第14話 呼び声の正体
ネーレイド号の乗組員はカッターボートを降ろすと、オールを漕いで遭難者の救出に向かった。
ネーレイド号は、速度を落としつつ進路を反転させ向かい風に対して間切りながらカッターの後を追う形だ。
貴史達は船が変針するのと同時に舳先に移動して救助活動を見守ることになった。
「リヒターさんは泳ぎは上手だったのだろうか?」
貴史は誰もが考えていることを婉曲に口にした。
彼が泳げなかった場合は、転落してからの時間を考えると結果は明らかだったからだ。
「団長がジュラ山脈の麓にある湖で泳いでいるのを見たことが有ります。僕は泳げないので見ているだけでしたけど」
ホルストの言葉を聞いて周囲にいた人々の空気が少し緩む。
先行したカッターボートは遥か先にいるため、救助活動の状況は全く分からないのがもどかしいところだ。
「救助されたみたいですよ。ボートが止まっています」
視力が良いヤースミーンが救助活動を実況するが、近眼の貴史には全く見えない距離だ。
「無事だといいのだけど」
貴史はリヒターの無事を祈るしかなかった。
やがて、カッターボートが動き始めるとネーレイド号との距離は急速に縮まり人の顔が判別できる距離まで来ると、ネーレイド号は船足を落としてカッターボートの回収に取り掛かった。
カッターボートの回収には滑車を使って時間が掛かる様子で、その間にリヒターはロープで吊り上げられた。
かなりの時間海中にいたリヒターは青い顔をしているが意識はしっかりしていた。
「しいやせん皆さん。あっしとしたことが波間にいた魔物にたぶらかされて海に落ちてしまい皆さんに迷惑をおかけしやした」
「無事で何よりだったのですよ。誤って海に落ちた人間を助けたことを迷惑に思う人間なんてだれ一人いませんから」
打ちひしがれた様子のリヒターを船員が慰める。
カッターボートの回収を終えたネーレイド号は再びパロの都に向けて進み始めた。
「リヒターさんあなたを咎める訳ではなくて、今後同じようなことが起きないように原因を究明しておきたいの。あなたは魔物にたぶらかされたと言ったけど具体的に何が起きて海に落ちるに至ったか教えて下さらないかしら」
アンジェリーナはネーレイド号の船長として毅然とした態度でリヒターに尋ねる。
リヒターは、申し訳なさそうな様子で少しづつ話し始めた。
「あっしは最初はヤースミーンさんと一緒にイルカを見ていたんですよ。知っての通りあっしもヒマリアの育ちなもので海自体が珍しいからイルカなんて生まれて初めてですっかり嬉しくなっていたんでやす」
「それではイルカを見ているうちに、誤って海に落ちたということですね?」
アンジェリーナが確認すると、リヒターは慌てて頭を振る。
「ちがいやす。イルカとは違う生き物が波間にいるのが見えて舳先のすぐ横を流れていくのが見えたのです。それで、その生き物を追いかけて舷側を船尾にむかってあるいたのですが、最初は魚の仲間のように見えていたその生き物が人の顔をしているように見えてきたのです」
「それこそが魚タイプの魔物かもしれませんね。その顔はどんな顔だったのですか」
ヤースミーンが尋ねると、リヒターは小さな声でつぶやくように言った。
「その顔は、子供の頃に離れ離れになって生死もわからないあっしの母親の顔だったんでやす。そう、その距離で声が聞こえる訳もないのに母親に呼ばれたような気がしたのを憶えていやす。あっ氏は夢中になってもっとよく見て確かめようとして気が付いたら手すりを乗り越えて落ちてしまっていたんです。こうして生きて居られるのは、波間を漂っているあっしをイルカが近寄って助けてくれたおかげです」
「イルカが人を助けてくれる話は聞いたことが有ります。やはりあのイルカたちは僕たちにとって幸運を運ぶ使者だったのですね」
貴史がいい話にまとめようとしたが、アンジェリーナはそれほど甘く考えていなかった。
「イルカはいいけどリヒターさんをたぶらかしたのはセイレーンだったのかもしれないわね。セイレーンは歌声で旅人を惑わすと言われているけど実質は心の中に働きかけていると思って間違いない。それも肉親や親しい者の顔を借りているとしたら厄介だわ」
アンジェリーナはセイレーンによる被害が続くことを懸念しているのだ。
貴史にとっては、セイレーンなる海の魔物が人の心に働きかけるということが理解しがたい話だ。
「セイレーンを追い払う魔除けの呪文とか、無いものかな」
貴史の問にヤースミーンは申し訳無さそうに答える。
「すいません。私はセイレーン自体を知らないので、それに対処する魔法も知らないのです」
「残念ながら、私もセイレーンを追い払う魔法を知らないの。もう一度セイレーンが現れたら退治するしかないわね」
ヤースミーンとアンジェリーナが対応する魔法を知らない以上、被害を出さないためには戦うしかないのかと貴史は考える。
「おい見ろよ、ちょっと毛色の変わったイルカみたいなやつが泳いでいるぜ」
パロの都のバイヤーが呑気に口にした言葉に、ヤースミーンはギョッとして振り返る。
「それはセイレーンかもしれません。目を合わせるのも歌声を聞くのも駄目ですからね。みんな目を閉じて耳をふさぐのです」
ヤースミーンは懸命に警告したが、乗客も船員もバイヤーの声につられてそれを見てしまった後だった。
「去年亡くなったはずの私の夫が海の中で呼んでいる」
パロの商工会長のジョセフィーヌは恍惚とした表情で海を見つめる。
「シマダタカシさんマルグリットが海を泳いでいますよ。きっと僕の後を追ってヒマリアから泳いできたのですね」
「ホルストしっかりしろ。ヒマリアからここまで泳いでくるわけがないだろ」
貴史は海中に親しいものの姿を認めて海に飛び込もうとする人々を引き留めるのに必死だ。
そしてヤースミーンの警告を聞いて海を見ないように努めているが、海からの歌声は強く弱く貴史の頭に浸透してくる。
貴史はこのままでは、ネーレイド号の人々は一人残らず海に飛び込み、残された船は幽霊船のように漂うのではないかと思い始めた。
「レティシアだ、私のレティシアがあそこにいて私を呼んでいる」
「タリーさんまでやられている!」
ヤースミーンが引き留める手を、タリーは振り払ってしまう。
貴史がもうこれまでかとあきらめた時、タリーは思いもよらない行動を始めた。
ネーレイド号の舷側にいるセイレーンを見て、手すりを乗り越えようとしていたタリーは、不意に船首を目指して走り始めたのだ。
「ぐおおおおおおお」
タリーは船首部に設置されていた銛を掴むと、セイレーンが泳ぐ方向に向けて、全力で放り投げたのだった。
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