第4話

 テーブルと椅子が並ぶだけの殺風景な会議室に一人残され、平木は、見るともなしに窓の外を眺めていた。眺める、と言っても、都会の建物はどれも背が高く、せいぜい10階程度のこの場所から見えるのは、いくつかの建物の外壁と、夜には色とりどりに輝くはずの薄汚れた看板ばかりで、秋晴れの静かに澄んだ青空は人工物で遮られて小さく切り取られており、ここではとても、開放的な気分にはなれそうもなかった。

 今日は仕事の打ち合わせで黒澤を訪ねた。数名のスタッフを交えた打ち合わせ自体は和やかに進み、またメシでもと挨拶した時、時間があるなら合わせたいやつがいると黒澤に言われ、平木は今、こうしている。こういうことは以前にも何度かあり、別に珍しくはない。ただ、呼んでくるからここにいろと平木に告げて部屋を出る時、一瞬の逡巡の後、嫌なら断っていいからと肩をすくめた黒澤の、あの微妙な表情は初めて見たと、そう思った。

 大して変化のない外を眺めるのには早々に飽き、脳内で今制作中のゲーム音楽を意味もなく流し始めたところで、コンコンと扉を叩く音がして、頭の中は瞬間、静かになる。

「はい」

 返事を返しつつ椅子を引いて立ち上がりざま、会議室の壁掛け時計にちらりと目を遣ると、黒澤が出て行ってから5分程しか経っておらず、わずか数分をこれほど長く感じる自身の堪え性のなさに、平木は口元だけで薄く笑った。しかしその笑みも、背筋を伸ばして扉に顔を向ける頃には跡形もなく消えており、そっと押し下げられるノブの動きを見つめる間、頭の中では、現在抱えている仕事の進捗、頼まれ得る仕事の種類、自分のキャパと余力の計算が始まり、突然回転数を上げる脳もまた持ち主と同じで堪え性がないとちらりと考え、なにはともあれまずは相手だと胸中に呟き、考えるのは後にしようと扉が開くのを待った。

 「……失礼します」

 細く開いた扉の向こうから、よく知った姿が現れる。よく知った、というのは、違うかもしれない。考えてみれば、今まで直接話したことは一度もないし、私服姿を見るのも多分初めてで、これで”よく知っている”というのは無理があるかもしれないが、何にしろ、平木の方は彼のことを、よく知っていた。

 「……別に黒澤さん通さなくても……マツリと仲いいんだろ?」

 ジーンズ、Tシャツ、パーカー。ラフな姿も様になるのは、スタイルがいいからだ。適度に筋肉の付いた身体はシャープで、美しい。決して大柄な方ではないが、存在感がある。自分自身の肉体すら表現の器だと言わんばかりに、右腕はびっしりとトライバルタトゥーで埋め尽くされた彼の美徳は、周囲に媚びない世界観があることだと平木は思っているのだが、ステージから降り、タトゥーも服に隠れて見えない今も、その全身から、眼光から、その独特の世界観を立ち上らせる彼はきっと、ひと時も、EndLandの体現者たることを忘れることはないのだろう。そういう姿勢は嫌いじゃないんだよなと、今時の若者然とした出で立ちで現れた藤巻圭の全身をざっと視界に納めて、平木は思う。

 「仕事の話するのにあいつ経由はおかしいすよね?」

 あと、別に仲良くないですよ。

 オレはあいつ嫌いなんでと笑った藤巻は、座ってくださいと平木を促し、自分も平木の斜め向かいの椅子に腰かけた。良く飲みに連れて行っているくせに嫌いはないだろうと思ったが口にはせず、それで?と続きを促す。

 「……トーヤさんって……Hi-vox.にしか曲書かないんすか?」

 「歌唱曲ってことなら、今はそうだけど?」

 質問の意味が分からず、軽く眉を寄せた平木が答えると、藤巻はふうんと小さく応じた。

 「……それって、マツリにしか書かないってことすか」

 ぞわりと、肌の表面が粟立つ。一瞬で、口内が乾く。かっと、頭に血が上った。何かを考えるよりも先に、体が反応した。

 「……だったら、何?」

 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。大して関わりがあるわけでもない相手に図星を指されて、イラついている。自覚はあった。藤巻に非はない。それでも、構えていないタイミングで他人に言及されて冷静でいられるほど、この状況に納得しているわけでもない。

 「操立ててんなら無理には頼めないじゃないすか」

 明らかにトーンの下がった声に気がつかないはずもないのだが、大物なのか無頓着なのか、それにはさしたる反応を見せず、藤巻は軽く肩を竦め、変わらない調子で言った。

 「……今度アルバム作るんですけど。それにトーヤさんの曲、入れさせて貰えないかなって」

 今日はそのお願いで来ましたと、藤巻は至極真面目な顔で言い、テーブルの上に置いた両手の指先を軽く組んで、平木の方へ僅かに身を乗り出した。楽曲制作依頼。

 「オレ今まで曲って自分で作ったのしか歌ってないんすけど、自分のじゃない曲も歌ってみたくて」

 「……EndLandの曲は藤巻圭が作ってなんぼだろ」

 「……そうなっちゃってるのが幅狭めてんのかなって思ってんですよね、最近。だから、これから少し色んな方にお願いしていきたいなと思ってて、その第一弾をトーヤさんにお願いできたら嬉しいなって」

 思うんですけど、どうですかと首を傾げて問う藤巻を見返し、平木は、喉の奥にへばりついたイラつきの余韻を無理やり飲み下し、落ち着いて考えろと自身を叱咤する。冷静に考えれば、悪い話ではない。EndLandに勢いがあることは事実だし、平木の曲を彼らが歌うことで、Hi-vox.楽曲に興味を持つ者も増えるだろう。宣伝費の捻出が困難な現状で、Hi-vox.の作詞・作曲すべてを担う平木の名が売れることによる宣伝効果は無視できない。……それを言うなら、Hi-vox.楽曲で現在使っているHirakiの名義をBONDS時代のトーヤに戻し、平木自身が名乗り出てゆけば今も、BONDSのトーヤは十分に看板になり得るの、だが。それをするつもりは毛頭ない。Hirakiがトーヤであることは、関係者には周知の事実で、平木自身隠しているつもりはないから、知られたなら知られたで構わない。ただ、自分から表に出ることはしない。それはなぜかと問われても、自分では明確な答えを持ち得ないが、自分が表に出ることには抵抗があり、浜崎を始め、ドラムの花田、ギターの古澤、ベースの井岡らメンバーの4人には、金も度胸もない雇い主と思われても仕方がないとは思っているが、これだけは曲げられなかった。ならばせめて、この仕事を受けることは、彼らのマネジメントをする者としてすべきことなのかもしれない。そうでなくとも。そうでなくとも、と平木は胸の内に思う。EndLandの曲を作る、と考える内に何か、胸の奥でちりんちりんと、小さな鈴が弾むような音がし始めていた。心地よい音。イラつきはその音に溶かされて何処かへ消えてゆき、平木はじっと、鈴の音を聴いていた。この気持ちはなんだろう。俺はこれを知っている。遠足の日の朝のような、始めてバンドを組んだ日のような、あの感覚。……わくわくする。そう、わくわくしている。胸が躍る、感じがする。久々の感覚だった。うずうずするこの感じ。作らなければいけないという義務感ではない。作りたい。やってみたい。俺の曲を歌う藤巻を、見てみたい。それはちょっと驚くような衝動で、平木は持て余し気味の気持ちを深呼吸一つでゆっくりと鎮め、一呼吸置いて口を開いた。

 「……やりたい、とは思うけど」

 問題がある。

 「問題?」

 「……書きたいけど……書ける自信がない」

 BONDSとしての活動を辞めてからの8年間、歌曲制作はHi-vox.の曲に限定しており、自分が歌う曲はもちろん、他のアーティストへの楽曲提供もない。劇伴メインで音楽の仕事に復帰した当初は歌曲制作の依頼もそれなりに来ていたが、あの当時は全く作れる気がせず、歌曲依頼はすべて断っており、そういった状況が知れ渡ったせいか、最近はそういう仕事の依頼自体全くなくなっていた。平木自身も、浜崎の歌う曲以外の曲を書く可能性があるかもしれないという想定自体が頭から消えており、この状況に頭が追いついていなかったが、あの当時と今でどんな心境の変化があったのか、今は不思議とやりたい気持ちの方が勝っている。とはいえ、気持ちだけで書けるものでもない、とも思う。書きたいと書けるがイコールであれば、それほど楽なことはない。書きたいのに書けないから、苦しい。書きたいと思っていても、書けない。だから、平木はトーヤで居られなくなった。

 平木の言葉を聞き、藤巻は一瞬きょとんとした後で、こらえきれないというように笑った。

 「自信がない?トーヤさんが?」

 あり得ないでしょと肩を竦め、テーブルの上の指先を組み替えた後で、藤巻は、ファンなんですと唐突に言った。

 「ファンなんですよね、BONDSの。っていうか、トーヤさんの。曲も歌も全部好きだし、今も、あなたに敵うアーティストはいないと思ってる。オレにとってはトーヤさんがナンバーワン。だから」

 藤巻はそこで言葉を切り、前かがりだった身体をすっと後ろに引いた。その時、それまで藤巻の身体に遮られていた日差しが真っ直ぐに平木の目を刺し、平木は咄嗟に目を眇めて、光を背負う藤巻を見た。

 「オレはあなたを超えたい」

 ガタン、と、風が窓を鳴らした。平木はびくりと肩を揺らし、藤巻は一切動じなかった。

 視線が、痛い。まっすぐにこちらを見つめる藤巻の、その純粋な瞳が痛い。痛いほどに突き刺さる視線に、平木は身の底から震えがくるような恐怖と、胸が張り裂けそうなほどの歓喜を同時に覚え、一時、呼吸を忘れた。ナンバーワンに、一番になりたい。あなたを超えて、一番になりたい。

 最初は、ごくごく純粋な思いだったはずだ。初めてベースを鳴らしたとき、あの時は、弦を弾いて音が出たという、それだけのことが嬉しかった。鳴らすだけで楽しかった。鳴らし続ける内、次には、もっと上手く弾きたいと思うようになった。もっと上手くなりたい。上手くなりたいから練習した。音が重なり音楽になると、今度は歌いたいと思った。音と声が合わさる瞬間が好きだった。ステージに立つようになって、自分よりもずっと上手い人たちが沢山いることを知った。今度は彼らを、超えたいと思った。もっともっと、上手くなりたい。あの人よりも、あの人よりも、上手くなりたい。誰よりも、上手くなりたい。一番になりたい。悔しさとか、挫折とか、現実とか、理想とか。そういうものがぐちゃぐちゃに絡まって、絡み付いて、少しずつ覆い隠していつの間にか見えにくくなっていたけれど。平木の内にあるのもただ、誰にも負けたくないという、ごくごく純粋な思い一つだった。最初から、多分、それだけだった。

 そして、藤巻にとって、超えるべき相手は俺なのか。

 「……見に来て下さいよ、ライブ」

 不遜な笑みでそう告げて、藤巻はすっと席を立った。

 「黒澤さん、トーヤさんはやらないと思うって言ってたんで、オレ的には書きたいって言って貰えただけで今日は満足です。自信がないのはトーヤさんの問題なんで、オレは何も出来ないけど……でも多分、EndLandのパフォーマンス見たら書きたくなると思います」

 だから返事はライブの後でと藤巻は言い、また近々よろしくお願いしますと頭を下げて、早々に出て行った。平木は、一人になった。

 風が、ひゅうと鳴いている。窓を鳴らすほどの突風はあの一度きりだったが、平木が藤巻と話した数分の間に天候は動き、静かな秋は風に荒らされ、切り取られた空にはいくらか雲がかかっていた。

 あなたを超えたいと言った、藤巻の姿を思う。きれいに澄んだ瞳の奥に、溢れるほどの闘志があった。平木に向けられた、汚れ無き純粋な戦いの意思。あなたに勝ちたい。あなたを超えて、一番になりたい。怖くはないのだろうかと、風に流されてゆく雲の一団を目で追いながら、平木は思う。超えたいから必死になって、本気で戦って、それでも超えられなかったとき、自分はどうなってしまうのかと、考えたことはないのだろうか。努力しているうちはいい。いつかは超えられると、信じていられるうちはいい。でも、一番にはなれない現実を目の前に突き付けられたとき、その時、その瞬間、自分は一体どうなってしまうのだろう。超えられないかもしれないものが、だから平木は怖くて仕方がない。必死でやって超えられなかったら、もう絶対に超えられないと思うから。本気で勝負を挑んで一度でも負けてしまったらもう、絶対に一番にはなれないと思うから。

 「……いや、違うな」

 そうじゃない、と平木は呟き、窓の外に目を止めたまま立ち上がる。テーブルをぐるりと回り窓に近づくと、見える景色が変わる。風に煽られてカタカタと小さく震える窓に、呼気でガラスが曇るほどの距離まで顔を寄せて上向くと、風になびく白い雲が群れる秋空が一杯に広がっており、煌めく青に目を奪われる。

 超えられないかもしれないものが怖いのは、絶対に越えられると信じていたいからだ。負けるのが怖いんじゃない。自分で、自分を裏切るのが怖いから、多分、戦う前から逃げている。

 はめ殺しの窓が開けられないのが惜しい、こんなに綺麗な青に手が届かないのが悔しいと、平木はちらりと考え、すいと視線を下に転じると、風に逆らい地上を行き来する人の群れが目に入る。10階のフロアは想像していたよりもずっと高く、眼下の道を行く人々は小さな点で、まるで一つの塊のように群になって蠢くあのちっぽけな点一つ一つに意思があり、一つ一つに意地があり、一つ一つに夢があるのだと平木は思い、その中で“一番になる”という目標の途方もなさが可笑しくて、唇の端で小さく笑った。

 戦う勇気もないのに、負けるのが怖いだなんて言い訳だ。負ける覚悟もないのに、勝ちたいだなんて傲慢だ。負けるかもしれない。それでも、戦う。だから、勝つ可能性がある。負けたくないなら逃げ出せばいい。戦わなければ絶対に負けない。その代わり、万に一つも勝ち目はない。

 藤巻の闘志に、まっすぐに応えられない自分が情けない。これはツケだと平木は思う。この10年逃げ続けてきた、その代償。

 ー平木さん、見てろよ

 ふと、浜崎の姿が脳裏を過る。平木の唇にぴたりと押し付けられた指先は、興奮で少し湿っていて、全身から湯気のように立ち上るあれは、多分、闘気だった。

 戦っているのか、あいつも。

 何と戦っているのかは知らない。けれど、浜崎も藤巻と同じ。逃げずに戦い続ける者の一人で、負けるかもしれない恐怖を前に尻尾を巻いて逃げだした自分とは対極にいるのだと、そう思った。

 フロアとステージを隔てる段差が例え10㎝にも満たない小さなものであっても、ステージの上と下、その距離はあまりにも遠い。いつしか見上げることに慣れ切っていた目には、眼下に見下ろす風景はあまりにも遠く、灰色のアスファルトからこちらを見上げる衆目を夢想したところで平木の両足は小さく震えだし、とっと一歩分、窓から後ずさった。喉がきゅっと窄まる感覚を振り払うため、一つ、強めに息をつく。カァと、どこかでカラスが鳴いた。平木は未だ、歌えないでいる。


 「……お前、練習だったんじゃないの」

 スタッフに案内されてきた平木は、怪訝な表情で開口一番そう言った。座席は満員で、最後まで居られないからと関係者席を断ったという平木のために用意されたのは、2階席中央の機材脇のパイプ椅子で、遠くはあるがステージが見やすいその場所には2脚の椅子が並んでおり、浜崎はその一方に腰かけて平木を待っていた。

 「ちょっと、抜けてきた」

 また戻るよと浜崎が応じると、少し間を開けて、ああそう、と呟いた平木は、浜崎のすぐ隣の椅子に腰かけた。それきり口を開かない男の横顔をちらりと盗み見、そもそも、と浜崎は思う。そもそも、ひと声かけてくれても良かったんじゃないだろうか。平木がEndLandのライブに行くということを、浜崎は藤巻から聞いて知った。平木が藤巻を評価していることは知っていて、だから、浜崎も藤巻のライブDVDは良く見ていたし、ライブにも何度か行ったことがあった。平木もそれは知っていたはずで、どうせ行くのなら声をかけてくれればよかったのに、平木は浜崎には一言もその話をしなかった。

 井岡には、拗ねてんのと笑われた。井岡とは高校の頃からの付き合いで、お互いになんとなく分かってしまうから、隠し事が出来ない。今日も、いつも通り最後にスタジオに入ってきた井岡は、浜崎と目が合うと唇をちょっとめくりあげて笑い、今日御機嫌斜めじゃんとすれ違いざま耳元で呟き、振り向いた浜崎に向かって肩を竦めた。

 一緒に住んでいるとはいえ子供ではないし、お互いの予定を全て知り尽くしているということはもちろんないから、知らされないことがあったからと言って平木を責めるのは筋違いだ。それは分かっている。それでも今回、このライブの予定を平木が話さなかったことが引っ掛かったのは、少なくとも浜崎が知る限り、平木がHi-vox.以外のライブを見に行くということがこれまでに一度もなかったからで、別にだからなんだということもないのだが、何となく、気持ちが騒ついたからだった。これまでは単に機会がなかっただけで、見に来てほしいと言われればいつでも、平木は訪ねて行ったのかもしれない。この2年より前の平木を浜崎は知らないから、 Hi-vox.を作る以前の平木にとって、他のアーティストのステージを見に行くことは普通のことだったのかもしれない。そうであったとしても。少なくとも浜崎の見てきた平木にとって、この行動は“普通”ではない。自分の知らない平木が、ここに、いる。

 そう考えてふと、浜崎は確かにと思った。確かに、井岡の言う通り。

 拗ねてんのか、俺は。

 結局のところ、自分の知らない平木がいることを知って、子供っぽく拗ねているのだ。毎日の予定とか、何を思って生きているのかとか。そういうことを知りたいとは微塵も思わない。全部を知っていたいわけではない。ただ、音楽に関して、その部分に関してだけは、平木が感じること考えることは全て、知りたい。知っていたい。そう思っている。

 平木の特別は自分なのだという、自負があった。平木の前で平木の曲を歌ったあの日から、ずっと。他のどんな音楽にも、平木はあんな風に煽られたりしない。浜崎の前でだけ、浜崎の歌を聴くときだけ、平木は、抑えきれない激情の一端を、その目の奥にちらりと覗かせるのだ。平木自身にも、おそらく自覚はない。自覚はないまま溢れ出す熱は、だからこそ、より強く真実であると思う。

 「……初っ端で3曲」

 隣でタイムスケジュールに目を通していた平木が呟く。今回のライブはワンマンではない。4時間ぶっ通しのアニソンフェスの1日目。1番手がEndLandで、持ち時間は20分。楽曲数は3曲。このフェスは、1日目と2日目でアーティストの入れ替わりがあるが、EndLandは二日とも呼ばれており、両日ともトップバッターだ。難しい役所だと浜崎は思う。今ここにいる観客の多くはそれぞれに目当てのアーティストがいるはずで、誰もがEndLandを聴きに来たわけでも、知っているわけでもない。その状況で、一発目に歌う。彼らが作り出す雰囲気が、このコンサート全体の盛り上がりを左右する。最初に歌うというのは、そういうことだ。逆に言えば、EndLandならその役割を果たせるという、信頼の証しでもある。

 -売り出し方として、ケイは参考になる

 以前、平木が言っていた。結局、何がやりたいのかがはっきり分かるグループでないと、固定のファンはつかない。すべての人に好かれる必要はない。ただ、”誰かに刺さる”何かがないと、聴いてもらえる歌手にはなれない。一本芯がないと、聴き手には伝わらない。その芯を、藤巻圭は持っている。そして、

 -お前の芯は、声

 あれはいつだったか。確か、昨年の春。EndLandデビューの報の少し前。Hi-vox.も参加した対バンライブで、トリのEndLandのパフォーマンスを見ながら平木はそんなことを言った。浜崎たちの出番は少し前に終わっていたから、メンバーはそれぞれ思い思いの場所でステージを見ており、浜崎と古澤は平木の側にいた。

 -声って、

 つまりそれはどういうことなのか。それを問うため浜崎は平木を向いたのだが、その横顔を目にした瞬間、発しかけた言葉を思わず飲み込んだ。あの日、浜崎が見つめた平木の横顔は、今までには見たことがないような昂った表情で、その目は真っ直ぐに、ステージ上の藤巻に向いていた。心臓が、ずきりと痛む。ステージで歌う自分をみる目とは違う。自分に向くのとは違う熱を、平木はその時、藤巻に向けていた。驚きと焦り、そして、怒り。その目はなんだと、声にする前に身体が動いた。

 ーっ!

 横から腕を伸ばして胸ぐらを掴むと、平木の喉からは詰まったような呻きが漏れた。突然のことに驚いた平木が体勢を崩しかけてぐらついたのを、腕の力でその場に引き立てる。強く引いた肘がすぐ隣にいた古澤にぶつかり、数秒置いて、どうしたと慌てた声を出した古澤が浜崎の肩を掴んだ。

 ー……何

 腕力で強引にこちらを振り向かせてみても何の満足もない。分かりきっていたことだ。平木が古澤の腕を振り払った直後、ふらつきから立ち直った平木は、次の瞬間にはもう、恐ろしいほどの無感動を浜崎に向けており、ガラス玉の目玉は凪いだ湖面のような静けさでそこにあり、その奥を見通そうと目を凝らしてみても、焦燥と激情に上気した自身の輪郭が鏡のように写り込むばかりで他には何もなく、気勢を削がれて何でもないと手を離した浜崎に、平木は何も言わなかった。その後、平木の視線は再度ステージに向いたが、浜崎の見つめる前でその無表情が崩れることは二度となく、隠された本心に触れられないことが、ひどく歯がゆいと思った。

 「……折角来たんだから良く見とけよ」

 あと1年で追い抜く、と隣で平木が言い、より優先順位の高い“今”のために、浜崎の物思いは霧散する。夢と現の合間で言葉が意味を成すまでの数秒、焦点の合わない目はアリーナを埋め尽くす数万のオーディエンスのさざめきをぼんやりと映していたが、バラバラだった言葉と意味が脳内で繋がった刹那、追い抜くという言葉の不穏、明確に笑いの滲んだ声音の珍しさにはっとした浜崎は勢い良く平木を向いた、が、ちょうどその時。

 ふっと、会場の照明が一斉に落ち、ざわめきが一瞬にして静まり返る。瞬間、膨れ上がる期待が、熱気になって場内を満たす。息を吐くのすら憚られる静寂の中、ぱっと灯った明かりがステージの中心に小さな円を描く。抑えきれずに飛び出した悲鳴のような歓声がいくつか、そこここで聞こえたが後は続かず、照らされた無人のステージは、ひりつくような緊張感を放ち、主の到着を待っていた。ぞわりと、腹の底から溢れてくるものがある。この感覚を知っている。規模の違いは確かにある。でも、同じはずだ。今、どこかでスタンバイしている藤巻の内に渦巻いているであろう喜びと興奮も、吐き気がするほどの不安と緊張も、多分。浜崎が知っているそれと同じはずだ。ごくりと、喉がなる。平木の横顔がステージ上の灯りを受けて微かに白く浮かび上がる。見間違いようもなく明確に、その口元は笑っていた。喜びと不安と興奮と緊張と。あのステージの上にある有象無象、その全てを、誰よりも知っている男は、そうして静かに笑っていた。

 まただ、と浜崎は思う。平木はまた、藤巻のために、見たことのない顔をする。ぞわりと、全身の毛が逆立つ感覚が浜崎を襲い、知らず唇を噛み締める。あの目を、こちらに向かせたい。俺だけを、見て欲しい。この男に火を灯すのは、自分でありたい。自分だけに許されていると、そう、思いたい。

 スポットライトの奥の暗がりから、ドラムの音が響く。控えめなリズムにギターの音が重なり、すぐに、プツリと音が途切れる。

 「……Listen」

 ケイの声が、響く。前の席の観客から、フライングの歓声があがり、ウェーブのように後方に向かって伝染する。ステージの奥から、丸いスポットライトの中にスニーカーのつま先が差し入れられ、黒いパンツの裾、太もも、上半身が順に現れる。演出された、数秒の永遠。藤巻の全身が光の輪の中に入った瞬間、会場全体に割れんばかりの歓声が響く。その直後、光がステージ全体に拡散し、明るく照らされたドラムセットから腹に響く爆音が打ち鳴らされる。

 印象的なイントロと、耳に残るメロディライン。アニメ主題歌に起用されたEndLandのデビュー曲。

 惹かれる。確かに。どうしようもなく惹かれる。平木を見ていたはずの視線が、気がつくと藤巻を追っていた。声、動き、全て。元々、上手かった。ライブハウスで一緒にやっていたときから、上手くはあった。が、ここまでではない。ここまでの存在感はなかったはずだ。自信。自信と、自負。密度が違うと、そう思った。声ひとつ、音ひとつに籠る、情念の密度。

 負けていると、思ったことはなかった。今日まで。今日、今、この瞬間まで。曲は、負けていない。それは今も、確信している。歌い手の差だと、浜崎は思う。声の出し方、抑揚の付け方。細かなところまで意識が行き届いているのが分かる。大事に、歌っている。何度も、何度も何度も歌ったはずの曲にも、奢りがない。届けようという意識がある。多分、そこが違う。自分と、今、ステージに立っているあの男とで明確に違うのはそこだと、浜崎は思う。ただ歌うのではない、届けようとしている。だから、惹かれる。今ここにいる全ての人が、藤巻から何かを受け取っている感覚を共有していて、それが、技巧以上に、肉声のライブ感、今ここにしかない感じを伴って、胸に刺さるのだ。心が動く、歌がある。その曲を聴く人のために、藤巻は歌っている。藤巻に目を奪われたまま、ぐっと強く、拳を握りこむ。悔しかった。負けていると思った。そう、思ってしまった。気持ちで負けている。心の持ちようで負けている。

 「……っ、ありがとう!」

 圧巻の20分のラスト、藤巻の言葉は場内の喝采に掻き消されんばかりで、スクリーンに大写しになった男はイアーモニターを外すと、マイクを握ったまま両手を上に振り上げ、達成感に溢れた笑顔で大きく手を振り頭を下げた。終わらない歓声。会場全体の一体感。オープニングとして、これ以上の出来はない。浜崎は、もう一度大きく頭を下げて捌けていく藤巻を、見えなくなるまで見送った。

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