第11話

 とんと肩を叩かれて振り返ると、ぐるぐる巻きのマフラーを指先で引っ掛けて口元を晒した井岡が、おまたせと唇の形で告げた。イヤホンを外しながら、井岡の背後のビルに表示された電子時計にちらりと目をやり、時間通り、と肩を竦める。

 「……まだ出来ないの?」

 「まだ」

 寒すぎて誰もいないオープンテラスのテーブルの上で、カップを重りに風にはためく白紙をちらりと見遣った井岡は言い、浜崎はため息と共にそう応じた。冷め切ったコーヒーの黒く滑らかな湖面には、電飾をぐるぐる巻きにされた街路樹が映り込んでおり、薫らないコーヒーも真昼の電飾も、どことなく所在なさげで心が震え、取り敢えず昼行こうと言った井岡について席を立つ直前、浜崎はその湖面をひと息に飲み干して空にした。

 ライブ当日までは2週間を切っていた。浜崎が練習に合流したのがライブまで残り1ヶ月というタイミングで、そこから動き出したにしては、準備は順調に進んでいた。セットリストの組み替えは花田の号令の翌日には出来上がっていたし、古澤の曲も3日後にはほとんど形になっており、演奏面では仕上げの段階に入っている。だから後は、歌詞の完成を待つのみだった。

 ーえー……どう書くかって言われてもなぁ……書きたいこと書けばいいとしか言えないなぁ

 オレは割とノリで書いちゃうから、あんまり参考にならないかも。

 曲作るついでに歌詞入れる感じだからなぁと古澤は眉を寄せて言った。メンバーの中で歌詞を書いた経験があるのが古澤だけだからと尋ねてみたのだが、一緒になって頭を抱えられてしまったのが昨日の事だった。

 ー……ケイとかどうなの?あいつ、詞書くの好きだろ?

 古澤が言い、浜崎は、まあそうなんだけどと返した。書くと言ってみたは良いものの思うように書き進まず、ともかく誰かに訊いてみようと考えた時、真っ先に浮かんだのは藤巻だった。が、意識的に避けたのだ。平木が藤巻を認めていることは知っている。だから、嫌だった。

 ー……平木さんがあいつのこと褒めるから、ケイには訊きたくない

 ー何それ

 妬いてんの?と古澤は笑い、浜崎はそうだと答えた。だってそうだ。妬いている。平木が藤巻を見る目が嫌だ。平木が藤巻の話をするのが嫌だ。平木を一番見ているのは自分なのに。自分にとって平木は他を圧倒する一人なのに。平木にとって自分は、数多ある内の一人なのだ。存在価値を示し続けなければ埋もれてしまう。そういう存在。我儘、なのかもしれない。数多の一人であっても、一人として認識されている事を喜ぶべきなのかもしれない。……でも、それじゃあ足りない。他の誰よりも一番近くに、平木の中心に燃える隠された熱に、近づきたい。自分よりも肉薄する誰かが居ることは、許容できない。したくない。

 溢れだした気持ちが止まらない。枷の外れた欲望はコントロールを失って暴走する。それが分かるから、浜崎は平木と顔を合わせられないでいる。

 「……シュウくんがさー」

 隣の井岡がおもむろに口を開き、浜崎の思考は中断する。週末の表参道。浮き足立つ人々の声。

 「マツリの歌、すごい好きだって言ってた」

 顔を向けないまま、声だけを聴いた。分厚いマフラー越しの声は少しこもって不明瞭だが、聞き取りに不便はない。

 「……どういう流れでそういう話になんの」

 不思議な気持ちだと、浜崎は思う。くすぐったくて、ドキドキする。ドキドキして、ソワソワする。何か照れ臭くて平静を気取ったが、言葉の語尾が軽やかに揺れて高揚が滲み、隠しきれず滲んだ情緒の方がよほど恥ずかしいと知り口を噤む。

 「……別に。どうってこともないけど。1週間くらい前かな?新曲合わせてた時さ、マツリの声聴かせたいからサビはもっと音を減らそうと思うんだけどどうかなって、言われて」

 寒がりの井岡が、手袋を嵌めた両手を口元に運び、マフラー越しにはぁと息を吹きかけた。重なり合ったマフラーや、重ねた手と手の隙間から、白い帯が幾筋か空に上り、冬のぼんやりとした陽光に溶け消える。

 「演奏する方としてはさ、あるじゃない。ぎりぎり出来る限界を見せたいとかさ、自分の技巧で魅せたいとかさ。べっつにね、そんなすげー上手いわけじゃなくたってそのくらいの野望はあってさ。……歌ありきの演奏やってんだから、その辺のバランスは考えるよ。考えるけど、その時点でもう結構きれいにまとまってたものを、音削ってまでマツリの声を前に出したいって言ったからさ、よっぽど好きなんだねって、言ったの」

 マツリの歌が、よっぽど好きなんだねって。

 「そしたらシュウくんがさ、ちょっとびっくりみたいな顔してさ、好きじゃないの?って言ったわけ。おれはすごい好きだけど、カイトは好きじゃないの?って」

 ざっざっと二つ並んでいた足音が一つ不意に止まり、視界の端にいた井岡が消える。数歩遅れで立ち止まり振り返ると、じわりと空に滲んだ太陽を背にした井岡は空を見上げており、視線の先には、はるか上空で悠々と円を描いて飛ぶ鳶の姿があった。思わず、見入る。大きく広げた翼で風に乗り、悠々と空を渡る姿に、浜崎は息を呑んだ。地元では、よく見かけた。獲物を追って滑空する、黒く大きな影。近くの海岸は彼らの縄張りで、そこを通る時には、上空から目を光らす鳶に見つからないよう、買い食いのおやつを腹に抱えるようにして歩いていた。毎回そうしながら、毎回、馬鹿みたいに笑っていた。今思えば何が面白かったのか分からないような、そんなつまらないことまで全部面白くて、よく笑っていた。

 そういえば、東京の空に鳶を見るのは初めてかもしれないと、ふと思う。

 「……意識したことなかったけどさ、」

 鳶に目を留めたまま井岡が再び口を開き、浜崎は空から目の前の男に目を転じた。

 「おれも好きなんだろうね。お前の歌が」

 ふわりと笑んだ井岡がついとこちらを向いた。

 「シュウくんのギターも好きだし、マサルくんのドラムも好きだし、平木さんの作る音楽も好き」

 だから、やってこれてんだよね。今日まで。

 逆光を浴びて薄墨色の影になった井岡の表情はおぼろげにしか見えなかったが、笑う時に覗く白い歯や、くしゃりと刻まれる目元のしわ、そういう細かなイメージがやんわりとまるい声音に付随して想起され、浜崎の目にはくっきりと、井岡の笑顔が映った。頭上の鳶が、ヒョロロと鳴いた、幻聴を聴く。傍らを、小さな子供が数人、明るい笑い声を上げながら走り抜けた。

 その、瞬間。それは一種、現実離れした清廉さで浜崎の内を濯ぎ、平木に口づけて以後、胸の真ん中にぽっかりと口を開いていた漆黒を、痛いほどの激しさを以て塗り替えた。目に見える世界が彩度を増し、浜崎は思わず目を細める。歩道に敷き詰められたタイルのグレー、枝振りの立派な街路樹の深い茶、居並ぶ店々の透明に磨かれたガラス、そのガラスに反射する光のプリズム、歩き去る人々の色とりどりのコートや帽子、丁寧に整備された道の僅かな割れ目から顔を出す強かな雑草の緑、立ち並ぶビルの窓は、よく晴れた空を写して青く輝いている。肉まん片手に背中を丸めた数年前の少年たちが今、こうしてそそり立つ高層ビル群の中で鳶を物珍しく見上げている奇跡。もしかすると一生交わらなかったかも知れない人生が5つ、ここで交じり合った奇跡。奇跡、と浜崎は思う。でも、奇跡のようなその偶然を、必然を、引き寄せたのは確かに、自分たちなのだ。ここに居ることを選んだのは紛れもなく自分で、ここに居ることを選ばせてくれたのは間違いなく、彼らだった。

 「……俺も、好きだよ」

 井岡の鳴らすノリのいい音が、実は世話好きなところが、お気楽に見えてそのくせ、一度こうと決めたことには真剣に向き合うところが。多分、好きなのだ。好きだから、共にある苦痛を越えてきた。一人なら、揺らぐことはない。自分とは違う誰かとの交わりの中に、喜びがあり、悲しみがあり、苦しみがある。そうして、自分が作り変えられていく。その揺らぎを共に歩む相手に、井岡を、花田を、古澤を、そうして平木を、選んだのだ。自分が。そして、選ばれたのだ。彼らに。

 「俺も、好きだ」

 まじでかと照れたように目尻を下げた井岡を見、伝えたいことがあると、そう思った。仲間たちに。そして、平木に。

 先ばかり見ていて、今がなおざりだった。過去を省みるのも、未来を想うのも、いつも苦しかった。上手くいかないことばかりが山積していて、上手くいく保証もなくて、寄る瀬がない。立つべき足場も、目指すべき灯台への道程も、あるのかないのかも定かではない。必死の努力の先に、夢見た結果があるかどうかなんて、そんなことは分からない。でも、それでも。ここで今、自分が、自分達が、ともかく全力で足掻いていることは確かで、その足掻きを愛しいと思うこの気持ちは現実で、努力をする彼らが好きで、だから。彼らに好かれる今の自分を、もう少し愛してみたいと思った。

 ヴーッと、ポケットの中の携帯が突然震え出す。取り出した画面を見、浜崎はすぐに通話ボタンを押して口を開いた。

 「書けそう、歌詞」

 「……それは良かった」

 電話を取るなり脈絡なく言った浜崎に、花田は一瞬遅れてそう答え、ふっとため息のように笑った。浜崎の言葉から電話の相手を推測したらしい井岡に目配せすると、とっとこちらに向かってくる。

 「……で、こっちの用件もいい?」

 「どうぞ」

 井岡と一緒に居ることを伝えると、じゃあカイトにも確認してと花田は言った。

 「ラストにさ、もう一曲追加したいんだけど」

 許可取れたからと、そう言う花田の声は、珍しくはっきりと弾んでおり、浜崎はおやと思う。

 「……許可、ってことはカバー?」

 浜崎が問うと、隣でそれを聞いた井岡が察し良く曲増やすの?と眉を寄せて首を傾げた。井岡の言葉には頷きで応じ、浜崎は電話の声に意識を向ける。Hi-vox.として誰かの曲をカバーしたことは今までにはなかった。電話の向こうで花田がそうだと応じる。

 「そう、カバー」

 「……ここからまたもう一曲ゼロからやる感じ?」

 流石に厳しいのではないかと思いそう返す。微かに眉を寄せた井岡も同じことを思っていたようで、浜崎の言葉に頷いて見せる。質問の意図を汲んだらしい花田が、電話口でくつりと笑った。

 「ゼロからって考えると厳しいかもしんないけど、多分、ゼロじゃない」

 お前たちもよく知ってる曲だと思う。

 「マツリなんか特に。……歌詞なんかもう完璧だと思うけど」

 笑みのにじむ声で花田が言い、直後、告げられたタイトルに浜崎は花田の高鳴りの意味を知った。

 「……うん……それなら歌える」

 だと思ったよと花田は声を上げて笑い、そっちも今日から練習始めるからと言って電話は切れた。漏れ聞こえたタイトルが聞こえたらしい井岡はにやついた笑みを浮かべており、練習いらないくらいだけどねと、高校の頃、指に染み込むほどに鳴らし続けたその曲のワンフレーズを、口笛で鳴らして口を開いた。

 「マサルくん、何だって?」

 「……俺らしく歌えだって」

 どきどきと、胸が高鳴る。あと2週間。突然そわそわと落ち着かない気持ちになり、浜崎は知らず笑んだ。あと2週間も、この焦燥と戦わなければならない。音、熱気、興奮、視線。結局。結局、と浜崎は思う。ステージは麻薬だ。どうしようもなく魅せられる。どうしようもなく魅了される。そこにある緊張も不安も喜びも興奮も、絡まり溶け合い混じり合って、どろどろとした熱になり身体を満たす。その熱を放出する快楽に勝る快感を、浜崎は知らない。果てしない中毒性を持って誘惑する、音の魔物。

 妄想の果てに身体に満ちた昂ぶりの気配に、浜崎はぶるりと身を震わせた。明るい太陽の降り注ぐ冬の日の野外で、湿気と熱気に満ちたライブハウスの空気が香った気がした。少し首を傾けて空を見上げ、澄んだ青空に魔物を透かす。そうしておいて、早くお前の懐に戻りたい、俺は、お前の懐で全てを迸らせて果てたいのだとそんなことを思い、その思いに支配された一瞬、仲間も平木も遠退き、10歳のあの日、年上の男の歌に魅せられた少年のときめきが10年分の想いを上乗せして蘇り、膨れ上がった思いが体内で渦巻き、浜崎の表皮をじりじりと焼いた。手のひらを胸に押し当てる。張り裂けそうだと思う。吐き出さなければ、内から引き裂かれて形を失ってしまう。それほどの力だった。ただ、歌いたいと、そう思った。

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