心の箱
何か強烈な夢を見たのは覚えている。だが、どんな夢を見たのか思い出せそうで思い出せない。全く思い出せず、苛立ちのようなものを感じる。
愛斗は悔しさのあまり、布団に穴が開くくらい強く両手を握り締めていた。
扉がノックされるが極限状態の愛斗の耳には届いていない。届いていたとしてもそれどころじゃない。
そんな愛斗は相当酷い顔をしていたのだろう。朝食を持って入ってきた七奈が愛斗に心配そうな声で話しかけた。
「大丈夫ですか?すごい顔です」
愛斗は急に話しかけられ驚いた。
「えっ、あ、はい。大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうですね」
七奈は意外と鋭い。今回の場合はこんな酷い顔をしていたし、両手も物語っていたから。
「実は、何か大切なことを夢で見た気がして。いや、見たことは見たんです。ただまた寝たら忘れてしまって」
七奈は真剣かつ優しい表情で愛斗の話を聞いている。その姿が、弱った愛斗の心に刺さった。愛斗の目には涙が溜まる。
「大丈夫です。焦る必要はありません。無理に思い出そうとしなくてもいいんです」
そう言って七奈はティッシュで愛斗の涙を拭い、頭をそっと撫でた。そのせいで愛斗は更に涙を流したが、その自分の姿を想像した愛斗は急に恥ずかしくなり静かに笑い出した。
そんな愛斗も全て七奈は受け止める。
愛斗はそんな七奈が好きだった。
「ご飯冷めないうちに食べてくださいね。うーん、じゃあ私は出て行きますね」
その時、愛斗は反射的に言った。
「ここに、いてください...」
「いいんですか?」
「はい、いてほしいです」
「では遠慮なく〜」
反則的な笑顔と共に愛斗のベッドの隣にある椅子に座る。いつも同じ表情で疲れないのか。ってことは僕以外の患者にもこの笑顔を...。
この人といると自分がもっとよく分からなくなってくる。
以前の自分には彼女がいたらしい。だが今はその人を知らない。今会ったら愛すことができるのか不安だった。
愛斗の心の中には鍵付きの箱がある。その中には数え切れないほどの不安や心配が詰め込まれていていつ溢れ出してもおかしくないのだ。しかし、箱は入っていく一方で中身は全く消費されない。七奈や須崎と話すことによって箱の硬さは取れるがあくまでも一時的なもの。不安や心配を消す根本的な解決にはならない。愛斗自身は気付いていないが実は愛斗の心は想像以上に苦しんでいるのだ。
だから七奈に優しくされると不意に鍵が開いて苦しみを知る。
「実はこの人にこういうことを送ろうと思っていたんです」
愛斗はスマホの電源をつけ、SNSの画面を七奈に見せて言う。須崎に言われた「気が向いたら」が今な気がしたから。
「いいと思います。ちゃんと伝えることは大事です」
七奈は愛斗の期待通りの反応をした。
相手の気持ちを分かってくれるのが数多くある七奈のいいところの1つだ。
だからそんな七奈に愛斗は質問をする。
「これ送ったらどう思われますかね」
「やっぱ、信じられないですね。すぐに会って確かめたいです」
やっぱりそうなるよな。僕でもそうなるかもしれない。だけどいつかは伝えなきゃいけない。それが今というだけなんだ。
「分かりました、ありがとうございます。でも送ってみますね」
七奈は黙って頷く。その時の七奈の表情は真剣だった。しかし、いつもの笑顔がないだけで優しさはそこにあった。
こんにちは、時田愛斗です。僕は事故に遭い、記憶を失ってしまったようです。もちろん、あなたのことも分かりません。よかったら会ってお話がしたいです。よろしくお願いします。
という以前打ち込んだ文章を送った後に、愛斗が入院している病院の名前を送った。
するとすぐに「既読」がついた。
恐らく今、戸惑っているのだろう。そしてなんと返信しようか悩んでいるのだろう。
返信が来たのは約5分後だった。
信じられないけど本当なんだよね?お昼過ぎに会いに行ってもいいかな?
といったシンプルな内容のもの。困惑して何と送ればいいのかさっぱり分からなかったのだろう。
愛斗は基本1日中暇なので、大丈夫といった返信をした。
ようやく箸を取って朝食をとり始める。少し食事は冷めていて七奈の表情もどこか曇っているように見えた。食事が冷めたからではない。愛斗の心情を心配しているのだ。
愛斗が食べ終わると七奈が口を開いた。
「お友達、来られるんですか?」
「そうみたいです。昼過ぎに」
「分かりました。じゃあそのように伝えときますね」
その時、愛斗は昼過ぎにどういった立ち振る舞いをするかで頭がいっぱいになって、七奈の言う「伝える」とは誰になのかという疑問さえ持てなかった。
12時17分。聞き慣れないノックの音がする。七奈でも須崎でも家族でもない。その音の発生源が誰なのかは分かっていた。
芽衣だ。
扉を開けて入ってきて初めて芽衣の容姿を知った。
セピアでセミロングの髪、前髪は軽く2つに分けられていておでこが少し出ている。服装は薄手の赤いパーカーを羽織っている。
そんな芽衣に愛斗から声をかけた。
「あの、こんにちは。どうぞ」
座ることを促す。芽衣は言われた通りにそこにあった椅子に座った。
「初めまして、って言った方がいいのかな?未原芽衣です。これ、旅行のお土産なんだけどどうぞ」
どんな言葉遣いをすればいいのか分からなくて不自由な日本語と共に手渡された紙袋の中には、北海道旅行に行ったのだろう、有名な牧場の生キャラメルが入っていた。
「ありがとう。有難くいただきます」
芽衣はうつむいたまま愛斗と目線を合わせようとしない。だが愛斗は話を進める。
「わざわざ来てくれてありがとう。僕がこんなになってて本当に訳が分からないと思う。でもまずは僕が知っていることを話すね」
芽衣は首を縦に振った。
「これは聞いた話なんだけど、僕は彼女を交通事故から庇って意識を失ったらしい。幸い大きな怪我もなくて命にも別状はなかったんだけど頭を激しく打って記憶を失ったらしいんだ」
芽衣は視線を上げ、愛斗に顔を見せた。その顔は真剣そのものだった。愛斗の言うことを全て受け止めようとする姿勢。笑顔は見せないものの七奈のような澄んだ心を持っているようだ。
「メッセージでも伝えたけど君のことも分からない。なにより自分自身のことが分からないんだ」
「本当に何も覚えてないの?」
「覚えていることはあった。SNSを見ていたらアドベンチャーワールドって書いてあったんだけどそれは覚えてた。あと白良浜のことも」
「じゃあ私との関係は覚えてないんだ...」
芽衣のその言葉は尻すぼみだった。彼女も愛斗との関係があった以上、愛斗と同じ立場になって不安を抱えているのだ。
「ごめん、覚えてないんだ。だからこれから教えてほしい。君と僕との関係とか僕がどんな奴だったかとか」
「それはもちろんする。私にできることならなんだってやる」
愛斗を心の底から応援する気持ち。そんなものが芽衣から愛斗に伝わった。
「あのね、私たちは幼なじみなの。家も隣どうしで小さい頃からよく遊んでた。私が愛斗の家に行くことはほぼなかったけど愛斗はよく私の家に来てた」
なるほど、幼なじみだったのか。でもなぜ家が隣なのに母や妹は今日まで僕が記憶を失っていることを言わなかったんだ?
だがその答えはすぐ出た。
「今、何で家は隣どうしなのに記憶がなくなっちゃったこと知らなかったのって思ったでしょ。実はこのお土産を渡しに昨日お家に行ったんだよ?」
芽衣は自分が渡したお土産を指差しながら言った。
「じゃあなんで...」
「教えてくれなかったの。愛斗はどこか聞いたんだけど、『分からない、出掛けてる』って言われて。今思えば私を心配させないためだったんだろうなって思えるけど...」
その時、芽衣の目から一筋の涙が流れた。両手で顔を塞いで泣いている。
愛斗はどうすればいいか分からなかった。
彼女は全て受け入れようとしている。だがそれは愛斗と同じ16歳の芽衣には受け止めきれず、耐えきれなかった。愛斗も最初はそうだった。今だって時々現実を疑う。だけど生きていくしかない。そのために今日、芽衣と会うと決意したのだから。
「僕もどう生きていけば分からない。だから助けてほしいんだ。私にできることならなんだってやるって言ってくれたよね?本当に嬉しい。だけど無理はしないでほしい。辛くなったら泣いていい。だから僕を助けてください」
愛斗の心からの願いだった。今「友達」として頼れるのは芽衣だけだったから。芽衣がいればこれからどうにかなる。そんな気がしていた。
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