兄失格

「だ、だったら、窓開けるか!?」

それが愛斗の咄嗟に言ったことだった。


「...もう、知らない」

怒らせてしまったようだった。だがこれ以上は...。


愛斗を解放して、ベッドから降りた美咲は部屋を出る時「ばか」と口の中で言っていたように聞こえた。


「はぁ...」

気疲れした愛斗はベッドにそのまま倒れ込み、眠ってしまった。



「起きて!朝だよ!」

眠いのに身体を揺さぶって起こしてくる。うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。寝返りを打つついでに時計を見ると時刻は6時55分を示していた。制服姿の美咲が呆れた顔で愛斗を見ている。愛斗は焦りながらベッドから飛び出して、学校に行く支度を始める。愛斗が美咲そっちのけで着替えていると、インターホンが鳴った。美咲は何か言いたそうにしていたが、それどころではない。

芽衣だ。

ネクタイも締めないまま階段を駆け下りると母が待っていた。


「急がないと!ほらお弁当。パンも入れといたから後で食べなさい」

愛斗が悪いのに母は気を利かせて朝食を持たせてくれる。本当に感謝しかない。


「ありがとう!行ってきます!」

玄関をタックルするように開けると芽衣が目を丸くした。


「お、おはよう」


「ごめん遅れた!」


「ううん、大丈夫。ほら行こ!」


バス停まで行く時、案の定、何かあったかと芽衣に訊かれた。


「ちょっと、妹が...」


「美咲ちゃんがどうかしたの?」


「なんて言えばいいかなぁ」


「言いづらいならいいんだけど」

これではまるで芽衣を失望させてしまったようだ。だが、言っていいものなのかが分からない。言えば美咲の評価や印象が下がってしまう、もしくは変わってしまうことは間違いない。それは兄としても避けたいことだ。


「妹が体調崩したみたいで...」

嘘をついてしまった。でも、遅れた理由にはなるだろう。芽衣は愛斗をしっかりと見て


「ふーん、大変だったね」

と言った。この反応、まさか...気づかれたか?


「美咲ちゃん昔はよくそういうことあったから」

そうだったのか。知らなかった。

芽衣に嘘をついた罪悪感に押しつぶされそうになりながら1日を過ごしていった。二度と嘘をつくのはやめよう。そう愛斗は心に誓った。


しかしその夜、事件は起こった。


美咲がまた愛斗の部屋に来て、昨夜に続けて謝ってきたのだ。自分のせいで愛斗が今朝寝坊したと。たぶんそれはそうなのだが、美咲を傷つける訳にもいかず、否定するしかなかった。これは嘘をついたのではない。そうすることが正解であり、逆に肯定してはならない。美咲も分かっているのだろう。愛斗は自分を庇っていると。

だが美咲はそれをいいことに、分かった上でこう言った。


「じゃあ、今日もしていい?」

よくないんだ。ダメなんだ。

だけど、愛斗がダメだと言えないから、美咲は問答無用で着ていたパーカーのチャックを下ろし、胸元を緩めて愛斗に覆い被さった。昨日よりもきつく、激しく抱き締めている。

はっきり言って美咲は可愛い。そういえば、彼氏とかいないのか?


「お兄ちゃんにしかこういうことしないよ?」

美咲はことごとく愛斗の疑問を打ち砕く。まるで心を見透かしているかのように。

美咲が愛斗の着ているシャツに手をかけた時だった。


ガシャ


まずい、お母さんにバレた。せっかくお風呂では上手くやったのに。


美咲の手が愛斗の腰の辺りでピタリと止まった。


「やっぱりね...」

その声は母じゃない聞き慣れた声だった。

そう、芽衣だ。

どうしてここに、なんで来た。一瞬、愛斗は現実ではないのではないかと疑った。だけどこれは現実で、この現場を芽衣に見られたということ、それはどうやっても覆らない。


「どうして...」


「朝、愛斗が言ってたこと。あんなの嘘だってすぐに分かった。嘘をつく時の癖は変わらないんだね」

結局、芽衣を失望させてしまった。余計に信用を失うような行為と共に。


「愛斗のお母さんには、愛斗に直接渡したいものがあるって言って家に入れさせてもらった。本当に久しぶりの愛斗の家に、こんな形で来るなんてね」

皮肉たっぷりのその言葉はどこか悲しそうだった。


「どういうこと?お兄ちゃん」

美咲はゆっくりと立ち上がるとパーカーのチャックを上まで上げて愛斗と芽衣を交互に見ていた。


「どうして来たんだ?」


「愛斗が心配だったからだよ。やっぱりおかしかったもん」


「なんで!なんで邪魔するの!やめてよ!」

突然、美咲は大声を上げて芽衣に向かって行った。愛斗はまずいと思い、芽衣と美咲を遠ざける。芽衣は落ち着いているが美咲は興奮しているようで、美咲を押さえる腕だけに力が入る。


「ごめん、僕が悪かった。兄失格だよ」

兄として、妹の奇行をやめさせることができなかった。ダメだと言えない優柔不断さが招いた結果。妹は悪くない。


「愛斗...」


「お兄ちゃん...」

美咲から力がふっと抜け、その場に膝から崩れ落ちた。小刻みに震えているようだ。


「実はね、美咲は妹だけど妹じゃないんだ」

愛斗はその言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。


「...」


「本当は、血が繋がってない義理の妹」

美咲は今まで実の妹を演じていただけだったのだ。愛斗が記憶をなくしたのをいいことに。


「それって、僕を騙してたってこと?」


「ごめんね、お兄ちゃん...。最初はそのつもりはなかったの」

愛斗には怒りではない何かがふつふつと湧いてくるのが分かった。それは、このことを知ることができなかった無力感。誰も教えてくれなかった悲しさ。他にも、簡単に言葉では表せない感情が愛斗の中で渦巻いていた。


「美咲ちゃん、言ってなかったの...?」

芽衣が美咲を問いただす。


「は、はい。いつか言わなきゃとは思ってたんです。でも...」


「でも?」

芽衣が美咲に続きを言わせる。


「お兄ちゃんが大好きだから、このまま実の妹としていた方がお兄ちゃんも好きになってくれるかなって。義理の妹だって知ったら、避けられるかもって思って...」

それが美咲の気持ちなのだ。誰にも言えない哀しき恋。その恋をしてしまった美咲は、溢れんばかりの気持ちを、本人である愛斗にぶつけていたのだ。


「愛斗、ご両親からも聞いてなかったの?」

確かにそうだ。それほど大事なことをなぜ親は今まで言わなかったんだ。

その理由は美咲が知っていた。


「美咲が言わないでって言った。だから、教えてくれなかったんだと思う」


親も単純だ。親として記憶を失った愛斗に対して優先することくらい分かっているはずなのに。


「そうだったのか...」


「ちなみに、愛斗はお母さんの子で美咲ちゃんはお父さんの子よ」

芽衣は事情を知っていた。芽衣は愛斗は美咲と親が違うということを知っていると思っていたから芽衣は本当に何も悪くない。


「...」

なんとなく勘づいてはいた。顔も全然似てなかったし、母と美咲の距離感も少し気になっていた。母は、美咲が愛斗の実の妹を演じていたように美咲の実親を演じていた。

しかし、父は愛斗の実親ではない。けれど、あの時会った父は、実親のような温かさ、威厳があった。父は愛斗を騙したくなかったから早々に仕事に戻って行ったのかもしれない。

それぞれに事情があってそれぞれが正しいと思う道を生きている。誰が正しくて間違っているとは一概に決めつけられない。


「本当にごめんなさい。もうお兄ちゃんとは...関わらない...」

その美咲の言葉は、鉛玉が心臓に撃ち込まれたかのような衝撃があった。

愛斗は、自分の心に蓋をし続けるとどうなるか知っている。いつか溢れ出して、どうにもならない苦しみとなって返ってくる。痛いほどそれを知った。だから美咲に同じ境遇を味わせたくないのだ。


「ダメだ。そんなことしちゃダメだし言っちゃダメ。美咲は僕の妹だし、血とか親とか関係ない。好きも嫌いも関係ない」

我ながらたっぷりとかっこつけた臭い言葉だと思う。可愛がれる存在以外には言いたくない。どうせ馬鹿にされるから。


「お兄ちゃんの馬鹿。なんでこんな美咲を見放さないの!?もう嫌いになってくれたら美咲だって諦めれるのに。もっと好きになっちゃうよぉ」

それは妹だから、家族だから。それはかけがえのないもの。簡単に見放すことなどできるわけがない。

愛斗は美咲の頭を優しく撫でた。美咲は一瞬ビクッとしたがそれを黙って受け入れる。


「ほんと、仲良いのね。羨ましいな」

芽衣を放ったらかしにしていたことに気づいた。

芽衣がいなかったら僕はどうなっていたんだろう。妹と抱き合う悦びを知って、このまま堕ちて行ったかもしれない。


「芽衣、本当に迷惑かけた。ごめん。あと、ありがとう」


「いいよ。私こそ、ずかずかと家に入ってきてごめんね」


「ううん、そんなことないよ」


「あとは2人で話してね。私はこれで」

芽衣は後ろを向いて部屋を出る。その時、思い出したかのように「そういえば、彼女いるんでしょ」と言った。なんでかよく分からないが、その言葉は心に刺さった。

茜さんとはあれっきり話してないし会ってもない。彼女はどう思っているのだろうか。


「お兄ちゃん、やっぱ美咲はお兄ちゃんが好き。それはこれからも変わらないと思う」

今はそれでいいのかもしれない。年頃の女の子だし、いずれ他に好きな男ができるだろう。


「分かった。覚えておくよ」


「うん、ありがと」

美咲はそう言って部屋を出ていった。

あんなに自分を愛してくれる人がいるというのはある意味嬉しい。

そして同時に、自分がかつて愛した茜のことも気になり出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る