慈子観音

66号線

第1話

 俺がその風変わりな観音像を初めて見たのは京都にある某寺だった。

推定築三百年はするだろう古刹のなかで獅子を左右に従えたそれは悠然と鎮座していた。

「子を慈しむ、と書いて、慈子観音です」

 住職は説明した。境内は蝉の鳴き声で溢れ、遠くから山鉾巡行の鐘の音がかすかに響いてくる。祇園祭最大の見せ場に他の観光客が釘付けになっている。そのせいか、本堂には俺と住職の二人だけがぽつんと立っていた。格好の暇潰しの対象を見つけたと言わんばかりに住職は慈子観音の物語を語り始めた。

 慈子観音は、もとは乞食の男だった。眼光は炯炯として鋭く、体躯は非常に痩身であったという。幼少から古びた襤褸を身にまとい、常に腹を空かせていた。それもその筈であった。この男は、ようやくありつけたその日の糧をいとも容易く空腹の他人に与える癖があった。もっとも、与えるものは糧に限らなかった。追いはぎに遭遇した者には自身の服を脱いで与え、驟雨が降れば狭いねぐらを通行人に譲った。盲目の老人には右目をえぐり取ってくれてやった。人は口々に変わった男だと噂した。

 その日は普段通り、お気に入りである榕樹の木のねぐらで男は眠っていた。すると一匹の獅子が突如として倒れた。何事かと思い、男はぼうぼうに伸びた前髪の隙間から右目をこらした。負傷した右前脚をかばうかのようにうずくまる百獣の王は絶命寸前であった。

「お前、死ぬのか」

 男は獅子に言った。獅子は黙って男の言葉を聞いた。男はすぐに愚問だと悟った。

「最後にやり残したことはあるか」

 不憫に思った男は獅子の未練を聞いてやることにした。

「お前に言っても意味はないが、俺の帰りを待つ妻と子どもがいる。餌を狩る途中、不覚にも人間にやられた。間抜けな俺は自業自得だが、せめてあいつらの腹を満たしてやりたい」

 獅子は力なく何度も中断しながら無念さを話した。しばらく男は黙って何かを考えていいた。ほんの一瞬、男の右目に光が宿ったのを獅子は感じ取った。男は自分の身を獅子とその親子たちに喰わせることを提案した。

「変わった男だな」

 獅子は呆れた。

「よく言われるさ」

 男は口を開けずに笑った。

「俺はお前たち獅子にこの身体を喰わせる。俺の肉体は死ぬが、俺の魂は空へ昇って星になる。やがて天から恵まれない人間、弱い生き物を護る救いの存在となる。そうすることで俺は永遠の命を得るのだ」

 酔狂な男だと獅子は思った。だが、嫌いじゃないと笑った。獅子は恩返しとして自分が死んだら男の御身使いとなることを約束した。

 かくして男の身体は獅子たちに喰われ、魂は空に舞い上がり観音へと昇華した。恵まれない人間、特に子供など弱い生き物を守護する慈悲深き観音。やがて獅子と共に頻繁に彫像されるようになり、いつしか獅子と発音のよく似た慈子観音と呼ばれるようになった。

「狩野芳崖が描いた悲母観音はよく知られていますが、子を慈しむと書いて“じし”と読む慈子観音像は日本ではここにしか現存しません。制作年月日や制作者名等、どの文献にも記録はございませんが、この像が持つ優美さの前でそれらは何も意味がないでしょう」

 住職は物語の最後にこう締めくくって、ため息をついた。俺はもう一度だけ慈子観音をまじまじと見つめた。親子の獅子に挟まれて座る男は、観音となっても襤褸の姿で穏やかな笑みを湛えていた。

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