第一層
1.始まりと案内妖精
目覚めたのは、深い森の中。
ぽかりとまあるく、空が見えた。
「……どこ?」
サチカは瞬きをして、染み入る青を目に馴染ませる。
清涼な緑の香りを乗せた風が渡って、空の縁取りをざわりと揺らして行った。
空を覆うのは若葉を茂らせた木の枝で、豊かな緑の重なりが額縁のように空を切り取っていた。
降り注ぐ陽射しの中、雪のように白い光の粒がゆらゆらと舞っている。螢のように不規則に飛ぶ光は、淡く色づいた葉先に宿る朝露のようだ。滑り落ち、空中でふるりと震えた瞬間に、雫は小さな光の粒になって明滅しながら自由な軌道を描く。
一粒の光が揺れながら落ちて、思わず差し伸べたサチカの手のひらで幻のように溶けた。
見たことのない景色に、サチカは声もなくぽかんと口を開ける。
空が覗く森の天窓と同じ直径でぽかりと空いた広場は図ったかのような真円で、周囲には立派な枝葉を広げる木の幹が並び、森との境界には白と水色の小さな花が等間隔で植えられていた。
それはまるで、誰にも触れられぬ自然の奇跡のようで、途方もない年月と労力を費やした建築のようでもあった。相反するふたつの調和が、荘厳で神秘的な場を作っている。
身を起こそうとついた手のひらに触れる下草は、長起毛素材の絨毯を思わせる柔らかさで、表面に指を滑らせればひとつ足りとも引っかかりのない絹のような肌触りだった。土足禁止と言われてもすんなりと頷いてしまいそうな具合で、少しだけ震える。
胸がどきりと高鳴ったのは、素敵な肌触りのときめき三、汚した時の弁償費用への怯え七の配分だ。
サチカの足元は、履き慣れた小豆色のスニーカーだった。泥汚れなどはないが、不安が拭えずそわそわしてしまう。スニーカーを両足からそっと引き抜いて、置き場所に迷ってから膝の上に置いた。
「何で靴を脱いでんだよ」
ふいに投げかけられた甘い少年の声に、サチカは飛び上がる程驚いた。
「警戒心なさすぎだろ、くつろぎ過ぎじゃないの?」
振り返った視線の先、小さく肩を竦めてみせるのは、水色の髪をした少年――のような生き物。
「だ、だれ?」
サチカは混乱のあまり、膝の上の靴をぎゅっと抱きしめる。胸がばくばくするのは、驚き八、不安が一、未知への好奇心が一だ。
目線の高さは同じくらい。おそらく少年が合わせてくれているのだろう。なぜなら、少年の身長はサチカの手のひら二つ分くらいで、おそらく四十センチほど。その背には透き通る翅が生えていて、ぷかりと宙に浮いているからだった。
蜻蛉に似た翅がシャボン玉と同じ虹色の光を弾くと、キラキラと輝く粉に変わってやがて空気に溶けていく。
「案内妖精。で、お前は?」
澄んだ声で短く告げ、腕組みをしながら回答を待つ姿は、小さいのに尊大な態度だった。
人に比べてペースが遅く、押しに弱い傾向があるサチカは、容易く会話の主導権を握られてしまう。案内妖精を名乗る未知の生き物に促されるまま自分の事を話していた。
「あの、名前は、幸花です」
「サチカ」
案内妖精はゆっくりと、まるで大事なものを包むように繰り返し、サチカと目を合わせてきた。
正面からじっくりと互いを観察する形になり、サチカはこの案内妖精の目鼻立ちが大層整っていることに気が付く。
サラサラかつ艶やかな水色の髪は、軽く耳にかかるくらい。金緑石のような黄緑の瞳はアーモンド形で意思が強そうな印象だった。体長四十センチながらすらりと伸びた手足に、八等身は余裕でありそうな小さな頭。シンプルな白いシャツに黒いパンツ、燕尾服のように背面が長いベスト姿は、お洒落なカフェのウェイターのようだ。
全体的な寸法を無視して造作だけを見れば外見の年頃は十代半ばくらい、今年十八歳になるサチカよりいくつか年下といったところだろう。
「サチカ、登録名はそれでいいな?」
「登録?」
甘い響きがある声に問われると、日常的な単語もどこか不思議めいて聞こえてくる。そのせいで、ここがどこなのか、案内妖精が何なのかなどの初歩的な疑問は全て後回しになってしまった。
「個人情報登録。マスター登録ともいう」
案内妖精が右手を宙に滑らせると、半透過のディスプレイのようなものが現れた。
サチカと案内妖精の間を隔てるように突然出てきた品物に、サチカは背をのけぞらせてしまう。
「これは案内魔法のひとつ。まあ説明はおいおいな」
また不明な状況が追加され、サチカがひっそり涙目になっていると、案内妖精は小さく肩を竦めてみせた。
「まずは簡易登録にしておくから、名前以外は後でも変更できる」
小さな手がディスプレイに触れると、グラスハープのような共鳴音がポーンと響いた。
「性別は……女でいいか? 生年月日と年齢、それと職業」
「あ、はい。生年月日は――」
問われるままに答え、それを聞いた案内妖精が指先でディスプレイを撫でる。その度に響くグラスハープの音に、サチカはびくびくと身を縮こませた。
澄んだ音が観たこともない厳かな森の景色と合わさると、何かが始まる前触れのような、ソワソワとした心持ちになるのだ。美しさに圧倒されたサチカは、不安に駆られて空を見上げてしまう。
案内妖精はサチカの様子にちらりと目をやって、トントンと指をタップして消音を施した。けれど、質問は容赦なく続く。
「好きな食べ物、嫌いな食べ物、食物アレルギーは?」
「ええと、」
素直に答えつつも、次々に流れる質問に、遅ればせながら何でと首を傾げるサチカ。案内妖精は彼女の頭の先から爪先までするりと視線で撫でると、サチカの秘密を暴露した。
「サイズは適当に登録しとくぞ。身長百五十五センチ、体重――」
「ちょ、ちょっとまってええ!?」
無情にも、昨晩の風呂上りに計測したままの体重と体脂肪率が明るみになり、謎のディスプレイに登録されていってしまう。
「個人っ、個人情報! 個人情報が流失しすぎだと思います!」
乙女として由々しき自体にあわあわと手を振って抗議するサチカに、案内妖精は何をいまさらとクールな視線を向けた。
「遅い。もっと前に気付け」
騙される方が悪いと居直る詐欺師の如き台詞に、サチカは声にならない悲鳴をあげる。何か言い返そうと口を開くが、言葉にならなくてまた閉じることを繰り返してしまう。
「あ、あぅ」
「どんな田舎で暮らしてたんだか知らないが、見ず知らずの他人にホイホイ自分のことを教えるのはやめとけよ。グランシャリオはそんなに甘くないぞ」
嗜められてしまい、サチカはそれはその通りだと頷いた。
「これからは俺も見といてやるけど、ちゃんと気を付けるように」
「……はい」
なんかおかしい。じんわりと湧き出す違和感に、眉を下げる。
案内妖精は腕の一振りでディスプレイを消失させると、天を仰いだ。いい音だ、と呟いた声はひどく満足気なものだった。
視線を戻してサチカを映した金緑の瞳が、優しく細められる。サチカはパチパチと瞬いた。
――大丈夫、かもしれない。
理由はわからないけれど、何となくそう思った。
ここは知らない場所だけど、なぜここにいるかもわからないけれど。目の前の小さな不思議な生き物は自分を傷つけるものではないと、すとんと答えが落ちる。
肩の力が抜けた分、ぎゅっと胸が苦しくなったのは、幕開けの予感だろうか。
「じゃあ、案内を始めるぜ」
どこか誇らしげな案内妖精の言葉を合図に、サチカには聴こえない場所で、またひとつ、グラスハープが弾かれた。
その残響はくるりくるりと螺旋を描いて、森の天窓を駆け上がり、迷宮の隅々に開始の合図を届けていく。
グランシャリオに、新たな旅人とその案内妖精が登録された音だった。
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