第十九話:運めし命がもたらす哀しみ

 海に勢いよく落ちた雅騎の身体は、月の光すら届かない、闇に包まれた深淵に沈んでいた。


 力なく海を漂っている最中。

 海のもたらす冷たさが、本能的にだろうか。彼の意識をわずかに呼び戻した。


  コポ……コポコポッ……


 僅かに耳に届く、水中にいる時に聴こえる、独特の音。

 まるで何かに包まれたような浮遊感。


 朦朧とした意識の中、僅かに目を開く。

 映りし世界は、唯ひたすらの闇。

 その中にあっては、どちらが海上なのかすら分からない。

 ……いや。既にあがく力も残されておらず、そんな事すらも考えていない雅騎にとっては、もう知るのすら無意味であろうか。


 体の痛みが全身をむしばみすぎたのか。既に苦しみも。痛みも感じない。

 ただ。海の冷たさと、何かが自身から抜け落ちるような感触だけは、辛うじて感じ取れる。


  ──なんか、どこかで……。


 もやのかかったような頭の中に、ふと浮かんだもの。

 それは……。


  ──あの、夢……。


 そう。深空みそらと久々に再会した時に経験した夢のような世界だった。


  ──俺……。死ぬ、のか……な……。


 漠然と、そんな事を頭に思い浮かべる。

 そこには確信も。恐怖心すらもない。ただぼんやり、そう考えるだけ。そして。


  ──もう……。いいよ、な。深空みそら、ちゃ……。


 彼は、もうすぐ出会えるかもしれない相手の名を、心で呟いた。

 意識が、永遠の闇に沈み始める。そんな朧気おぼろげな中。


『ダメだよ、雅騎君』


 懐かしく。温かく。しかし、どこか淋しげな、澄んだ声が聞こえた気がした。


『あなたはまだ、死なない運命だから』


  ──死なな……うん、めい……。


 力なく。意味もなく。ただ、雅騎は言葉を心で繰り返す。


『そう。だから、手を伸ばして』


 そんな彼の心に声に応えるように。優しき声は、彼を導かんとする。


  ──手、を……。


 もう、考える力もない。

 消えゆく意識の中。雅騎は何処に向けるでもなく、ゆっくりと手を伸ばした。

 伸ばしたてのひらに何かを感じ、それを力なく掴んだ瞬間。

 あふれんばかりの光が、自身を包みこんだ気がした。

 そして……。


* * * * *


「速水君! お願い! 起きて! 速水君!!」

『雅騎! 貴方はここで命を落とすべきではありません!!』


 とても遠くにあったその声が、少しずつ、はっきりと雅騎の耳に届き始める。

 そのあまりに悲痛な、悲鳴とも取れる少女と女性の叫び声。

 目の前は暗闇……とまでいかず、ほんのりとした明かりに照らされているように感じる。

 声が鮮明に聞こえるようになるにつれ、身体に痛みが戻っていく。


「速水君、お願い! お願い……お願いだから……死なないで……」


 叫び疲れたのか。絶望に打ちひしがれた、弱々しい少女の涙声が、消える。

 そして。己の顔に触れる、温かい、何か。


「まっ……たく……」

「えっ!?」


 雅騎が、とてもか細い声でそう呟く。

 しかし。その消え去りそうな言葉は、皆を沈黙させる、それだけの強い力を秘めていた。


 彼が、ゆっくりとまぶたを開く。

 ぼんやりとした視界。それがはっきりとしていく中で見えたのは、彼を上から覗き込みながら、涙するエルフィと佳穂の姿。

 その背後に見えるのは、心配そうな表情を見せ、並んで立っているファルトとリナ。

 雅騎の脚のそばには、佳穂達と共に必死に治癒の光マグスルファを駆使しているレイアも見て取れる。

 そして。皆を囲むように、周囲にはドラゴン戦後にエルフィが生み出していた、寒さや雨風を防ぐ遮断の光壁チェルファメルが存在していた。


「おちおち……寝ても、いられない、な……」


 皆の視線を受ける中。僅かに笑みを浮かべ、そう皮肉を口にした。その瞬間。


「速水君!!」


 雅騎の隣に座っていた佳穂は。我を忘れ。癒やす行為も捨て。横になった彼に勢いよく、覆いかぶさるように抱きついた。


「良かった! 良かったぁ!!」


 彼女は泣きじゃくりながら、喜びを強く声にする。

 突然の状況に彼は驚きを禁じえなかったが、同時に一気に身体を走った痛みが、それ以上に、改めて現実に帰ってきたと強く実感させる。


「あ、綾摩さん……。流石に、痛い……」


 気恥ずかしさが勝ったのか。雅騎が珍しく、痛みを隠そうともせず、そう弱々しく訴える。


「あっ!!」


 その瞬間。佳穂ははっと我に返る。


「ごごごご、ごめんなさい!」


 彼女は真っ赤にし、慌てて雅騎を解放すると、咄嗟に砂の上で正座して、恥ずかしそうに身を縮こまらせた。


『無事で、良かったぁ……』


 雅騎が目覚めたことで、全員の緊張の糸が切れたのだろう。

 見守っていたリナが、涙を隠さず安堵した涙声を上げると。


『おいおい。人間をそんなに心配してどうするんですか、先輩』


 ファルトはそんな彼女に呆れた声をあげ、あやすように優しく彼女の頭を撫でた。

 しかし。そんな彼の表情も、どこか安心したような嬉しそうな笑みを見せている。


「俺、エルフィの技受けて……それで、どうなった?」


 少しずつ頭が冴えてきた雅騎は、現状に至るまでの記憶がさっぱり抜け落ちていることに気づき、思わず尋ねた。

 その言葉に、あの時の惨劇を思い出したのだろう。皆、一様に表情を曇らせる。


『貴方はわたくしの技を受け、吹き飛び、傷だらけとなりました』


 そんな中。冷静に説明を始めたのは、雅騎を膝枕したまま治癒の光マグスルファを続けているエルフィだった。


『そして、そのまま海中に沈んだのです』


 あの時何も出来なかった自分を悔やんでいるのか。語りながら意気消沈する彼女。

 だが、己の技が結果として雅騎の命を奪いかけたのだ。それも仕方ないことだろう。


 エルフィの言葉を聞いた瞬間。雅騎の中にふと、先程目覚める前の、不思議な感覚が思い起こされる。

 夢のような、夢でないようなあの空間。あれは海中だ、と言われればそんな気もする。

 そして、それが現実だと言わんばかりに。気づけば自身の身体が、海水でずぶ濡れになっている事に気づく。


私達わたくしたちは必死に貴方を見つけようとしました。ですがこの暗い中、海中にいる貴方を見つけることができずにおりました』


 エルフィは気落ちした声で事実を語る。

 しかし雅騎はそれを聞き、すぐにその矛盾に気づく。


 そう。

 自分は今、生きてここにいる。


「だとしたら、どうやって……」

「速水君を助けてくれた人がいるの」


 そんな疑問に答えたのは佳穂だった。


「助けてくれた、人?」

「うん」


 彼女は治癒の光マグスルファを再開しながら、小さく頷く。

 ただその表情は、まるで、説明に困ると言わんばかりの戸惑いを見せていた。


「人っていうか……幽霊かも、しれないんだけど」

「幽霊?」

「うん。突然ね。海の中で速水君が、明るく照らし出されたの」

「海の中で……」


  ──確かに俺はあの時、光を掴んだ……。


 蘇る、朧気おぼろげな記憶。

 雅騎は説明を聞きながら、少しずつそれを記憶と重ねていく。


「それで、エルフィが慌てて水中に潜って助けに行ったの。そしたらね……」

『貴方を支える、一人の少女がいたのです』

「少女……」

「うん。長い白髪でね。白いワンピースを着た、私達と同じくらいの」


 そこまで聞き。雅騎はそこにありし事実を理解した。耳に届いた、今思い返すと聞き覚えのある声。

 そして、二人が見たという少女の容姿。


  ──『ダメだよ。雅騎君。あなたはまだ、死なない運命だから』


 その口調。その呼び方。それは紛れもなく……深空彼女


『彼女はわたくしに貴方を託すと、笑顔を浮かべ、すっと霧散するように消えてしまいました』

「……速水君に、心当たりはある?」


 二人が雅騎の顔を覗き込む。


「……いや」


 


 だが、彼は敢えてそれを答えとはしなかった。

 そして。激しい痛みが走るのも忘れ、無意識に左腕で目を覆う。


「速水君?」


 突然の行動に、佳穂とエルフィは思わず顔を見合わせる。

 そんな中。


  ──まったく。まだ側に来るな、ってことかよ……。


 雅騎は心でそんな愚痴を零し。

 皆に気づかれぬように。

 ほんの少しだけ、泣いた。


 まだ彼女の隣に立つことすら許されない。そんな寂しさを感じながら。

 そして。深空みそらが命を救ってくれたことに、心から感謝しながら。


 ほんの僅かな時間の後。

 雅騎は腕を戻し再び顔を見せると、改めて佳穂とエルフィを見た。


 彼女達も海中に潜ったせいだろう。自身と同じように髪も、服もびしょ濡れ。

 そんな二人に、彼は視線を伏せ目を逸すと、申し訳無さをあらわにする。


「ごめん。二人までびしょ濡れにさせて……」


 そう謝罪の言葉を口にする雅騎に、エルフィはふっと、意味ありげに笑った。


『違いますよ。雅騎』

「え?」


 突然の彼女の否定。

 戸惑う雅騎に対し、エルフィの真意に感づいた佳穂は、彼女と同じように笑みを浮かべ、こう告げた。


「『ごめんなさい』より『ありがとう』、だよね?」


 それは昼間、雅騎が二人に掛けた言葉。

 悪戯っぽく笑う二人に、彼は思わず苦笑してしまう。


「そうだったね。ありがとう」

「うん、それでよし!」


 冗談交じりに、喫茶店で言われた言葉を返す佳穂。

 その状況を知っているエルフィもまた、釣られてふふっと微笑んだ。

 対する雅騎といえば。十八番おはこを返されたせいか。二人に困ったように恥ずかしげな表情を浮かべる事しか出来なかった。


『雅騎』


 と。そんな三人の会話が一段落したのを見計らい。佳穂と反対に座り、同じく治癒の光マグスルファを続けていたレイアが声を掛けてきた。

 雅騎はゆっくりと、彼女に顔を向ける。


『今回は、本当にすまなかった』


 レイアが申し訳無さそうに頭を下げると、


「俺が勝手にやったことだから。謝る必要なんてないさ」


 雅騎は彼らしい台詞を返し、笑ってみせる。

 その表情にゆるしを得たとレイアは僅かに安堵した。だが同時に、どうしても聞かなければいけない疑問が心で強く、大きくなる。


『しかし何故だ。何故、お前は私を助けた?』


 思いが抑えられず、彼女はそう問いかけたのだが。それがいけなかった。

 今までの戦いの中で渦巻いていた様々な疑問が、せきを切ってあふれ出てしまったのだ。


『私はお前の敵だったはずだ。お前を脅し、お前を傷つけ、お前の命を奪おうとし。あまつさえ姉上や佳穂にまで手を掛けた。それなのに何故私を助けようとなど……』


 まくし立てるように、矢継ぎ早に語るレイア。

 そんな彼女を見て、大きくため息をいたのはエルフィだった。


『それは。彼がですよ』


 彼女よりもたらされた答え。それまるで、禅問答ぜんもんどうのような不確かなもの。


『どういうことなのですか? 姉上』


 さっぱり理解ができないレイアが思わず問い返す。だがエルフィは彼女にではなく、雅騎に顔を向けた。

 真剣味のある──僅かに怒りを含んだ顔で。


『雅騎。貴方はレイアがわたくしの妹だと気付いた瞬間、この決断をしたのですね』


 その怒りの理由を分かっているのだろう。彼は一度大きく息をくと、


「悪い」


 ただ一言。を口にした。


『私は感謝しています。そんな貴方の想いに。ですが……』


 エルフィもまたレイアと姉妹というべきなのか。彼女を制しておきながら、次は自身がせきを切ったように、いきどおりの言葉を並べようとする。

 だが。


「分かってる」


 雅騎はたった一言でエルフィを制した。


 二人の中では色々と伝わるものがあるのだろう。

 しかし。質問をした当の本人は、このやり取りでは何も伝わるはずもない。

 困惑するばかりのレイアに気付き、


「話が長くなったら、ごめん」


 そう前置きし、雅騎は静かに語り出す。


「レイアがエルフィの姉妹だろうっていうのは最初に気づいた。面影もそうだし、やっぱり同じの名を冠していたからさ。だからこそ俺は、レイアの言葉に疑問を持った」

『私の言葉に、か?』

「ああ」


 彼は何処か重々しい表情で、じっとレイアを見つめる。


「レイアは言ったよね。『エルフィはだ』って」

『……ああ』


 彼女は口惜しそうにそれを認め、悔しげな表情で視線を逸す。


「だけど俺の知るエルフィは、そんな雰囲気を微塵も感じさせない相手だった。だから多分、レイアは何らかの理由で誤解しているか、無理に思い込んでいるんじゃないか? って思ったのさ」

『……』


 雅騎の推測に、レイアは言葉を返せぬまま、目を伏せた。

 確かに彼女は、姉はと迷いを持ちながら、王のめいというかせめ、無理に罪人だと思いこんでいだ。

 これは、事実以外の何物でもない。


 そんなレイアの反応で事実と理解したのだろう。

 彼は僅かに苦笑を浮かべると、こう続けた。


「でさ。結局俺は、判断できなかったんだよ」

『何をだ』

「レイア達が敵なのか、味方なのか」


 そのに、レイア、ファルト、リナの三人は愕然とした。


『何を言っている!? あの時の私は、お前に敵対していたではないか!』


 ありえない、と言わんばかりのレイアが語気を強める。

 だが。雅騎はそれを意に返す事なく。


「それはあくまでそっちが敵対してただけ。俺の考えとは別だよ」


 さらりとそう口にした。

 まるで当たり前と言わんばかりに。


 だがこの言葉で、彼女達が納得する事などできるはずもない。

 それもそうだろう。

 こんな考え方をする相手は、人間であっても、それこそ天使であっても今までに出会ったことがない。それほど彼女達にとっては答えだったのだから。


「敵だとしたら、俺は綾摩さんやエルフィのために全力で戦ってたし、味方だとしたら、早くエルフィに会わせてやりたかった。でも結局どちらか見切れなかったんだよ。だから、俺ができることなんて限られてた」

『あれだけの力を持ってしてもなお、か?』


 レイアの言葉に頷く雅騎。


「ああ。俺ができること。それは……」


 その先の佳穂とエルフィの反応を思い浮かべ、気が重くなったのだろう。

 一度言葉を切り大きく溜息を付くと、彼は覚悟を決め、その理由を口にした。


「レイア達にエルフィ達の場所を知らせないこと。そして、レイア達を傷つけないこと」


 それを聞き、佳穂とエルフィはわずかに、寂しさと怒りを強くにじませる。

 同時に。その言葉に驚きを隠せなかったのはレイア達三人だった。


『そんなの逃げ切れる奴だけの選択肢だろ。だいたいお前に逃げ場がなくなったのは、天の狩猟場グラディオベリアムを張った時に言ったじゃないか!』

『そうですよ。私だって伝えたはずです。これは狩場だって。だから貴方だって攻撃されるのを理解したはずでしょう?』


 思わずファルトとリナが、嘘だと言わんばかりに食らいつく。


「そう。そっちの二人……」

『俺はファルト。で、こっちはリナ。悪いとは思うが気持ち悪いんでな。せめて名前で呼んでくれ』

『今はそんなの気にしなくていいでしょ、もう……』


 まともに名前で呼ばれず自分達が蚊帳の外だと感じたのか。突然ファルトが、釈然としない顔でそう口すると、リナは咄嗟にそんな彼をたしなめる。

 どこか天使らしくないそんな二人の掛け合いに、


「悪い悪い」


 雅騎は思わず苦笑しつつ、話を続けた。


「ファルトとリナがあの結界を張った時点で、確かに俺は手詰まりだった。戦ったらレイア達を傷つけるかもしれない。逃げるにしても、自分の力を使ったら、エルフィを知らないという嘘を信じ込ませられない」

『確かにあんな一撃食らってたら、俺達どころかレイア様だって命が幾つあっても足りやしなかったな』


 ファルトはあの、死を垣間見た恐ろしき雅騎の術を思い出し、小さく身震いする。


『だがその決断をした結果、お前は追い詰められたはずだ。姉上達が駆けつけなければ、それこそただ死ぬだけ──』

『貴方は、それで良いと思ったのですね』


 未だに納得がいかないと訴えるレイアの言葉を、エルフィが静かな、怒りの籠もった声でさえぎった。

 佳穂もまた同じ気持ちだったのだろう。うつむいたまま、暗い顔をしている。


『姉上!? そんな馬鹿な話が……』


 唖然とするレイアの呟き。それをエルフィは一度目を伏せると、小さく頷き肯定した。


『雅騎。貴方は自分が何もせず死ぬことが、最善の結果となると考えたのですね』


 その言葉に、雅騎は小さく溜息を付く。


「レイア達が嘘を信じ込んでくれれば良かったんだけど、そうならなかったからね。エルフィ達の場所を知られずに済むにはそれしかなかった。まあ、三人が使し。仕方ないさ」

『馬鹿な! 我々はお前の命を奪おうとしたのだぞ? 何故そんなことが言えるのだ?』


 先程から口にされる言葉の数々に、戸惑いの色を強く見せながら疑問を呈するレイア。

 そんな彼女に対し、雅騎は柔らかな笑みを返す。


「三人が最後の一撃を放つ前。リナは最後に俺の心配してくれたし、ファルトもリナをなだめながら、覚悟を決めてくれたよね」

『あれは……たまたま貴方に罪がないかもしれないと思っただけで……』

『俺だって命令だと分かっただけだ。あんなので何が分かるってんだ!?』


 リナも、ファルトも納得がいかない。そんなものは理由じゃない、と心で強く感じていたからだ。だが……。


「俺が、そう勝手に感じただけさ」


 彼はそんな二人の不満を、たった一言で片付ける。


「それにレイアもそう。無実の相手を殺すことになる罪を被ろうって決意してくれたろ?」

『何を言っているのだ!? あの時の私は、任務を果たそうと必死だっただけだ!』

「それなら俺を更に痛めつけ、自白させることだってできたじゃないか。それをしなかったのはさ」


 この雅騎の言葉に、三人をただ呆然とするしかなかった。


 確かに。もっと酷く彼を追い詰め、なんとしても口を割らせようとすることもできただろう。そして、レイアをそれをしなかったのも事実だ。

 だがそれは、雅騎はどこまで追い詰めても口を割らない。そう察したからこそ、彼を誇りある死にいざなおうと決意しただけ。


 だからこそ、有り得なかった。

 自身に相手に、と口にするなどという事など。


 彼女達にとってにわかに信じがたい雅騎の答え。それは既に、彼女らの考えの範疇はんちゅうを超えていた。

 そんな困惑を知ってか知らずか。彼はそのまま言葉を続ける。


「それにエルフィだって、妹が死んだら悲しむだろ?」


 それを聞きレイアは、自分と入れ替わりになって命を失いかけた雅騎の姿を、改めて脳裏にぎらせる。


『お前はそんな理由のためだけに、あの時私を助けたのか? 死んでも良いと思ったのか?』


 雅騎はレイアの最後の問いかけに、静かに、そして淋しげに。


「ああ」


 そう、短く答えた。


 その表情を見て。レイアはあの時三人が、彼に止めを刺そうとした際に見せた表情を思い返す。


  ──これでは、勝てるわけもない、か。


 レイアは改めて、雅騎この人間の強さを痛感した。

 自身も決意を持って行動していたはず。しかし。そのが違いすぎる、と。


 レイアはエルフィとの戦いの最中。姉を信じられなかった罪悪感と、王のめいに背けない狭間の中で、姉を生かし自身が死ぬ決断を下していた。


 だがそれは、王のめいを受けた部下達を置いて、自身の想いのために決断したもの。

 言い方を変えれば。己だけが現実から目を背け、最良の選択をせず、罪の意識からただだけ。


 だが、雅騎は違う。


 彼は。ここにいる誰を責めるでもなく。ただ自身の感じた想いを信じ。ただひたすらに仲間だと思う者全てに対し。できる限りの最善を尽くした。


 そう。

 命を失う覚悟をも以ってでも、その信念を貫き通したのだ。


 自身とは比べるまでもない、重い決断。

 レイアはそれを強く感じていた。だからこそ、彼に心の中で感謝し、一人の人間をたたえていた。


 だが……。そんな彼の決意に、納得がいかなかい者達もいる。


『雅騎。貴方は以前、私達わたくしたちを助けてくださった事がありました。レイアを同じように助ける事はできなかったのですか?』


 彼はあのドラゴン戦で、佳穂達を他者転移ウィズ・レンドで助けたことがある。それであれば無傷でレイアを助けられたのでは、と考えていた。しかし、彼は困ったような顔で小さく首を振る。


「あれは詠唱が長いんだよ。試してはみたけど、痛みでどうしても詠唱しきれなくてさ」

『詠唱を? 貴方が?』


 雅騎が言葉で詠唱している所など見たことがない。思わず疑問を顔に浮かべたエルフィに、


「ああ。で」


 彼は痛みを堪えつつ、人差し指で自分の頭のこめかみをゆっくりと二度叩く。


「結局、使えたのは詠唱が短くて済む術だけ。だからあれが、俺のできた最善だよ」

『……』


 何も言い返さないものの、納得がいかない表情のままのエルフィに対し、


「最後にレイアを逃がせたのは、半分運だったけどね」


 雅騎はそう言って苦笑した。

 しかしエルフィは、笑えない。

 理由は分かる。だが、どうして安々と、己が命を落とす選択ができるのか。

 何故、自らの命を懸けた行為を、笑って済ませられるのか。


 それがどうしても許せなかった。

 そして。その不満と怒りが頂点に達した瞬間。


『何故貴方は、いとも容易たやすく己の命を犠牲にするのですか!!』


 思わず、叫んでいた。

 だが次の瞬間。雅騎を見てはっとする。

 それは過去にも見せた、真剣で、どこか淋しげな表情。


だよ。レイアにも、生きてほしかったんだろ?」

『それは……』


 あの時と一緒。


 エルフィはその言葉に、思わず言葉を詰まらせた。

 佳穂達が命を懸けてでもドラゴンを倒さねばならないと強く想い、それを雅騎が阻止したあの時。

 彼女は本当は、佳穂に生きてほしいと葛藤していた。


 確かに、あの時と同じだった。

 エルフィは誇りある死を選んだ妹に、助かってほしかったのだ。だからこそ、無意識に『避けなさい』と叫んでいたのだから。


 だがそれが、選択の理由にはならない。

 何とかそれを言葉にしようとするエルフィだったが。


「……私は、嫌」


 佳穂の呟きが、彼女の言葉をすんでで飲み込ませた。


 雅騎は静かに佳穂に目を向けるが、彼女は深く俯いたまま、その表情を見せようとはしない。

 ただ。一粒、二粒。彼女の膝の上に、涙がしたたる。


「確かに皆を大事にする優しさは分かるよ。でも、それで速水君が死んじゃうなんて嫌。私もエルフィも、絶対後悔するもん……」

『佳穂……』


 心配そうな顔で、エルフィは佳穂の名を呟く。

 彼女はそれには応えない。ただ、想いは、止まらない。


「速水君は、私達に優しくしてくれたの。速水君は、私達の命を助けてくれたの。何時も勝手にやったって言うけど、私はそうやって助けられてばかりなの」


 つたなく、脈絡もない言葉を必死に言葉にしながら。佳穂は涙声で、その想いを伝えていく。

 止まらない涙。それを隠そうともしない。想いの高ぶりが、華奢な身体を震わす。


 そして。

 想いが彼女の心から、一気に、溢れた。


「私は嫌! 速水君ともっと話したい! 速水君ともっと一緒にいたい! 生きててほしいの! 失いたくなんてないの! 居なくなるのは嫌なの! 死んでほしくないの! だからっ!」


 強く想いを叫んだ後。とても寂しそうに。とても辛そうに。佳穂は顔を上げると、潤んだ瞳で雅騎を見つめ、弱々しく、呟いた。


「死んでもいいなんて、言わないで……」


 彼女の涙ながらの訴えに、誰もが言葉を失う。


 静かな波の音。そして僅かに吹く風だけが、周囲を包む。

 雅騎は少しの間、真剣に佳穂を見つめ返していたが、刹那。ふっと表情を緩めると、申し訳無さそうな顔をした。


「……ごめん」


 雅騎は、佳穂に向け静かにそう呟くと、エルフィにも顔を向ける。


「エルフィも。ごめん」


 体勢的に頭を下げることはできない。その代わり、彼女に精一杯の気持ちを込め、視線を交わす。

 エルフィは少しの間、彼をじっと見つめた後、溜息をひとつついた。


『貴方が私達わたくしたちのために行動してくださった事、本当に感謝しています。ですが。できればこれからは、私達わたくしたちを信じ、頼ってください。わたくしも佳穂と同様、貴方と共にありたいのですから』

「……うん。ありがとう」


 彼を見つめていたエルフィが、応えるようにふっと笑みを浮かべる。釣られるように、雅騎が。そして涙を拭きながら佳穂が、お互いに微笑んでみせた。


『う……うっ、ううっ……』


 ふと。そんな中に急に届いた嗚咽に、思わず三人がその相手を見る。


『良かったぁ。皆さんが無事で、本当に良かったぁ……』


 涙を隠す事なく、号泣しだしたのはリナだった。


 改めて、雅騎が無事であったことへの安心感を強く感じたのか。それとも三人がそれぞれを想う本気に感化されてしまったのか。

 その予想外の反応に、三人だけでなく、レイアやファルトも一瞬呆気にとられた後、自然と笑みを交わす。


 そして。そんなリナの安堵の涙声が、改めてこの戦いの終焉を伝えていた。

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