第二部 嘘の代償

第57話 見えてくるもの

 ―――待ってよ、ゆーくん。足早いよー!






 ―――ゆきくん、天華ちゃんまた泣いてるよ、少し待とうよ






 ―――しょうがないなぁ。ほら、早く来いよ。てんかー!








 夢を見た。


 小さい頃の夢だ。


 あの頃は俺と琴音、そして天華はいつも一緒に遊んでいた。




 天華の両親は所謂仕事人間で、昔からほとんど家に帰ることはなかった。


 夜になると隣の家はいつも真っ暗で、灯りがついているのは天華の部屋だけだったと思う。


 琴音は越してきたばかりで両親も忙しかったらしく、いつも一人だったことを覚えている。


 そんな二人に俺が声をかけ、二人を連れ回して遊んでいたのだ。




 近所の公園に雑木林、古びた廃屋など、目に見えるもの全てが俺たちにとっての遊び場だった。


 見知らぬものを見るとワクワクして、怖がる二人の手を引っ張って、一緒に笑って。


 ただ楽しかった。それだけで満足していた。


 あの頃に戻れるなら、戻りたいとも思う。


 だけど、俺は理解してしまっている。これが夢だと、わかってしまっているのだ。






 ―――ゆーくん






 あの頃にはもう戻れない。






 だから、俺は―――












「おはよう、ゆきくん」




 今日の朝は、いつもとは違う朝だった。


 家から出た俺を待っていたのは琴音だ。天華の姿はない。




 土曜日のあの日、二人と別れた後、俺の家まできた琴音と月曜日の朝は一緒に登校する約束をしていたのだ。


 俺が聞いたのは、天華とはしばらくは顔を合わせることはしたくないという琴音の心情くらいで、事のあらましを詳しく聞くことはできていない。


 だけどそれで充分だ。天華の本心を聞いた琴音は、やはり許すことはできなかったのだろう。


 当然のことだと思った。第三者の立場にいる俺ですら、天華のあの発言にまだ怒りが冷めやらないのだ。


 詳しく聞き出そうとしたら、きっと琴音の心を傷つけることだろう。




 それだけはしたくなかった。無遠慮に踏み入って、人の心を傷つけることが、どれほどの痛みを与えることになるか、俺は知っている。


 表面上取り繕うことはできても、心の内はどうなのかまでは分からないのだ。


 俺の場合は琴音に気付かれたが、俺には琴音ほどの洞察力を持ち合わせてはいない。内心どれほどの痛みを抱えているか分からない俺には、なるべくこの話題に触れないよう気を遣うくらいしかできないのが、もどかしかった。




「おはよう、琴音」




 俺は琴音に応えて隣に並んだ。こうして改めて見ると、琴音は天華に比べて少し背が低い。


 目線も違うし、天華に比べると、胸がその…


 同学年のなかでも、琴音のそれはだいぶ大きいように見える。というか、はっきり言ってでかい。


 思わず俺は目をそらした。これまで意識したことがなかったものまで見えてしまう自分に、戸惑いを覚えてしまう。




(これまで琴音のこと、こんなふうに見たことなかったんだけどな…)




 自分の気持ちを自覚してしまったからだろうか。琴音がひどく魅力的に見えた。


 朝日を浴びて輝く青みがかった黒髪。黒曜石のような大きな瞳。整った、綺麗な顔立ち。


 少し前までは中学の頃と変わっていないと思っていたのに、今の琴音はどこか大人びて見えた。女の子に言うべきことではないのだろうが、ひと皮剥けたというべきだろうか。


 あるいは、俺が節穴だっただけなのかもしれない。




 琴音の女の子としての魅力に、俺はずっと気付けなかった。これまで天華のことだけしか見てなかったから、きっと本当の意味で琴音を見ていなかったのだ。


 それが悔しいと今は思う。もっと早く気付いていれば、ここまで彼女を待たせることもなかったはずだ。




 それだけじゃない。俺は琴音にこれから、まだ伝えなくてはいけないことがあった。




「琴音、告白の話なんだけどさ…まだ、少し待ってもらってもいいか?」




 俺の心は既に決まっている。だけど、どうしてもやらないといけないことがあった。


 何様のつもりだと言われるかもしれないが、それを見届けない限り、琴音の想いに応えることは、まだできない。




「そんなの、待つに決まってるじゃない。言ったでしょ、いつまでも待つって。ゆきくんの気持ちが固まるまでは、急かすつもりなんてないよ」




 そんな身勝手な俺の言い分に、琴音は笑って答えてくれた。


 それがとても嬉しいと思う。




「いや、答えはもう決まってるんだ。本当に待たせて悪いと思ってる。だけど、やり残したことがあるっていうか…」




「え、それって…」




 気恥ずかしくなって頬を掻きながら答えた俺の言葉に、琴音が頬を赤らめていく。


 ヤバい。本音が混じってしまった。これじゃ告白にOKすると言っているようなものじゃないか…




「と、とにかく!少しだけ待ってくれ。ほら、行こうぜ!」




「あっ、待ってよゆきくん!」




 察しのいい琴音には誤魔化せないことを悟った俺は強引に話を打ち切り、急かすように足を早める。


 琴音は慌ててついてくるが、そのやり取りがふと今日の夢を思い起こした。


 夢の中の小さな俺は、いつも二人を引っ張っていた。


 天華が追いつけず、琴音が俺を諌めて待つことが多かったあの頃。


 琴音は今も俺に追いついてきているが、その後ろには天華の姿はもうない。




(本当に、変わっちまったな…)




 一瞬だけ目を瞑り、過去に想いを馳せた。


 だけどそれをすぐに振り切り、前を見る。俺は前へ進むと決めた。


 もう過去を振り返りはしないのだと。














「待ってよ、雪斗…」




 だから、後ろから俺たちを見つめる天華の視線に、俺は気づかなかった。


 気づいても、きっと俺は待たなかっただろうけど。

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