新選組脱走録

John B. Rabitan

1

 「殺される!」

 と、弥市は思った。

 実際は思っている暇もなく、つい昼間まで朋友だった男の白刃が、自分めがけて振り下ろされてくる。重い刀で弥市は、必死でそれを受け止めた。相手は剣法どころではなく、盲滅法ただの金属の棒として刀を振り回している。

 つばぜりあいの内に、月の光の中で目が合った。相手の、平八郎の目は怯えていた。腰も震えている。吐く息が白い。

 平八郎の目は、逃がしてくれと訴えていた。弥市はそれに応えてやりたかった。しかしまわりにはもう自分と同じ、浅葱あさぎ色の羽織を着た一団が平八郎をとり囲んでいた。


 ――新選組へ入れば、武士になれる――

 美濃大垣在の百姓の末弟の弥市がそんな噂を耳にして京へ上ったのは、元治元年も末の頃で、兄夫婦の目を盗んでの、十八歳での単身上洛だった。

 弥市は武士になった。

 生まれてはじめて差す二本差しが重く、始めは歩行にさえも困難を感じた。歩くたびに袴がずり落ちそうな気もした。苦心の末、岩田という姓もようやく考えた。新選組に入り、晴れて苗字帯刀となったのだ。

 幼い頃から、彼は武士に憧れていた。百姓など、男の一生の仕事だとは思っていなかった。だから親には内緒で近所の百姓相手の、田舎剣法の剣術道場に通ったりした。その道場で木剣を振るうち、どうしても本物の刀を握りたくなってきた。

 もちろん刀は人を斬るものだと、頭ではわかっていた。しかし感覚としてはマヒしていた。三百年の泰平が、マヒをもたらしていた。だが、彼の郷里は別として江戸や京・大坂は、すでに泰平の眠りからは目覚めていた。その動乱がやがて彼の郷里へも、夢を現実にする話を運んできた。彼の道場へ、新選組隊士募集の激文が来たのである。

 新選組に同期に入隊したのが、大塚平八郎だった。彼は弥市より二つほど長じていたが同期ということで気心が知れ、他に舟戸欽助という者と共に、常に三人で行動を共にしていた。この頃、局長の近藤が江戸に下向し、新隊士五十名ほどを連れて帰京していた。平八郎も欽助も、その五十名の中の東国出身の武士だった。


「どうも拙者は最近、新選組が恐くなってきたんだ」

 屯所の近くの壬生川のほとりに並んで座って、平八郎がぽつんとつぶやいたのは、年の瀬も押し迫った頃だった。欽助は市中見廻りに出ていて今日はいない。

「え?」

 と、いうような表情を見せた弥市に横顔を向けたまま、平八郎はしゃべり続けた。

「生きていけるのかなって。ここにいたら生きていけないんじゃないかって、なんだかそんな気がするんだよ」

「また、なあにを。入ってからまだ半月もたっとらんやないですか」

 弥市は笑った。

「それにおらもそうやけど、あんたも自分の意志で志願して入隊したんやら」

「それはそうだけどねえ、でもきっと殺されるよ、ここにいたら」

 平八郎は小石をぽんと、小川へ投げた。

「おい、何をしてるんだ!」

 背後で声がした。剣術指南の幹部の斎藤が立っていた。

「何か問題でも起こったのか」

「あ、あの、いえ、その、何でもありません」

 詰問をするような斎藤の口調に、二人は慌てて立ち上がった。この時平八郎は斎藤が本当に恐ろしいという風で、微かに震えているのを弥市は見た。


 翌年早々、副長助勤でもあるその斎藤から、弥市にとってはじめての出動命令が出た。新選組の屯所は坊城綾小路角の前川家と坊城通り西側の八木家とに分かれており、幹部の多くは八木家にいた。夜になって斎藤をはじめとする副長助勤が二、三名、裏木戸より前川家へ入って来て、寝ていた弥市たちを起こした。

「大塚平八郎が脱走した」

 斎藤は庭の半月の月明かりを背に縁側に立って、布団の上に跳ね起きた隊士たちに告げた。

「平さんが……」

 弥市は口をぽかんとあけていた。さらに斎藤は淡々と続けた。

「追っ手は沼尻、田村、金井、岩田、それから三品、古川。すぐに行け。俺も行く!」

 弥市の名も入っていた。辞退は許されない。すぐに行灯の明かりがともされ、指名された者達は無言のまま、布団の上で素早く着替えをした。

 弥市は複雑な心境で、浅葱のだんだら羽織を着た。外へ出ると冷気がぴーんと肌を刺した。平八郎が行ったと思われる東へと四条通りを走る間、弥市は心の中で、

「平さん! 平さん!」

 と、叫び続けていた。


 ――新選組局中法度書――

  一、士道ニ背キ間敷事まじきこと

  一、局ヲ脱スルヲ不許ゆるさず

  一、勝手ニ金策致不可いたすべからず

  一、勝手ニ訴訟取扱不可とりあつかふべからず

  一、私ノ闘争ヲ不許ゆるさず

  右条々相背候者あいぞむきさうらうもの切腹申付ベク候也。


 力をこめて弥市は、平八郎の刀を押し返した。均衡を失って、平八郎はよろめいた。ここで踏み込めば、全くあいている面に打ちこめる。しかし弥市は刀を振り上げただけで、それ以上はからだが動かなかった。彼の胴もあいている。

 別の者が平八郎に踏みこんだ。悲鳴とともに血しぶきがあがった。それが弥市のだんだら羽織にも飛んだ。頭が微かにクラッとした。それでも平八郎は刀を放さず、よろける足で地を踏みしめていた。そして無やみに刀を振り回す。それにあたる者は誰もいない。平八郎はすっかり白刃の輪に囲まれていた。

 斎藤が懐の中で腕を組んだまま、包囲の中に入った。

「大塚平八郎! 隊規により切腹を申しつける。武士らしく堂々と最期を飾れ」

 斎藤の「武士らしく」のひとことが弥市の胸を襲い、彼はもう一度軽い目まいを感じた。

 平八郎は観念したようで「武士らしく」刀を逆さに持ち、自らの腹を突いた。うめき声は同時にあがった。

「岩田! 介錯!」

 斎藤が叫ぶ。弥市は放心したままだ。

「岩田!」

 動かないからだを無理やりにでも動かさないわけにはいかない。平八郎は腹に刀を当ててうずくまっている。その背後にまわり、刀を振り上げた。白刃は月光に光り、限りなく重く感じられた。手は小刻みに震え、目の前の平八郎の背も震えていた。

「岩田、早くしろ!」

 斎藤の怒号がまた飛ぶ。

「は、は、はい!」

 心とは関係なく、弥市は鉄の棒で平八郎を殴りつけた。刃は平八郎の後頭部にめりこんだ。

 血しぶきがあがり、ギェーという絶叫とともに、平八郎の武士らしい最期の姿は崩れた。弥市は力をこめて平八郎の後頭部に半分めりこんでいた刀を抜き、もう一度殴りつけた。今度は背中に当たった。平八郎は腹に刀を刺したまま地を転がり、仰向けになってもがき叫んでいた。

 次のひと太刀は弥市自らが下したのか、別の誰かの助太刀か、弥市にもわからなかった。ただ、気がつくと平八郎の首はきれいに胴から離れ、弥市の刀は地にのめりこんでいた。

 斎藤が平八郎の首のない遺体を、近くの草むらへ蹴り入れた。その時弥市に、言いようのない恐怖感が襲ってきた。

 帰途、何度も弥市は、自分の手を見ようとした。しかし見られなかった。胸は激しい鼓動を打ち続けていた。

 人を斬った。自分の手で、はじめて人を斬ってしまった……歩きながらも全身が震えた。まわりの仲間は何事もなかったように、雑談をしながら歩いている。

 壬生の前川家の屯所に着いてから、庭で隊服の羽織を脱ぐと、その浅葱色にはほとんど血の茶褐色の紋様がついていた。

 斎藤が寄って来た。

「この羽織が血に染まっていくたびに、一人前の新選組隊士になっていくんだ」

 斎藤はうっすらと笑っていた。黙って、弥市は目をあげた。

「大塚は武士として、最もみっともない死に方をしたな」

 斎藤は吐き捨てるように言ってから、八木邸の方へ行ってしまった。その背中が弥市にとって、小憎らしくもあった。

 そのあと再び寝床に入ってからも、弥市は全身の震えが止まらなかった。

 人を殺してしまった。その事実に彼は怯えた。人は案外、簡単に死ぬものだなとも思った。ついこの間まで常に自分と行動を共にしていた平八郎が、もう死んでこの世にはいないのである。

 平八郎の笑顔が、言葉が、仕草が、今でも弥市の中では鮮明だ。しかし、その命を絶ったのも自分なのだ! 弥市は人知れず、布団の中で平八郎に詫びた。その夜はとうとう朝まで、一睡もできなかった。


 新選組はたしかに武士の集りだ。しかしそれは弥市がかつて持っていた武士の印象とは、かけ離れていた。だがある意味では印象どおりだった。

 前川家は母屋の南側に、中庭をはさんで瓦屋根も高く蔵が二つある。土蔵ではなく木造の蔵だ。そのうち入口が東向きの方のが剣術の稽古場で、隊士たちは市中見廻りがない日は、非番でない限りこの蔵で剣術の稽古を受けるのが日課となっていた。

 まわりは本物の武士たちだ。彼等の流儀もまちまちだから、秩序だった稽古もできようはずがない。全員が紅白に分かれての打ち合いが、毎日の稽古の内容だった。しかも普通の竹刀ではなく、人の腕ほどもある太い木刀を使う。それだけなら弥市にとって、さほど音をあげるようなことではない。

 弥市が入隊して稽古で最初に驚いたのは、型どりであった。剣術型を二人でエイ、トーとやるのはどこの剣術道場でもやっている。一応目録まではもらっている弥市だから、それはお手のものだ。しかしここではそれを竹刀でも木刀でもなく、真剣でやらされた。ひとつ間違えたら例えば篭手でも、本当に相手の腕を斬り落としてしまう。

「いいか! ここでの稽古は、剣術試合に勝つためのもんじゃねえ。あくまで実際の斬り合いに強くなるためのものだ。だから町の剣術道場でやっている稽古とは訳が違う。おぬしらは一応目録以上の者だということで採用した。中には免許皆伝の者もいるだろう。しかしここではおぬしらが今まで習い覚えた、おぬしらの流儀流派での技は一切忘れろ!」

 稽古の初日に、剣術指南方の大幹部の永倉が、たしかそう説明していた。

 弥市がはじめて真剣での型をやった時、刀の重さに耐えられずに、過って相手のすねを斬ってしまった。幸い傷はかすり傷だったが、その場に永倉がいた。

「馬鹿野郎ーッ!」

 ものすごい怒号とともに、弥市は足を払われてその場に倒れた。面をとるといきなり永倉の鉄拳が、四、五発とんできた。倒れたまま弥市は、永倉を見上げた。永倉はもう背を向けて、稽古をしている別の人の方へ去ろうとしていた。

 二、三日後、床に入った弥市は、その日も稽古日だったのでからだじゅうの節々が痛く、なかなか寝つけないでいた。

 同室で雑魚寝している他の隊士の寝息が聞こえ、時には激しいいびきが闇をつんざいたりする。

 弥市は郷里を想った。自家の畑を想った。しかしいくら想ってもそれらは自分が捨ててきたものだし、それにここは京なのだ。

「集まれーッ!」

 突然庭の方で叫び声がして、拍子木も激しく打ち鳴らされた。もう丑の刻だろう。古参の隊士は心得ているらしく、慌てて布団からとび起きて身仕度をしている。

 弥市が何事かと思っていると、隣で寝ていた吉村という隊士が耳元でささやいた。

「夜間稽古だよ。よくやるんだ、これ。急がないと叱られるぞ、岩田さん」

 ここではどうも、隊務に昼夜の別はないらしい。とんでもない所に来てしまったと、ふと弥市は身仕度をしながら思った。

 闇間の庭に整列させられた隊士たちの前に、剣術指南方で副長助勤筆頭の沖田が立った。幹部の中ではかなり若そうだ。灯火に顔を赤く照らして、沖田は言った。

「これから皆さんに、紅白に分かれて打ち合いをして頂きます」

 もちろん不平を言えるような雰囲気ではない。最初の打ち合いとなった二人に渡されたのは、真剣だった。刃止めはしているらしい。それでもまともに打たれたらたまったものではない。

 打ち合いが始まった。最初のひと組の紅軍は、今までよほど剣の腕を磨いてきた者のようだ。型に筋が入っている。何の流派かはわからないが、免許皆伝までいっているだろう。その者の打ち合いを、沖田は手をあげて止めた。

「すり足をしちゃあだめですよ。普通に歩くんです。実戦ですり足をする人なんていないでしょう?」

 幹部の中では珍しく愛想のいい沖田は笑って言ったが、それでもその瞳に切れるようなすごみを弥市は感じた。

 寒さに震えているうちに、弥市の番になった。真剣を構えてもまだ震えている。

 みごとに面を入れられた。竹刀でさえ面篭手を着けないで打たれれば、そうとうまいるものである。刃止めをした真剣での面を喰らった弥市は、とうとうその場に倒れて意識を失ってしまった。


 なぜここまでされねばならないのか。これが武士というものなのか。武士になるためにはどうしても必要なことなのか。

 特別に非番にしてもらえた弥市は、一日寝込んだ。まだ頭が痛い。寝ながらぼんやり天井を見て弥市は考えた。京の天井は低い。その天井にさえ、血痕がにじんでいるような気がする。

 郷里にいて、大垣にいて百姓をしていれば今頃は……弥市は布団の中で激しく首を振った。

 ――局ヲ脱スルヲ不許――

 自分はもう二度と、ここから離れることはできないのだ。

 夕方になって少し気分がよくなったので、弥市は布団から出た。部屋には誰もいない。皆、市中見廻りか蔵での稽古、非番の者も京見物に出かけてしまっている。

 夕陽が斜めに、部屋に差しこんできた。静かだった。京もこのあたりまで来れば水田も目立ち、すっかり郊外であるといえる。

 どうせ非番をもらったことだし、弥市は外出してみようと思った。

 長屋門となっている前川家の前は、東西に延びる綾小路。出て左の方の角が坊城通りとの四ツ辻だ。角に「右 二条城左 壬生寺」と書かれた石の標識が草むらの中にある。そこを右に折れて坊城通りを上ると、すぐに四条通りに出る。このあたりは寺が多く、一斉に暮れ六ツの鐘が打ち鳴らされていた。

 四条坊城の角の方から、体格のよい武士が歩いてくるのが見えた。総長の山南だった。総長といえば局長に次ぐ大幹部である。弥市は慌てて道をあけ、その場にかしこまった。

 山南は笑った。

「何をしているんだね、いったい」

 気さくな笑いだった。弥市は顔を上げた。山南の笑顔がそこにあった。

「ああ、最近入った人だね。まあ、お立ちなさい。そんな土下座を受けるほど、私は偉くないんだから」

「し、しかし」

「おぬし、名前は?」

「はい、岩田弥市といいますじゃ」

 ふと山南の眉が動いた。そのまま弥市の肩に手を置き、その手を腕の方にすべらせて立ち上がらせた。

「ま、そりゃたしかに私は幹部だしおぬしは平隊士だけどね。でもねえ、それは主従ということじゃあないんだよ」

 そのようなことを言われても、平隊士にとって幹部は雲の上の人だ。弥市はうつ向いたままでいた。

「いいかね。新選組では幹部も平隊士も、みんな同志だ。仲間なんだよ」

「仲間?」

 意外な言葉だった。驚きとともに弥市は顔をあげた。山南は依然ニコニコしていた。

「新選組も最初は、十三人の仲間ではじまったんだ」

「山南先生!」

 弥市は堰を切ったように、突然山南に感情的にすがりついた。

「武士って何ですか? 私は百姓やった。武士になりとうて新選組に入った。でも、本当に武士になれるかどうか不安になって来たんです。本物の、先祖代々の武士の皆さんの中に入って……」

 山南はそれでも、ニッコリ笑ってうなずいた。

「あのな、岩田うじ。士道、士道って新選組はいうけどね。実はあの局中法度書を作った局長の近藤さんや副長の士方もね」

 山南は声を落とした。

「武州多摩の、百姓の出なんだよ。だからおぬしのような人こそ、心配することはないんだよ」

「えッ!」

 弥市は絶句した。そのまま山南はもう一度笑って一礼すると、屯所の方へと坊城通りを下って行った。

 意外だった。しばらく弥市はその場に立ちすくんで、近藤局長と土方副長のことを考えていた。とにかくれっきとした武士だと思っていたのだ。

 もうあたりは暗くなりはじめていた。

 もちろん弥市は近藤局長や土方副長とは、ことばをかわしたことはない。顔でさえ一度か二度拝しただけだ。大幹部とは今日はじめて、総長の山南と話した。夕暮れの町角に立たずんでいるうち、近藤や土方が百姓の出だということを聞いた衝撃に加えて、山南と会話をしたという事実が深く彼の胸に刻まれていった。

 暖かかった。なぜか暖かみを感じる会話だった。彼は新選組に入ってから心の暖かみを感じたのは、これがはじめてだったような気がした。

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