光と闇

普通の声の大きさで話す者は誰もいない。ひそひそと話す声が聞こえるだけだ。あとは黙って行く末を見ている。

芽衣がフィニッシュをしようという時、もう1人、他の選手が追い上げてきて、ほぼ同時にゴールしたのだ。

目視では確認できないほどの僅かな差だった。


しばらくして、スピーカーからマイクが入る音がした。そんな普段なら気にもとめないような音すら聞こえるほど会場は静かだった。


「ただいま行われました高校女子100m競走の結果一」


愛斗も美咲も夏海も、愛斗のところからは見えないが恐らく芽衣も、芽衣の勝利を祈った。


「1着4レーン...」


そのあとのアナウンスは聞こえなかった。扇ヶ浜の関係者、愛斗たち、相手選手のチームの絶叫でかき消されたからだ。


「やった!」

愛斗がそう声を出した時にはすでに、美咲と夏海は抱き合って喜んでいた。

そんな2人を横目に、愛斗はトラックを見渡し、芽衣を探したがその姿は見当たらなかった。


だが、いつまでも喜んでいる場合ではない。次は1500mの決勝だ。


女子の1500m競走が終わり、男子の1500mの選手がスタートラインに並び始める。その中に扇ヶ浜の選手が1人いた。流しを終えると、予選と同様、表情を変え集中する。それが日高岳だ。


「日高岳くん、扇ヶ浜」

アナウンスが入り、扇ヶ浜の生徒全員と他に数人が拍手を送る。もちろん愛斗たちは、心置きなく拍手を岳に送った。


一on your marks


一瞬会場が静かになる。しかしその静寂はすぐに破られる。


パンッ


号砲とともに選手たちがスタートし、位置取り争いを始める。声援も他の学校に負けるわけにはいかないと自然と力が入る。


岳は後方に位置を取った。先頭は比較的スローペースだ。


「このままじゃ、ラスト逃げ切られちゃうよ」

美咲が妙に専門的なことを言ったので、愛斗は岳を心配すると共に、美咲に対して疑問を持った。


「詳しいな」


「馬鹿にしないで、陸上部なんだから」


そういえば、美咲が部活動をしているのは知っていたが、何の部活に所属しているかは知らなかった。あんな関係を持つ前に知るべきことがあった、と愛斗は思ったが今はそんな雑念は必要ない。岳を応援するために。


「そうだったのか。あ!岳ー!」


妹に返事をしている暇もない。岳がホームストレートに来た時が声援を送るタイミングなのだ。

その時、声が届いたからなのかは分からないが、岳はペースを上げて順位を上昇させた。


「よし、いいぞ」


そして、若干の順位の上下はあったが、入賞も狙える位置でラスト1周の鐘が鳴った。


「がぁーーくぅーーー!!行けぇーーー!!!」

身体中の酸素を使い、岳の残り1周の糧となるよう、愛斗の持てる全ての力を声に乗せて送る。全て残らず岳の後押しとなるように。


岳がスパートをかけた。だが美咲は言った。

「早すぎる」

愛斗にはどういう意味か分からなかった。しかし、考えれば分かることだった。スパートをかけるタイミングが「早すぎる」と。

だが、今の愛斗には意味を聞いている余裕もなかった。スタンドにいる彼らには、応援することしかできない。


その直後、なんと岳はトップに立った。だが、残り200m。あとトラック半周のところで、今までずっと先頭を走っていた選手に抜かされ、みるみるうちに離される。「早すぎる」スパートが仇となった。それを皮切りに、更に1人、2人と抜かされていく。岳は後退していった。

しかし、まだ入賞は目指せる。彼の力はそんなものじゃないはず。


現在9位。そのままラストの直線に入った。


扇ヶ浜の声援はピークに達した。そのエネルギーは全て岳に注がれる。

岳の顔は、この上なくキツそうな表情をしている。


もう、無理かもしれない。誰もがそう思った時だった。

限界を超えた岳が、大きく腕を振って、前の1人を抜かした。入賞圏内。だが岳の勢いは止まらない。もう1人、そして、その選手と競っていたもう1人も抜かし、県大会出場圏内に入った。


「岳!耐えろ!」


1着はすでにゴールした。だが、岳の戦いは終わっていない。


...


扇ヶ浜高校の陣営から、歓声が上がった。岳は見事6位でゴールをした。そして、県大会出場を決めたのだ。


信じられなかった。友があんなに不利な状況に陥りながらも、その脚で、その手で、出場権をもぎ取ったことを。

岳に元から力がなかったと思っていたという訳ではない。むしろ、その力を心から褒め称えたい。そんな感情だった。


それから愛斗は、美咲や夏海とどんな会話をしたのかは覚えていなかった。

芽衣や岳のレースはそれほどの衝撃を愛斗にもたらしたのだ。


3人はスタンドから降り、扇ヶ浜の陣地を探す。すると、すぐにその学校の名が書かれたテントが見つかった。そこには10数名の生徒と担任の久城先生がいて、岳を異常なまでに祝している。その輪の中心にいた岳は、愛斗と目が会い一目散に3人のところに寄ってきた。


「来てたのか!愛斗!」

いつもの表情に戻っている岳を見ると、不思議な安心感が湧いてきた。


「岳!すごいよ!おめでとう!」


「ありがとうな!千代間さんも!あと...彼女か?愛斗まさかお前...浮気...」

岳のこういった場合、本気で言っているのか冗談なのかが分からないのだ。


「違うよ。妹だよ」


「なんだー、よかった。じゃあ狙ってもいいんだね?」

いつものチャラついた岳だ。それに呆れる反面、そのひとときが楽しかった。その場の空気が、とても。

美咲は、きまりが悪そうな顔をして岳に嫌悪感を示したいた。


「岳、お疲れ様でした」

今まで愛斗と岳が男どうしの会話をしていたので、黙っていた夏海が、ようやく話すタイミングを見つけたようだ。


「おう、ありがと」


「本当に今日は感動しました。おめでとうございます」

夏海の目は心做こころなしか潤んでいるようにも見えた。


「こちらこそ来てくれてありがとな」

夏海は嬉しそうに、はいと返事をした。


だが、その浮かれた空気は長く持たなかった。


「愛斗、未原ちゃんが...」

急に深刻そうな表情に変え、岳が、愛斗の心にずっと突っかかっていたことを切り出したのだ。


岳が視線を送った方を見ると、小さくうずくまり、体育座りの体勢で顔を足の間にうずめている芽衣がいた。

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