第16話 巨悪の影
「お待ち下さいダルシアク子爵。これはナプスブルクの奸計です」
歩み出た男を見てグレーナーは一度止めた笑みを再び作り直した。垂らした釣り針に魚がかかったと確信できたから。
「ウォード男爵、奸計とはどういうことか」
子爵がグレーナーを気にする素振りを見せながら言った。
するとウォードと呼ばれた中年の男はグレーナーを軽蔑するかのような目で睨んで言葉を放つ。
「そもそも、ナプスブルクはごく最近まで愚王とも呼ばれた国王によって半ば無政府の状態でおりました。それが一朝一夕でこれだけの財を集めるなどできようはずがなく、これらは汚い金であるに違いありません」
ウォードは抑揚のついた太くて良く響き渡る声で雄弁に語りだす。
「さらにはその国政の実権を金で買い取ったという男、摂政ロイ・ロジャー・ブラッドフォードなる者は卑しくも奴隷の身分であったというではありませんか。そのような男が金の力で王の権力を我が物とすれば、成す政も自ずと想像できる。卑怯、卑屈、淫猥。それらを尽くして行われるものが自国は当然、他国の我らに益するものであるはずがない」
よく口の回る男だ。グレーナーは少しばかりこの男に感心した。ウォードの言葉にはなんの具体性も論理的な根拠も無いというのに、不思議な魅力のようなものがある。
自分もこの男のように語ることができればどんなに気持ちが良いだろう。ウォードは続ける。
「奴隷の男が何故国を買うほどの金を手に入れられたのか? 我が身を着飾る服ですら買えぬ男が、何故国家を?」
ウォードはじろりと一同を見回す。
「決まっている。彼の奴隷を操り、大金を与えた者がいるのです」
その言葉に場がざわつき始める。ウォードはその反応を満足そうに確かめながら続けた。
「セラステレナか? ロッドミンスターか? フィアット? あるいは南方のアルハンブラ皇家か? いずれにせよ、これはこれらの国がナプスブルクを我が物にするために仕掛けた巧妙な策。つまり摂政ロイ・ロジャー・ブラッドフォードとは傀儡に過ぎぬのです」
ざわつきが増す。なるほど確かにそうかもしれない。そう思ったのは他ならぬグレーナーだった。
確かに摂政ロイの金の出処は不明。かつてそれを質問したことがあったがうまくはぐらかされた。あの男が元奴隷であったことが事実だとして、何者かの傀儡である可能性は大いにある。
だとすればその真意はどこにある。ナプスブルクを手にしたその後はいずれかの大国にそれを売る? 国を買い、国を売る。売国商人とも言える存在があの摂政の正体だと? だとすればその相手は何者だ。
気づくとグレーナーの思考は摂政ロイで埋め尽くされ、ウォードが続いて口にするロイを罵倒する言葉もまるで意識の外になった。
もしかしたら自分やランドルフは何か大きな陰謀劇の中の小人に過ぎないのではないか? セラステレナなどどいうものよりも遥かに巨大な誰かが描いた脚本。己の主人ですら道化に過ぎないのだとしたら、自分に目覚めつつあった興奮はただの虚しい自慰に過ぎないのか?
「グレーナー殿」
自分は今、その巨大な存在の目に映っているのだろうか。その遠大な策謀を担う役者の一人に数えられているのだろうか。いや、今はそこに及ぶまい。まだ。
だが認められたい。この湧き上がる欲求は私の力だ。この力が私を己が望む場所へ導いてくれる。そして悪の裏に巨悪があるというのなら、私はその巨悪にこそ仕えたい。
「グレーナー殿!」
子爵の声にグレーナーははっと我に返った。子爵は「いったいどうしたというのだ」と言いたげな顔でグレーナーを見つめている。
「あ、ああ。失礼」
城主の間に集った一同が唖然とした様子でグレーナーに耳目を寄せる。ずっと跪かされていたグレボルトですら「どうしたんだ?」と思わず声に出した。
ウォードが咳払いをしてグレーナーに問うた。
「聞いているのですかな? あなたの主、ロイ・ロジャー・ブラッドフォードという男は──」
「くだらない」
グレーナーはウォードの目を見ることもなく言った。
「今、なんと」
「くだらない。そう申し上げたのです」
「つまり貴殿の主は傀儡ではないと証明できるのですかな?」
「いいえ、証明する必要などないのです」
グレーナーはウォードを正面から見据えて言い放った。
「……それは、何故」
「私もあの摂政の素性や目的など知るに及びません。しかしそのようなものなど私にとって何の価値もないのです」
何を言っているのだこの男は。ウォードの顔がそう語る。
「奴隷であったかどうか、その真意が何かなど些事に過ぎません。今はっきりしているのは”あの男”の金と権力が私たちにとって必要かどうか。国を奪われ間もなく命も奪われる。あとに残るものなど無い。悪魔に魂を売らなければ大望が成せないというのなら、もはや選択の余地など無いはずだ」
「詭弁を。浮ついておるぞ」
「ウォード卿。魂は持っていなければ売ることはできない。すでに売り払ったあなたにはそれももはや不可能」
「なに」
思わぬグレーナーの言葉に、ウォード男爵は言葉を失う。
「この国はあなたがセラステレナに売り渡した」
「馬鹿な、貴様」
剣に手をかけたウォードをグレーナーはその眼光で制して言った。
「この豊かなパッシェンデールが未だにセラステレナの侵攻を受けずにいるなど奇跡。奇跡には必ず理由があるものです。そう、例えばセラステレナに内通し情報を伝え、逃亡貴族をこの地に集め終わったあと内側から門を開くような役割を担うといった。ウォード卿、始めに私がこの国の誇りを傷つける言葉を言ったとき、あなただけはその剣に手をかけず平然としていた。そして今剣に手をかけるあなたは自らへの侮辱に対し怒っている」
「貴様何を言う。何の証拠があって」
「証拠ならばここに居並ぶ諸将がよくおわかりのはず。例えばセラステレナ侵攻の直前、彼らのことについて最も鈍感を装っていた者は? 例えば国境に兵を派遣しようという主戦派に執拗に異を唱えていた者は? 城の防備に回すべきと皆が主張した金と兵力を、耳障りの良い慈善につぎ込むことを提案した者は? そして、この期に及んで最も声高に正義唱え、セラステレナの敵の名を叫ぶ者は?」
場にいる一同が一人の男にその目線の先を向けた。そこにはウォード男爵の狼狽する姿があった。
「馬鹿なことを言うな……私はそのようなこと」
「私は……見ました」
そう言ったのは子爵の息子、ジュリアン・ダルシアクだった。金髪の癖っ毛が美しく幼さの残る青年。
「私は見ました。ウォード男爵が夜な夜な書簡を城外の何者かに渡す姿を。私はそれを他の地で抵抗する貴族たちに送っているのだと思っていた。でも……」
「じゅ、ジュリアン様。誤解です、誤解なのです」
「ウォード卿……そなたがまさか」
「違うのです、ダルシニアク卿、私はアミアンとパッシェンデールを思って──」
衛兵、捕縛せよ。子爵の絞り出すような命令に居合わせた兵士たちがウォード男爵を掴み押さえ込む。
「ダルシニアク卿、私は初め、あなたこそが売国の徒であると思っていました」
「グレーナー殿、あなたは何という目をお持ちなのだ。あなたの主、ロイ・ロジャー・ブラッドフォードはそれをも超える器というのか」
いいえ、子爵殿。実のところあの摂政について私が知るところは本当に何もなく、そしてウォードのような輩は我が
「子爵、その答えは我がナプスブルクにて確かめていただくのがよろしいでしょう」
パッシェンデール城主の間で、グレーナーは目の前で打ち崩れそうになっている老年の男に対して、少しばかりの哀れみを込めてそう言った。
そしてグレーナーは余韻を味わう。ウォードという男は確かに魅力のある男だった。彼が雄弁に大事を語るその姿を見ていると、私はそれを叩き潰してやりたくなる。これは己の中の野卑とも言える性。その性を実感して今、私は未だ見えぬ悪魔の影を求めているのだ。
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