【短編小説】種【R15】

月山 馨瑞

前編


    1



 愛は暴力だ。

 孤独は猛毒だ。

 私は犯罪者だ。

 それも愚かで下劣な、劣情を我慢できなかった前科者だ。

 しかし、世界中に蔓延る愛の物語が、どう私に救いを与えてくれるというのだろうか。

 この世の中でどうすれば、孤独によってできた穴を埋める事ができるのだろうか。

 そのくらやみには最早暴力でしか解決できない残酷さがある。

 血を、見たくないか?

 私は見たい。

 心の奥底では願っている、いつか私の前に、ピンク色の心臓を差し出す女が現れる事を。

 その虚無なる夢から溢れる原動力こそが、孤独だ。

 そして暴力こそが愛だ。

 好きな女が現れると、私はもうじっとできなくて彼女を殺したくて堪らなくなるのだ。

 誰も私を助ける事はできない。





    2



 その町は薄汚かった。

 道はどんどんと先細り、やがてざるの目のように細かい路地へとなっていく。いかにも古そうな家屋ばかりで、身を寄せ合うようにぎゅうぎゅうと立ち並んでいる。家屋の顔色は皆々薄汚れていて染みを作っている。空は今にも振り出しそうなほどの曇天で、澱んだ空気によりいっそうの不安感をかもしている。

 貧民街と形容してもよい町だった。すれ違う人はみな浮浪者のような姿・顔つきをしているし、空は狭く、今にも崩れそうな木造の建築物がひしめき合って、小さな虫の集合体を想起させた。まるで私のようだった。同族嫌悪のような気持ちの悪いものが、私の腹の奥で渦巻いていた。こんなところからは早く出たい、どこか心地のよいところへ行きたいという焦燥感に似た欲求が、私の全身を走っていた。

 歩いて十分弱、目的地である少し背の高いマンションへと着いた。その頃には私の全身は油のような汗でじっとりと濡れていて、不快だった。

 私は煙草に火をつけ一服した。

 心地よい紫煙が肺に送り込まれ、ニコチンが私の精神を少しだけ落ち着かせた。

 口から吐き出した紫煙はゆらり、ゆらりと揺れて曇天へと吸い込まれていった。その取り留めのなさ、そしてどこかへと消えてゆく様子は、今の私を暗示しているようにも見えた。

 これから私はここに入って、仕事を受ける事となる。

 仕事の前、大抵私は不安になる。その仕事は私の技能に似合ったものであるし、私自身、自分の能力はある程度高いものであると自負している。だが人間と――特に、『ある種』の人間と関わろうという時、常に私は胃の中に石を突っ込まれるような重い感覚に襲われるのだ。今私はどこにいるのだろうか、そしてどこに行けばいいのだろうか。

 目的地はここの四〇五号室、私は『ある種』の人間と会わなければいけない。

 

 

 私は煙草を地面に捨て、足でもみ消すと歩みを再開した。

 マンションの周りに生えた明るい緑の芝生を踏み分け、私はマンションの入り口から階段を上り、四階へと上がった。私は慎重に一つずつナンバープレートを確認して、四〇五号室を探し当てた。四〇五号室はマンションの一番はじに位置していて、ドアは薄汚れた鈍い赤色をしていた。ドアの傍には傘立てがあり、錆で内部が茶色に変色したビニール傘が一本、立てかけてあった。  

 私は深呼吸を一つすると、目的を果たすためその部屋のチャイムを鳴らした。

 ピンポーン。

 まぬけな音が中で鳴った。返事はなく、数十秒して緩慢な足音がこちらへと近づいてきた。

 がちゃり。

「ああ、お待ちしていましたよ」

 出てきたその男は、見た目は想像と違って穏やかそうな中年男性だった。いかにも平凡で禿げ頭が唯一特徴的な男だった。

「どうも」

「どうぞ中に入ってください、狭いところですが」

 男は身体を引いて私を奥へと招いた。

 彼は名前を田沢と言った。

 マンションの一室、中に入ると特有の特異臭が鼻をついた。一般的な1LDKで、ダイニングにはデスクが四つ、壁沿いに不均等に配置されている。デスクにはパソコンとそのモニタがあり、それぞれ小物が飾られていたり書類が乱雑に置かれていたりした。ベランダ側には巨大な鉄製の棚があり紙束やフォルダ、それから宗教系の本が入っていた。どうやら田沢はマイナーな宗教の信者であるようだった。

「他には、誰もいないのですか?」

「本当は二人、私の他に働いてはいますが、今日はちょうど外に出てたりしてここにはいないんですよ」

 私の問いに田沢は笑って答え、どうぞ座ってください、そこしか席がないのですが、と椅子に座るよう勧めた。私はそのオレンジ色の椅子に座った。

 六畳ほどの空間に、男二人が膝を交える形となった。

「金田さんは」

 はい、と私は答えた。田沢は何がおかしいのか分からないが、にやにやと笑いながら言った。

「金田さんは、お裁縫をなされますか?」

「えっと……小学生の頃、家庭科の時間にやったくらいでしょうか」

 私は戸惑いながらもそう返答した。ベランダからは今にも降り出しそうな曇り空が見えた。傘を持ってきてない、とふと私は思った。

「何故、そんな事を訊くんですか」

「いえ、ささいな事なのです。お裁縫ができないと、この仕事は無理かもしれないと思ったので」

「そうなのですか?」

「いえ、別に」

 ぶんぶんと、男はまるで子どもがそうするように手を振って否定した。「裁縫ってほら、針やら糸やら、やたら繊細な道具を使ったり動作を求められるでしょう。そういうのには忍耐や集中力が必要なものです。こつこつとした作業にこまごまとした作業、そういう事が本能的に好きじゃないと、この仕事には向いていないと思うんです」

「ご安心ください。耐える事は得意ですので」

「お仕事の内容というのは」

 おしごとの、ないよう。田沢は唐突に、本題へと移ったようである、この男はもしかすると話している相手の、つまり私との関係などどうでもいいのかもしれない。

「一種のムービーの撮影と編集の仕事を、金田さんにはしてもらおうと思っているんです。つまり、我々スタッフが撮ってきた動画を、カット編集やエンコードをしてもらって、DVD に焼いてもらう作業となります。確かそういった作業の経験はなさった事があると、履歴書には書いてあったと思われるんですが」

 私は頷いて、とあるパソコンの動画編集ソフトの名前と、それを扱った事のある年数を答えた。田沢は満足げに頷いた。

「それならいいんです。きっと複雑な編集というのは求められないと思うので、安心してください」

「ええっと、その映像というは、一体どういった種別の動画となるんでしょうか」

 彼は立ち上がるとベランダの方へと身体を向ける。私は、何かしらの答えが返ってくると思い数秒、口を閉ざしたが、彼は押し黙るばかりだった。

「その、つまり」

 私は言い淀む。

「私は以前教育関係の映像編集をやっていたんです。有名な大学のスタジオに行って、先生に授業をしてもらってそれを撮る。その映像を売り物にするための作業を行っていまして。まあその会社は不景気の経営縮合で映像部門が無くなって、アルバイトの私は切られてしまったのですが、でも、だからここの求人を見た時に、ああ私にぴったりの仕事だと思いまして、何故なら自分の経験がぴったり生かせそうで――」

「金田さん」

 田沢は振り返った。

 その顔からは既に笑みが消えていた。

「嘘はやめてくださいよ。金田さん」

 ぎくり、と背筋が凍る。冷たい汗が、首筋を引っかくように流れる。

「いえ、貴方の素性は少しばかり調べさせてもらってるんですよ。その教育関係云々は本当の事だとはわかってます。映像関係のノウハウがあるのも本当の事でしょう。しかし、貴方が仕事を失った理由、それは本当は別のところ……しかもアウトローな理由でしょう?」

「そうです」

 私は素直に認めた。田沢は満足げに頷いた。

「貴方には犯罪歴がある。しかも世間一般からはそっぽを向かれるようなゲスなタイプの犯罪だ。だがそれを今ここであれこれ言ってもしょうがないでしょう。それに、我々はだからこそ、貴方をここに呼んだ。貴方をここでテストしようと思ったのです。お裁縫、苦手だと仰いましたよね、金田さん」

 こっちへ、と田沢は私を手招いた。私は、彼の方へと、一歩、歩を進めた。カーペットの毛の感覚が生々しく足に伝わってきた。

「ほら、見てくださいよ」

 そう言われ、私はベランダを覗き込んだ。

 コンクリートの床には、裸で縛られた女がいた。

 裸の、女だ。

 顔面を痣だらけにされたショートの髪の女だ。

 毛先を金色に染めた所謂プリン状態になっていて、腫れて真っ黒に染まった目、それから布で猿ぐつわをされている。それからきめ細かく美しい肌が、冷たい灰色のコンクリートにぺたりとくっついている。ふくよかに丸まった乳房とその先の薄茶色の乳首がわずかに震えている。腹にも殴打のあとが複数見受けられ、その青と紫のコントラストが夕焼け空のように綺麗な模様を、へその周辺に作っている。濡れた陰毛がてらてらと光り、真っ青に血の気を失った脚が力なく横たわっている。そしてその四肢には銀色のガムテープがぐるぐると巻かれ、身動きが取れないようになっている。[星哉2]

 私はどきりと心臓を掴まれたような気がした。その女の目に、私はひどく惹かれていたのだ。彼女の目はまるで生気を失った死んだ魚の目をしているのだが、その絶望に染まった黒色は新月の暗闇の如く、明りという明りの白をどろりと吸いこみ、そして握り潰し離さないような、そんな負の力を持っていたのである。そして、その虚数的なくらやみが、私の中に眠っていた加虐性を思い切り、表へと引き出していた。

 私はその女の首を絞めて、彼女の目に若干量残る生気という生気をすべて吸い出してしまいたい欲望に激しく駆られた。その女のほんの少し残った生という生の全てを絡めとり、そして奪ってやりたいと強く思った。

「われわれは、こういったものを撮っているのですよ」

 びくりと身が打った。私は現実に引き戻されて、垂れ流れる汗の感覚を覚えながら、田沢をゆっくりと見た。

 こんな状況は、何とかしなければいけない。

 警察に通報を――いやそれよりもこの男を殴り飛ばさなければ。

 これはれっきとした犯罪である。だから、なんとかしなければ……

 思考が上手く回らなかった。

 口の中がからからと乾いていた。

 田沢は笑っていた、そんな私の心全てを見透かしているように。

「いいえ、いいんです。あなたは好きに生きればいいんですよ。現実になんか戻らなくていいんです」

 え。

 現実に戻らなくてもいい?

 ふと、私は田沢が、私に何かを差し出している事に気付いた。

 それは糸と針だった。

「裁縫、練習しませんか?」

 え?

「貴方の好きな所を縫ってもらっても構わないんですよ。練習ですから。何事も練習なんです。貴方がこの仕事をするのなら、練習をしなければいけません。貴方はこういった少々猟奇的な映像を編集し、そして売り物としてお客様に見せられるようなものにするんです。それが貴方の仕事です。さあ針を受取りなさい。その腹に針をぷつりと刺しても構わないし、その股ぐらに二度と突っ込めないよう糸で封をしても構わないんです。貴方は現実に戻らなくてもいいんですよ」

 私は針と糸を受取った。

 既に糸は針穴に通されている。

 私は女を見た。女は絶望を瞳にたたえ身体を震わせている。その黒々とした痣を振動させ、若々しい肌はつやつやと美しい輝きをしている。私は田沢の意向を読み取ろうとした。彼は一体私に何をさせようとしているのだろう? 私に犯罪の片棒を掴ませて、警察に逃げ込めないよう枷をはめたのだろうか。あるいは、それは私の猟奇的な嗜好をテストするものだったのかもしれない。

 だが私はそんな事はどうでもよかった。私は堪えきれないほどの興奮に襲われていたのだ。

 その女の瞳が、

 無性に気になった。

 その闇が、一生光を受取ろうとしないよう、

 結んでやりたいと思った。

 死ぬよりも苦しい絶望の闇に、そのタールの中にどぷりと漬けて、

 沈めてやりたいと思った。

 そうする事で私の中のくらやみが満たされ、

 耐えがたいほどの欲望が満たされるはずなのだ。

 私はゆっくりと女の瞳に、瞼に手を伸ばした。

「そう、それでいいんです」

 女の目玉から光を奪わなければならない。

 その為には、女の目玉に光が一生差し込まないよう――

 ――『封』をする必要がある。

 すなわち、

 私は腹でも股でもなく、

 瞼を縫い合わせるべきなのだ。

「さあ、その様子を撮りますから、ゆっくり、ゆっくり、好きなようにしてください」

 ぷつり。

 ぷつり。

 女の叫び声も、田沢の声も耳に入ってこなかった。

 


 ――私はひどく静かな気分で女の瞼を針で縫い合わせる作業に夢中になった。


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