第四章 二人三脚

 二〇一〇年

 佐治ケ江優 十六歳



     1

 佐原南高校女子フットサル部の部員たちは、春休みを利用して合宿を行なっていた。

 場所は香取市の隣である成田市内の、広大な敷地を切り開いて作ったキャンプ場だ。


 本日は合宿二日目。


 昨日は、昼に到着したこともあって少し身体を慣らす程度の運動であったが、この日の朝より、合宿の主たる目的であるフィジカルトレーニングを本格的に開始することになった。

 まだ肌寒い春の朝であるというのに、みな汗だくであった。


 既にこなしたメニューとしては、次の通り。

 軽めのジョギングと、ストレッチ。

 三十メートルダッシュを往復二十回。

 腹筋を五十回。

 腕立て伏せを二十回。

 腕立て状態維持、三分を五回。

 ヒンズースクワットを三十回。

 少し足幅を広げての、ワイドスタンスのスクワットを五十回。

 その場腿上げダッシュ、三十秒を五回。

 タイヤ引き走。


 誰もが根を上げて不思議のない厳しさであり、当然ながらゆうにとっては苛酷を通り越して地獄でしかなかった。


 去年の秋に、選手不足から大会に出場させられ、それにより集団競技の面白さを知り、同時に自分の体力のなさを痛感したわけであるが、その思いがわずかながらの向上心に繋がって、この苛酷さになんとか耐えることが出来ていた。


 耐えてなどいないだろう、と他人からは思われるかも知れないが、そう思われても仕方がない。だって、ジョギングもウォーキングも、ほとんど変わらない程度の速度なのだから。


 分かってはいるが、是非ともしようがなかった。

 トレーニングを開始して一つ二つメニューをこなした程度で肉体疲労が極限にまで達してしまい、どう気力を振り絞って頑張ろうにも身体が動かなかったのである。


 もともと腕立ても腹筋も一回も出来ない筋力のなさなので、疲労の蓄積などなくとも酷い有様であっただろうが。

 ただし、合宿に限らず学校での練習時からしてそうであるため、誰も気にとめていないようである。気にするは、本人ばかりであった。


 その、体力についてであるが、入部してから今日まで丸一年、手を抜くことなく真面目にトレーニングをしてきたつもりである。

 自覚があるだけでなく、他の部員たちもそう思ってくれている。


 だというのに、スタミナも筋力もまるで向上が見られない。

 先天的な体質の問題であろう、とむら部長からはいわれている。だからこそ、肉体改善のための効果的なトレーニング方法がなにかないか、おいおいと考えていこうよ、と。


 それは後日のこととして、まずは今日のこの地獄をどう乗り越えるか。それが大切だ。

 もしここで心臓が止まり朽ち果てることになろうものなら、もうトレーニングもなにもないのだから。


 しかし、もう、体力どころか……気力も、限界……

 朦朧とした意識の中、なんとか走り続ける優である。他人からは歩いているとしか思われなくとも。


 そんな彼女と完全なる対極に位置しているといえるのが、やまゆうである。

 一見したところ、優と同じくらいに細くすらりとしているのだが、華奢さよりも、むしろ逞しさを感じさせる見た目。その見た目の印象通りで、体力も筋力も行動力も男子顔負け爆走パワーの少女なのである。

 この爆走っぷりがすべて勉強に向いてさえいれば、十代でアインシュタインやエジソンを遥かに越えるような偉人になれていたかも知れないが、残念ながら能力のすべてが体育会系の方向へと向いてしまっているため、学校の成績はいつも赤点ぎりぎりである。


 昨日は合宿初日ということもあり、相当遅くまで騒いでいたらしく、今朝の集合時には立ちながらもイビキをかいているくらいであったというのに、練習が始まれば眠気などどこへやら。誰よりも走り、蹴り、跳び、叫び、いたずらして、殴られている。


「王子、肉体を休めることもトレーニングなんだよ!」


 昼休憩時間だというのに野を行く猿のごとく走り回っている山野裕子の鬱陶しい姿にイライラしたのか、木村梨乃はたまらず注意した。


「ああ、大丈夫っす」


 一人ボールを追い続ける山野裕子。


「はあ? 言葉の意味をまるで理解してないし、空気もまったく読めないし、ったくこいつはどうしようもねえな」


 梨乃はため息をつきながら、どっかと切り株の椅子に腰を落とし、頬杖をついた。


「どう思う、サジ。王子のことさあ」


 部長は、隣の切り株椅子で休んでいる佐治ケ江優へと投いかけた。


「どう、といわれても」


 嘘つき。

 漠然とした質問にとまどうことなく、真っ先にその言葉が思い浮かんでいた。


 だってそうだろう。

 なんでもないことでも、鬱陶しいくらいにはしゃいでいて。

 自分に嘘をついていなければ、とてもあんな態度など取れるわけがない。


 でも山野さんは、それがきっと無意識なんだ。

 だからきっと、他人にだって知らず残酷な嘘をつく。でも自分は、良いことをしたと本気で思い込んで笑っている。

 だから、近づかない方がいい。


「どう答えればいいのかよく分かりませんけど、体力があって凄いと思います」


 だから、優はそう無難に答えていた。

 そして自己嫌悪。

 嘘つきなのは自分の方じゃないか、と。


「無駄に体力があるのはいいけど、もっと落ち着けないもんかねえ。来月になったら次期部長の候補探しをしようと思ってるんだけど、あれはちょっと厳しいかな。他にはあきらはるにサジに……ああ、サジいいかもね。やらない?」


 冗談も休み休みいえ!


「無理です無理です! うち、うちにそんなっ! ……ほいじゃあ、あたしあっちで休んできますから」


 優は慌てて立ち上がると、逃げるように休憩所をあとにした。


「振られてしまった」


 梨乃は頭を掻いた。


     2

 しばらくして昼休憩も終了し、午後の練習が開始された。

 二人組や三人組で、ボールを使った基礎練習。

 続いて紅白戦、十五分を三本。

 そして、


「本日のレクリエーション、二人三脚ドリブル競争!」


 木村梨乃と副部長のはまむしひさとが、あちこちにコーンを置いてコースらしきものを作ると、声を揃えた。


 梨乃曰く、このゲームを行なうにあたっての確固とした目的は特にない。

 ハードなトレーニングが続く中、休憩時間中に親睦を深めることが出来ればいいかな、とその程度とのことだ。

 ただ、やっていく中で、もしもフットサルの技術を磨くためのヒントを発見出来れば儲けもの、早速普段の練習に取り入れよう、と。


「じゃ、あたしと久樹でちょっとやってみるよ」


 梨乃はそういうと、紐で自分の脚と久樹の脚をぎゅっと縛った。


「みんな、いい成績じゃなくても気にしないでいいから。あたしらは、もう何度か練習してるからタイムいいだろうけどさ」


 と、久樹。

 いらんプレッシャーかけるなよ、という空気を満面に浮かべて梨乃が脇腹を肘で小突いた。


 さて、ペアになったコーンの間を二人三脚でドリブルし、ゴールまでのタイムを競うこのゲーム、美しい見本を披露するはずであった木村梨乃と浜虫久樹ペアであるが、過ぎてみれば惨憺たる結果であった。


 なまじ二人きりで練習をした時にはスムーズに行きすぎたのが原因であったか、ちょっとした想定外のことに対応出来ずにお互いがお互いを引っ張りあって加減の修正も出来ず、転び、からみ合い、挙句の果てはどっちが悪いと喧嘩を始めてしまったのである。


「要領、分かった?」


 脚を結んでスタートラインに立つあぜけいきぬがさはるのペアに、梨乃はおずおずと、実に頼りなさげな表情で話しかけた。


「充分に分かりましたっ。楽勝ですよお」


 春奈は小さくガッツポーズを作った。


「楽勝ですヨオ~」


 山野裕子が春奈の言動を大袈裟に真似て、お尻をプリップリッと振りながら小さなガッツポーズをぐるぐるぐるぐる振り回している。


「王子がやってもぜんっぜん可愛くない。なごまないどころか、むしろ迷惑。やめて」


 梨乃は冷たくいい放った。


「転んだら痛そうだなあ」


 景子の呟き声。

 先ほどの、梨乃たちのもつれ合う阿鼻叫喚図が、目に焼きついているのであろう。


「景子先輩、焦らずいきましょ~」


 春奈は両手ガッツポーズから、万歳みたく腕を上に広げた。


「いちいちブリッ子してねえで、ガーッと豪快に行けや! 豪快に。焦ってやるから面白いんだよ」


 裕子が不満げたっぷりな茶々を入れた。

 おそらく、先ほど梨乃に可愛くないといわれたことに腹を立てているのであろう。


「じゃ、行くよ」


 木村梨乃は、手にした笛を口にくわえた。

 ぴいっと、高い音が晴れ渡った空の下で鳴り響いた。


 スタート。

 最初にボールを蹴ったのは、衣笠春奈であった。

 二人はゆっくり走り出し、今度は畔木景子が蹴った。


 方向転換。

 春奈、景子、春奈、景子、急がず確実に進んで行く。


 一度だけ、もつれて転んでしまったが、無難にゴールした。

 結果、一分三十三秒。


「ええと、あたしらのことは奇麗に忘れて、いまのを手本にするように」


 梨乃は、頭を掻いてごまかした。


 次、なつフサエとらくもとおりである。

 出だしから合わず、起きては転んでの繰り返し。最悪であった。

 七分十秒。

 凄まじいまでの酷さかと思われたが、意外にも梨乃久樹コンビよりタイムは上であった。


 次、山野裕子と佐治ケ江優である。


「はい、縛るよお」


 裕子はしゃがみ、自分と優の足首をぎゅっと縛りつけた。


 優の胸は、ズキズキと鈍い痛みに襲われていた。

 縛られている足首もちょっときつくて痛いが、それよりも胸の痛みの方が遥かに気になっていた。


 先ほど梨乃に話を振られた際に、裕子のことを一番の嘘つきだなどと思ってしまったそのことを気にしているのである。

 もちろん口に出してなどいないが、だからこそ性質が悪いともいえた。自分の心に嘘は付けないからだ。


 そもそも、よりによってどうしてこのペアなんだ。

 偶然なんかじゃないだろう。

 どうしてみんないちいち、山野さんと自分とをくっつけたがるのかな。

 ほんと迷惑だ。


 心の中にぼやき続ける優。そうすることによって、罪悪感から逃れようとしていたのである。


「サジ、焦らずしっかりやろうぜ」


 足首を縛り終えた裕子は、すっと立ち上がった。


「……裕子さん、春奈さんにいってることと違う」


 焦ってやるから面白いなどといっていたくせに。

 でも、焦るに決まっている。

 緊張するに決まっている。

 やだな、二人三脚だなんて、なんでこんな余計なことするんだろう。強化合宿といっていたくせに、関係ないだろう、こんなこと。

 せめて全員が一斉にやるならいいけど、これじゃ目立つじゃないか。

 よりによって、こんなのと一緒だなんて。

 なんの罰ゲームだよ。

 こんなことやめて、もう帰りたい!


「なに?」


 裕子が見つめていた。正確には、優の視線に気付いて見返して来たようだ。


「ああ、あのっ、なんでも、ないです」


 つい、また敬語を使ってしまった。


「おい、また敬語に戻ってる」


 分かってるよ。うるさいな。敬語で話してはいけませんなんて決まりでもあるのか。


「よーし、それじゃあ美女と原始人ペア、始めるよー」


 梨乃は笛を口にくわえた。


「ちょっと待ったああ! それ、サジに失礼でしょうがっ!」


 山野裕子はずいっと一歩前へ出た。


「いたっ!」


 ぐいんと引っ張られた優は、鋭い悲鳴を上げた。


「大丈夫、失礼じゃないから。王子も、誰もが予期しない素敵な受け取り方をしてくれたようで、万人幸せで大いに結構。って、そんなどうでもいいことに食いつかなくていいんだよ、なんとなくいってみただけなんだから。ほら、じゃあ行くよっ!」


 梨乃は改めて笛をくわえ、吹いた。


「おりゃっす!」


 裕子が蹴った。叫び声とは裏腹に、そおっと丁寧に。

 二人は進み出す。


 緊張してすっかり動揺していた優であるが、ボールがとても優しかったので簡単に蹴ることが出来た。


 さらに裕子が蹴り、そして方向転換。

 裕子、優、裕子、優。


「おーっ」

「いいじゃん」


 みんなのそんな声を受けながら、二人はコースを進んで行く。


 周囲の声は、まったく優の耳には入っていなかった。

 緊張のためではない。緊張はしているが、それが理由ではなく、優はなんだか不思議な感覚に包まれていたのだ。


 裕子の転がすボールを受けるのが、気持ちよかったのである。

 荒っぽいけど優しい、なんともいえないそんなボールを受けるのが、そして彼女にボールを返すのが、気持ちよかったのである。


「すげえ、一等賞!」


 裕子の叫び声。

 いつの間にか、ゴールまで走り終えていたのだ。

 タイムは一分二十秒。これまでトップであった畔木景子衣笠春奈ペアよりも、十秒以上もの大差をつけての一位であった。


「痛い! まだ、足が」


 優は悲鳴を上げた。まだ紐を解いていないのに裕子が跳ね回るものだから。


「あ、ごめんな」


 裕子は、ようやくまだ結ばれていることに気が付いたようで、しゃがんで紐を解き始めた。


「しかし凄いよな、サジは。すっごいやりやすかったあ」

「……王子こそ」


 優は、ささやくような声で応じた。


 この中の、一体誰が気付いたであろうか。

 優の、山野裕子の呼び方が、裕子さんではなく王子になっていたことを。


 ささいなことではあるかも知れない。

 しかし明らかに、優は変わってきていた。

 そんな自分に、まだ優自身はまったく気付いていないのであるが。


 だから、裕子に対して以前から抱いている信頼してはいけないという頑なな気持ちも、相変わらずであった。

 もちろん木村梨乃や、他の部員たちに対しても。


 集団競技の面白さを理解出来るようになったし、他人との接し方も慣れたし、そういう意味ではこの部に入って良かったと思えるけれど、人間を信用するしないといった問題はまったく別のものだ。


 警戒をおこたるつもりは毛頭ない。

 自分の目的は、なにも変わっていない。


 高校生活を平穏無事に過ごして卒業が出来れば、それでいいのだ。

 中学時代に、友人と称して来る者を信じて裏切られた、もう絶対あんな目になんかあいたくないのだ。


     3

 宿舎に戻りシャワーで汗と疲れを流した部員たちは、続いて晩御飯の準備に取り掛かった。

 ゆうだけは、どれだけ疲労を流そうともこれっぽっちも流れなどしなかったが。

 むしろ、頭上から降り注がれるシャワーの重みにがくりと膝が崩れそうになるばかりで、余計に疲れただけかも知れない。


 食事の仕度であるが、優はたけあきらと組んでカレー作りの担当だ。

 晶がニンジン、ジャガイモ、タマネギなどを切り、優がそれらの野菜や肉を炒めてルーを整えるのだ。


「よし、完璧」


 晶は切り終えると、満足そうに包丁を置いた。といっても、些細な表情の変化でしかないが。彼女は感情をほとんど表に出すことがないタイプなのだ。


 優は鍋でブロック肉を炒めながら、ちらりとまな板の上の野菜へ視線を向けた。

 なんか形も厚みもバラバラで……酷い。


「これ、そのまま入れるの?」


 見た目どうこうというだけでなく、熱の通り方が変わって味も食感もバラバラになってしまうではないか。


「いい感じでしょ。普段まったく料理しない高校生としては、ではあるけど完璧に近い。ま、ちょっとだけ運もあるかも知れないけどね」


 その自信は、どこから来るんだ。この出来で。

 とにかく、これはこのまま使うしかないか。

 わたしがさらに切って形を整えたりなどしたら、自尊心を傷つけてしまうかも知れないし。

 わたしと同じで感情を顔に出さないけど、出さないだけで結構感情の起伏があるし、傷つきやすいからな、晶さんて。

 ほんま鬱陶しい。人間付き合いなんてほんま面倒じゃ。

 とりあえずは、ルーで調整しよう。

 とろみの多い感じにして、野菜に絡んで原形が分かりにくくなるようにしよう。

 濃いけどあっさりも感じられる味にすれば、野菜の味や歯ごたえもごまかせるだろう。

 よし、方針は固まった。やるぞ。


 と、調味料などを揃えていると、


「お、隠し味で牛乳入れたりするんだ」


 晶がぐいと首を突っ込んできた。

 自分の切った芸術作品が、人にどんな風に調理されていくのか興味があるのだろう。


 ただカレー鍋に放り込むだけなのに。邪魔だな。と、優は思ったが、もちろん口には出さなかった。


「牛乳? なんか聞いたことあるっ。それじゃあさ、コーヒーなんかは入れたりはしないの? 小さい頃に、兄貴の持ってた漫画で見たことあるんだけど」


 炊飯担当のしの。もうすっかり暇になっており、野菜クズの回収に来たのである。


「え、なに、コーヒーと牛乳をカレーに入れるの? コーヒーと? 牛乳? じゃあさあ、マックスコーヒーでいいんじゃない、マックスコーヒー。練乳にコーヒーだもん、マックスコーヒー。あたし、部屋から持ってこようか?」


 夏木フサエが、わくわくとした表情で、優へと擦り寄った。

 単にあらかじめ混じっていて合理的と考えたのか、それとも実験心が芽生えたのか、はたまたマックスコーヒーの魅力を世の中に伝導したいのか。


「先輩、邪魔しないで下さい。マックスコーヒー飲みたきゃ一人で飲んでて下さい」


 晶はにべなくいうと、フサエを優から引きはがし、背中をどんどんどんどん押して調理室から追い出してしまった。


「フサエ先輩、なんか悲しそうな目えしてたあ」


 伝導の志半ばにして夢潰えたフサエに、篠亜由美が同情の顔を見せた。


「いいんだよ。そもそもしつこいんだよマックスコーヒーマックスコーヒーって、あの先輩はさあ。あたしがフサエ先輩に点を決められたら、鼻で笑いながらマックスコーヒー飲んでないからだよーとか、関係ないじゃん。晶は飲んでないからムッツリ顔なんだよーとか、あたしの無表情は生まれつきだ」

「顔はろう細工みたいに無表情だけど、心は誰よりも変態だもんねー」


 いつの間にか、晶のすぐ後ろに山野裕子が立っていた。付け合せのサラダ作りが一段落したようである。


「そうそう、あたしの心は誰よりも、ってお前にいわれたくないよ! 変態王子!」


 晶は、お玉で裕子の頭を殴った。


 うるさいなあ、もう、と優はちょっとイライラしつつも、味を整える作業に一生懸命であった。


 たかがカレー、されどカレー、家族分を作ることはよくあったけど、ここまで大人数の分を作ったことなど初めてだ。

 上手に出来ただろうか。


 優は個人的には味についてのこだわりはなく、食べられればいいだろうという主義であるが、自分一人のために料理をしたことがなく、常に家族の分も一緒に作っていたため、結果的にこのようにやたらこだわる性質になっていた。


 小皿で味見。

 問題、ないかな。


「出来た、けど」


 優はみんなを見ながら消え入りそうな声を出した。


 本当に消え入りそうな声であったが、飢えたハイエナたちはそのかすかな声を聞き漏らすことはなかった。


「おー、メインディッシュようやく出来たあ」

「食えるうう」

「飢え死ぬ三秒前え!」

「誰かあ、先輩たちを呼んで来て」

「じゃ、あたしらが盛り付けっから」

「あー腹減った腹減った腹減ったハラヘリヘリハラア!」

「王子、うるさい!」


 などと慌しく騒ぎ駆け回り、ようやく腹ペコの乙女たちは合宿二日目の夕食にありつけたのである。




「いっただきまーす!」




 明日の分の体力を生み出すためにも夕食での栄養補給は必要であったし、仮にこの食事に栄養素など入っていなかったとしても、乙女たちのスプーンを止めることは出来なかっただろう。

 それほど腹がすいており、それほど優の作ったカレーからはなんともいえない香りが立ち上っていたのだ。


「誰、これ作ったの!」


 一口食べた山野裕子が、スプーンを握りしめたまま立ち上がって他の一年生たちを見回した。


「サジだよ。見てたでしょ」


 と、篠亜由美が口にしたその瞬間、佐治ケ江優はおろおろとした態度で立ち上がっていた。


「あ、ご、ごめんなさい!」


 なにかケチをつけられると思ったのであろうか。

 裕子は、にっと満面に笑みを浮かべた。


「なに謝ってんのよサジちゃ~ん、これ超美味いよ~。具もさあ、タマネギの溶け具合が絶妙で。人参やジャガイモがこんな美味しいと思えるカレー、初めて食べるよ。具の切り方も、よく見りゃなんか芸術的というかいぶし銀というか」


 優は、クレームでないことにほっと胸を撫で下ろし、腰を下ろした。

 まだ全然トレーニングで疲労した体力が回復していないので、がくりと膝が崩れそうになって、テーブルにしがみついてなんとか事なきを得た。


「あ、ほんと、おいしいね、これ」


 部長の木村梨乃からも賞賛の声が漏れた。


「具を切ったのは、あたし」


 武田晶が、自分の顔を指さした。

 その瞬間に、裕子の顔色が曇った。


「抜群に美味しいのに、切り方だけやけに下手くそと思ってたら、どうりで」


 裕子はなにか得体の知れない不気味なものでも見ているかのように、具をスプーンでつっつき始めた。


「芸術的って褒めてたくせに!」


 武田晶は、むっとした表情になった。といってももともとが無表情であるから、初めて彼女を見る者がいれば不満げであることなどまったく気が付かなかっただろうが。


「そういう後だしジャンケンみたいなことすんなよな。そもそも、具の切り方のことなんか、最初から褒めてない。だいたいさあ、芸術なんてのは、実績ある奴がなんか作ればなんでも芸術的なんだよ。どうでもいい奴が、ただ下手くそに切っただけのなんて、芸術でもなんでもない。サジの便乗でちゃっかり褒めてもらおうとしてんじゃないよ。それよりなにより、ジャガイモみたいな顔してるくせに、共食いじゃんかよ。包丁で切るの、よく平気だったなあ。あたしだったら、ジャガイモ語で切ラナイデーなんていわれたら可哀想で無理だなあ」

「具を食うな! ルーだけ食べてろ!」


 鋭い切っ先でズバズバズバズバ心を切り刻まれた晶は、ついに切れた。叫びながら身を乗り出し、手にしたスプーンで裕子の皿から具を奪おうとした。


「晶が怒った!」


 夏木フサエが、なんとも楽しそうに嬉しそうに叫んだ。

 普段、晶はその無表情な顔と同様に無口で、多少のことがあろうとも動じない。それがここまで激怒しているのだ、フサエでなくともわくわくしてしまうというものだ。


 裕子は平然とした顔で、自分の皿を持ち上げて、カレーライスを晶の攻撃から守った。

 フットサルでは裕子は攻撃のピヴォで、晶は守護神であるが、この場においては立場がすっかり逆転していた。


「やめろよ、味はサジの腕のおかげで最高に美味しいんだから。……分かったよ、晶も頑張った頑張った。えらい。文句なし。よっ、芸術家。素敵。ほんのちょっとだけいわせてもらえば、あと千倍くらい頑張ってくれると、もっとよかったかな」


 晶はぷるぷると肩を震わせると、ため息をつき、ゆっくりと腰を降ろした。なにをいったところでこちらが余計に頭に来るだけだ、と悟ったのであろう。


「でもさあ、ほんとサジ料理上手だよねえ。カレーだけで判断しちゃうのもなんだけど」


 やたらと優のカレーを褒める裕子。間接的に晶のことを貶めて、からかっているのだろう。


「……ありがとう」


 褒められたことに、優は肩を小さく縮込ませながらぼそりと声を出した。


「普段もさ、料理作ってんの?」


 裕子の質問に、優は一瞬の間をおくとこくりと頷いた。


「どこ住んでんだっけ? なに駅?」

「香取」

「おおっ、あたしもっ。南口? 北口?」

「北口」

「一緒一緒一緒っ」


 同じ駅を利用する高校生など珍しくもなんともないものだが、裕子ははしゃいで掴んだ優の手をぶんぶんと振った。


 正直に答えなければよかった。

 優の頭の中には早くも後悔の念が浮かんでいた。一緒に通おうなんていわれたら面倒だし、それどころかうちに起こしに来てとかいわれたらどうしよう、と。


「どっからどう見ても男女のカップルだよなー」


 浜虫久樹が頬杖をつきながら、はっきり聞こえるような声で呟いた。


「サジ、男の子だってよ~」


 裕子はにやにやと笑みを浮かべながら、優のほっぺをつっついた。


「こんな可愛いのに、失礼しちゃうよねー」

「男の子扱いされてんのは王子だろ。自分に付けられたそのあだ名で気付けよ」


 武田晶が、見るからに不機嫌そうな顔でぼそり。おそらくまだ、野菜の切り方をボロクソけなされたことを根に持っているのだ。


 鈍い裕子も直接指摘されてようやく気が付いたようで、テーブルをバンと叩いて立ち上がった。


「なにい? 久樹ぃ、よくもこらあ! この髪の毛ですか? 未来先取りのこの髪の毛が男ですか? この顔ですか? この綺麗で哀愁のある顔立ちが男ですか? そんなんゆうなら、パンツ脱いで見せたろかオラアア!」


 裕子は疑惑を証明しようと、ジャージの腰に指を突っ込んだ。


「うるさいよバカ! おとなしく食ってろ!」


 久樹は自分でからかっておきながら、裕子のあまりの反応の過剰さとうるささに怒鳴り返した。


「変なもん見せられたら美味しいもんも不味くなるよ」


 なおも小声でぶつぶつ呟く久樹。


「分かった、久樹先輩、この前カラオケで負けたことをまだ根に持ってんでしょ? きっとそうだあ」


 裕子はささっとテーブルを回り込んで久樹の背後に立つと、両の人差し指でほっぺをつっつき始めた。


 佐治ケ江優は、だんと足を踏み鳴らした。


 ああもう、ほんまうるさい!

 山野裕子も浜虫先輩も、他のみんなも、ほんまうるさい。

 ただうるさいだけなら我慢もするけど、さっきみたいにいちいち話しかけてくるからな、この連中は。


 なんで、わたしが気弱で無口と知っていてわざわざ近寄ってくるかな。

 同じ無口でも、晶先輩みたいに実はいじって欲しいという人もいるだろうけど、そうかどうかなんて普段の態度ですぐ分かるだろ。わたしは、誰とも話したくないんだよ。


 心の中で、不満の言葉をマシンガンのように撃ちまくった。

 普段そこまで部員たちのことを鬱陶しく思っているわけでもないのだが、さすがに今日はあまりにもうるさすぎて。


 二時間きりの学校での部活練習と違って、合宿でみんなと一緒に生活しているのだから当然といえば当然なのかも知れないが。


 でも……

 やっぱりちょっと、あまりにもうるさ過ぎやしないか。

 それともわたしが悪いのか。

 いや、誰か悪いかということなら、間違いなくこの連中だろう。

 せめて、喧嘩だけでもやめてくれ。

 半分冗談でやっているのだとしても、そんなことわたしには関係ない。

 ほんま、耐えられない。


 喧嘩をやめてほしいという願いは、すぐにかなうことになったが、優の悩みや苛立ちは微塵も解消されなかった。

 口喧嘩していた浜虫久樹と山野裕子が、あっという間に仲直りしたのはいいが、テンションが上がって山野裕子歌謡リサイタルが始まってしまったのである。


 ただただ静かにしていたい優としては、もう気が狂わんばかりであった。

 何本か、脳の血管が切れたかも知れない。


     4

「ABCABC、CメロなくてBメロぉ、サビのところのこんな細かな語調がぁそうよそうなのアーイドル♪ わたしわたしはアーイドル♪ ゆらゆら揺れるペンライトの、明かりの海に泳ぐ、ちょっとキュートなマーメイドお。貝殻取っておっぱいぶらぶらあ! ブラブーラ、ブラブラちゅっ♪」


 カレーのスプーンをマイクに絶唱しているのは、やまゆうである。

 成田キャンプ場内特設ホール(単なる食事部屋)、山野裕子リサイタルの二曲目だ。


「王子、貝殻取ってどうこうってとこ、勝手に作んないでよ! 貝殻水着で海藻ゆらゆらあ、でしょ! ラブラブちゅっ、でしょ! あたし星川えりなのファンなんだからね! あまり汚すと殺すよ!」


 好きなアイドル歌手の歌を愚弄されたと激怒するしのであるが、裕子はまるでお構いなし。いつしか気分はディナーショーのつもりになっていたのか、歌いながらもテーブルの間を流し目で回り始めた。時折投げキッスなどしながら。


「よ、アイドル」

「変態!」

「女装王子! オカマ!」


 はまむしひさが、裕子のジャージズボンの腰に、紙幣に見立てたかペーパータオルをそっと挟み込んだ。


「女が女の格好するのは女装とはいいませーん。女装しているのは、久樹先輩の方でーす。何故なら名前からして男だからでーす」


 裕子は歌を中断して、久樹の合いの手に食いついた。


「いいえ、男なのは裕子の方でーす。何故ならあ、王子だからでえす」


 などといいながら、久樹はもう一枚ペーパータオルを挟み込んだ。


「そっちが勝手にそう呼んでるだけじゃないですか!」

「だってえ、呼べといわんばかりの男みたいな髪型してるじゃないですかあ、山野裕子さあん。女子トイレに入ったらあ、みんなが悲鳴を上げて逃げるようなあ、どう考えてもそんな外見をしてるじゃないですかあ。普段自分のことを、オレとか我輩とかいってるじゃないですかあ」

「いってねえよ! 違う……いって、ないわよ! ほほほーだ!」


 こうして先ほど仲直りしたばかりだというのにものの十分ももたず、佐原南高校女子フットサル部の名物であるこの二人の口喧嘩が始まったのであった。


 部員たちは楽しそうに二人の喧嘩だか漫才だかを眺めていたが、優だけは不満げな表情であった。


 不満というよりは、イラだちを隠せないという方が正しいだろうか。

 山野裕子や浜虫久樹、周囲の者が、実に楽しそうな顔で騒いでいることに対してである。


 嘘だ。


 心の中で、そう呟いていた。


 大人は嘘つきというけれど、わたしたち子供だって同じだ。

 すべてが嘘で塗りかためられている。

 ただ楽しそうな演技をしているだけだ。

 腹の中では、他人を蹴落とすことしか考えていないくせに。

 どうすれば自分が得をするかしか考えていないくせに。

 楽しそうにしていることだって、自分たちは仲が良い、自分たちは善人だ、と思い込みたいだけだ。自分が気持ちよくなりたいだけだ。

 どうせ下らないことですぐ憎み合ったりするくせに。

 こんなの、みんな嘘だ。

 出鱈目だ。

 特にこの山野裕子というのは、一番信じられない。

 腹黒い、とか、そういうところはあまりないと思うけど、世の中は楽しいと思っているような、いわゆる自己欺瞞の塊みたいなところが大嫌いだ。

 なんでそんな、世の中を信じているような顔をしていられるのか。

 こんな嘘ばかりの世の中を。

 ほんまに腹立たしい。

 ほんまに……


 優の指先は、ぷるぷると震えていた。

 立ち上がると、一人部屋を飛び出してしまった。


     5

 追い掛けられていた。

 暗く、狭い中を。

 足音。

 笑い声。

 ぐらぐら揺れて、まともに走れない。

 振り返る。

 まだ、その姿は見えない。

 でも、声がどんどん大きくなる。

 近くまで迫ってきている。

 頬、お腹、背中、四肢、すべてに打撲による鈍痛があったが、痛みにうずくまっている暇などはなかった。


 逃げなければ。

 もう、あんな目になどあいたくない。

 怖い目になんかあいたくない。

 助けて。

 助けて……


 走った。

 走り続けた。

 ぐらぐらと揺れる、狭く、暗い通路を。


 前方に、なにかが立っているのがうっすらと見える。

 四つ足の動物。

 はっきりと、見えてきた。それは、犬であった。

 大きく、低くどっしりとしている。土佐犬であろうか。

 その唸り声に、恐怖し、びくりと身体が震えていた。

 立ち止まっていた。

 背後から、笑い声が聞こえてきた。


 振り向くが、漆黒の闇があるばかりで誰の姿も見えない。でも、間違いなく迫ってきている。


 足音に、前へと向き直ると、犬が床に爪を打ちつけながら猛然と飛び掛かってきていた。


 ひっ、と息を飲みながら、反射的に両腕で正面を庇っていた。

 そのガードごと、激しく突き飛ばされ、背中で窓ガラスを割り、反対側へ転落した。

 ビルの最上階から、粉々になったガラスや自分を突き飛ばした犬とともに、落ちていた。


     6

 ゆうは、毛布を払いのけて飛び起きていた。


 呼吸が荒い。

 全身が、汗でじっとりと湿っている。


 暗い室内。

 どこだ、ここは。


 周囲を見回すまでもなく、すぐに気付く。

 ここは、ベッドの上だ。

 二段ベッドの下段で寝ており、嫌な夢を見て目覚めてしまったのだ。


 すーー、っと深く息を吸った。


 また、あの夢を見てしまった。

 二度と見たくなんかなかったのに……


 ため息をつくと、ぶるっと身震い。自分の両肩を抱えた。

 と、その時である、上から「うーん」という声と、ガタガタといった音、振動、次の瞬間、黒い影がすっと優の視界の端を上から下へ走った。

 どさり、となにかが落ちた。


「うわああああっ!」


 突然のことに、優は思わず大きな声で悲鳴を上げていた。


 これは夢の続きか。

 それとも、現実の方が夢なのか。

 なんだ、一体なにが落ちた。

 いまのはなんだ。


 すっかり混乱していると、


「あいててて」


 床に倒れていた山野裕子が、腰をさすりながら、ゆっくりと起き上がった。


 どうやら、いまは夢ではなく現実。

 どうやら、山野裕子が二段ベッドの上段から落ちたということらしい。


「くそっ、また落ちた」


 裕子ははしごに手をかけ、また自分の夢の世界へと戻ろうとしたところで、ベッド下段で優が上半身を起こしているのに気が付いた。


「起こしちゃった? ごめん」


 暗がりの中、裕子は済まなさそうに、きまり悪そうな笑みを浮かべた。


「少し前から起きてた。それよりも、大丈夫? 頭から落ちたような気がするんじゃけど」

「大丈夫じゃろ。これ以上は悪くならんじゃろ」


 裕子は、たまに出る優の方言を冗談ぽい顔で真似した。


「ほうゆう問題じゃあ……」


 まあ、大丈夫というのなら大丈夫なのだろう。

 だって、山野裕子なのだから。


     7

「でね、中に上がり込んでいたチョコの家が、いつの間にか空高く飛んでいたらしくて、ふわふわ無数に空に浮いてる小粒チョコを取ろうと窓から手を伸ばしたら、ベッドから落ちた」


 やまゆうは、ヘッドダイビングで床を陥没させた理由をゆうに話した。


 教えてもらったはいいが、優はすっかり返答に困っていた。


 これはいわゆる軽口に相当する会話だと思う。命に関わる問題といえなくもないが、しかし、おそらく山野裕子としてはそのような自覚などないだろう。

 軽口であるとして、しかし自分はかつてこのような会話を一度もしたことがない。

 どう受け止めて、どう返せばいいのか、まるで分からなかった。


「そうなんだ」


 だから、そう返すのが精一杯であった。


 言葉がなにも思い付かないのは、裕子の体温がやたら温かいというせいもあったのだが。

 二人は、同じ毛布にくるまっているのである。


 裕子はあの後も、再びベッドから落ちており、優が気を使って寝場所の交換を申し出たのだ。

 だが上段へと上ってみたところ、ゴミの山、食い散らかしのあと、なにを食べたのだかシーツにはケチャップのような汚れ。

 どうりでなにか匂うと思ったらこんな有様。裕子からの好意(?)により、このように下段で同じ毛布にくるまって寝ることになったというわけである。


「サジはさあ、どうして起きてたん? あたしが落ちるより前から目覚めてたっていってたよね」


 嫌な質問をしてきた。

 でも、裕子のメルヘンな会話に相槌を打つよりましかも知れない。


「ビルの中を追いかけられている夢を見てね」

「誰に?」

「広島にいた頃の……」


 優は裕子に、悪夢を見たことや、そこから繋がって過去に受けたいじめのことなどを話していた。


 自慢げに語るようなものではないし、嫌な記憶であるが、すでに木村部長に話したことのある内容であり、だから他人へ語ることへの抵抗感はさほどなかった。


「ふーん。……よく、分かんないや」


 裕子はそういうと、それきり黙っていたが、しばらくしてまた口を開いた。


「なんで分からないのかってことなんだけど、あたしもほらこんな性格じゃん、だから、みんなからよってたかって嫌なことされたりって経験あるんだよね。でも、すぐに相手のことブン殴って騒ぎを大きくしちゃってたからなあ。あたしバカで、この通り体力だけはあるからさ。だから、陰でいじめられ続けていたってことがなくて、だから、サジの身になって考えてあげられそうもない。ごめん」

「ほやから、別に同情してもらいとう思って話したわけじゃないけえね」


 優は唇を尖らせた。

 同じ毛布にくるまりながら、裕子は、うっすらと笑みを浮かべていた。


「なんかさ、こうやって寝ていると、楽しいよね。二段ベッドってだけでもわくわくするのに、さらにこうやって二人で毛布にくるまってたりしてるとさ、秘密基地みたいでさ、楽しいよね」


 人の話、聞いていたのだろうか。

 優は、呆れてしまう。


 質問をしてくるから嫌な過去を話してあげたというのに、まったく関係のないことで笑ったりして。


 しかも、いまのいままで会話をしていたばかりだというのに、もう寝息が聞こえているのだから。


 しん、と静まり返った部屋。

 ほんの少し前までが賑やかだったものだから、余計にそう思えてしまう。


「ほじゃろうか」


 暗がりの中、優はぼそり、呟いた。

 二段ベッドにわくわくするといっていた裕子の言葉を、真面目に考えていたのだ。

 いくら考えてみても、答えは変らない。やはり、二段ベッドにわくわくしたりなんかしない。


 どういった過程を経て、そういう心理に至るものなのだろうか。

 分からない。

 そもそも、人生でわくわくとした経験自体がない。

 強いて挙げるなら、あの、関サルでの試合の時くらいであろうか。


 でも、何故だろう。

 少しだけ、気分が楽になった気がする。


 話して楽になるような、自分はそんな性格ではないと思っていたが。

 単に、人と話す機会がほとんどない、という、ただそれだけだったのだろうか。

 などととりとめなく様々なことを考えているうちに、やがて優も隣の裕子のように眠りに落ちていた。


 今度は、深い眠りに落ちたか悪夢を見ることもなく、そのまま朝を迎えることが出来た。

 前日に酷使した肉体は、まるで回復していなかったが。


     8

 春の合宿から半年ほどの月日が流れ、すっかり紅葉の季節である。



 さわやかな秋晴れの空の下、佐原南高校の校庭では体育祭が行なわれていた。


 普段教室で使用している椅子が、クラスごとにまとまって並べられている。

 ゆうは自分の椅子に座り、じっとうつむいているかと思えば周囲の声に反応して顔を上げ視線をきょろきょろさせたり、なんとも落ち着きのない様子を見せていた。

 もうすぐ、二人三脚走が始まるのだ。


 先ほどの百メートル走で、凄まじく肥満した子に思い切り突き放されてのぶっちぎり最下位を味わったばかりである。

 競争は全般苦手だというのに、あの緊張感の中でまた走らなければならないのだ。ただ他人に笑われるためだけに。

 これが冷静でいられようか。


 競技の相方がやまゆうとはいえ、その相方は自分なのだ。計測不可能なくらいの、酷いタイムになるに決まっている。永遠に塗り変えられることのない、大記録達成請け合いだ。


 半年前、フットサル部の合宿で二人三脚ドリブル走というものを経験した。

 その時には、一等だった。

 でもあれは、とどのつまりドリブルの速度だし、見物人の数だって今日よりも遥かに少ないし、知った顔ばかりだし、だから、いま思えばであるがそれほどの緊張ではなかった。


 今度は全校生徒のみならず、保護者もいる。

 最悪もいいところだ。


 おそらく自分は、この学校で一番足が遅い。

 だというのに、なぜこのように走種目ばかりやらされるのだろうか。


 とはいっても、ならばなにが得意な運動なのかと問われれば、そんなものはなに一つとしてないのだが。

 まさか体育祭でフットサルというわけにもいかないだろうし。


「梨乃先輩、相変わらずだなあ」


 山野裕子が、自席へと戻って来た。

 そそくさ走り去って小さくなるむらの背中に、手を振っている。


「でも借り物競争って、なんか似合わないよな。確か中学時代、陸上部とかいってたのに」


 現在借り物競争の真っ最中で、三年生の木村梨乃は裕子に時計を借りに来たのである。

 既にフットサル部を引退した梨乃であるが、まだ裕子とは仲が良かったためだ。


「サジ、そろそろじゃない? 身体、あっためとけば?」

「うん」


 優は椅子から立ち上がって、後ろへ行くとストレッチを開始した。どこからあのような常人離れしたボール捌きが生まれるのか、とフットサル部の佐治ケ江優を知る者からすれば不思議で仕方ないというくらい硬い身体であった。


「野田コージの物マネ出来る人~、いないっすか~」


 裕子たちのクラスメートである、えんどうしんろうが近づいてきた。彼も木村梨乃と同様に、借り物競争に出ているのだ。


 彼は、裕子がいることに気付くと、一筋の光明を発見したかのように少し表情が明るくなり、足早に近寄りながら、


「あ、山野、野田コージの物マネ、この前やってなかったっけ? お前出来ない?」

「出来るよ~」


 というが早いか山野裕子は、下あごを突き出して、腰を落とし、腕をだらりと下げて、なんだかゴリラの真似のようにウロウロちょろちょろ小走りしながら、


「おーい、ぷりぷり小学校五年三組のケンタ君、ヨシオ君、マナブ君、サトル君、筋肉、切れてるう? ナーイスバルク!」


 最後にぴょんとジャンプして、ボディビルダーのムキムキポーズでビシッと着地した。


「うまい、お前天才! つーか、バカ」


 と、遠藤慎太郎は手を叩いて大喜びだ。

 彼だけでなく周囲も大笑いであったが、そんな中で佐治ケ江優は一人、不安だった心がますます不安になって、手がぶるぶると震えていた。


 周囲の笑い声に、この後に来るであろう自分たちの姿を想像してしまったのである。


 転んで、起き上がっては転んで、ふらふらと、どこへ行くのか分からず、また転ぶ。

 王子一人なら誰よりも、ひょっとして男子よりも速いかも知れないのに、わたしと一緒になったばかりに、恥をかかせてしまうことになるかも知れない。いや、絶対にそうなる。

 どうしよう。


 最下位になるのは構わない。

 せめて、転倒したくない。

 もしも転んだら、笑われる。


 逃げたい。

 この場から、逃げ出してしまいたい。


 やりたくない。

 二人三脚なんか、やりたくない。


 と、また優の、恥ずかしい目にあうことを異常に恐れるという悪い虫が出てきてしまっていた。

 そして、ついに死刑宣告。場内アナウンスが流れたのである。


「女子二人三脚走に出場する方は、朝礼台前に集合して下さい」


 優は、もう手だけではなく頭から足の爪先までが、ガタガタ震えていた。


「あ、呼ばれちゃった。ごめん、遠藤。行かなきゃ」


 裕子は、遠藤慎太郎の肩をぽんと叩いた。


「えーー。なんだよもう」


 遠藤はふて腐れたように地面を蹴り付けた。

 せっかく借り物競争の非道なムチャ振りを、いとも簡単に解決出来る奇跡の存在がするり逃げてしまったのだから当然であろう。高得点狙いの借り物カードをわざわざ引いた、彼自身が招いたことであるとはいえ。


「サジ、行くよ」


 裕子は、優をちらりと見た。

 優は、遠目からでもはっきり分かるくらいに、ぶるぶると震えていた。


「どした? オシッコだったら早く行ってきなよ。どばどば出しとけば、その分、軽くなるし」

「ほじゃのうて!」

「なら、どうした?」

「あ、あの……緊張、しちゃって」

「昨日一昨日の練習通りやりゃあいいんだよ。つうかさ、そもそも二人三脚なんて、楽しんだもん勝ちなの。フットサルの合宿の時だってそうだったろ。ほら、行くよ」


 裕子はそういうと、優の腕を強く引っ張って歩き始めた。

 ここで子供のようにいやいやをするわけにもいかず、優としてはおとなしくついて行くしかなかった。


 集合場所である朝礼台前に到着すると、裕子は運営委員の女子から長く太いオレンジ色の紐を受け取り、自分の左足と優の右足とをきつく結んだ。

 二人の出番はまだ後だ。


 どうせなら一番に終わらせてしまいたい。いや、走らずにここから逃げてしまいたい。と、優の心はいまだに覚悟定まらず、おろおろとしていた。

 突然、ピストルのパンという音が鳴り響いた。


「あっ」


 と、優は甲高く情けない悲鳴を上げた。

 競技が始まったのだ。

 最初の走者たちが、一斉にスタートした。


 佐原南高校体育祭の二人三脚走は、少し距離が長い。四百メートルトラックを一周という、通常ならばリレーで使うような距離を走るのである。


 みんな、速い。まるで一人で走っているかのような速度だ。

 タイミングが合わずに、転倒してしまうペアもいる。優はそれを見ていて、自分のことのように思い胸が痛くなった。


 でも同情している暇などはない。

 あれは自分の未来であるのだから。

 そしてついに、自分たちの順番が回って来てしまったのだから。


 隠しようもないほどに、優は緊張してしまっていた。顔が青ざめ、身体がガタガタと震えている。

 ぎゅっと結ばれた足を伝って、裕子までが震え出しそうなくらいであった。


「サジさあ、人前でおならぶっこいたことあるか?」


 唐突に、裕子がそんな質問を投げ掛けてきた。

「ない」


 歯の根が合わないくらいガチガチと打ち鳴らしながらも、優は即答していた。


 こんな時じゃというのに、そがいなふざけた質問をするな。あ、いや、こんな時だけじゃのうて。大体どうしていつもこんなにふざけておるんじゃ王子は。


 優は、以前に山野裕子のことが大嫌いだったことを思い出していた。

 いまは別に嫌いというほどではないけれど、でも時折このようにわけの分からないことをいい出すのにはついて行けない。


「だよね。もしもそんなことがあったんだったら、もう恥ずかしくて恥ずかしくてとっくに自殺しちゃってたりとか、学校に来らんなくなってたんじゃない? 真面目真面目で笑って誤魔化すことが出来ない。ゆとりがない。カッコいいとこ見せるつもりはないけど、カッコ悪いとこ見られるのも嫌。だから、緊張しちゃうんだよ」


 裕子はそういうと、口を結んだ。


 勝手なことばかりいっとる!

 優は、上から目線の裕子の言葉に少しカチンときていた。


 確かに裕子ならば、人生を左右するような大事な場面で、いまいったような恥ずかしいことをしでかしてしまったとしても、平気で大声出して笑っていられるだろう。


 ほじゃけど、


「あたしは、王子じゃない」


 大体それ、鉄の心臓というよりも、単に羞恥心がないだけじゃないか。

 そがいな話、こんなとこでしてなにがどうなるんじゃ。

 ふざけるのも大概にしてほしい、ほんま。


「そうだね。でもさ、今後も生きてりゃあ、来るよ。緊張すること。どうしようって思うこと。恥ずかしいってこと。みっともないってこと。今後、いくらでもあると思うよ。あと六十年も七十年も人生続くんだぜ。もっと、楽にならなきゃ。自分なりの向き合い方、探していかないと、辛いよ」

「ほじゃけど……確かに王子のいっとることが理想かも知れんけど……」


 優は自分の口の中だけで、もごもごと呟いた。

 誰が好きで辛い目になどあいたがるものか。


「次のペアは、位置について下さい!」


 スターターの声に、優と裕子は肩を組んだ。


「ほら、始まるよ。恥、かいてこようぜ。思い切りさ」


 裕子は優を引きずるように力任せに足を動かし、スタート地点へと歩き出す。


「ちょ、痛い、自分で歩くから」


 優は、裕子に追いつき肩を並べた。

 スタートラインに立った。

 他に、三組のペアが並んだ。


「行きますよ~」


 スターターがピストルを高く掲げた。

 優は、ごくと唾を飲み込んだ。


 パン、と鳴り響く銃声に、四組は一斉にスタートした。


 優たちのペアは、運が良いのか息が合うのか出だしが良く、どのペアもほとんど差はないとはいえ二位についていた。

 初っ端から転倒するに決まっている、そう思っていた優にとって、このペースは意外であった。


 だがしかし、トラックの第一カーブに差し掛かったところでバランスを失い、足をもつれさせ、二人は転んでしまった。


「王子、ごめん!」


 優は地面に両手を着いて起き上がりながら、謝った。しかしもつれて、再び転んでしまった。


「こっちこそごめん」


 先に立ち上がった裕子は、優の手を掴んで、引っ張り起こした。

 二位から、一瞬にして最下位になっていた。


 他の三組はミスせずに進み、もう遥か先の第二コーナーを曲がっているところだ。


 一度転倒してからというもの、それまで調子のよかった優と裕子の走りは実にギクシャクとしたものになった。

 追い上げなければ、という焦りの気持ちからではなく、大勢の前でもつれ転んでしまったという優の恥ずかしさのためであった。

 少なくとも、優はそう思っていた。


 転んで恥をかくことになるなど、走る前から分かっていたことだというのに。ギクシャクどころか、真っ直ぐ進むことすらままならない状態になってしまっていた。

 それぞれの歩調がまるで合わず、そのせいでバランスを保つことが取れず、右にふらふら、左にふらふら。転倒。起き上がろうとして、また転倒。

 なんとか起き上がって走り出すが、

 ギクシャク、

 ギクシャク。


 果たしてこれは、走っているといっていいのか。

 ふう、と情けない息を吐きながら、優はふと裕子の顔へちらりと視線を向けていた。

 裕子は、なんとも楽しそうに薄笑いを浮かべていた。


「なに?」


 視線に気付いて、裕子も優を見返した。


「そんなニヤニヤと笑わなくたって! ……これでも、精一杯頑張ってるんだから」


 優は目を潤ませながら、不満に唇を尖らせた。

 だいたい王子はずるい。一緒に恥をかこうみたいなことをいっていたけど、そもそも王子自身はそういうの平気なんだから、ほいじゃあなんだかうち一人だけが恥をかいているみたいになるじゃろ。


「バカ。サジのことなんか笑ってないよ。さっきいったろ、二人三脚は楽しんだもん勝ちなの。そうだ、合宿の時にやった二人三脚ドリブルしよう。透明ボール使ってさ。ほら!」 


 そういうと裕子は、ボールをぽいと前方へ放り投げる仕草をし、強引に走り出した。

 優は引っ張られ、しかたなく速度を合わせた。


 そして次の瞬間、優は放り投げられ宙に浮いているボールを見たのである。

 そのボールは地面に落ちると、低くバウンドし、ころころ転がった。

 二人はそれを追った。


 優はボールを蹴った。

 ころころ転がるボールを二人は追い掛け、今度は裕子が蹴った。

 そしてまた優が。


 誰の目にも映っていないであろうが、でも確かに存在している魔法のボール。二人は、それを追い、蹴り続けた。


 もう他の三組は、とっくのとうにゴールに到着している。

 そんなことはまるで気にせず、二人は二人にしか見えないボールを蹴り続けた。

 二人はいま、完全に一人になっていた。

 やがて、彼女たちの前にもゴールが近づいてきた。


「王子」


 走りながら透明なボールを蹴る優は、肩を組み一緒に走っている裕子の顔を見つめていた。


「ん?」


 裕子も、ほんの一瞬だけ優へと視線を向けた。優と違って、しっかり見ていないとボールを蹴れないのだろう。たとえ誰にも見えない空気のボールであろうとも。


「どうも、ありがとう」


 優は、それだけいうと唇をきゅっと結んだ。


「なにがだよ。変な奴だなあ」


 裕子は、にっと笑った。


 二人はそのまま走り続け、そしてゴール。

 裕子は、心から楽しげといった表情でガッツポーズを作った。


 どう弁解のしようもない、完全なる最下位。

 だけど二人には、なんともいえない奇妙な達成感が生まれているようであった。

 少なくとも優にとっては、間違いのないこと。

 しかし、そのなんとも名状しがたい心地のよさの、正体がまるで分からず、ただむず痒いだけであった。


 でも、裕子の笑顔を見ているうち、段々とその感覚がなんなのかはっきりしてきた。


 ああ……

 そういうことなんだ……


 自分の感覚の正体を理解したその瞬間、すべてが真っ白な光に包まれていた。


     9

 素直になるのが怖かった。

 ただ、それだけだったのだ。

 恥ずかしくて、みっともなくて、誰にもいえないことだけど、でも、そういうことだったのだ。


 人間はすべて悪であると、そうあらかじめ覚悟しておかなければ、いつ自分の心が壊れてしまうか分からなかったから。


 部のみんなのおかげで、わたしはとっくに変わることが出来ていたのに、気付かない振りをしていたんだ。


 慣れ合うことを頑なに拒絶していたわたしが、いつしか居場所を見つけ、しっかり根を張り、みんなの中に溶け込むことが出来ていたというのに、それを素直に認めることが出来ていなかった。


 わたしがなにかをしたわけではない。

 ただ部のみんなが、特に王子が、変えてくれたのだ。


 でもなんだか、その居心地の良さが怖い気もする。

 人間など絶対に信じない。そう頑なに思っていたのに信じてしまっているということが怖いのか、それとも自分が仲間の中に入って弱くなってしまっていることが怖いのか、それは分からないけれど。


 でも、誰も信じずに生きることが果たして本当に強さといえるのか。

 いえないと思う。


 だって、王子は信じていてあんなに強いではないか。

 人だけでなく、あらゆるなにかを漠然と、でも確固たる気持ちで信じていて、それでいてあんなに強いではないか。

 ならば、信じよう……


 山野裕子の信じるものを、自分も信じてみよう。

 山野裕子の見るものを、自分も見てみよう。


 過去は変えられない。

 でも自分の心は変えられる。

 自分の生き方は変えられる。

 そうなれば、過去への肯定も出来るかも知れない。

 生まれてきた必然性を見つけることが出来るかも知れない。


 それならば、探してみよう。

 自分の生き方を。

 進むべき、道を。


 などと思っていたら、どっと涙が溢れていた。


 何故……

 なにも悲しくなんかないのに。

 信じると、決めたのに。

 生き方を変えよう、そう決めたのに。


 ああ、そうか。

 だからだ。


 嬉しいからだ。

 それと、申し訳ないからだ。

 ぜんぶ嘘だ、などと王子の明るさを否定していたことが。


 わたし、ここに来てよかった。

 香取市のおじの家に引っ越すことになって、この高校に通うことが出来て、本当に良かった。

 本当に。


 涙は涙を呼び、優はいつしか嗚咽の声を上げていた。

 拭っても拭っても、目から涙がこぼれてくる。

 視界がぐしゃぐしゃで、なんにも見えなかった。


 恥ずかしい。

 恥ずかしくてたまらない。

 人が大勢いるというのに。

 こんなところで泣いていたら、二人三脚でビリになって泣いていると勘違いされてしまうではないか。


 でも、ぼろぼろこぼれる涙も、嗚咽の声も、どうしても止めることが出来なかった。

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