第38話 弱点

 ダカン砦の包囲は太陽の照りつける中行われた。


 兵士たちにはその熱を避けるに充分な陣幕が与えられておらず、わずかにある物を交代で使用してなんとかやりくりしている有様だった。


 このままでは兵糧切れで干上がるよりも早くこの厚さにやられてしまう。そんな声も将校たちの中から聞こえ始めていた。


 しかし砦の包囲自体には成功しており、中にいる旧アミアン王国の兵士たちは城壁からこちらを見張るだけで攻撃には出てこないでいた。


 アミアン人たちに決起を促す別働隊の動きも成功を収めていた。


 特に目覚ましい活躍をしたのはアミアン貴族であるジュリアン・ダルシアクだった。


 彼は村々を巡り駐屯する少数のセラステレナ軍の兵士を追い散らすと、自らの名を名乗った。


 パッシェンデール侯ダルシアク卿の名を聞くと、人々はまるで救世主の姿でも見たかのようにジュリアンへ羨望の眼差しを向けた。


 これも父が善政を敷いていたからだ。ジュリアンはおもばゆくも誇らしい気持ちだった。


 こうして別働隊として出ていたジュリアン、ホランド、フィアット軍のジラルディーノ率いる三隊が包囲中の主力軍の元へ帰ってきた。


 その報告からもたらされる成果の数々は、連合軍の兵士たちにとって開戦以来初ともいえる良い知らせであったこともあり、別働隊は喝采で向かえられた。


「アミアン人たちは各地で連携を取り、村に防衛線を引き、セラステレナの輜重隊から食料を奪い返す者もいるそうだ。セラステレナ本国へ向かう伝令を捕らえてやると意気込む輩もいると聞く。うまくいったな、ブラッドフォード卿」


「バルディーニ大公、まずは上々です。ここは見渡す限りアミアン人の土地ですから、彼らが立ち上がればセラステレナ人はその領域で孤立したとも言えるでしょう」


「ふむ。あのパッシェンデール候の子息は特によくやったな」


「ジュリアンですか。彼は二十歳を超えたばかり。先の失態を取り返そうと必死なのでしょう」


 ロイたちの目の前で村人の一団が横切る。ジュリアンについて行き、砦の中に篭もる同胞を説得すると自ら手を上げた者たちだった。


 ロイは彼らがこの軍中で可能な限り自由に行動して良いことを認めた。砦の兵たちに、家族に対し威圧的ではないということを示す狙いだった。


「そういう卿も、なんだか嬉しそうであるな」


 ロイは大公にそう言われ目を丸くした。そして「そうでしょうか」とごまかすように答えた。


 すると大公はロイを改めて見つめるようにして、言った。


「私は卿を誤解していたようだ」


「というと?」


「元奴隷の身から成り上がり、それも金を使って。どんな欲にまみれた冷血漢かと想像していたのだが、あてが外れた。配下の成功を素直に喜ぶ心を持っている」


「はあ……」


「褒めているんだよ。それに卿にはちゃんと血が通っているのだと安心した」


 ロイはバツの悪そうな顔を浮かべ、頬をぽりぽりとかいた。


「……アミアン人たちの様子を見てきます」


 そう言って逃げるようにロイが去ると、大公は微笑ましくそれを見送った。


「大公殿下、あの男に心を許してはなりません」


 フィアット軍の若き将軍の一人であるエリオ・ジラルディーノが大公の背後からそう耳打ちした。


「そうか、エリオはあの男を好かんか」


「……私は思うのです。殿下が仰ったようにあの男は奴隷の身から何故か大金を得た。そして国を買い、摂政の座についた」


「確かに不可思議ではある。何か罪を犯したこともあるやもしれん。だがそれが何だ? 罪ならば私にもあり、お前にもあるだろう」


「いいえ、問題はそこではありません」


「いったいなんだというのだ?」


「そうまでして表舞台に姿を現したのに、あまりに無欲。そう思いませんか」


「ふむ。確かに摂政の座についてからは内政に勤しみ、豪邸に住まうわけでも女を囲むわけでもないと聞く」


「……私にはそれが不可解でならないのです。あの男にはきっと途方もない闇があるように思えてなりません」


 エリオがそう呟くと、大公は「まあ、な」と静かに同意した。


「大公殿下、あの男はその金で国を買ったとき、はたしてどのような顔をしていたのでしょうか。その顔こそが奴の本性に違いありません」


 ──そうかもしれない、だが。バルディーニ大公は思った。


 その本性がどのような顔であれ、この世界の表舞台に立った。それはほら穴の中から猛獣の群れが入り乱れる草原に這い出たようなもの。


 あの男が小さな兎であるのなら、その心が聖人であろうと悪人であろうと、食われて糞になるだけだ。


 そしてもし兎では無く獅子であるというのなら、むしろ好都合というもの。


 獅子に善悪は無く、かの獣はただ獲物を喰らい子を成す。


 その暴力から逃れる術は二つ。その胸に抱かれるか、あるいは手足となるか。


 それは場合によっては悪夢ではなくむしろ望むところである。


 誰もが狭く居心地の良いほら穴から抜け出たかったわけではないのだ。


 大公は白み始めた髪を指で触りながら、そう心の中で呟いた。



  ***


「ライル、包囲の様子はどうだ」


 ロイは砦を包囲する兵を指揮するライルとランドルフの元へやってくると尋ねた。


「これから砦の兵士たちの家族が、開城を呼びかけるところです」


「そうか」


「開城が成れば砦にある糧食が手に入ることでしょう。いくらかの足しにはなります」


「それらは彼らとその家族に渡してやれ。解放軍としての大義に疑問を持たれてはいけない。それにグレーナーが到着すればこちらの問題は解決する。あるいはすでに戦のあとだ」


「ご明察です」


 砦の固く閉ざされた門の前に民衆が集まる。


 その中から一人の女性が歩み出ると、緊張した面持ちで砦の城壁にいる兵、そしてその奥にいる者たちに向かって大きな声で語りかけ始める。


「アラン、ジョシュ、私よ! お母さんよ」


 女性の叫ぶような声が辺りに響く。


「お願い、聞いて! この人たちは私たちに危害を加えていないわ。戦う必要はないのよ」


 砦の守備兵の動きに変化は無い。ただ黙ってその女性を眺めている。


 それでも女性は必死に呼びかけを続けた。


「私たちは決めたわ。もうこんな理不尽なことは嫌だって。どこの村もそう。だから皆、あいつらと戦うことにしたの」


 砦の守備兵の表情はよく見えない。


「本当はあなたたちに戦ってほしくなんかない。一緒に家に帰って、あなたたちが小さかったころのように穏やかに過ごしたい。でもセラステレナがいる限りそれが叶わないというのなら、私も一緒に戦うわ」


 女性の後ろにいた者たちからも次々に声が上がる。そうだ、俺も戦うぞ。もうこんな想いはこりごりだ。奴らを叩き出してやる。


 そして砦内の兵士たちの名を呼ぶ様々な声が、まるで砲弾のように砦の中へ降り注いだ。


「アミアン人は」


 ライルが静かに口を開いた。


「元来、夜間に家の戸締まりをする習慣を持ちません。それはかつて一人の男が盗人から家財を守ろうと家の戸を固く閉ざし、盗賊に襲われ怪我負い助けを求めてきた友人を救えなかったという故事に由来します」


「……男の行動が間違っているとは思えないが」


「私たちであればそうです。ただ、彼らは違います。国家という集団に対してよりも遥かに強い連帯をそれぞれの小さな集団コミュニティの中に作ります。そしてその集団の誰かが盗みの被害を受けたとしたら、全員でその損失を補填し慰め合うのです。逆に言えばそれらを拒み集団の習慣に逆うことは、自らが臆病であることを示すと同時に隣人を信頼していないと認識されます。それが原因で集団から疎外されてしまうことは、彼らにとって死ぬにも等しいことです」


「優しさに満ちた穏やかな社会であるように見えて、その実はお互いを鎖で繋ぎ合っているわけか。実態はセラステレナと大して変わりがないな。そして失われた生命の補填は誰にも出来ない」


「本質が同じであっても、その鎖を家族や隣人同士で繋ぎ合うか、異民族から自らの首に繋がれるか、その違いは大きいといえるでしょう」


「なるほどな……であれば砦の兵たちは今頃心中穏やかではないだろう。自分を繋ぐ鎖を、その家族の手によって手繰り寄せられているのだから」


 しかし、城壁に立つ兵たちに乱れた様子は見えない。


 よく統率されている。訓練を積んだ兵を優れた指揮官が率いている証拠だ。ロイは感心を覚えた。


 だがこうなっては開城は時間の問題だろう。

 まだ見ぬ砦の指揮官よ、さあどうする。


 ロイはそうほくそ笑んだあと、ふと目線を横へ向けた。


 あの丘の向こうからセラステレナ軍はやってくるだろう。どれほどの猶予があるかわからないが、砦の兵たちが降伏すれば軍に組み込み、包囲から野戦の体勢に軍を整え直さなければ。


 背後から馬の嘶き。兵士が何か叫ぶ声。


 ロイは反射的に振り返る。


 その目に映ったのは軍馬にまたがった一人の男。村人の格好。


 何者だと考えるまもなくロイの目が捉えたのは、その男に抱きかかえられるようにされた、アビゲイルの怯えた眼差し。


 侵入者。馬鹿な、いったいいつの間に。アビゲイル──


 ロイが叫び声をあげる間も無く、アビゲイルを乗せた馬は丘を一気に駆け上がっていく。


 ロイの背筋を戦慄が襲う。そしてそれ以上の思考をする前に身体が動き出す。


 そして近くにいた馬に跨ると、ロイは不慣れであるにも関わらず馬の腹を蹴った。


「閣下!」


 ライルとランドルフが叫ぶ声を背に受けても、ロイはただ娘を連れ去った男の背が消えてしまわないことだけを考えていた。

 

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