第2話

 採寸用の板にエルザが足を乗せたとき、レイモンドは意外に思った。つま先を少し丸め、おずおずと自信のなさそうな様子だったのだ。その理由はすぐに察しがついた。親指の付け根に外反母趾があったのだ。おそらく、それは自信に満ちて見えるエルザの唯一のコンプレックスなのだろう。


「ショービジネスの世界を歩き続ける人の足ですね」


「ヒールの高い靴なんて、本当は嫌いなの。でも、用意されたものを履かないと仕事にならないでしょう」


 どんなに足が痛くても華奢な靴で舞台に立ち続けてきた、負けず嫌いで見栄っ張りな性格を外反母趾が物語っていた。エルザはゆっくり囁くようにたずねた。


「ラフィール夫人をご存じね?」


「え? ええ。とてもよくしていただいています」


「そうみたいね。共通の知人がいるんだけど、あちこちであなたの靴をすすめているみたいなの。でも、単純な話、彼女はあなた自身にご執心みたいね」


 レオナルドが曖昧に微笑み「採寸は終わりです」と、足長と足囲を書き込んだ紙を作業台に置いた。エルザが挑発するような目で言う。


「あなた、私に相応しい靴ってどういうものを思い浮かべていらっしゃったの?」


「そのときによって違います。なにせ、あなたは役柄次第で印象をがらりと変えてしまいますから」


「私は女優エルザ・カーライルとしてではなく、プライベートなときに相応しい道に導いてくれる靴が欲しいの」


「それには女優としてのあなたではなく、一人の女性としてのあなたを知るのが手っ取り早いでしょうね」


 エルザはふふっと笑う。


「口説いてらっしゃるの?」


「最善の品をお届けしたい職人の心意気です」


「気に入ったわ、あなた」


 エルザは自分の靴を履き、くいっと顎を上げて微笑んだ。


「あなたがどんな靴を仕立ててくださるか、楽しみにしているわ。それにしても……」と、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる。


「お手紙では熱心に私を褒め称えてくださるけれど、あなたも美しい顔立ちをしていてよ? 靴を気に入るかはともかく、この店に来てよかったわ」


 レオナルドの背筋がぞくりとする。サバンナの真ん中で美しく気高い獣を目の前にした気分だった。


 待合室へ戻ると、マチルダが歩み寄ってきた。柔らかく穏やかな笑みだ。エルザの自信に満ちた迫力を見せつけられた直後に正反対の魅力を持つ同じ顔を見るというのは、奇妙な気がした。


「エルザ、お疲れ様。どうだった? どんな靴にするの?」


「あえて私の希望は言わないつもりよ。レオナルドさんの思うままに作っていただくことにしたわ。私が気に入らなかったらマチルダが履けばいいんだし、どのみちお代はお支払いするんだもの、問題ないでしょう?」


 レオナルドがさっと青ざめる。自分を軽んじたエルザへの失望と、靴職人のプライドを傷つけられた屈辱がどす黒い感情となって押し寄せた。エルザは面白がるような笑みを浮かべている。マチルダが「まあ」と小さな声を漏らした。


「すみません、オコナーさん。大変失礼なことを。エルザは大事なことでもゲームのように楽しむ癖があるんですの」


「いえ……構いませんよ」


「本当に申し訳ありません。でも、私はあなたの靴、とても気に入りましたわ。待っている間に店内の商品を拝見しましたけれど、どれも情熱がこめられていて、素敵です」


 自信過剰で生意気なエルザに失望した彼には、優しい物言いが大きな救いとなった。


「仕上がりも丁寧ですし、どれも品がありますわ。なにより店そのものが居心地よくてお人柄が出ていますわね」


「そんな、恐縮です」


「妹は奔放な性格ですし、思ったことをそのまま口にするものですから気に障る事もあると思うんですの。申し訳ありません。でも、ぜひ妹を相応しい道に導いてくれる靴をお願いします」


 そう言うマチルダの瞳は、妹と同じ青色をしている。けれど、エルザの青は冷たい夜や海の底を思い出すのに、マチルダは爽やかな春の空を連想させるのだ。

 エルザがいらだたしげな声で言った。


「本人を前にして悪く言わないで欲しいわね。私は自分に正直に生きると決めているだけよ。じゃあ、靴が出来上がったらご連絡くださいな」


「エルザ! 申し訳ありません、それでは連絡はこちらにお願いします。失礼します」


「えっ、はい、かしこまりました」


 レオナルドに名刺が渡されたとき、かすかにマチルダの指先が触れた。ほんの一瞬だ。だが、それは彼の心臓を揺り動かすのには充分なものだった。


 姉妹が店の前に待たせていた車に乗り込む。エルザは運転手に行き先を指示し、それっきり横顔しか見せなかった。けれど、隣のマチルダがにこやかに微笑み、軽く会釈をする。

 走り出した車が見えなくなるまで突っ立ち、夢見心地で店に戻った。


「さっきまでエルザ・カーライルがここにいたんだ」


 ぼそりと呟くも、目に浮かぶのはマチルダの穏やかな笑み。ずっと恋い焦がれていた女と同じ顔を持ち、しかももっと好ましい人格と立ち居振る舞い、気遣いのできる女だった。


 レオナルドは「マチルダ」と噛みしめるように彼女の名を呟き、胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。


 エルザのために靴の製作にとりかかった彼は、まるで日記を書くように毎日マチルダにラブレターを送るようになった。靴が出来上がるまで待てない。毎日でも会って、もっと彼女を知りたい。そんな衝動がおさえられない。もはや彼のミューズはエルザではなく、マチルダになっていた。


 しかしマチルダから返事がくることはなかった。読まれているかもわからない。それでもレオナルドは胸の内にわきおこる恋慕をしたため続けた。


 一ヶ月がたった。


「……できた」


 彼は完成した靴をしげしげと見つめた。足の甲を美しく見せる曲線が艶美なハイヒールだ。しかしレオナルドの心に浮かぶのは靴を履いたエルザの姿ではなく、マチルダに会える喜びと期待だった。


 高揚をおさえようと作業台を離れ、煙草をくわえた。紫煙を深く吸い込んで、テーブルに置いたままの新聞をめくる。ある記事を見た彼は危うく煙草を落としそうになった。


『ジョン・ミラー、エルザ・カーライルと不倫の果てに入水自殺』


 呼吸を忘れ、彼は「嘘だろ」と震える声で呟いた。心臓がどっどっどっ、と大きな音をたてている。

 見出しの下には湖から引き上げられた車の写真があり、その無残さに思わず「なんてことだ」と呟きが漏れた。


 足がよろめき、慌ててテーブルに手をつく。高慢な性格に幻滅したとはいえ、エルザの死は衝撃だった。火をつけたばかりの煙草をもみ消すと、「落ち着け、落ち着け」と唱える。


 便箋と封筒を取り出し、ペンを握る。しかし、震えて力が入らない。


「くそ、しっかりしろ!」


 悪態をつき、彼はマチルダへ手紙を書いた。


『愛しいマチルダ、悪夢のようなニュースをたった今知りました。あなたが心配です』


 大切な妹を亡くした彼女の心境を想い、彼はかぶりを振った。さぞかし嘆き悲しんでいるに違いない。あの華奢な肩をそっと抱き寄せてあげられたらいいのに。彼は心から願い、祈るような気持ちでこう書いた。


『注文の靴は仕上がっています。どうか、あなたの顔を見せてください。いたわりと慈愛をもってあなたを抱きしめたいと願うことをお許しください』


 返事はなかった。店の扉が開くたびにぎくりとしては、マチルダでないことに落胆する。暇さえあれば郵便受けをのぞき、肩を落とす。そんな日々が待っていた。

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