ep07-A,心変わり

「このままあいつに会いたくない」


身体中に透明な血がこびりついて、見えない錆と染みに塗れている気がする。

そう呟いたキララに答えて、オキザリスは自動無人洗車機をサジェストした。


研究所を出て、地平線が見える程拓けた道路を辿って歩いていくと、持て余された空き地にガソリンスタンドがあった。看板は色褪せ、シャッターで窓の塞がれた事務所に人気はない。オート給油機はぴかぴかと眩しくパネルを光らせ、敷地の隅では最新式の洗車機が口を開けている。彼は脇の支払い機に荷物とコートをかけた。地獄の入り口には袈裟を剥ぐ老婆がいて、亡者の罪をその衣の重さで計る。そんな話を思い出して、今は審判の門も機械が勝手にやってるのかもな、と思った。俺のはさぞ重いだろう。


動く門によって慇懃に、無遠慮に洗われる間、なすがままの時間は頭をやたらと冴えさせた。

カズヒサ、ごめん。

あれが幻覚だったかどうか尋ねると、オキザリスは〈私にはどの部分を指しているのか判断できない。お前自身が録画を見ればわかる〉と答えた。今は推奨しない、とも。

俺はまた兄さんを殺した。

どうしてわからなかったんだろう、と彼は思った。あんなにもう一度会いたいと願ったのに。

今度こそは。彼は自分のおぞましい考えに慄いた。もしまた次の新しいアキヒサに会ったら、今度こそは、うまくやる……俺は何を言ってるんだ?

周囲を取り囲むブラシに高速で叩かれ、揉まれ続けていると、骨の髄まで自分が重機になったように思えた。


〈合理的な方法を選んだだけだ〉


何を考えているのか察したらしく、オキザリスは『一般的な成人男性』の絵文字を添えた。


〈どこで洗浄しようが、結果が良ければ問題ない。自宅の浴室よりも遥かに効率的だ〉

「……まあ、そうだな」


他に返事のしようがなく、キララは『いいね』の絵文字を苦笑いの代わりに返した。

三年目にしてようやく、この戦闘AIが皮肉や冷笑で言葉を選んでいるのではなく、純粋にただ趣味が悪いのだということを知った。元々人を傷つけるために作られたのだから、オキザリスの不器用な『善処』は本質とは異なる、最大級のものなのだ。彼はそれに気づいた。

 



電車を乗り継いでカサミの町まで戻る頃には、夕方になっていた。

玄関の扉を開けるのに長く躊躇したが、部屋では『弟』が、ソファの上で丸くなって眠っていた。キララは起こさないように毛布をつまんでその上にかけてやり、崩れ落ちるようにゆっくりと床に倒れた。疲れ果てていた。無になって、このまま睡魔に身を委ねたかった。

ブラインドの下りた薄暗い部屋の中には、テレビの明滅とノイズが沈殿していた。やたらと目も頭も冴えて、全く寝付ける気がしなかった。

無限に思える時間をじっとしていると、ソファの上で布の擦れる音がして、『弟』が何かむにゃむにゃ言っている。寝返りを打った手が伸びて、床の上の彼に触れようとした。インターフェースの数値はこの部屋が生身には肌寒く、自分の周りだけが排熱で僅かにぬるいことを示した。

光は窓と映像から無彩色に、無表情に、無味に、彼の外装を照らした。


「なあ」


彼はAI宛に、リプライを投げた。


「『のどかで平和なところ』って、具体的には、どこなんだ」

〈休むべきだ。お前は困憊している〉

「そんな場所、この世にあるか?」


オキザリスは答えなかった。

それでもいい、と彼は思った。これでもいい。

 



 




部屋の中のささやかな物音に、スケアクロウ素体は目を覚ました。


「にいちゃん? おかえり……」


目を擦り、横になったまま思いきり四肢を伸ばす。身体中の関節が眠り飽きたと不平を呟いていた。ソファの上で膝を抱えてテレビを見ているうちに、昼になって、夕方になって、気づかないうちに眠ってしまったらしい。


「変な時間に寝ちゃったみたい」


上体を起こすと、キララは青白い蛍光灯の下で、ダイニングテーブルに頬杖をついていた。僅かに首をこちらに向ける。机の上に見慣れないものが乗っていて、彼は『弟』が起きたのを見ると、それをもう片方の手で滑らせて差し出した。

青年はわあ、と声を上げた。毬の形をした鮮やかな花だった。

ソファの背に立てかけられていたタブレットが光る。ひび割れた画面にはチャットの通知。


「一日家に閉じ込めた詫びだ」

「ありがと、にいちゃん! それ何?」

「紫陽花」

「すごい。きれいだね」


青年は端末を抱えて立ち上がって、キララの向かいで花を眺めた。顔の前に掲げて横から、覗き込んで上から、蛍光灯にかざして下から、目に焼き付けるべくありとあらゆる方向から観察する。ひとふさの花を見ているだけで一生が終わりそうにさえ思えた。


「あじさい。初めて見た」

「何色だ?」

「えぇ、言葉にするには難しいなあ……」


唸りながら口を結んで、出来る限り精一杯の表現を試みる。


「……青。青に限りなく近い紫。ちょっとだけ灰色。空の向こうの色。晴れた空とは違う青。冷たくないけど、冷たいところと似合う色。哀しくなるほど遠くて、目の前にあったらもっと苦しくなって、でも手を伸ばして触れたいと思う色。触れられない色。遠い色」


キララは花を眺めた。


「なんか、言えば言うほど変わってくね。不思議な色。にいちゃんはどう思う?」

「ああ」


文字の溜息。


「きれいだろうな」


答えはそれだけだった。

彼が寿司にもピザにも手をつけなかったことを思い出して、スケアクロウ素体は息を呑んだ。


「……にいちゃんには……見えないの?」


黒い塊は頷いた。


「お前は、光を見たいって言ったな」


頬杖をやめて、机の端に巨大な両手を添える。脆いダイニングテーブルを破壊しないよう、三年の間に自分に課した慎重な動作だった。


「兄さんが生きてた頃は、俺もよくぼーっとして、一日中いろんなものを眺めてた。色は複雑な現象だ。いつまで見てたって飽きない」


机の上には紫陽花の房から剥がれた額が落ちていた。


「水に浮いた界面活性剤。階段の銀の支柱に映る雨。バイクの焼けたマフラー。CDの裏」


キララは人差し指の先でそれを撫でた。巨像と砂粒のようだった。


「多分、そういう色なんだろうな」

「……そうだね」


青年は、両手の中の端末と紫陽花に目を落として、きつく握った。


「そうだよ」


心の中がその色で染まって苦しくなった。

耳鳴りが聞こえるほどの長い沈黙を挟んで、タブレットの画面が再び光った。


「なあ。お前には見るものがいくらでもある。こんな狭くて退屈な場所よりも」


キララは立ち上がって、ソファの前まで歩いていき、降りっぱなしだったブラインドの紐を引いた。暗視モードではない視界には、夜の闇だけが映った。


「見たいだろ。外の景色。世界は色に溢れてる。好きなところに行って、好きなものを見てきたらいい。二度と帰ってこなくていい」


インターフェースの中、チャットの隅のカタバミのマークに視線を止める。


「そうしたら、諦められる」


そう、これまでだって上手くやってこれた。喚き立てるようなことじゃない。


「……にいちゃん」

「俺はこのままでいい。お前から全部奪い取るほどのことじゃない」


『スマイル』の絵文字。

金色の目は画面と、彼の顔を覆う漆黒とを往復した。


「昨日買った食い物と服がそこの棚に入ってる。市民カードと、少ないが金も。あとは……わからん。好きなように持ってけ。俺の気が変わらないうちに、どこへでも」


キララは『弟』に背を向けて、ソファに横になった。


「じゃあな」


そして、そのまま話すのをやめた。



スケアクロウ素体は茫然と、その背を眺めた。


「にいちゃん……」


机いっぱいの色とりどりのお寿司。吐き気がするほどまずいゼリー。ふたつの味に分かれたあつあつのピザ。

きらめくセロハンテープ。高架下の鳩の虹色の羽。紅茶。ビスケット。

海。

光。

もしある日突然、この世の美しいもの、慈しむべき愛しいものを、何もかも全て失ったら?

もしこの世から、色も、味も、永久に奪われたら?

『俺は二度と喋れない』。

誰かに助けを求めて叫ぶことさえできなかったら?

『いやだ』。

『助けて』。

壊れた家具。

洗面所に座り込んで、顔を覆って俯く以外に、できることが何もなかったら?

砕け散る鏡。

手の中の紫陽花。

スマイルの絵文字。

『俺は人間だ。俺は人間に戻りたい』。


青年はテレビの映像と、タブレットの中のデジタル時計の表示とを見た。午前三時。静けさの時間。


「にいちゃん」


花と端末を机の上に置いて、横倒しのキララを両手で揺さぶる。


「にいちゃん。にいちゃんってば。お願い、起きてよ」


背伸びして彼の身体越しに窓を思い切り開け放し、床に転がっていた電灯のリモコンスイッチを押して、明かりを切る。深夜の狭い部屋は暗闇に包まれ、キララは何か言いたげに渋々身を起こした。『弟』の後ろでタブレットが光り、天井を照らす。

キララには風がわからなかった。くるくると巻いた髪が靡くのを見て、温度の異なる空気が勢いよく部屋に流れ込んできていることに気づいた。

『弟』はソファに座り直した彼の膝の上に乗り掛かった。内側の見えないマスクを両手で挟み、顔を寄せる。鼻先が触れた。彼には別れの挨拶に思えた。


「……ねえ。見せたいものがあるんだ」


かつての自分と同じ顔は、窓の外から差し込む街灯で、淡い輪郭を持っていた。


「僕の目を見て」


光を返して輝く黄金の瞳は、箱の中を覗き込んだ。全身のあらゆる神経が悶えた。初めて会った時と同じ、奥底まで照らして暴かれる感覚。彼は怖くなった。あの時に似ていた。


「だめ。見て」


呑まれるような金色から無理やりに目を逸らそうとしたが、抑えられて首を回せなかった。

僅かにさえ明かりのない箱の、一つだけ開いた窓から、ゆっくりと手が差し込まれた。

サイズの違いすぎる手のひらの、それでも互いの指を組み交わすようなかたちで、『弟』は彼の手を取った。


「……きて」


手が引かれた。やめろ。彼は叫んだ。


「来て!」


怖い、と強く思った。とてつもなく強い力で、思い切り引っ張り出された。身体が浮いた。

いやだ。怖い。


「やめろ!!」


眩しさに悲鳴が溢れて、キララは自分の声に震えた。


「やめ……」


彼は目を見開いた。


「……」


それ以上言葉が出なかった。

ブラックホールに似た虚ろな黒い曲面。鏡を見た時と同じ姿。目の前にあった。

窓から吹き込む強い夜風が、肌を鋭利な刃のように刺した。背後でがたん、ばさばさ、と、何かが吹き飛ぶ音がした。

彼は振り返った。紙の束が棚から落ちる音に感じたが、頭が掻き混ざってわからなくなった。

息が詰まった。

見慣れた部屋の景色は何もかも変わっていた。青白い空気の中、オレンジ色の夕陽に煌めく小さな海。彼は重機の上から降りた。それがテレビの映像だと気づくまで、キララは永遠とも思える間、立ち尽くした。


部屋は光で満ちていた。

ぼんやりと照らされる白寂の壁に、窓から飛び込んできた赤や青に輝く街灯の星が瞬いている。外を車が走り抜け、銀の棚に流線が疾走し、加速する宇宙船に見えた。

海は枠の中にあってさえなお広く、波は流れ着くすべてを丁寧に濯いで、砂浜にそっと返した。

ちかちかと瞬く水飛沫。数えきれない奇跡によって削り出された億千万の、異なる形の砂の粒子。気まぐれに居所を知らせる、砕けた貝のかけら。

部屋中に散乱したあらゆるものが色を持ち、渦を巻く百万匹のネオンテトラの群れの中心に放り込まれたようだった。赤いペン。若草色の小箱。薄い金色の薬莢。深緑の印鑑ケース。机の上の紫陽花。

言葉の通りの色だった。青。あるいは紫。思い馳せることも憚られるほど遠くて、それでもいつか、指先だけでも触れられることを願って、手を伸ばしてしまう色。


ひときわ強く風が吹いて、ひらめいた髪の先が頬に当たった。毛先が目に入って、痛みを感じた。

目を押さえて擦り、指が生暖かく濡れた。胸の前で広げた手のひらを見下ろすと、ぽた、ぽたと水滴が溢れて、小さな水の球がいくつも滑り落ちた。歪で巨大な鋼の塊ではなく、生身の、柔らかな、人の手。


滲んだ視界の中、部屋を見渡した。浅葱に近い鼠色のソファの上で、糸の切れた人形のように、重機の身体が眠っている。

無人の海。空っぽの部屋。

チャットに言葉を打とうとして、どこにも文字も記号も現れないことを、自分が奇妙に思わなかったことに気づいた。三年を経ても、あまりにも、当たり前のことだった。

誰もいない。どこにも。

ひとりきり。


自分ひとり残されて、胸を締め付ける孤独と空虚を、飲み込もうとして苦しくなった。同じだ。あの日、気づいたら墜落する自分の器を見下ろしていた時と同じ。

世界はひどく美しい。ひとりで受け止めるには、あまりにも鋭利すぎる。

でも、決して誰かとこの景色を見ることはできない。二度と。誰かが隣にいてくれる日は戻ってこない。

瞳から零れたものが、頬を真っ直ぐ下に伝うのを感じた。彼は呻いた。


帰りたい。

帰りたい、もとの場所に。


何で、どいつもこいつも、俺を置き去りにしようとするんだ。

何で誰も側にいてくれないんだ。


彼は柔らかな拳を、手が真っ白になって震えるほどに握りしめた。

キララは虚ろな重機に掴みかかって叫んだ。


「返せよ」


羽織ったままだったコートの襟を両手で引き、激しく揺さぶった。


「返せ。返せよ。戻りたいんだ」


びくともしない質量を蹴り飛ばした。鋼は硬く、自分の足のほうに鈍い痛みが走った。


「お願いだから、もうたくさんだ、頼むから、これ以上何も俺から奪わないでくれ……」


縋り付いて、首元の金具に手をかけた。対面から外すのは慣れない操作で、何度か弄ってようやくうまくいった。


「帰せよ」


彼は引っこ抜くように、フルフェイスヘルメットに似た漆黒のマスクを取り払い、床に投げ捨てた。ヨツヤ博士の研究所で弾き飛ばした金ダライと同じ音がした。

晒された顔は鬼に似ていた。カーボン質の剥き出しの歯。殆ど硬く覆われた顔、醜く引き伸ばされた肌、赤い隈取り。目蓋を指で押さえつけて両目を開かせると、作り物の瞳が露わになった。


「頼む……」


鼻先を押し付けて、強い懇願とともに祈り、眼を覗き込む。彼は喉を灼いて叫んだ。


「返してくれよ!!」




彼は自分の顔を見ていた。

若い男。白い巻き毛、金色の瞳。

目を開けたまま電源の切れたおもちゃみたいに倒れかかり、金属の上を滑り落ちていきそうな柔らかな器を、慌てて抱えた。

おい。起きろ。頼む。帰ってこい。もう一度声が出せるなら、今叫びたかった。

がくがくと手前に後ろに揺すって、何度も何度も祈った。往復する首の口がゆっくり開いて、息を吸った。


「ん……」


ああ。キララは手を止めた。

この世に今、まともな良い出来事があったことを、彼はアキヒサに伝えたかった。『弟』の背を重機の手で支え、針に糸を通すように抱きしめた。


「………にい、ちゃん………?」


スケアクロウ素体は目を細め、不明瞭な視界を指で拭った。


「なんで……」


雨を浴びたように濡れた顔は、茫然とキララを眺めた。やがてそれは深い哀しみに、己への失意と落胆に変わった。


「……ごめん」


俯いて、スケアクロウは目を擦って首を振った。


「ごめん……ごめんね……うまくいかなかった……帰ってきちゃった」


嗚咽が装甲と、胸元のフラッシュライトを曇らせる。

再び上げた顔を引き締めて口をきつく結び、強く意志を持って、スケアクロウ素体は赤い瞳を覗き込んだ。


「もう一度」


黄金の目。


「お願い……もう一回やらせて。今度はきっと、うまく」


キララはゆっくりと、大きな手で『弟』の胸を押し退けた。

え、と狼狽の声。

声のない喉で同じ声を上げた。彼は自分がこれまで一度も経験したことのない感情に満たされていることに戸惑った。頭の中に静かに、しかし激しい波がさざめいて揺らぐのを感じた。呼吸を忘れるほどの強い怒り。頭が真っ白に沸き立つ痛烈な憤り。音のない激昂。


口を開けたままの『弟』を押しやって、重機の身体は立ち上がり、玄関まで足を運んで、扉を抜けて外側から枠に叩きつけた。


「にいちゃん!?」


ばたん。

オートロックがサムターンを回した。 


 

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