第四章 ただ一人

 二〇〇六年

 佐治ケ江優 十二歳



     1

「バーカ」

「キモッ」

「来るな」

「死ねば」

「息吸うな」


 ぱらぱらとめくったどのページにも、マジックペンで太く大きくこのように書き殴られていた。


 ゆうは、聞こえないような小さなため息をつくとノートを閉じた。


 周囲の視線が自分に集まっているのを感じる。

 実際、あからさまににやにやとした表情で、みんなが優を見ていた。反応を楽しんでいるのだろう。


 ノートを使い物にならないよう無茶苦茶にされたため、仕方なく古いプリントの裏を使って板書を写し取ろうとした優であるが、筆箱の中の鉛筆が取り出してみると五本ことごとくが真ん中からへし折られており、ご丁寧にも先端の芯の部分もすべて折られていた。


 それだけではない。

 シャープペンも、中のスプリングが抜き取られていて、ノックしてもスカスカとした感触がするばかりで芯が出ず。


 でもこんな程度は慣れっこだ。とばかりに優は、すました表情で顔を上げて、黒板に視線を向けた。


 内心は、ドキドキして心が潰されそうで、いますぐにでも逃げ出してしまいたかったが。


 ただ人に見られているだけでもそんな気分になるような性格なのだから、いじめを受けているともなれば当然のことだろう。


 優は、さらなる追い打ちを受けた。

 すぐ後ろの席に座っているなかが、軽く腰を浮かせると、優のブラウスのえりを掴んで引っ張り、首との隙間に昨日の給食の残りであるイチゴジャムの小分けパックを差し込んでギュッとつまんで押したのだ。


 びいーっ、という音が、ささやかながら教室中にはっきりと響いた。

 隅を切り取った小さな穴から、ジャムが勢いよく吹き出したのだ。


 優は予期せぬ感触に、ひっと息を飲み、びくりと跳ね上がった。


「どうかしたんか!」


 数学担当のぐらあきのぶ先生が、授業を妨害されたと思ったか声を荒らげ振り向いた。


「いえ、なにも」


 優は青ざめた顔色で、答えた。


「落ち着きがないんじゃ。このアホたれが」

「すみません」


 軽く頭を下げ、謝ると、ちょっと不快そうに顔をしかめた。服の中にイチゴジャムを思い切りぶちまけられたのだから、当然だろう。


「先生、もっとしっかりと注意をして下さい。佐治ケ江さん、さっきの授業でもこんなじゃったんですよ。うちら勉強に身が入りません。本人が頭がいいからって、他人の邪魔をするのって最低じゃと思います」


 桜庭さくらばかえでが、不満そうな声を上げた。なんだか多分に演技めいた口調ではあったが。


「ほうじゃほうじゃ」

「きつく叱って下さい!」


 他からもそんな声が上がった。口調は不服そうであったが、みんな実に楽しそうな笑顔であった。


 この通り、優への幼稚ないじめは中学に入っても相変わらずだった。通学区の関係上、優と同じ小学校からは全員が同じ中学に上がっており、当然といえば当然であったのかも知れないが。


 相変わらずどころか、むしろエスカレートしてさえいた。

 子供の情緒や残虐性に、大人の知恵がついてきているのだ。


 だが小学生時代とは明らかに異なる点が、ひとつだけあった。

 それは……


「桜庭さんが、またなんか後ろから佐治ケ江さんに悪戯したんやないの?」


 一番前の席に座っているとうどうのぶが、すっと自席を立って後ろを振り向いた。


「はあ? なんなんよ、またって。意味分からんわ」


 桜庭かえでは、口の片端を吊り上げて苦笑した。


「またはまたじゃ。自分の胸に手を当ててよく考えてみい」


 さらり返され、桜庭かえではふんと鼻を鳴らしてそれきり黙った。


 そう、この藤堂伸子のような存在こそが、小学校までの環境とは決定的に異なる点であった。


「佐治ケ江さん、いじめられたら黙っとらんでいつでも相談してね。友達なんじゃから」


 彼女は正義感が異常に強いのか、自分もいじめの対象になるかも知れないということをいとわずに、優によく接してくれるたった一人の存在であった。


 よく接してくれるどころか、この通り友達とまでいってくれる。

 学校以外での付き合いは特にはないけれど、でも優にとって彼女はいくら感謝してもしきれない相手であった。


 だって、もしもこのクラスに彼女がいなかったなら、中学になって格段にエスカレートしたいじめに耐えられずに、自分はここにこうして生きているかどうかも分からなかったのだから。


 だから優は、相変わらずいじめられてはいるものの、誰にも不満をいうことなくこの境遇に我慢することが出来ていた。


 我慢出来ていたから、優は服の中にジャムをぶちまかれたことも、藤堂伸子には黙っていた。

 そういう存在がいてくれるというだけで充分だから。


 それだけ小学生の頃は、完全孤立していたのである。

 いつか、この恩に報いてあげたいと思うけど、でもなにをしてあげればいいのか分からない。

 それがなんとも、もどかしかった。

 などと考えているうちに、授業終了の鐘が鳴った。


     2

 ブラウスのボタンを外すと、そっと腕を引き抜いた。

 キャミソール姿になると、脱いだブラウスの背中に広がった赤黒い染みを見て、ため息をついた。


 先ほどの授業中に、桜庭さくらばかえでが優のブラウスのえりを引っ張って、隙間から給食パン用のジャムをぶちまけたのだ。


 ここはトイレの個室である。

 下着の替えなど持ってきていないけれど、せめて拭いて、ブラウスだけでも体操着のシャツに着替えようと思ったのだ。


 体操着に袖を通そうとしたその時、トイレのドアが開いて、誰かが入って来た物音がした。足音からして、何人かいるようだ。


 くすくすといった抑えるような笑い声。

 小さな声で、なにか話している。


 なんだろう、と、ゆうはちょっと不安になったが、気にしていても仕方ないし、と服を着てしまおうとしたところ、


「せーの!」


 蛍光灯の明かりが少し暗くなった、と認識した瞬間には、真上から滝のような大量の水が降っていた。

 文字通りに、ばしゃあっという音がして優の全身を叩き付けるように覆っていた。

 頭からつま先まで、一瞬にしてびしょ濡れになっていた。


 なにがなんなのか分からぬうちに今度は、大量の粉が降ってきた。

 小麦粉のようなものだ。

 気付いた時には深く吸い込んでしまっており、激しくむせた。

 慌てて口を押さえるが、すぐに咳は止まらない。

 涙が出た。


 個室の外では、ぎゃははと大笑い。入り口のドアが開く音、そして足音が廊下へと出て行った。


 優はなおも真っ白な空気の中げほげほとむせ続け、上半身が下着姿であることなど気にしている余裕すらもなく、なんとかロックを外して個室の外へと飛び出していた。


 脳の半分はパニックに乱れ、残る半分は辛さ惨めさ一杯で、半泣きであった。

 全身ずぶ濡れであることから、涙こそごまかせているが、その表情は隠しようもなかった。


 トイレには、優の他には誰もいなかった。

 つい先ほどのまでの騒々しさの余韻があるだけで、しんと静まり返っていた。

 と、突然トイレのドアが勢いよく開いた。


「あれえ、佐治ケ江さん、どうしたのお? ずぶ濡れじゃあん」


 入って来たのは桜庭かえで、なかおおがきようの三人であった。みな、優と同じクラスの生徒だ。


「大変、風邪ひいちゃうよ」


 と、大垣葉子は肥満した身体でさっと優のそばに近付くと、キャミソールを脱がそうと手をかけた。


 優はびくりと身体を震わせ、身じろぎするが、大垣葉子は強引にその手を取り引っ張った。


 先ほど上から降り注がれて浴びせられた大量の水、あれは彼女たちの仕業だ。

 優は、そう思っていた。


 最初、優は女子更衣室で着替えようとしていたのだが、中井里奈に「使用禁止だってさ」と通せんぼされて、それで女子トイレで着替えることになったのだから。


 その時から、なにかを企んでいることは分かっていた。まさかこんなことだとは、想像もしなかったけれど。

 小麦粉のようなものを投げ込んできたのも、着替えの途中で外に引っ張り出すことが目的だろう。

 すべて、計画通りだったのだ。


 そう分かったところで、なに一つとして文句をいうことが出来ず、無言のままただ恥ずかしそうに脱がされまいと抵抗するのが精一杯であったが。


「そんな恥ずかしがっとる場合じゃないじゃろ」

「ほうよほうよ、女同士なんじゃから。気にせんでええんよ。佐治ケ江さんが風邪引いちゃう方が心配じゃけえ!」


 楽しそうに笑みを浮かべる桜庭かえでと大垣葉子。深刻そうな表情を作ろうにも、どうしても顔の筋肉が緩んでしまうのだろう。


「やだっ!」


 優は鋭い悲鳴を上げ、自分のスカートを押さえた。

 中井里奈がそっと手を伸ばして、一気にめくり上げようとしたのだ。


「中までぐっしょぐしょじゃ」

「ひょっとしておしっこもらしっちゃったあ?」

「ほんじゃあ、早く脱いで着替えんとなあ」


 そこだけでなくずぶ濡れなのは全身だというのに、そのような点はすっかり無視で、三人はそれぞれ分担して優の身体を羽交い締めにし、改めてスカートをめくり上げて下着を引っ張り下ろそうとした。


「やだ。やめて!」


 また、優は叫んでいた。

 か細い声しか出せなかった優が、珍しく大きな声で抵抗の意思を示すことが出来たというのに、周囲に助けてくれる者は誰もいなかった。

 いくらもがいて抵抗しようとも、後ろからはがっちりと押さえ付けられており、幼児ほどの筋力しかない非力な優としてはどうにもしようのない状態であった。


「ほらあ、早くパンツ脱いでさあ、更衣室に行こうよお。風邪ひく前にさあ」


 中井里奈は楽しそうに、優の下着をぐいぐい引っ張る。


 風邪をひかないように更衣室へ急いで連れていく、という理由でほとんど身になにも着けていない優を、廊下へ引っ張りだして他の生徒たちのさらしものにしようとしているのだ。


 仮に先生に見付かって怒られても、あくまで善意のつもりであったことを主張する気なのだろう。


「やめて! 離して!」


 優は脚をがっちり閉じて、下着を脱がされまいと必死に抵抗した。


「人がせっかく親切にしてやってんのに、なんだよその態度は! ふざけんじゃねえぞ!」


 大垣葉子は怒鳴ると、優の頬に強烈な平手を食らわせた。

 優の三倍はあろうかという重量から来るその打撃に、優の意識は一瞬遠のいた。


「もうさあ、ここでぜ~んぶ脱がしちゃおうよ。上から下まで」

「ほじゃね。こんなんいつまでも着とったら風邪ひいちゃうもんね」

「ほんま、うちらって優しいよね。佐治ケ江さん、通り掛かったのがうちらでよかったねえ。じゃけえ早く脱げ! 人の親切心をなん思っとんじゃ。同じこと何度もいわせんな。お前、実はバカ? バカじゃろ?」


 大垣葉子は、下着を脱がそうとする手により力を込めた。


「離して!」


 優はなおも身をよじり、抵抗した。


「離してじゃねえんだよ! このクズ! ボケ!」


 大垣葉子は、優の思わぬ抵抗にイライラしたように足を踏み鳴らした。

 と、その時であった。


「浜崎先生、こんにちはあ!」


 廊下から、大きな声が突き抜けて飛び込んできた。彼女たちのクラスメイトであるとうどうのぶの声のようだ。


「おう、今日はやたら元気いいな」


 浜崎先生の声だ。


「やべ、先公だって」


 怒鳴り声を張り上げていた大垣葉子は、焦ったような表情で、口を閉ざした。

 中井里奈は、つまらなさそうに舌打ちすると、掴んでいた優の下着から手を離し、スカートの中から腕を抜いた。


 突然、ドアが勢いよく開いた。

 藤堂伸子であった。


 全身ずぶ濡れで半裸になっている優に、取り囲んでいる三人。視界に飛び込んできたその光景に、彼女は目を見開いていた。


「あんたたち……なにやっとるん! 佐治ケ江さん、大丈夫? 桜庭さんたち、先生にいいつけっからね。いま、ここ浜崎先生が通ったばかりじゃ。ちょっと呼び戻してくる!」

「なに勘違いしとんの? うちら、誰かにこんな目にあわされた佐治ケ江さんを助けてあげていただけなんじゃけど」


 桜庭かえでは腕を組み、微笑んだ。


「はあ? なんだかはしゃぎながらトイレから廊下に出て来たと思っとったたら、また入って行ったじゃろ。うち、見てたんよ。他に誰も出入りなんかしとらんかったし、佐治ケ江さんに水をかけたの、あんたらでしょ!」


 藤堂伸子は圧されまいと一歩出た。


「ふーん。証拠は? 水かけたとこ見たって証拠は?」


 いなすように、挑発するように、桜庭かえではやんわりとした、からかうような表情、口調で尋ねた。


「水をかけたところは見とらんけど」

「ほんじゃあ、決め付けで偉そうにいわないでくれる?」

「だったら誰が佐治ケ江さんに水なんかかけたの? ……ほんじゃあ、もしもでええわ、もしも、桜庭さんたちがこんなことしたというんじゃったら、もう絶対にやめてな。やったら許さんよ、佐治ケ江さんはあたしの友達なんじゃから」

「じゃからさあ……やっとらんっつーの! バカ!」


 大垣葉子は、口元は微笑みながらも目を釣り上げて凄んだ。


「ほんななら、親友の藤堂さんが着替えさせてあげたらええじゃろ。行こっ」

「親切にしてやっとるだけなのに疑われて、ほんま頭くるわあ」


 口々に文句をいいながら、三人はトイレから出て行った。

 また、静寂が訪れていた。


 いや、静かになった空間に、優の泣き声が響いていた。

 優は、しゃくり上げるように泣いていた。


「大変な目にあったね。でも、もう大丈夫じゃから。ね」


 藤堂伸子は、優の肩をなでるようにやさしく叩いてやった。


     3

「ちょっといいですか。あなた、ゆうと同じクラスの子ですよね。うちの娘の、学校でのことで、少し話を聞きたいんだけどいいかな」


 まさのぶは、中学校の門を出てすぐのところでひがしを呼び止めた。

 しかし、


「ごめんなさい」


 東野留美は深く頭を下げると、逃げるように走り出した。

 雅信は、その場に突っ立ったまま、頭をかいた。


 彼女は確か、優と小学校時代に何度か同じクラスだったことがあるはず。娘の友達でもなんでもないしうろ覚えではあるが、おとなしく良い子の印象があった。だから、もしかしたらなにか教えて貰えるのではないかと思い、こうやって声をかけてみたわけだが。


 でも、あのような反応になるのも仕方のないことか。

 だって、正直に喋ったりなどしたら、今度は自分がいじめの標的になるかも知れないのだから。


 雅信がこうしてここに来ているのは、娘へのいじめ問題をなんとかしようと思ってのことである。


 娘の優が中学生になって、はや半年が過ぎたが、小学校時代から続く彼女へのいじめは、一向におさまることはなかった。

 優本人は事態がエスカレートすることを恐れてか、いじめられていることを断じて認めようとしなかったが、いじめを受けているのはどう考えても明白だった。


 同じクラスの子からは現在のところ、まったく情報を得ることは出来ていないが、他のクラスの子の親などからもいじめについて噂を聞いたことがある。


 もちろん学校に調査や対処の相談をすることも考えたが、以前、小学校で先生の酷い対応によりいじめが格段にエスカレートしてしまったということもあり、うかつに話しをしたくもなかった。あの時の先生が異常だっただけ、と思ってはいるものの。


 とりあえずのところは、自分でしっかりと証拠証言を集めてから、担任をすっ飛ばして学校そのものに動いて貰うことが出来れば、と考えている。


 でも、肝心のその証拠証言集めが、なかなか思うようにはいかなかった。

 いまのように逃げられてしまったり、

 加害者の親に相談を持ち掛けようと会いに行って、怒鳴られて追い返されたり。


 生徒らも家では良い子を演じているようで、であれば子の正当を心底信じている親としては面白くないであろうし、演じていない生徒であればそれはそれで子も子なら親も親という感じで、面倒くさそうに取り扱ってくれず、結局のところいじめ問題の解決について協力してくれそうな者など一人としていやしなかった。


 加害者と思われる生徒の家を連絡網頼りに直接訪問してしまったことは、いま考えると実に浅はかではあったかも知れない。証拠を集めようとしているのに、みんなでより結託されてしまい、また小学校の頃のようにいじめが裏に隠れて、より度合いの激しいものになるかも知れないからだ。


 親同士の内密な話をしたかったのに、まさかあれほど怒鳴り散らされることになるなど思いもしなかったから。


 はなから自分の行動が適切などとは思っていなかったが、だからといって他にどうしようもなかった。


 娘はなにも話してくれず、学校も信頼出来ず、という、この状況では。


 藤堂伸子という、優の友達を自称する子の存在を知っていれば、真っ先に会いに行っていただろうが、この頃はまだ彼女の存在を知らなかった。


 でも、どうであろうか……

 推理小説などを好む雅信の性格上、何故そんな子が誰からもいじめられないのだろう、と勘繰ってしまって、逆にうかつに声をかけられなかったかも知れないが。


     4

 それはたまたま。まったくの偶然であった。

 まさのぶは、駅前の繁華街で、優のクラスメートである女子数人を見かけた。


 彼女らは、なんということのない若者らしい女子らしい会話をしていたが、やがて話題が移行し、クラスで行っている生徒へのいじめについて語り始めたのである。

 もちろん、優に対してのいじめのことだ。


 彼女らの、その楽しそうな顔。罪悪感のまるでない、無邪気な笑顔。

 クラスの一人の女子をどういじめた、次はどういじめよう、という残酷な会話が、単なる若者の雑談の延長に過ぎないのだ。あまりの罪の意識のなさに、雅信は愕然とした。


 よく聞くことではあるが、やっぱり現代のいじめは単なるゲームなんだ。

 家庭環境がどうとか、そんなの関係ない。

 すべては運。目立つほど、そのきっかけが増えるだけ。優の無口さや、人付き合いの不器用さなど、まさにそれだ。


 いじめる側にとって、いじめられた方がどう思うか、どれだけ辛いのか、そんなことはどうでもいいのだ。

 道徳心に訴えたところで、もうどうしようもない。

 一度、殺されるような目にでもあわない限り、考えなど変わらないのではないか。

 もちろん世の多くは善良な子供、そう信じたいところではあるが。


 しかし一体、どんな親に育てられたらこんな性格になるんだ。

 おぞましさに身震いして、なんとも怖くて、女子生徒たちにとても話し掛けることなど出来やしなかった。


 探していた、証言証拠をすぐ目の前にしているというのに。


     5

「ねえ、さん、ちょっと聞きたいんじゃけど。うちって、あんたのこといじめとる?」


 佐治ケ江優が、いつものように席で肩を小さくして休み時間を過ごしていると、やなぎもとがいつの間にか机の前に立っており、話し掛けてきた。


「ねえ。あたし、いじめとる?」


 横へ回り込むと、腰で優の肩をぐいと押した。


「別に、そんなことは……」


 優は俯きながら、ぼそぼそと小さく口を開いた。


「いじめてない、ってことじゃよね? いま、本人がそういったってことじゃよね?」


 柳本八重子は、ぱあっと花開いたように喜びの表情を見せたかと思うと、一瞬にしてヤクザよりも凶悪な顔つきになり、優へとその凄んだ顔をぐいと突き付けていた。


「ほいじゃあさあ、いじめとるって決め付けんのは、名誉毀損じゃよね。ジジツムコンなんじゃから。一昨日ね、あんたのお父さんが、うちに来たんよ。うちのお母ちゃんが出て話しよったんじゃけど、どうもうちのことをいじめっ子と決め付けとるみたいでさあ。はっきりそうとはいわなかったらしいものの、決め付けているのがまる分かりじゃけえ。ほじゃからうちなあ、すっげええええええええええ気分悪いんじゃけど超絶ぅ、どうしてくれるん? 親子なんじゃから、連帯責任とってくんない?」

「え……ほやけど、それは……」


 ……父親が勝手に動いたことで、自分がしたことではない。

 そう思った優であったが、しかし……

 確かに、自分も、父がなにをしているかおおよそ知っていたのに、特にとめようとはしなかった。


 小学生の頃は、いじめをやめさせようと頑張る父を、必死で止めようとして、それが理由で大喧嘩し、不登校になったこともあるのだが。

 いまとなっては自分を心配する親の気持ちも分かるから、だからなにもいわないでいた。


 でも、自分から親に面と向かって、いじめについて話したことなどは、これまでに一度もなかった。自分のことだというのに、余計なことにかかわるのが嫌だったからだ。


 とにかくおとなしく我慢して、時が流れ過ぎるのを待ってさえいれば、嫌なことなんていつかは終わっているんだから、と。


 何日、何ヶ月、何年かかるかなど分からないが、百年もあれば、まあ確実であろう。

 それまで、ただ石のように、じっとしていればいい。

 それだけなんだから。


 だから、自分から親に相談したことなど一度もなかったし、今後もそういうつもりでいた。


 でも……

 親がああやって行動してくれることが、クラスのみんなに知れ渡って、それが今後の抑止力になってくれればいい、などと、そんな淡い期待も抱いていたのかも知れない。


 仮に、そういう気持ちもあったとして、それのなにが悪いのだとも思うが。

 誰が好きこのんで、自らいじめられたいなどと願うものか。


「どうしてくれんの、って、聞いてんじゃけど。耳悪いの? もしかして」


 すぐ眼前に柳本八重子の顔があった。

 優は小さく口を開いたまま、なんの言葉を発することも出来なかった。

 口の中が乾き、ねばついていた。

 ドキドキ大きく鼓動する胸に、無意識に手を当てていた。


「ほうゆうことしとるそれ自体が、いじめじゃっていっとるんよ!」


 藤堂伸子の声であった。

 傍らで見かねて、助け舟に入ったのだ。


「はあ? 佐治ケ江さん本人が、いじめられとらんっていってるんよ。ほいじゃあ、こっちが怒ったっていいじゃろ。犯人扱いにされたんじゃから」


 柳本八重子は、あくまで独自のいい分を展開する。


「そう仕向けてるだけじゃろが。だから、それがいじめゆうとんじゃ」

「なにゆうとんよ」

「正論じゃ。うち、どっか間違うとるか?」

「なんなんあんた、こんなん庇ったりして。アホくさ」

「アホで結構。大アホで結構じゃ」


 二人の舌戦は当人を差し置いて、次の授業が始まるまで続いた。

 優は胸をおさえながら、ただ小さく縮こまっているばかりであった。


     6

 走り回り、騒ぎ、暴れ回る男子。恋の話、芸能人の話に興じる女子。いつも通りの、騒々しいまでに賑やかな教室の昼休みの光景である。


 ゆうは、みんなの輪に入ることなく一人おとなしく座っていたが、不安そうに周囲を軽く見回すと、そおっと静かに席を立っていた。

 尿意を催したのである。


 いわゆるいじめられっ子である彼女は、誰になにをされるか分からないという恐怖感からかトイレはなるべく我慢してしまう。

 登校から下校まで、一回も行かないことも多い。

 したがって、いつも限界近くになってから行こうと決意することになる。


 これまでトイレを邪魔されたことは幸い一度もないが、用心するにこしたことはなく、周囲に気付かれないようそっと立った……つもりであった。

 昨日まで「幸い」なだけだったのだとは知らずに。


 優に続いてさっと教室を出た女子が数人、分かれてそれぞれの方向へと走り出したのも知らずに。

 自分の教室から一番近いトイレへと、優は来た。そこで彼女が見たのは、ドアの前に立つなつの姿であった。


「いま工事中じゃってさ」


 意地悪っぽい笑みを隠そうともせず、羽賀夏樹はそういった。

 その時ドアが開いて、中からトイレを済ませたと思われる別のクラスの女子が出て来た。


「やっぱり工事中なんかじゃ……」


 そもそもそんな言葉、信じてなどはいなかったが。


「工事中じゃ。あの子は、壊れているのを調べて修理の人に報告するんじゃって。水流せんから、他のトイレを使ってっていっとったよ」


 羽賀夏樹は、見え透いた嘘をついた。中学校の一生徒が、そんな仕事をするはずがないだろう。

 でも普段の優ならば、例え嘘と分かっていようとも、諦めて引き下がっていただろう。だが現在は非常事態。ごめんなさい、とドアを開けて、中に入ろうとした。


「だから、ダメじゃって! 何度もいわせんでよ! ほらほら、他のとこ行ってよ他のとこに!」


 結局、諦めた。羽賀夏樹の剣幕の前には押し切る勇気など持てず、引き下がるしかなかった。


 返す足で、廊下の反対端にあるトイレに向かった。

 優の額から、冷や汗が一筋流れた。トイレのドアの前に、桜庭かえでが立っていたのである。


「ここも工事中じゃって」


 そういって、笑った。

 も、ってなんだ。他のトイレに行こうとしたことを、なんで知っているのだ。


 優は、今度はなにもいわず立ち去り、廊下を引き返すと階段を上り始めた。


 彼女らが示し合わせてでやっている以上、ここで押し問答してもまったく意味がないと思ったからだ。上級生の使うトイレならば、誰も邪魔などいないと思ったからだ。


 おそらくその通りなのだろう。だから、桜庭かえではドタドタと激しい勢いで優の背中を追い掛け追い付くと、腕を絡ませて引き止めた。


「もうすぐ工事、終わるかも知れないけえね、ほじゃから仲良く一緒に待とうよ」

「ほやけど、もう休み時間が終わるじゃろ。うち別にどこじゃって……」

「あのさ、二年生のトイレ勝手に使うと、ゆず先輩っていう怖い先輩に閉じ込められてリンチされるけえ。ボコボコにされるけえ、ほんまに。とうどうさんが休んでいるの、きっとそれじゃ」

「じゃけど……」


 朝のHRで先生は、とうどうのぶは忌引といっていたが。

 そんなことはどうでもいい。とにかく早くトイレに行かせて欲しい。


「なに、あたしのいうことを疑っとんの?」

「ほうじゃのうて……」


 だから、そんなことはどうでもいいんだって。

 優は、ちょっと脚を閉じるようにもじもじとさせると、もう埒があかないとばかりに、桜庭かえでの腕を振りほどいてとにかく上へ行こうともがいた。


 桜庭かえでは決して逃すまいと、がむしゃらに腕を引っ張り続ける。


 そうこうしているうちに、昼休み終了五分前を告げるチャイムの音が鳴った。

 その後もなんとか頑張って上の階へ向かおうとする優であったが、桜庭かえでの必死な妨害を二分、三分と受け続け、絶望的な表情でため息をつくと、ゆっくりとした足取りで教室へと戻った。


 五時限目の授業が始まった。

 自席で、優はそわそわと落ち着かない。当然である。膀胱が破裂寸前なのだから。


 周囲の生徒たちは、にやにやと笑っている。

 これもまた当然であろう。なにが起きているのか、というより佐治ケ江優に対して自分たちがなにをしたか、よく分かっているからだ。

 その効果がこのように目に見えてテキメンにあらわれて、面白くないはずがないからだ。


 優はいつしか青ざめた顔になって、足を貧乏揺すりのようにカタカタ鳴らしていた。


 ちらりと藤堂伸子の席を見た。

 空席である。今日は忌引で休みなのだ。

 何故その席を見てしまったのか、自分でも分からない。

 分かっているのは、もしも彼女がいまここにいたならば、きっと自分を助けてくれたであろうということだ。

 もしかしたらみんな、こういう日を狙っていたのかも知れない。


 でも、あと十分で授業は終わる。

 でも、もう限界であった。


 例えなんとか残り十分をこらえることが出来たとしても、トイレへ駆け込むにあたり、どうせまた妨害にあうのだろう。

 ならばむしろ、行くならいまではないだろうか。

 苦悶の表情を浮かべながら、そのような結論に至った優は、死にそうなほどの恥ずかしさをこらえて「先生」と手を上げていた。トイレに行きたいことを訴えた。


「なんじゃ、ちゃんと休み時間に行かないとだめじゃろが。あと十分。我慢せえ」

「え、でも、もう」


 泣きそうな顔で、無意識に机をドンと叩いていた。その思いが通じたのか、


「分かった、急いで行ってこい」


 立ち上がり、素早く深くお辞儀をした優は、小股早足で教室を飛び出していた。

 その瞬間であった。

 優を絶望させ身を粉微塵に砕くかのような、言葉を聞いたのは。


「先生すみません、あたしもおしっこ漏れそうじゃ!」


 桜庭かえでの叫び声であった。


「ふざけんな桜庭! お前は授業抜けたいだけじゃろが!」

「ほんとなんです。急いで戻ります。もう限界じゃけえ。佐治ケ江さんとふざけとって、トイレにいきそびれたけえね」


 先生の許可も得ずに立ち上がると、優に続けとばかりに教室を飛び出していた。


 優は、背後へ感じたその気配に、小走りの速度を上げた。

 追いつかれたら、もうおしまいだからだ。


「待ってよ、佐治ケ江さん」


 桜庭かえでは楽しそうな声を上げ、優の背中を追った。


「待ってったら」


 嬉々とした桜庭かえでの声を背に、なんでこんな下らない追いかけっこなどしなくてはならないのだろうと思いながらも、優は走るのをやめなかった。

 当たり前だ。

 早くトイレの中に逃げ込んでしまわないと、また入れないように妨害されるからだ。


 逃げ込んだところで、以前のように上からバケツの水を浴びせられるかも知れないが、漏らして恥をかくより百倍ましだ。

 だが……


「ね、上の階のトイレに行こうよ」


 強く、腕を掴まれていた。

 追い付かれてしまったのだ。


「上もなにも、トイレすぐそこなのに」

「さっき、うちがここに一緒に入ろうよっていったのに、上のトイレがええって聞かなかったのそっちじゃ」

「それは、桜庭さんが通せんぼして入らせてくれなかったもんじゃから。急いでおったし」

「うちが悪いの? みんなうちが悪いの? 自分のいいよった言葉に少しは責任持ったらどうじゃ」


 桜庭かえでは怒ったような顔で優へ詰め寄った。もちろん演技であろう。こうしてだらだらと時間を引き伸ばすのが目的なのだ。


「悪い、とか、ほういうわけじゃ」


 分かっていながらも、人に強い態度に出られない優は、相手に合わせてしまう。もう限界も近く、脚をぎゅっと閉じてその場足踏みをしているくらいだというのに。


「ほいじゃ上でええからっ」


 と、優は急ぎ足で階段を上り始める。

 しかし、踊り場のところで背後から肩を強く掴まれ、振り向かされた。


「ねえ佐治ケ江さん、こないだの中間何点じゃった?」

「いまそれどころじゃ!」


 思わず声を裏返し、きびすを返して階段を上り続けようとする優であったが、桜庭かえでにやにや笑いながら、強い力で袖を引っ張って離さなかった。


「期末の対策なんじゃけど、相談に乗ってくれんかな。頭いいんじゃろ、佐治ケ江さん。ねえ。どうじゃろか。好きなアイドル、おる? どんなテレビ見とるん? クラスの誰が好きなん?」


 桜庭かえでは、優の背後からお腹に腕を回し、がっちりと抱き着いていた。


「離して!」


 優は狂乱したように声を荒らげて、桜庭かえでの腕を振りほどいた。


「どうしてそんな酷いこといいよんの? うちと佐治ケ江さんとの仲じゃというのに」


 桜庭かえでは一瞬泣きそうな顔を作ったと思うと、また嬉々とした表情で、優の服の裾を強く掴んだ。


「ごめん。でも、トイレ、我慢、出来ないから!」


 優はちょっとイライラしたかのように、地団駄を踏んだ。


「じゃったらお昼に行けばよかったのにい」


 桜庭かえでのその顔には、にんまりとした笑みが浮かんでいた。

 青ざめ、震える優の姿に、計画の成就を確信したのだろう。


 そしてついに、その時は来たのであった。


「あ」


 優の身体が、ぶるっと震えた。

 そして、足元に水溜まりのようなものが広がっていた。


 桜庭かえではそれに気が付くと、なおも拡大してくるそれを後ろに退いてかわした。


 優はずっと鼻をすすった。

 嗚咽の声が漏れるのに、さして時間はかからなかった。

 涙をぼろぼろとこぼすまで、さして時間はかからなかった。


「きったねえ。じゃなくて、可哀相に。間に合わなかったんだ。大丈夫? ちょっとここで待っててね。みんなを呼んでくるから。……みんなで笑わなきゃあ、もったいないからさあ。ほうじゃろう」


 突っ立ったまま泣き声を上げ続ける優を尻目に、桜庭は階段を下りていった。

 満面の笑みを浮かべ、嬉々とした大声で、優の失禁をさも同情心一杯に叫びながら。

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