第30話 旅立ち

 そして二年の月日が流れ、グレイシアは十九歳になっていた。


 娼婦としての仕事にも慣れた。毎日朝起きたら夜になるまで本を読む。


 そして夜になると獣の檻に向かい、ただ時間が過ぎるのを待つ。その後は再びベッドで本を読み、眠る。その繰り返しだ。


 グレイシアの客からの評判は最悪だった。


 最初にグレイシアを見た客は、一瞬その髪を見て怪訝そうな顔を浮かべるものの、必ずと言っていいほど彼女を指名した。気味の悪い喜色をあげて、大金を差し出した。


 だが一晩過ごすと、もう二度とグレイシアを呼ばなかった。それどころか「なんだあのボサボサ髪のガキは、愛想も何もねえじゃねえか」などと悪態をついた。


 グレイシアの長く美しい髪は今はまるで手入れをされていないため、寝癖が常についたまま。そらに髪を手でかく癖があるため、それはひどい有様といえた。


 ハンナは何度も「髪は女の命、なんだけどねえ……」と呆れ、館主のホフマンも怒りを示して注意するが、グレイシアは聞き入れなかった。


 しかしグレイシアに客がつかない日は無く、手元には金が入ってくるようになった。


 気がつけばグレイシアの寝室は本がうず高く積まれ、異様な様相を呈していた。


 一人、妙な客がいた。


 エッカルトという名の男で、年齢は聞いたことがなかったが、グレイシアよりもだいぶ上だった。


 その男が妙なのはグレイシアを呼んでも、抱かないことだった。


 いつも決まってベッドでグレイシアの隣に座ると、前回会ってからその日までに起きたことを話し始めた。


 宿屋の主人にぼられただの、酒場で喧嘩になっただの、取るに足らない話。


 仕事は傭兵をしているらしい。だから一月ほどやってこないときもあったが、それでも必ず戻ってきてはグレイシアを指名した。


 そしてまた抱きもせず、話をするのである。


 エッカルトはグレイシアにもよく尋ねた。


 お前さんみたいな若くて美人が、なんだってこんなところにいるんだい、と尋ねてきても、グレイシアは容易に心を開かなかった。


 それでも月日をかけていく内に、少しずつグレイシアの口から彼女の事を知ると、彼は同情を示した。


「それは、”笑い男”っていわれてる奴に違いない。そうか……拐われた子供は行方不明だっていうが、こんなとこにな……」


「……そいつは、今も?」


「いや、何年か前まで凄い噂になってたんだが、最近はまったく聞かないな。捕まったという話も聞いてない」


「……そう」


 グレイシアが黙り込むと、エッカルトは彼女を見つめて真剣な顔をして言った。


「それで、これからどうするんだ」


「どうするって……私には」


「ハンナちゃんに聞いたぜ。お前、小難しい本ばっか読んでんだろ。奴を見つけ出すためじゃないのか」


「エッカルト、ハンナ姉さんのとこにも行ってるの」


「え、いやいやいやそうじゃねえ。そうじゃねえよ、こんだけここに通ってりゃそりゃ顔を合わすさ」


 その狼狽えざまを見てグレイシアは思わず笑った。ハンナ姉さんの口からエッカルトに呼ばれたという話は聞いたことがないから、別に嫉妬ではない。


「お、いいじゃないか」


「何が?」


「笑顔だよ。やっぱお前、笑うと可愛いよ」


 そう言われてグレイシアは目を見開き、驚いた。下衆な客が吐く言葉には無い、素直な言葉。そういうものにまるで慣れていなかったから。


 グレイシアはこの掴みどころのない、逆に見方によってはどこでも掴んでしまえそうなエッカルトに対し、複雑な気持ちを抱き始めていた。


 男に触れられるのは苦手だ。耐え難い拒絶感を持つ。だがエッカルトは指一本触れようとしない。そういう男もいるのだと、不思議に思った。


 エッカルトは、よく見れば二枚目といえなくもない顔立ちをしている。ただ顎には剃り残した髭が残っているし、やや軽薄な性格も残念である。


 ただ歳上なのに妙に可愛げのようなものがあり、そこがグレイシアにとって、兄のライルとは真逆であっても親しみを感じるところになっている。


「……私は」


 グレイシアはやがて、他の誰にも、ハンナにすら打ち明けていない計画をエッカルトに話し始めた。


「私はあの男を探しだすために、自由になる。そして必ず復讐する。兄と……父のために」


 その言葉を真剣な眼差しでエッカルトは聞いた。そしてしばらくすると、膝をぽんと叩いて「よし、乗った!」と言って立ち上がった。


「え?」


 グレイシアが驚いて見上げると、エッカルトは腰に手を当てて朗らかに笑った。


「グレイシア、俺を雇えよ。凄腕の傭兵様だぜ。”笑い男”なんて俺がぶった斬ってやる」


「本気で言ってるの? どこにいるかもわからないのに?」


「お前のその知恵で奴を探せ。んで、俺が奴を斬る。だから……」


 そう言ってエッカルトは言葉を止め、少し恥ずかしそうにしながら、こう言った。


「一緒に、旅をしよう」


 その言葉を聞いて、グレイシアの胸に今まで忘れていた感情が蘇り、一気に溢れ出した。


「おい、泣くなよ。希望の話をしているんだろう?」


 そうやってエッカルトは、グレイシアに初めて指を触れた。



 三ヶ月後。

 グレイシアが二十歳になったその日、彼女は自分を買い戻した。


「おめでとう、グレイシア」


 グレイシアが荷造りをしていると、ハンナがやって来てそう言った。


「姉さん……今まで本当にありがとう」


「いいのよ、あたしはこれが生きる術だから出ていこうとは思わないけど。あなたにはまだ未来があるから」


 ハンナはグレイシアの手を取り、そして抱きしめた。


「グレイシア、いつかあなたが自分のやろうとしていることをやり遂げたら、その時はまた一緒にご飯でも食べようね」


「……うん」


 グレイシアは涙を流しながら、ハンナの胸に甘えた。


「あ、ハンナ姉さん、これ」


 グレイシアはそう言って小袋をハンナに差し出した。ハンナがそれを開くと、中には銀貨がぎっしりと詰まっていた。


「ちょっと、こんなの受け取れないよ」


「今までの本代。ごめん、姉さんには甘えすぎたから」


「……そう。じゃ、受け取っとくよ」


 娼館の出口を歩いている時、館主のホフマンが呼び止めてきた。


「ったく、恩知らずとはこのことだ」


「……お金は全て、払いましたから」


「本当はお前を買った金はもっと高いんだよ。つまりあれじゃ足りてねえ」


「え?」


「だけどちょっと負けてやった。ボサボサ髪の上に愛想も悪い、俺はお前のせいで客にどやされるのはもう懲り懲りなんだよ」


 それを聞いて、グレイシアは少し微笑んだ。ホフマンは決して善人とはいえない男であるが、この十年間、仕事以上のことを求めてきたことはない。


「お世話になりました」


「待て」


 グレイシアが去ろうとするとホフマンは呼び止めた。


「お前を売った男のことなんだが」


 そう言ってホフマンは宙に目をやり、思い出すように呟いた。


「あの日、この子供をどこから連れてきたんだと聞いたんだ。いらんことに首を突っ込みたくは無かったんだが、あのときのお前の身なりからしていいとこの子供だと思ったからな。するとあいつは北部のマインツ市である男から預かったと言っていた」


 あいつだ。”笑い男”に違いない。


「俺が知ってるのはそれだけだ。何かあってもうちは関係ねえからな。さあ、行った行った」


「……ありがとうございます」


 ホフマンに別れを告げ、グレイシアは娼館の門をくぐった。


「まず、目的地は北のマインツ市。そこで住民に何が手がかりがないか聞いて回るわ」


「おう。今から奴をしばきあげる方法を考えておけよな、グレイシア」


 外で待っていたエッカルトと共に、二人は北への旅路を歩んだ。

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