、私に何か用かな?」
すると、その子は相変わらず私の顔を見つめながら、ポツリと呟く。
「……此花美桜、さん」
名前を呼ばれた私は、「うん」と頷いた。
「あなたの名前は?」
そしてそう聞くと、その子が早足にこちらに近づいてきた。
私は少し驚いてつい後ずさってしまう。
しかしその子はその勢いのまま私の目の前まで距離を詰めると、なんと私の首に両腕を回してきた。
「わっ……」
思わず声が出たのと同時に、私はその子に抱き寄せられる。
「えっ? な、なに?」
突然の事にびっくりしたのも束の間、その子はさらに鼻からすうっと息を吸い始めた。
「!?」
首元に起こった急激な空気の流れに、体がビクリと反応してしまう。
これ……、匂い嗅がれてる!?
「ちょ、ちょ、ちょ! ちょっと待って!!」
あまりの恥ずかしさと衝撃で考えるより先に手が動き、私はその子を両手で突き飛ばしてしまった。
その子は倒れこそしなかったものの、突き飛ばされた勢いで後ろによろめき、俯いて廊下の壁に手をつく。
「ご、ごめんね。でもその……、びっくりしたから……」
強張る体を落ちつけながら、私は一応突き飛ばした事を謝罪した。
でも申し訳ないが今のはこの子が悪い。
急にあんなことされたら、思わず手が出てしまってもおかしくないだろう。
するとその子は壁から手を離し一旦顔を上げるも、すぐに伏し目がちになって口を開いた。
「あの……、急にごめんなさい。わたし……、えっと、——
その声は切羽詰まったように震え、手は何かを我慢するかのようにスカートの裾をギュッと握っている。
状況は呑み込めないが、どことなく心配にさせてくる雰囲気だ。
「咲……さん?」
「咲でいいですっ」
食い気味な返事が返ってくる。
「うん、咲だね。大丈夫? ちょっと落ち着いて——」
「また会いに来ますっ!」
話しながら近づこうとすると、咲と名乗ったその子は、そう言い残して走り去ってしまった。
「あ、待って」
呼び止めようとしたがその猶予は無く、咲は階段のむこうに消えてしまう。
「なんだったんだろう、あの子」
また会いに来るって言ってたけど……。
ものすごく緊張していたようだった。
私も最初こそびっくりしたものの、あの様子を見ていると、気がかりな気持ちの方が勝ってしまう。
「次は落ち着いて話せるといいなぁ」
そう願いつつ、私は当初の目的通りトイレへと足を動かし始めた。
◆ ◆ ◆ ◆
「へぇ。不思議な子ね」
次の日朝食を食べて朝の回診が終わると、私の病室に真璃が訪ねてきたので、昨日の咲という女の子の事を話していた。
私はベッドの端に腰かけて、車椅子の真璃と向き合うように座る。
「でしょ? 私服だったし、入院してる子ではないと思うんだけど。真璃は何か知らない?」
聞くと、真璃は人差し指を顎に当てて考える仕草をする。
「んー。同じような歳の子を見かけたら覚えてると思うんだけど。心当たりは無いわ」
「そっかー」
「私もここに一年くらい入院してるけど全然見かけてないって事は、この病院に顔を出すようになったのは最近なんじゃないかしら」
「一年?」
そういえば、真璃がここに転院してからどのくらいなのかはまだ聞いていなかった。
一年というと、私が意識不明になって入院し始めた頃に真璃もここに転院してきたのだろうか。
質問してみると、真璃は頷く。
「そうね。私が来たのは去年の二月だから、この病院に入院し始めたのは美桜の方が少し早いけど」
「そうだったんだ」
私は本当にここに一年いたのだと改めて実感したのと同時に、少し考えてもう一つ質問を追加した。
「その間、真璃の病室ってずっと私の隣だったの?」
「ええ。それは今日までずっと変わってないわ」
私が意識不明の間ずっと私の隣の部屋にいたんだ……。
なら、真璃は私のお父さんだけではなくお母さんも見ているかもしれない。
「ねぇ真璃。昨日、私のお父さんとよく顔を合わせてたって言ってたけど、お母さんとも顔を合わせたの?」
それを聞かれた真璃は、唸り声を上げ始めた。
「えーっと……。んー、おじさんとは会ってたけど、美桜のお母さんは見たことないわ」
「え……、そうなの?」
少し。——いや、明らかにおかしい。
お母さんは県外に行っているとお父さんは言っていたが、一年もの間遠方に行くなんてどう考えても不自然だ。
それとも、真璃が偶然お母さんとだけ会ってないなんて可能性は考えられるだろうか。
いや、それもあまり現実的な考えではない。
では、お母さんは私のお見舞いにも来ないでどこで何をやっているのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の中がざわついていくのを感じた。
呼吸が浅くなっていく。
心臓の音が速くなる。
なんだろう。
なんか、頭、痛——
「美桜」
声がしたと思うと同時に、私は手を引かれていた。
踏ん張る余裕を持っていなかった私は、そのまま前に倒れこむように上体が傾き、真璃の胸に顔をうずめる形になる。
「美桜。大丈夫よ。ゆっくり、息を吸って」
「真、璃……」
「大丈夫」
言われるまま、私はゆっくりと深く息を吸い込む。
(真璃の、匂い)
安心するその匂いを感じながら満たされた肺の中身を、今度は少しずつ吐き出した。
その間、真璃は赤子をあやすように私の背中を優しく叩いてくれている。
何度か肺の空気の循環を繰り返すと、頭の痛みは徐々に引き、浅くなり始めていた呼吸も元に戻っていた。
私が落ち着いてからも、真璃はしばらく私を抱き寄せたまま背中をさすってくれる。
私の頭は一旦冷静さを取り戻し、今の自分の状況を再認識すると、今度は別の意味で心拍数が高まるのを感じた。
——なんか、私昨日から抱きしめられてばっかりだな。
「真璃? もう大丈夫だから」
心臓の音が大きくなる前に離れようと真璃の肩に手を置く。
しかし真璃は私の頭から手を離さず、顔を私の髪にうずめていた。
……あれ? これって……。
「美桜、良い匂い」
匂い嗅がれてる!!
「真璃ぃ!?」
私はもう我慢できず頭を上げて真璃から離れる。
真璃は充実したような笑顔を浮かべて私を見た。
「美桜の匂い、私大好きだわ」
恥ずかしい!
いや、その前に私も思いっきり真璃の匂い嗅がせてもらったからおあいこなんだけども!!
「美桜が話してたその咲って子も、美桜の匂いが好きで、嗅がせてもらいに来たのかもしれないわね。それにほら、脳と匂いって深い関係があるっていうし。美桜の匂いに何かを感じたのかもしれないわ!」
「ええー……?」
真面目なのか冗談なのか分からない真璃の言葉に、私はどう返していいのか分からなくなるのだった。
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