第32話 復讐の始まり

 ハンブルクはマインツとは比較にならないほど、小さな町だった。


 それは決して田舎というわけではなかったのだが、ナプスブルクが新王の体制となってから廃れ、労働者の多くが出稼ぎに出た結果、物悲しい雰囲気に包まれた町になっている。


 グレイシアとエッカルトはその町にやってくると、すぐに聞き込みを始めた。


 しかしこの町で”笑い男”の被害にあったという家はなく、エッカルトは「無駄足だったかね」とぼやいた。


 しかしそれはグレイシアにとって予想通りのことだった。グレイシアはすぐに聞き込みの内容を「あの民謡の口笛を吹く癖を持つ男」に切り替えた。


 この町は民謡発祥の地であるため、それを口笛で吹くという人間は少なくない。だから条件を絞った。少なくとも三十代以上の中肉中背で男性で十年以上前からこの町に住んでいる、もしくは住んでいた者。


 そもそも労働者の多くが他の町へ出稼ぎに出ている町である。働き盛りの年齢の男性というだけでそれなりに絞り込むこともできる。


 やがて夜になろうとした時、動きがあった。別れて調査していたエッカルトが、民謡を口笛で吹く男が住んでいるという話を聞きつけてきた。


「町外れの民家にそいつは住んでいる。家族はおらず、他の人間ともあまり交わろうとしない男らしい」


「……行こう」


 グレイシアは自分の鼓動が高まるのを感じていた。それはまるで傷つき機能を停止していた心が再び動き出し、痛みをあらわにするような高鳴り。


 だがもし真実を目の当たりにしてその正体を見せた奴と対峙したのなら、きっと自分の心は今度こそ永遠に死んでしまうだろう。それでも、私は。グレイシアはそう決心をして、男の住む家へと足を向けた。


 男が住むという民家には明かりが灯っていた。二人は近くの茂みに伏せ、様子を伺った。


 周囲に他の民家は無い。男の家の周囲は草が伸び放題で長い間手入れがなされていないことを伺わせる。このようなところで一人住む男はおそらく周りの住民からも孤立しているのだろう。


「覚悟はいいか、グレイシア」


 グレイシアはその言葉に答えなかった。そう、覚悟ならばとうに出来ている。


 すると民家から中で人影が動いた。


 やがて家の入り口から一人の男が姿を現す。手には糞尿を溜め込んでおくための小壺。中身を捨てに来たのだろう。


 男は茂みから現れたグレイシアたちの姿を見ると、目を見開いた。


「待て!」


 エッカルトが叫ぶと同時に、男は小壺を投げ捨て逃走する。「逃がすか」とエッカルトが追いすがる。


 男は町を出て森に逃げ込もうとした。この夜の闇の中で森に逃げ込まれれば見失ってしまう。


 森に入り込まれる寸前でエッカルトが追いすがり、男の腕を掴み地面に引き倒す。男はくぐもった声を上げたが、身を強く打ちつけエッカルトに組み伏せられた。


 エッカルトは呼吸を乱し、肩を上下させながら「さあ、グレイシア。どうする」と言った。


 グレイシアはゆっくりと男の前に歩み出た。そしてその顔を、見つめる。”笑い男”の素顔をグレイシアは知らない。だが、グレイシアには”笑い男”を確かめるための術に、心当たりがある。


「エッカルト」


 グレイシアは男に目を向けたまま、エッカルトに呼びかけた。


「私が”笑い男”が吹いた口笛をあなたに聞かせたときあなたはこう言った。『なんだか変な曲だな。作ったやつは頭がおかしいに違いない』」


 エッカルトはグレイシアに背を向けたまま男を組み伏せ、男の胸に剣を突きあてている。


「私が吹いたのは歌の前半部分。なんの変哲もない、素朴な曲調の部分。それなのにどうしてあなたは、”これが変な曲だ”と感じたの?」


 民謡が不気味な転調をするのは、歌の中盤から。しかしエッカルトはまるで全てを聴いたことがあるかのようだった。


 エッカルトは背を向けたまま答えた。


「それは娼婦が歌っていたからだよ、グレイシア」


「嘘。あなたは私の口笛を聴いてから娼婦の歌を思い出したと言った……順序が逆ね」


 エッカルトは答えない。


「そもそも”笑い男”が吹いていた口笛がきっかけになって私達はここにたどり着いた。だからこそ、ずっと違和感があった。ナプスブルク中を恐怖に陥れついに捕まることの無かった”笑い男”が、そんなにも簡単なミスを冒すのかと」


 グレイシアの顔は平静を保っている。しかしその声が次第に震えを帯びていくのを、止めることができなかった。


「むしろ”笑い男”ならきっとこうする。口笛というヒントをあえて残し、匂わせ、そこに食いついた者を陥れる。”民謡を知る娼婦”なんて存在しなかった。全ては自分の思い通りに事を動かすためあなたが仕組んだこと。あの日寝室に隠れた私をいたぶり楽しんでいた男なら、必ずそうる」


 思えばエッカルトには他にも不自然な点がいくつかあった。傭兵だというのにその身体には傷一つない。戦によく出かけていたというわりに肌も病的なほどに白く少年のよう。あれだけグレイシアのいた娼館に通っていても生活に困らない金。一介の傭兵ができる金の使い方ではない。


 悔しさと憎悪が入り混じり、言葉が震えて止まらない。 


「……でもどうして、娼館にいた私の前に現れたの?」


 グレイシアの心の中に、あの幼い日のアヒルの男と、絶望の淵にいたとき隣に座っていた無邪気な年上の男の顔がだぶる。


 笑顔だよ。やっぱお前、笑うと可愛いよ。

 その言葉を今思い出すと、おぞましい恐怖が身を襲う。


 そして唇に血が滲むほどの後悔。私は愚かだ。なんて、愚かなの。数多の書を読み知恵を得た気になって、身近にいた悪魔にすら気づかなかったなんて。


 その上、異性の情すら持つなんて。


 グレイシアがエッカルトの返答を待つと、やがてエッカルトは組み伏せていた男にあてていた剣を、振り上げた。


 男が懇願する。


「やめろ、金は返す! 返すから! なんでこんなこと──」


 泣きわめくように叫ぶ男の胸に、エッカルトはその剣をためらいなく突き刺した。


 男は短く悲鳴を上げると、苦悶の顔を浮かべそのまま息絶えた。


 そして剣を引き抜くと、エッカルトは言った。


「この男は関係ないんだ。ただ金を渡して、時間になったら小壺の中身を外へ捨てにいけと頼んだだけさ。”僕”の楽しみに、付き合ってもらっただけなんだ」


 男の死体を踏みつけたまま、エッカルトがゆっくりと振り返る。


 笑顔が、貼り付いていた。その顔はエッカルトであり、そうではなかった。


 エッカルトがたたえている笑みは、”そういう肉の面”が顔に貼り付いているような、異質で、おぞましい微笑み。


 グレイシアの心臓はその微笑みによって今にも破裂してしまいそうなほどに高鳴った。


 エッカルトはゆっくりと立ち上がると、血の付いた剣を指でなぞりながら言った。


「僕は決して殺人が好きなんじゃない。生きがいにしていることはそうじゃない」


 エッカルトの目はグレイシアを正面から捉えている。だがその目は深淵のように闇に満ちていて、グレイシアは果たして本当に自分が見えているのか恐ろしくなった。あの目は何か別の物を見ている。そう思えたのだ。


「僕は子供を育てるのが好きなんだ。それも貴族や裕福な家の子でなければだめだ。幼い頃から大切にされ、愛情に満たされ、小花のように咲いている女の子が良い」


 エッカルトは淡々と言葉を続ける。これまでのエッカルトのような少し軽薄で、それでいて包容力と共に頼もしさも感じさせる声はもうそこにはない。


「そういった女の子を、まず地獄に落とす。娼館とか、幼子を虐待することが大好きな育て親の元へとか、そういうところへ」


 エッカルトはおぞましい言葉を、まるで自分に向かって呟くように吐き続ける。


「そうやって彼女たちが苦しみ、悩み、もがき、あがく姿を側でじっと見るんだ。何度も何度も通って、確かめる。ああ、こんなにも辛い思いをしながら頑張っているんだなとか、えらいな、とか。あの頃は良かったよね、とか共感してあげるんだ」


 エッカルトが貼り付いた笑みをたたえたまま語る言葉は、グレイシアにとって意識を失いそうになるほどの戦慄。


「そうやって成長していく彼女たちの身体を眺めながら我慢するのは容易ではないんだよ。僕も男だからね。だけどじっとこらえるんだ。今日のような日がやってくるまで」


 グレイシアは腰につけた短剣の柄に手をかける。


「そして、こうして匂わす。彼女らが自力でたどり着けるように」


「……やはり、わざとだったのね」


「そうして彼女たちの”あの日”を超える出来事を作り上げたあとに、ようやく抱くんだ。これまでの思いを全て込めて」


 ”笑い男”は殺人をやめて姿を隠したんじゃない、次の段階へと移っていただけ。調査をしても被害にあった少女たちに出会うことができなかったのは、すでにこの世にいなかったからか。


 グレイシアは短剣の柄に手をかける。エッカルトの力と技には太刀打ちできない。女の身であることがこれほど恨めしいと思ったことはなかった。


「グレイシア、君は特に素晴らしかった。娼館から出られない身で本を読み漁り復讐の力を得ようとするところなんて特に。たいがいの子たちは、ただその不幸に染まっていくだけだったから」


「……教えて、エッカルト。父とライルを殺したことに、意味はあったの」


 エッカルトの笑みが一際大きくなった。それが答えだと言っていた。


「そういえばグレイシア、君の兄、ライルと言ったかな。彼は立派だった。あの日彼は僕に命乞いをしたんだ。記憶によく残っている」


「嘘だ。あのライルが、命乞いなどするはずがない!」


 あの優しく、そして頼もしく、時に叱ってもくれた兄。グレイシアが望んだ父のような存在。そして初めて情を持った人。


 それが殺人鬼に命乞いなど、するはずがない。そんなことがあるはずがない。


「君の兄はなんて言ったと思う?」


 そうしてエッカルトは、グレイシアの中に残った恐怖、後悔、迷い、それらの感情を濁流のように押し流す一言を言い放った。


「グレイシアだけは助けて、だ」


 一瞬頭が真っ白になった。そしてすぐにグレイシアの目は眼前の獣を捉え、何かを考える間もなくその口からは雄叫びを放っていた。


 そして短剣を抜き、エッカルトの胸目がけて襲いかかる。


 エッカルトは笑ったまま、まるで子供のじゃれ合いでも相手にするかのように余裕を見せ、グレイシアの腕を掴むと引き寄せその腹に蹴りを打ち込んだ。


 グレイシアが苦悶に満ちた声をあげて倒れ込み、地面に吐しゃ物を撒き散らす。するとエッカルトはグレイシアの身体にまたがり、自由を奪った。


 グレイシアは揺れる意識の中で必死に自分を保とうとした。


 この男だけは許せない。せめて一撃。この命に代えても。


 グレイシアは激痛に歯を食いしばり、エッカルトを睨み上げた。


 そしてエッカルトを押しのけようとグレイシアが力を込めたとき、左足に激痛が走った。


 左足の腱を、斬られた。グレイシアが痛みに悲鳴をあげる。


 エッカルトはグレイシアの身体を押さえつけ、その貼りついた笑みをグレイシアの顔に寄せた。


 意識が、薄れていく。


 グレイシアは薄れ行く意識の中、エッカルトによって森の奥へと引きずられて行った。


「グレイシア、今日僕は十年の思いを乗せて君を抱く。だが殺しはしない。君は特別だ。さらに数年の後、僕は君の前に現れよう。その時、もう一度君を抱くために」


 ”笑い男”の口笛が、深い森の奥へと響いた。

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