丹生川にゅうかわが注ぐ宮川は南から北上して流れてくるが、それを上流へとさかのぼって行くと、やがて位山くらいやまは見えてくる。周りの山々と肩を並べ、際立って高いというわけではない山だ。

 宮川は、その位山を水源としている。

 丹生川と宮川の合流点付近はちょっとした盆地だが、上流へと南下するにつれて川は渓谷となる。水面からは川底が透き通って見え、水ははいくつもの岩にぶつかりながら流れてくる。そのまま約半日くらい歩くと突然視界が開けて、再び小規模な盆地に出る。その向こうにそびえているのが位山だ。

 空はよく晴れていた。

 鍾乳洞で両面宿儺りょうめんすくなの話を聞いて以来、スクナは位山のことが気になっていた。なにしろ両面宿儺ゆかりの山だ。この山で両面宿儺が、大倭やまとの初代大王おおきみ磐余彦いわれひこに位を授けたという。それがいったい何を意味するのか……分からない。分からないだけに気がかりだった。行ってみたら何かが分かるかもしれないという思いが、スクナに今その足を運ばせている。

 登り口はすぐに見つかった。なだらかな坂道だ。灌木かんぼくの間を登るうちに、スクナの額からは汗が吹き出てきた。それでも高度が増すにつれ、日玉の国の山々が波のように幾重にも重なって広がる光景が眼下に展開し、彼は十分に目を楽しませることができた。山並みの向こうには、祈座岳のりくらいたけの白い連峰がどっしりと横たわっている。

 かなり登ってから、急に平らな土地に出た。あまりに平らなので、あれほど苦労して登った山の上とも思えないほどだ。今までの灌木林は途絶え、平らな広場は一面の熊笹で覆われていた。ここが山頂らしい。

 ちょうど飛騨盆地の真中心で、四方すべての方角が遮るものなく見わたせる。祈座岳の反対側の方角の遠くにも、祈座岳と同じような連山が見えた。木曽の御嶽山だ。すぐ隣の船山も、位山と同じくらいの高さで並んでいた。

 スクナは、ここへ来るのは初めてだった。村でも、この山は邪心を持って登れば大雨に打たれるといわれ、人々はあまり近づかない。ところが今は、空は晴れている。

 広場の一角に巨石があるのを、スクナは発見した。直方体の巨石が二つ段状に重ねられており、何やら祭壇のようにも見える。近寄ってみると表面には彫り物すら施されており、明らかに人工の手が加わっていることも分かる。周りに目を転じてみると、あちこちに同じような巨石が点在していた。

 これがあめ磐座いわくらかと、スクナは思った。昔は神々を祀るのに巨石を集めて磐座というのを造り、それを神霊の依代よりしろにしたと聞いている。あるいはこの山全体が、巨大な神殿または御神体なのかもしれない。

 そのようなことを考えているうちに、彼は不意に気候の異変に気がついた。濃霧が出てきたのだ。あれほど晴れていたのにたちまち何も見えなくなり、空の太陽があったあたりだけボーっと明るく見えた。

 その時、太陽とは別の一角に閃光が放たれた。瞬く間にそれは、スクナにぶつかるように近づいてくる。そしてその中から、宙を飛来する巨大な大蛇が姿を現わした。スクナは目を見開いたまま、立ちすくんだ。頭がクラッとする。

 次の瞬間、彼の意識は宙に浮いていた。すぐ目の下の巨石の脇に、もう一人の自分が倒れているのが見える。何がなんだか訳が分からないうちに、彼の意識はしっかりと黄金の光を放つ大蛇にまたがっていた。

 雲をかき分け、大蛇は飛行する。位山を中心とした盆地全体が、雲の切れ間から遥か下の方に見えた。

 大蛇は川沿いに南下しているようだ。川は宮川とは違う川で、南に行くにつれて下流となる。同じ位山から発した川ではあっても、北と南へとそれぞれ流れていく川があるようで、いわば位山が分水嶺となっているようだ。

 地形はどんどん後ろへ飛んでいく。山がちだった国土にも、次第に平野が広がるようになった。もう美濃の国だろう。これだけの速度で飛行しているのだから本当なら顔に強風をまともに受けるはずだが、風は全く感じなかった。

 大蛇の高度が、すこし落ちた。

 その時、彼は見た。平地という平地に、軍勢が充満していた。新羅風の甲冑から、難波の軍勢であることは間違いない。軍勢はゆっくりと北上している。

 官吏どころか、難波はいきなり軍勢を差し向けてきた。それがもう、こんな近くまで来ている。スクナは思わず背筋が寒くなった。そして思わず、大蛇の黄金の鱗の一つを必死で握りしめていた。

 その次の瞬間には、彼の意識は再び位山の山頂に倒れていた自分の肉体の中へと戻っていた。


 宮川は別名を安川ともいう。特に位山付近では、水は小石ばかりの河原の下に一時地下水となってもぐり、いわば伏流水となるので水無川みなしがわとも呼ばれている。それが下流に行って日本海に注ぐ頃には、神に通じる川ということで神通川となる。

 なぜ宮川といい、神通川というのか……。スクナがその理由をはっきり知るのは、位山から村に戻った時であった。

 人々は丹生川の河原に集まって、大騒ぎをしていた。

おさが戻った!」

 一斉に駆け寄ってくる村人たちの、どの顔にも歓喜が満ちていた。

「長! お待ちしとっただ。実は」

 若いモリワケが、先頭を切ってスクナに言った。スクナも思わず歩みを止める。

「実は?」

 今自分は、この国に迫り来つつある難波の大軍を見てきたばかりだ。村人たちがなぜ喜んでいるのかも分からないし、それを受け止める心の余裕もスクナにはなかった。村人たちは、そんなスクナの心を知らない。

「長! 長が洞窟から持ち帰ったあの巻物の、文字を読める人がおったぜな」

「なに? あの巻物の?」

「あの文字は外国とつくにの文字じゃあなかったのやざあ」

「どういうことや?」

 とにかくスクナは、人々を河原の石の上に腰掛けさせた。その周りに人々は車座になって座り、さらにその周辺をも村人が総出で囲んでいた。人々は一斉に口を開く。

「いいかの、長!」「そう、あの文字」「あの文字は……」「昔、この国は」

「おい!」

 たまりかねてスクナは叫んだ。

「そうみんなして一変にしゃべったら、訳が分からなくなるやろ。誰かが代表して言ってんかなあ」

 ヌカチがうなずいて、真っ先にしゃべりだした。

こしの国から来たあの爺さんやさ。日輪のやしろの」

「ああ、あのひげの長い」

「そや。あの爺さんが、巻物をすらすらと読んだんやさあ。この文字は磐余彦大王いわれひこのおおきみ様の時よりも前からこの倭国にあった文字で、天越根文字あめのこしねもじというそうやさあ」

「そんで?」

 思わずスクナも、気をもんでしまった。

「この日玉の国は、大昔に万国の政庁があった所やそうやさ」

 そうなると確かに、死んだ爺が言っていたこととも話しのつじつまが合う。

「それで、なんと昔には越の国に皇祖皇太神宮すみおやすみらおたましひたまやという巨大な黄金神殿があって、全世界から五色人類が参拝に来ていたということなんやさ」

「昔って?」

「もう千年も万年も前の話やそうで、そのころ世界は一つの国で、その都があったのがこの日玉の国だったというんやさ。つまり日玉は世界の神都で、ご聖地なんだということやさあ。その当時に世界を治めておられたスメラミコト様という大王は空を飛ぶ天の浮舟に乗って、全世界を御巡幸されたと。ほかにもスメラミコト様は、全世界の様子が一目で分かるという鏡も持っておられたとか」

「そんな、夢のような」

 スクナばかりでなくそこにいた人々も皆、口をつぐんでヌカチの説明を聞いていた。

「その黄金神殿ですがな、その奥宮があったのがこの日玉の国の位山だったということやさあ」

「え? 位山?」

 スクナは目を見開いて、それから何度もうなずいた。

「それであの川は宮川と呼ばれ、下流は神通川になるのか」

 スクナの脳裡には、位山で見た祭壇石や巨石群の光景が蘇った。

 そこで、モリワケが立ち上がった。

「この国はただの国やない! 超太古に神様が天降あもられた御聖地で、世界の神都なんやさ」

「そやぞ!」

 と、叫んで、別の者も立ち上がった。さらにヌカチは話し続ける。

「そればかりやない。巻物によれば、我われのこの日玉の国こそ全世界の人類が創られた人類発祥、五色人ごしきじん創造の聖地、もとつ国、現界の高天原たかあまはらだっていうんだ」

「そしゃ我われのこの国が、三韓から来た占領軍にすぎない難波の朝廷の支配下に置かれてたまるものか!」

「御聖地を守るんや! 世界の神都を守るんや!」

 また一人、そしてまた一人と人々は立ち上がった。その声は大きなシュプレヒコールとなって、夕闇が迫り始めた河原に響く。スクナもゆっくりと立ち上がった。

「いいか、みんな。難波の軍はもう、美濃まで来とるぜな。大軍やさ」

 スクナのひと言に、シュプレヒコールはどよめきとなった。中には叫びともつかない声を挙げているものもいた。

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