エピローグ 造花の香り

第39話 造花の香り

 昭和26年の春、千鶴は南九州の鹿屋を訪れた。列車による長い旅を共にしたのは、良太の妹洋子と忠之だった。

 良太さんが最後に過ごされた土地をたずねて、飛行場や宿舎の跡はもとより、周辺の風物や景観などもこの眼で見たい。千鶴が抱えていた数年来の願望が、ようやくにして叶えられることになった。千鶴が手にしているバッグには、鹿屋で書かれた良太からの手紙が入っていた。

 戦後もすでに5年あまりが経っていたけれども、戦時中の情景を思い描くに充分な景観と風物が残されていた。最初に訪れたのは、特攻隊員たちが宿舎としていた学校の跡だった。

宿舎の跡を前にしたとき、多様な感情が千鶴をおそった。今なお尽きない良太への思い。良太の出撃を知ったときの悲しみと絶望感。良太さんは人生最後の数日間を、このような所で過ごされたのだ。良太さんはこの場所で、残された貴重な時間を使って、この手紙を書いてくださったのだ。便箋に向かっている良太の姿を想い、千鶴は手紙の入っているバッグを抱きしめた。

 3人は小川に沿った道を歩いた。道端では草がのび、あたりにはれんげ草の花が見られた。良太がかつて眼にした景観にちがいなかった。良太が仲間たちと散策したと思われるその道をたどって、三人は飛行場の跡へ向かった。


 千鶴は戦後まもなくから東京都内の病院に勤務し、薬剤師としての経験をかさねた。もとの家があった場所に、忠之の協力を得てバラックを建て、そこでしばらく暮らしていたが、数年後には家を建てることができた。以前の浅井家にくらべてずいぶん狭かったけれども、不満を口にする者はなかった。

 忠之は復学した大学を卒業して電機会社に就職していたが、その年の春、そこを退職して出雲の村に帰った。新制中学校の理科教師が求められていることを知り、技術者として生きるかわりに、若い世代を指導する道をえらんだ。その秋には洋子と結婚することになっていた。

 忠之の退職金は少なかったとはいえ、3人で鹿屋を訪ねるための旅費には充分な金額だった。忠之は千鶴と洋子に誘いかけ、南九州への旅を実現したのだった。

 千鶴はその機会に出雲の森山家を訪れ、良太の七回忌の法事につらなった。

 4月下旬のよく晴れた夜、洋子と修次に案内されて、千鶴は斐伊川の堤防を歩いた。良太がかつて語ったように、出雲の星空は美しかった。良太との約束が思い出されて、その星空が千鶴の眼にはむしろ悲しいものに映った。


 千鶴は滑走路の跡にたたずんで、良太が向かったはずの南の空を眺めた。彼方の丘にかぶさるように、白い雲がつらなっている。たくさんの特攻機がここを飛びたち、あの雲のかなたの沖縄をめざしたのだ。

 千鶴は滑走路の跡に立ちつくして、良太が出撃したときの情景を想った。零戦が轟々たる爆音をのこして滑走路をはなれ、高度をあげながら遠ざかってゆく。雲を背にした機影が小さくなってゆく。

 洋子と忠之に見守られつつ、千鶴は遠い雲を見つめ続けた。良太さんの飛行機が見えなくなるまで、しっかり見送ってあげなければならない。

 白い雲しか見えなくなった。良太さんは遠い世界に行ってしまわれた。良太さんが手紙やノートに書いてくださったように、私は良太さんから離れて生きて行かなければならない。良太さんがそのように願っておいでなのだから。

 千鶴はバッグを開いて封筒を取り出した。良太が出撃直前に書いた手紙だった。

 鹿屋から送られてきたのは、一葉のハガキと三通の手紙であった。最後に書かれた手紙には、〈我が念願とするところは千鶴の幸せな人生なり〉と記された便箋と、二枚の写真が入っていた。その言葉を読んで千鶴は思った。私の幸せはどうしたら得られるというのだろうか、良太さんがそばに居てはくださらないというのに。

 千鶴は封筒から写真を取り出した。良太が出撃直前に眺めたはずの写真であり、身につけてゆく代わりに送り返してきた写真であった。

 写真を見ながら千鶴は思った。先ほどここで良太さんを見送り、良太さんに別れを告げたけれども、私は良太さんから離れた人生を歩むことができるだろうか。

「写真を抱いて出撃した者が多かっただろうに、良太らしいよな、写真を送り返してくるというのも」と忠之が言った。

「写真を持ってゆく必要が無かったんでしょうね。良太さんは、私たちの面影を心の中にしっかり抱いていたはずですもの」

 良太さんは私や出雲の御家族のことを想うあまりに、写真であろうと特攻機の道づれにはできなかったのだ。良太さんは写真を持って行く代わりに、私が作った造花を身につけて行かれた。私の匂いをしみこませ、良太さんと初めて結ばれた日に渡したあの造花。

 出撃の二日前に書かれた手紙には、おわりの部分に歌が記されていた。その歌を千鶴は心のなかで読みかえした。

  枯るるなき造花に勝る花ありや愛しき人の香ぞしのばるる

 三鷹での良太との一夜が思い出された。良太への想いがわきおこり、千鶴の胸を満たした。良太さんはこの写真や造花を見ながら私を想い、あのことを思い出されたのだ。あのことは、三鷹で一夜を共にしたことは、良太さんのためにもほんとうに良かったという気がする。明け方の光のなかで眺めた良太さんの寝顔は、とても安らかで幸せそうだった。寝顔に触っていると眼を覚まされ、私の手をにぎって笑顔を見せられた。

 写真の良太と千鶴は微笑んでいる。千鶴は写真に眼をとめたまま、心のなかの良太に告げた。「写真のあなたを見るたびに、千鶴よ幸せになれとの声を聞く想いがします。もう少し時間をくださいね。あなたを忘れることはできなくても、そのうちいつか、あなたから離れて生きられるようになりますから。そうなることを、あなたが望んでおいでなのだから」

「靖国神社のことだけど、俺はこれまでのようには参拝できないと思うんだ」

 忠之のとうとつな言葉に千鶴は応えた。「出雲からではたいへんですものね。私はこれまで通りに行くつもりですけど」

「私はまだ参拝していないから、兄さんには申し訳なくて」

「いいんじゃないかしら。良太さんは神社の中に閉じこもるかわりに、宇宙を自由に飛びまわっておいでだもの。岡さんと靖国神社に行ったのは、良太さんの願いをかなえてあげたいからよ」

「このまま日本の復興に勢いがつけば、過去をふり返らずに、前ばかり見て走りそうな気がするんだ。そうなると、戦死者と遺族に眼が向かなくなって、良太の願いを叶えることが難しくなるかも知れない。だから、遺族の思いを世間に見せ続けるために、去年から千鶴さんと靖国神社に行ってるんだが、もしかすると、あの世で良太は怒っているかも知れないな、国民に戦死を名誉として受け入れさせ、進んで国に命を捧げるように仕向けた神社ではないかと」

「私もそんな記事を読みましたけど、戦前の私たちはそんなふうには考えなかったでしょう。兄さんも戦前の考え方のままに戦死したんだと思いますよ。そんな戦死者の気持を思ってのことでしょうね、たくさんの遺族が今でも靖国神社に格別な感情をもつのは」

「靖国の英霊にされたことを、良太がほんとはどう思っているのか分からないが、靖国神社だけでなく、他にも大きな墓標が必要だと思っていたことは確かだ。戦没者しか祀らない靖国神社とちがって、原爆や空襲の犠牲者なども含めた、すべての戦争犠牲者を追悼するための墓標だよ、良太がノートに書き遺したのは」

 忠之が続けた。「その墓標は単なる墓標じゃなくて、国家が国民に愛国心を要求するようなときには、いったいどんなことが起こり得るのか、そのことを学ぶための墓標でもあるんだ」

「私たちはいやと言うほど学んだけど、将来の日本人のためには必要だわね、そのことを学ぶためのものが」

「政治を見張っていないとどんなことが起こるか、私たちは身をもって学んだけど、そういうことを伝えるための象徴にもなりますよ、その墓標は」

「ほんとにそうね。良太さんが望まれた墓標には、象徴としての役割があるわね。戦争で苦しんだ私たちがいなくなった将来にも、二度と戦争をしてはならないと教え続けるための象徴」

「あの戦争を永久に忘れないための象徴になるだけでなく、国民のあり方を戒めるための象徴にもなるわけだよ。言論の自由を奪われていたにしろ、新聞や雑誌は権力の代弁者になってはいけなかったんだ。もうひとつ反省すべきは、戦前の日本人には付和雷同しやすい傾向があって、自分の頭でしっかり考えず、周りの声に影響されるような者が多かったということだと思うんだ。そんな俺たちがゆだんしているうちに、まさかと思っていた戦争になってしまった。軍部が暴走してあんなことになったと言うが、それを許したのは国民だったし、軍部を支持する国民も多かったんだ。俺にしたところで、今になって偉そうなことを言える立場にはないけど」

「悔しいわね。誰もがしっかり考えて、正しいことに勇気を出していたなら、あんな国にはならなかったでしょうし、あんな戦争も起きなかったでしょうに」

「そうだよ。もっと知恵と勇気を持つべきだったと思うよ、言論の自由を奪われてしまう前に。戦争を防げなかったことを、俺たちは心の底から悔やんでいるわけだが、将来の日本人にそんな思いをさせないためにも、あの戦争をふり返るための象徴を作るべきだよ」

 3人は滑走路の跡地にそって歩いた。日ざしは柔らかく、風は穏やかだった。

 桜の若葉が風にそよいでいる。良太さんが出撃した日は晴れていたということだから、良太さんを見送ったあの桜は、今と同じように鮮やかな若葉を見せていたことだろう。

 千鶴は桜に眼をやりながら、「岡さんに遺されたノートに歌がありますよね……桜な枯れそ大和島根に」と言った。

「時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に……俺は好きだよ、この歌」

「私への手紙やノートにも歌が書かれてるけど、この鹿屋で詠まれたのは造花の歌」

 良太の法事が終わったあとで、千鶴はその歌が記されている手紙を出して、良太の家族や忠之に見せていた。

「造花に勝る花ありや……良太らしい歌だよな」と忠之が言った。

「法事のあとで、戦争を防ぐためにも歴史を学ぶべきだと話し合ったわね。岡さんはあのとき、歴史には造花に通じるところがあるとおっしゃったわ」

「良太の歌を読んだばかりだったから、こじつけみたいな言い方をしたけど」と忠之が言った。「もしも歴史の記録に偽りがあったなら、後世の人間はそこから誤ったことを学ぶわけだよ。歴史としての造花は飾り物ではなくて、貴重な人類の宝物なんだ。その造花にはしっかりと、本物の香りを持たせなくちゃな」

「世界大戦が終ったばかりなのに、中国では内戦があったし、朝鮮でも戦争が起こって、一年ちかく経った今も続いてる。どうしてかしら、つい最近の歴史からさえ学ばないで、戦争を始めるなんて」

「歴史を学ぶ前に人間を学ぶべし、ということだろう。日本は民主主義の国に生まれ変わったが、政党や政治家を選びそこねたら、国民が犠牲にされるようなことがまた起こるかも知れない。国民が愚劣な政党政治に失望しているうちに、次第に軍がのさばりだして、結局はあんなことになってしまった。戦争禁止と軍備禁止の立派な憲法があっても、平和を護るためには政治を見張ってゆく必要があるんだよ。政治のありようでどんなことが起こるか、俺たちは思い知らされたじゃないか」

「警察予備隊が作られたけど、あれは警察というより、軍隊にちかいものだと言うひとがいますよ。軍隊を持たないという憲法ができてから、まだ数年しか経っていないのに」

「ゆだんしていると、そのうちいつか、憲法そのものが変えられるかも知れないわね」

「憲法も法律なんだから、時代に合わせて改正される可能性はあるけど、国民がしっかり政治を見張っていれば、悪い方に変わることを防げるんじゃないかな。そのためには、戦前みたいな失敗をしないように、俺たち国民がよく考えて、まともな政治家を選ばなくちゃならん」

「そういう意味でも作るべきよね、良太さんが提唱された墓標を。政治の成り行きによっては戦争だって起こることを、国民に教え続けるための象徴ですもの」

「その墓標には気持ちを込めたいですよね、どんなことがあっても、戦争だけはしてほしくないという私たちの気持ちを」

「そうだよ、洋子。あの戦争がどんなものだったのか、それを一番よく知っている俺たちには、戦争を心の底から憎む気持を、歴史の中に残しておくという役割があるんだ。戦争の犠牲者や遺族たちの悲しみも、特攻隊員たちの想いも、歴史のなかにしっかり残しておこうじゃないか、二度と戦争を起こさせないために」

 ほんとうにその通りだ、と千鶴は思った。あの戦争を体験し、戦争がもたらす悲しみを痛切に味わった私たちには、後世の人に対して歴史上の責任があるのだ。岡さんが言われたように、歴史としての造花には、ほんものの香りを持たせなくてはならない。その香りが私たちの今の気持を伝えるはずだ。戦争を心の底から憎んでいる私たちの気持を。

 日本の歴史のなかで、特攻隊はどのように記録されるだろうか。終戦から数年しか経っていないのに、特攻隊員は哀れな犠牲者に過ぎないと言う人がいるのだから、将来の日本ではそのような見方が一般的になるのかも知れない。敗北必至となっても戦争を続けたのは、指導者たちが保身を考慮したためらしいと聞いたが、それが本当であったなら、特攻隊員や原爆被災者など多くの国民が、指導者たちによって犠牲にされたことになる。たとえそうであったとしても、良太さんの戦死を無駄にしたくない。特攻隊のことを歴史にしっかり書きとどめ、反戦と平和に役立つようにしておきたい。

もしも良太さんが生き残っておいでだったら、あの戦争や特攻隊をどのようにふり返られるだろうか。今の日本で生きておいでになれば、あの頃とは考え方も変わるだろうが、良太さんなら絶対に、特攻隊員の戦死を無駄なものだったとは思われないはずだ。それどころか、日本人の誇りを体現し、敗戦後の日本のために命を捧げた者として、特攻隊員たちに敬意を抱かれるはずだ。特攻機で出撃した人たちも、人間魚雷などで出撃した人たちも、決して無駄に死んだのではない。

 そうであろうと、良太さんには生きて帰ってほしかった。特攻隊さえ無ければ、良太さんは生還できたかも知れない。特攻隊を出撃させた人たちを私は許すことができない。戦争を起こした人たちも、そして、負けることがわかっていながら戦争を続けさせた人たちも、私は決して許さない。

 あの戦争は、すさまじいほどの犠牲と、言葉に尽くせないほどの悲劇と悲しみをもたらした。戦争が人間を不幸にすることは明白なのに、この国はあのような戦争を始めた。そのことを悔いる私たちの今の気持が、いつまでも明確な形で伝わるようにしておきたい。そのために必要なものこそ、良太さんが提唱された大きな墓標だ。あの戦争をふり返るための象徴。戦争を否定するための象徴。そして、戦争を起こす人間について考えるための象徴。

 忠之の声が聞こえた。「この辺りで引き返さないか。どうする、千鶴さん」

 予定していた出発時刻を過ぎていた。次の訪問先に向かうことにして、3人は滑走路の跡に沿って復路についた。

 滑走路の端までもどると千鶴の足がとまった。耳の奥でいきなり爆音が聞こえた。記憶の奥から甦ってきた零戦の爆音。谷田部航空隊の面会室で、不安におののきながら耳にしていた零戦の爆音。

 南の空に眼をやると、先ほど眺めたときと変わりなく、白い雲がつらなっている。良太さんの飛行機はあの雲のかなたへ消えたはず。私は先ほどこの場所で、良太さんをしっかり見送ったのに、耳の奥にはいまもなお、谷田部で聴いたあの爆音が残っている。

 千鶴は心のうちの良太に告げた。「あなたの飛行機を見送って、あなたに別れを告げたはずなのに、あなたはこれまでと変わりなく、私の中にまだおいでです。このような私ではありますけれど、あなたが望んでおられたように、幸せになるよう努めます。あなたのためにも私は幸せになりたい。なっとくできる人生を送れるように、がんばって生きてゆきます。不思議な夢を見ることができた良太さんですもの、いまの私も見えていることでしょう。私が幸せになるのを見守っていてくださいね」

 千鶴の気持に応えるかのように、雲の縁が明るくなってゆく。輝く雲を見ながら千鶴は思った。良太さんが応えてくださったみたいだ。私も良太さんの気持に応えなければならない。どんなことがあっても私は絶望してはいけない。希望を抱いて生きてゆかなければならない。

 千鶴は南の空から眼をはなし、洋子と忠之に笑顔を向けた。

「ごめんなさいね、お待たせして。大切なことが残っていたのよ、ここでしかできないことが」

 つぎの訪問先に向かうことにして、三人は飛行場の跡をはなれた。

 小川のほとりを歩いていると、はるか上空から鳥の声が聞こえた。良太さんがこの道を歩まれたときにも、このようなさえずり声が聞こえたことだろう、と千鶴は思った。

 千鶴はあたりを見まわした。川べりの草をゆらして風が流れる。麦に覆われている畑を緑の波がわたってゆく。レンゲソウは今が花ざかりだ。

 穏やかな日ざしに映えるその風景が、千鶴の眼にはどこかしら懐かしいものに映った。

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