過去:16

 異世界にやってきて、一度だけ、睦月が本気で泣いていたのを見た事がある。





 あれは『魔力炉』が体に馴染んで、睦月がその力を増幅させようと使いこなそうと必死に行動してしばらくたった日の事だった。



 珍しく睦月が部屋に閉じこもっていた。睦月は異世界に来て、向井光一に会えなくなってから、必死に向井光一を取り戻すために行動をしていた。



 一分一秒を無駄にしたくないとでもいう風に。

 一分一秒の努力をすれば向井光一にはやく会えるとそう思い込んで。



 本当に何処までも単純で、愚かで。そんな睦月だからこそ、そんな純粋で、真っ直ぐで、人を歪んでいるくせに人を信用しきっているか睦月だからこそ、俺は見ていて心底楽しかった。



 このまま、突っ走って、暴走の限りを尽くしてくれればいいと思っていた睦月が大人しいのは詰まらないという感情と同時に、睦月がもっと壊れる転換期なのかもしれないと正直わくわくした。



「睦月」




 『蘭』としての仕事を放棄してまで、引きこもった睦月。




 『皇帝』には俺がどうにかとりなして睦月が仕事を放棄した事をお咎めなしにはしてもらった。最も睦月がこのまま腑抜けるのならば、睦月は即刻処分されるだろうが。




 それは俺としても嫌だったから、俺は睦月の閉じこもった部屋までやってきた。

ノックもせずに扉を開ける。



 普段の睦月なら、俺が勝手に部屋に入ってきた事に怒るだろう。

 真っ先に駆けつけてきて、俺を睨みつける。そして俺が謝れば、仕方がないなとでもいう風に許す。そうなのだ。




 でも、その日は違った。

 小さな啜り泣き声が聞こえてきた。

 弱々しくても、庇護欲を誘うような声が。

 その声に驚いた。睦月が狂った風ではなく、こんな風に泣いている声を聞くのははじめてだったから。




 覗き込む。

 啜り泣き声のする部屋の方を。




「………うっ、うぅ」



 泣いていた。

 ベッドの上に寝転がって、俯いて、睦月が涙を流していた。



 目元に雫を溜めて、それは溢れ出して、ベッドの上へと落ちていく。



「どうした、睦月」




 俺は、理由なんてなんとなくわかるけれど、睦月に聞いた。




 涙を流す睦月の傍に近づいて、敢えて優しい声色で。睦月はそこでようやく俺がこの場にいる事に気がついたらしい。その目が驚いたようにこちらを見た。

 そして慌てて、涙を拭おうとする。




 睦月はヤンデレである。でもヤンデレであるから、心が強いという事はない。寧ろ睦月は弱いって俺は思う。

 本当に睦月が強い女だったならば、そもそも向井光一に助けられる事なく、自力で虐待に耐えただろう。そしてここまで自身を助けてくれた存在に依存しなかっただろう。

 俺は慌てて起き上がって、涙を拭おうとする睦月の両手首を掴んだ。




「……い、つき」



 睦月が、俺の名を呼んで、俺の事を睨みつける。

 いつもより、その眼光に力がない。その瞳からはポロポロと涙が、こぼれ落ちている。



「泣いてる、睦月って新鮮だな」

「……なに」

「向井光一に会えないのが、そんなに悲しい?」




 睦月がどうして泣いているかわかっている。わかっているけれども、だけどもっと俺は睦月に悲しんで、悲しんで、壊れて欲しい。

 ぶわっと溢れ出す。

 向井光一の名が聞こえると同時に、睦月はもう涙を止められなくなっていた。




「会いたい……。会いたいよ。こう、いちに」

「そうだね。そう、睦月は向井光一にもう一度出会うために頑張ってるんだろ?」

「……ん。で、も……っ、頑張って、も、会えない」

「それはね、睦月がまだまだ頑張れるのに、頑張ってないからだよ。ねぇ、睦月。睦月はまだ躊躇っているだろう?」




 泣いている睦月の両手首を離す。今度は涙を拭おうともしない。大粒の雫を瞳から流しながら、じっと、睦月は俺の方をみて、俺の言葉を聞いている。



 これから、俺が告げるのは、睦月をもっと壊すための言葉だ。

 だというのに、睦月は俺の事を信用仕切っていて、本当に馬鹿で、愚かで、純粋で、睦月は可愛いなぁなんて場違いな思考をする。



「……私、いっしょ、けんめ。やれる、こと、やってる」




 睦月は首を振って否定する。

 睦月の頭に、俺は右手をあてて、その頭を撫でる。



「なぁ、睦月」


 もちろん、自分の顔は自分では見えないけれど、俺はきっと『優しい顔』をしている事だろう。最もこれから告げる言葉は決して優しいなんて言えるものではないけれども。




「やってないだろう? だって睦月は俺と違ってまだ誰一人も殺してない。『皇帝』からの命令を受けながら殺すのは俺任せだっただろう? 今は、まだいいけれど、それじゃあ睦月は死ぬよ? 『皇帝』は使えない存在は切り捨てる人間なんだから」





 その時点で睦月はまだ誰一人として殺していなかった。地球で矢上奈々美を殺そうとあれだけ意気込んでいたくせに、本当に睦月は考え方が甘い。

 思い立った事をすぐに行動する度胸はあるけれども、結局の所睦月は頭に血が昇って矢上奈々美を殺すといって、殺そうとしていただけなのだ。だから、例え地球で矢上奈々美を殺す事が成功したとしても、その事をうまく隠す事ができなかったのではないかと思う。





 『人を殺す事は悪い事』――それは、地球で当たり前の常識である。




 睦月は向井光一に狂っていた。

 異常なほどに執着して、どうしようもないほどその存在を求めていた。



 だけど、それ以外は睦月は―――、普通の女の子だった。どこにでもいる、中学生生の女の子だった。



「で、でも……」



 睦月は、俺の『優しい表情』と『優しい声色』で告げられた言葉に、まっすぐに俺を見ていた。



 そして震えていた。

 涙を溜めた瞳が、じっとこちらを見ている。



 縋るような目に、声。

 俺は知ってるよ。睦月がなんていって欲しいかも。



 俺は知ってるよ。睦月が今誰に会いたいのかも。



 ―――知ってるよ。睦月が、ちょっと異常なところがあるだけで、普通の女の子だって事。



 だからこそ、俺は面白いと思ってたんだ。



 普通と異常っていうのは、決して両立しないはずのものなのに。共に並ぶのがおかしいはずなのに。――睦月は普通の女の子であり、異常な女の子であったから。

 でも、知っているからこそ、俺は睦月を救わない(・・・・)。



「でもは通じないの、わかる?」



 優しく、告げる。



「ここは異世界。地球にいた頃みたいに綺麗なだけじゃ生きていけないよ。使えない人を『皇帝』が生かすはずがないから。だったら睦月は、死ぬぞ? 俺は睦月の『友人』として、睦月に死なれるのは嫌かな」



 心配したような表情を作って。



「結果を残さなきゃ死ぬんだ。嫌だろう? 会えなくなるの」



 睦月の頭を撫でながら。



「……や、だっ」



 子供のように泣きじゃくる。

 嫌だと、癇癪を起こす子供のように声を上げる。



「だったら、躊躇わずに殺ればいい。命令だって割り切って、殺せばいい。殺らなきゃ殺られるんだ。向井光一に会いたいなら、『皇帝』に与えられた役目を全うすればいい。ここは、地球じゃないんだ。人殺ししたって、どうにでもなる。睦月には、力があるしな。それだけ魔法が使えるんだ。好きに動けばいい。――強い奴が、生き残るんだ」



 優しく、言葉を紡ぐ。

 睦月を惑わすために、俺は言葉を発する。



「『勇者』なんて偉大な存在に会うには正当法じゃ無理だ。それには強さがいる。なんせ俺らは召喚でやってきた不要物であり、召喚した側からすれば処分したい対象だろうから」




 睦月が納得するような言葉を並べる。

 人殺しをしなければ、向井光一に会えないとそんな風に睦月の頭にすり込む。

 睦月の手が穢れればといいと望んでた。

 睦月が、そうしてもっと壊れればいいって願ってた。




「なぁ、睦月。向井光一に再会するためには、『皇帝』のいう事をちゃんと聞かなきゃいけないんだ。だから、腹くくれよ」



 真っ直ぐに、睦月に向かって言えば、睦月もこちらを見ていた。



「ほんと」

「うん。俺が睦月に嘘ついた事ある?」

「……ううん。ない」

「なら、俺を信じて睦月。向井光一に俺があわせて上げるから、死なないように『皇帝』の命令を聞いて」

「……うん」




 刷り込みのように、俺は睦月に優しく笑いかけた。





 ああ、なんて馬鹿な睦月。

 なんて愚かで、なんて純粋で、なんて単純なんだろう。



 俺がどんな人間か知っているはずなのに。睦月の狂行を見ても笑っていた俺が、普通に『良い奴』なわけないのに。

 俺がどういう奴か、もっと考えたらいいのに。もっと俺を警戒して、俺の言葉を真に受けなきゃいいのに。



 俺なんか『友人』なんて思わなきゃいいのに。



 ――馬鹿な睦月。俺のいう事なんて聞かずに向井光一に会いにいって、不安で、そばにいて欲しいって気持ちを告げればいいのに。そうしたら、きっと俺が思い浮かべているような睦月が幸せにならない未来が来ないのに。



 睦月、俺はね。睦月が幸せになる事を決して望んでないんだよ。



 俺は睦月が壊れて幸せにならない未来を望んでるんだ。

 そんな俺を信じきっているなんて、本当睦月は馬鹿だ。

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