第3話 天使は急にやってくる

 結局なんの異常もなかった俺は、晴れて一日で退院することができた。これには自分でもビックリだ。


 退院した日は大事を取って休みをもらい、次の日になって登校することになり、ちょっとばかり不安な気持ちで通学路をとぼとぼと歩く。まさかあんな派手なことをやらかしちまうなんて思いもしなかった。


 HRまでは二十分くらい時間がある。俺がこんなに余裕を持って登校することができたのは、入学式とその次の日以来であり、かなりレアだと言える。しかし、なんで一年生の教室が二階にあるんだろうか。できれば一番下にしてくれれば、一昨日あんな事故を起こさなくて済んだのに。まあ、あんな間抜けなことをやっちまうのは俺くらいのもんか。


 そして何より気になっているのは、やっぱり海原春華のことだった。もう今後ないかもしれないくらいの会話量だったけど、残り数日もしたら平常運転となり、俺のことなんて記憶の片隅にすら残らないかも。


 またしても卑屈な考えに囚われつつ、いつの間にか階段を登りきって教室に入ろうとしていた矢先のことだった。リア充ムード全快で廊下を歩く連中が前からやってきたのだ。男子二人に、女子三人で仲睦まじく登校しやがって。羨ましくなんかないと煩悩を振り払い、重くなった足を鼓舞して教室に入ろうとすると、


「あ、天沢君。おはよー!」


 声優になったらヒロイン役オファーが雨のように降り注ぎそうな清涼感ある声が、間違いなく俺にむけて届けられた。ギョッとして前を見ると、学園の天使こと海原春華がいた。


「……お、おおう」


 間延びした返事と共に、俺は警察に追われている犯罪者みたいにそそくさと教室に逃げ込んだ。通り過ぎた海原の視線を背中に感じながら、なんて不審な行動を取ってしまったのだと自分が恥ずかしくなる。まさか挨拶なんてされるなんて想像もしてなかったから、気が動転してしまった。


 更には教室の入り口近くで雑談をしていた男子達が、眉を潜めてこっちを見ている。そんな顔になるのもわかるぜ。だって大事故を起こした二日後に、普通に登校してるんだから。この日ばかりはいつも話しかけてこないクラスメイト達も、会うなり優しい声をかけてくれた。


 ありがたいと思いつつ、こういう優しさでさえ消滅してしまう未来がすぐそこに見えているから悲しいものだ。結局俺はその日、平穏無事に放課後まで過ごすことができた。


 いつも通りクラスでエアーと化していた時間が終わり、やっとのことで俺はそそくさと教室から出て、唯一の憩いの場に向かって足を進める。行き交うカップルと思われる男女や、楽しそうにつるんでるグループには目もくれず、三階にある部屋の扉を開いた。


 普段は図書室でしかないそこは、放課後になれば風変わりなクラブの一室に様変わりする。とは言っても、別段変わりようなどない静かな所だが。


 クラブ名は「伝統文化研究部」という、イマイチ目的がはっきりしない部だ。あらゆる文化に触れる、ということを目的として創立されたクラブらしいのだが、如何わしい物でなければ何でも研究の対象になるらしい。


 こんな不思議な部活動に入部した理由は二つある。一つは、生徒は必ず何らかの部活動に入っていなくてはならないという校則があること。もう一つは体育会系が嫌いだったから文化系で適当なところを探していたときに、偶然見つけたというだけだった。


 現在この部活動は幽霊部員の溜まり場になっているし、一年生でありながら部長になった、俺のたった一人の友人でさえ長テーブルの上でいびきをかいているだけだ。


「ぐおー! ぐおー!」


 それにしてもうるさいいびきだ。長テーブルの上で大の字になって眠っているという行為自体が常識外れだが、こいつは全くそんなことは気にもかけない。名前は冬武亜麗音ふゆぶあれおん。がさつで豪快ながらも長身でイケメンという、かなり個性的な男だ。俺はまだ奴を起こす必要もないと思い、何事もなかったかのように本棚を漁り始める。


「ぐおおお。がぶお!」


 やっぱうるせえな。このままじゃ暇つぶしの読書に集中できない。家に帰っても特にすることがないから、バイトがない時はこうやって部活という名目で暇をつぶしているわけだ。勉強しなくちゃいけないことは解ってるけど、どうしてもする気になれない。まあ、やりたくてやっている奴なんていないのだけれど。


「ぶほおおー! ぶほおおー! ぐりりり」


 うるせえ! マジで人間のいびきじゃない。未確認生物が呻き声でもあげてるんじゃないかと勘違いしそうな騒音だ。もう我慢できない。起こそうと本棚のフロアから出て、いくつもあるテーブルフロアに向かおうとしていた時だった。


「あのー。し、失礼します」


 俺は麗音のいびきによって、かき消されていたノックの音に気がついていなかったらしく、誰かがちょっと不安げにゆっくりと扉をスライドさせてきたところで、ようやく来客の存在を知った。


「な、なんか凄いね……ここ」


 俺はまたしても言葉を失ってしまい、ボケーっと立ち尽くしてしまった。


「海原……」


「えへへ! お疲れ、天沢君」


 電球色より明るい笑顔を正面から向けられて、またしてもドギマギしてしまう俺。なぜ学校中のクラブから誘いを受けまくっていると噂の海原春華が、こんな幽霊部員御用達の巣窟になどやってきたのか。彼女はちょっと緊張しているような、ソワソワした面持ちで歩みを進めてきたが、俺の近くまできて来ると、何か嬉しそうな微笑を浮かべて見上げてきた。


「実はね、天沢君が放課後は大体ここにいるって聞いたから、ちょっと寄ってみたの。本当にいたからラッキーだったよ!」


「え? な、なんで俺に会いに来るんだよ」


「だって。階段を転げ落ちてからまだ二日しか経ってないでしょ。何か君の身に起こっちゃうかもしれないじゃん」


「俺の身に何が起こるっていうんだ。別に何もない。至って元気だ」


 強いて言えば海原がまだ俺と会話していることが事件といえば事件だが。


 彼女は柔らかそうな茶髪を揺らすように、軽快に本棚のスペースまで歩いていく。興味深そうにいろいろな本を眺めては、まだあどけなさの残る、子供っぽい瞳をたまにこちらに向けてくる。その瞳と一瞬目を合わせただけで、何だか吸い込まれそうになってしまうから不思議だ。


「うん! 元気なら良かった。私、もしかして大変なことをしちゃったかもしれないと思って。昨日も見舞いに行ったけど、天沢君は退院してたもんね」


「え!? 昨日も見舞いに来てたのかよ」


 初耳だ。こういう社交辞令的な心配は一回限りで充分な気がするんだが、彼女にとっては違うらしい。考えているときに、ふっと海原はもう一度俺のそばに来た。


「でもまだ油断はできないんだよ! 一週間くらいしてから急にパッタリしちゃうこともあるんだって。ほら、昔のカンフー映画みたいに」


「え? そんなカンフー映画ないだろ」


「あれ? 違った。あ、そっか。あれ世紀末漫画だった」


「そんなジャンルあるかよ」


「それに出てくる覇王っていう人が言っていたよ。お前の命はもってあと七日だって」


「多分そいつ覇王って名前じゃねえよ! しかもそれ思いっきり殺しにかかってるじゃねえか!」


「とにかく! まだ安心できないよ。じゃあ私、もう部活だから行くね」


「ああ……気をつけるよ」


「うん! じゃあまたねっ」


「ああ、また……え?」


 そよ風みたいに爽やかな余韻を残しながら、いつの間にか白いセーラー服が遠ざかって行く。


 友人のいびきがまだ鳴り響く中、俺はどうしてアイツがこんなに優しくしてくれるのか解らずにいた。でも帰り道に気がついたんだ。あいつが学校一の天使って言われるのは、そういう優しさを持ち合わせているからなんだなって。


 なんか冷たそうなオーラを出しているなと思っていたのだが、喋っているうちに印象がガラリと変わった。なんていうか、すげえいい奴っぽいじゃん。それに、なんとなくだが天然っぽい感じもする。


 もっと話してみたい……そんな風に思えたことが、何より意外だった。

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