4.完全と矛盾

「ふぁ……、娑婆シャバの空気が美味いわー」

 翌朝、警察署から出たクロガネはあくび混じりに深呼吸すると、両手を組んで伸びをする。その横で、げんなりとした清水刑事が呆れる。

「刑務所から出所したての犯罪者みたいな台詞だな。清々しいツラが腹立つわー」

 昨日、、大多数の黒龍会関係者が検挙された。鋼和市全域で一斉摘発や家宅捜査が行われ、報告書の作成から事情聴取に取り調べと、過去に類を見ない膨大な仕事量を清水をはじめ全捜査官は徹夜で行っていた。

 そしてまだ終わりが見えない。動ける者は今も忙しなく警察署内外で動き回っていた。一晩の取り調べでクロガネが留置所から出られたのは、黒龍会とは無関係であると判明したため早々に厄介払いされたに他ならない。

「まったく……別件の仕事で忙しいのに、ここで倍率ドンとか勘弁してほしいぜ」

「加齢臭ただよう表現だな」

「うるせぇ、ほっとけ」

 愚痴っぽくなる中年刑事に、クロガネは訊ねる。

「別件って、俺が絡んでいるのか?」

「あん? どうしてそう思うよ?」

「昨日、事務所に入る俺を尾行しつけていただろ?」

「……気付いていたか。ちなみに、尾行される心当たりは?」

「ないな。あり過ぎて、逆にどれなのか皆目見当もつかん」

「ちったぁ反省しろ、全然懲りてないだろ。聴取されんの、これで何回目だよ」

 堂々とした返答に心底呆れる清水。これまでにクロガネがやらかした案件の調書作成の大半は清水が担当していた。

 私立探偵として己の仕事を全うする分には良いが、その延長線上に必ず何かしらのトラブルが付随するのだから性質たちが悪い。しかもトラブルの原因は全て依頼人側であり、ライセンス持ちで正当防衛であるという確たる証拠があれば、クロガネはこの鋼和市に限り悪人を射殺しても罪には問われないのだ。

 とはいえ、その度に事情聴取や後始末に報告書の作成と仕事が山のように増えていき、担当者にとっては迷惑でしかない。今のところ、クロガネが一人も殺していないことが唯一の救いである。

 あまりのトラブルメーカーっぷりに警察関係者はクロガネを煙たがり、彼に関する案件の押し付け合いが起こるほどだ。そして清水は何かとその貧乏くじを引かされることが多く、もはや専属に近い。

「巡回中、見覚えのあるツラを見かけたと思ったらヤクザの事務所に入って行くもんでよ、カチコミかと思って近くで張ってたんだ」

「それで通報から到着がやけに早かったのか」

 ちょうどパトロール強化月間だったからな、と清水は補足する。

「今回はドンパチならずに済んだが、もう少し平和的なやり方は考えられないのか、オメーは?」

「最大限努力して平和的に解決しただろ。おまけに悪党どもを一網打尽にしたんだから、謝礼金くらい出してくれても良いんじゃないか?」

「そこは感謝状だろ。何いきなり金銭要求してんだ」

「紙切れ一枚で腹が膨れるとでも? それで別件って何を調べているんだよ?」

「警察官がおいそれと外部に情報もらすかバーカ。これやるから、とっとと帰んな」

 清水は署内の自販機で購入していた缶コーヒーを手渡す。味はブラックだ。

「朝飯抜きだから、カフェオレが良かったんだけど」

 普段は無糖派だが、血糖値が不足しているため甘いものが欲しいところだ。

「奢って貰って文句を言うな」

 じゃあな、と署に戻っていく清水の背中に「どうも、ご馳走様」と礼を言ってクロガネはポケットに缶コーヒーをしまった。

「さて」

 鞄の中身を覗き込み、中に大きめの茶封筒が入ってあるのを確認する。

「こいつを届けて、この件はおしまいだな」

 警察署から出たその足で『あかつき診療所』に向かったクロガネは、金田から取り戻した土地の権利書を院長に手渡し、事の顛末を簡単に報告すると、物凄い勢いで感謝された。

 後日、詳細をまとめた報告書を送ると伝え、クロガネは診療所をあとにした。




「おかえりなさい」

 真奈の部屋に戻ると、玄関先で美優が正座をして出迎えたので驚いた。

「いつからそこに?」

「さぁ? 私が起きた時には、すでに居たわね……」

 寝癖で髪があちこち飛び跳ねている真奈が、寝ぼけ眼で応える。下着姿でなく、ダサイ芋ジャージ姿だ。

「まったく、どうやって脱け出したんだか……」と何やら呟いて、真奈がトイレに入ったのを見送ると、改めて美優と向き合う。

 まるで飼い主の帰りを心待ちにしていた忠犬だ。

 そんな彼女にまず言うべきことは、

「そこどいて。上がれない」

「……はい」

 どこかしょんぼりした様子で美優は立ち上がって壁際にどける。

 玄関から上がったクロガネは、美優の頭に手を乗せた。美優の顔が上がる。

「よくやってくれた。今回はとても助かった」

 そして、届けたい言葉を贈る。

「ありがとう、。それと、ただいま」

 美優の目が大きく見開かれる。緑色の瞳に、優しく微笑むクロガネの顔が映る。

 髪が一気に熱を持ったことを感じたクロガネはすぐに手を離し、足早にリビングの方へ向かっていく。美優が追いかける。

「クロガネさんっ。今のもう一回、もう一回私の名前を呼んでくれませんか?」

 嬉しそうな笑顔で、美優の声が弾む。クロガネの上着の裾を掴んで振る。

「えぇい離せ、服が伸びるシワになる。せがまんでも名前くらい、そのうち何度だって呼ぶだろうがっ」

「だって私の名前を初めて呼んでくれたんですよ。十一秒前の台詞と表情はトリプルAランクで記録・永久保存して、今日という日を記念日にします」

「大袈裟にはしゃぎ過ぎだろ。落ち着け。それとやたら記念日を作る女は嫌われるぞ」

「デジマ!?」

「お前は日本のサブカル知識を受け入れ過ぎだ!」

 もはや定番となった茶番を繰り広げていると、

「みぃぃぃぃぃぃぃたぁぁぁぁぁぁぁぞぉぉぉぉぉぉぉ」

 地獄から這い出るような人外の声に振り向くと、トイレのドアの隙間から血走った目で二人を見る真奈……のような何か。

「なに人ン家でイチャコラブコメばりのリア充お惚気全開青春桃色空間構築してんですかコラ」

「別に惚気てなんかいないぞ」

「はい、ツンデレ発言いただきましたー。枕詞まくらことばに『別に』とか言っている時点で、美優ちゃんにデレッデレじゃないですかー。やだもー、鉄哉もげろ」

 やばい。こいつ何言ってんのかちょっと解んない、とクロガネが引いていると、

「もげろって、何をです?」

 美優のピュアな質問に、真奈はニタァと、深く、不気味な笑みを浮かべる。

「何って、それはもちろん、ナニでしょ」

 ナニ教えてんだこの馬鹿。

「? だから何なんですか?」

「もっと具体的に言わないと解んない? んもぅ、美優ちゃんのエッチぃ」

「エッチぃことなんですか?」

「ナニってあれよ、おち――」

「言わせねぇよ!」

 規制が掛かりかねない真奈の発言を遮るクロガネの見事なインターセプト。

「ていうか、いつまでそこでふざけた真似してんだ。用が済んだなら早く出てこい。次は俺もトイレ使いたい」

「ふっふっふっ。私が理由もなく、こんな真似をしているとでも?」

 不敵な笑みを浮かべる真奈。

「? どんな理由があると?」

「紙が切れてて、ここから出られません」

 しょうもない理由だった。

「ちょっと、トイレットペーパー買ってきてください」

「お前、ちゃんとトイレ掃除していなかったのか? 紙の残量や備蓄くらい普通は気付くだろ?」

「今にして思えば、美優ちゃんに監督させたのは鉄哉の落ち度では?」

 一理ある。ガイノイドは排泄しない。

「ズボラな奴には監督いないと掃除しないだろ」

「それを言われると耳が痛い。ところで美優ちゃん静かね、どうしたの?」

 確かに急に静かになった。美優の方を振り返って、ぎょっとする。

 真っ赤になって「あばばばばくぇRちゅいあえXCRV6YぐKYL@VBん」と意味不明なことを口走り、毛髪に偽装した放熱線から絶え間なく蒸気が噴き出ていた。

「な、何だこれ? どうしたんだ?」

 あまりの異常事態に動揺する。

「これは、もしや……!」

「知っているのか、海堂!?」

 原因に思い当たる真奈に、クロガネは訊ねる。

「さっき、鉄哉のナニがどうとか下品なやり取りしてたじゃない?」

「下品だと思うなら口にするなよ。それで?」

「それで中途半端に意味を教えなかったから、美優ちゃん気になって、自分で調べたんだと思うよ。お得意の検索で」

「……」

「それでナニの意味を知って、芋蔓式に色々なことを……性的な知識をたくさん仕入れてしまって、熱暴走を起こしてるんだよ」

「……」

「とどのつまり、自爆だヨ☆」

「結局、お前のせいじゃねぇか!」

「鉄哉が邪魔して逆に興味持ったからじゃない!」と真奈が逆ギレしたところで美優が倒れ、咄嗟に抱き留める。全身が高熱を帯びて思わず手を離してしまいそうになるのを堪えながら、ソファーに寝かせる。当然だが、美優は見た目以上に重い。

 眠るように目を閉じた美優を見下ろす。

「どうして急に動かなくなったんだ?」

「多分、オーバーヒート寸前で強制シャットダウンをしたんだと思う。コンピューターが不具合を起こした時と同じね。熱さえ引けば再起動するんじゃないかしら?」

 いくらウブな人間でも、ここまでのぼせたりはしないだろう。

「初めて会った時、下ネタ交じりの冗談を平気でかましていた筈なんだがな」

「へぇ、興味深いね。後になって思春期女子の心理学でも検索したのかな?」

 ……この女、本当は全部解ってて言ってないか?

 真奈の憶測は恐らくニアピンどころかドンピシャだろう。わずか数日で美優は人間らしく急成長している。その成長具合が多少偏っているのは、保護者として悩ましいが。

 だが今は議論している場合じゃない、早く適切な処置が必要だ。

「何か出来ることは?」

「とりあえず冷却ね。冷房つけて」

「解った」

 真奈の指示に従ってエアコンのスイッチを入れ、最低温度に設定。

「あとは頭部を集中的に冷やして」

「解った」

 冷蔵庫の冷凍室から冷却ジェルが詰まったクッションを取り出し、薄手のタオルを巻いて美優の頭の下に敷く。そして額には冷却シートを貼り付ける。

「それと、全身にまで熱が広がっているようだから服を全部脱がして。冷風が当たる表面積を広くとるの」

 クロガネの動きが止まった。

「どうしたの?」

「いや、頭だけ冷やせば問題ないのでは?」

「全身の人工筋肉に熱が溜まった状態が続くと摩耗を早めてしまうのよ。限界まで摩耗してしまうと、何かの拍子に筋繊維が古びた輪ゴムみたいに千切れてしまうことがあるわ……って、ああ、なるほど」

 真奈が何かに気付く。

「もしかして、美優ちゃんの服を剥がすのに照れてる? 謎の背徳感や犯罪臭を感じちゃってる?」

 ここぞとばかりに嫌な笑みを浮かべた。

「あら? あらあらあらぁ? 人命救助や心肺蘇生の研修は受けてこなかったの? ついでに言えば、相手は人間ではなくてガイノイドよ? お人形相手に何を照れてるのかしらん、この純情野郎は?」

 海堂真奈の前世はきっと便器に座った悪魔ベルフェゴールに違いない。知らないけどきっとそうだ。

「トイレから出れない、何の処置もできない医者が言えることかよ」

 皮肉交じりのいつもの口喧嘩。だが今回ばかりは真奈に分があった。

「紙があればすぐにでもやっているわよ。でもここで悠長な真似をしていたら深刻な障害が発生するかも。その場合、修復に一体どれくらいのお金と時間が掛かるのかしら? 想像できないわ」

「くっ……」

 苦虫を潰したかのように渋面を作り、沈黙する。相変わらず重要な場面で痛いところを的確に突いてきやがる。反論できない。

「しっかりしなさい。ここまで精巧なガイノイドだと人間の女の子として扱ってしまうのも解るわ。だけど、ここでまごまごしていたら、美優ちゃんが大事になってしまうわよ」

 美優の手に触れる。未だ高熱のまま引く気配がない。

「今、この状況で彼女を救えるのは鉄哉だけよ。なら、することは解るでしょう?」

「……ああ、そうだな」

 真奈の発破に背中を押され、覚悟を決める。

「頑張って。私はしょうもない理由でトイレから出られないし」

「台無しだよ」

 本当にしょうもない。

「鉄哉だって無駄にカッコ良く覚悟完了してるけど、これからするのはブティックの見本で並べられているマネキンみたいに、お人形さんの服を脱がせることだけよ」

「……あ、そう考えたら急にやれそうな気がしてきた」

「うん、やれるやれる。あ、脱がせるのに手間取る場合は、思い切って刃物で切っちゃって」

「……急にハードルが上がった気がしてきた」

 しかも美優が今着ている服は、つい先日買い与えたばかりのものである。割と高かった。

「緊急時は患者の衣服を切るなんて茶飯事よ。勿体ないとか考えないで、ズバッといっちゃって! ズバッと!」

 意を決し、クロガネは眠っている美優の衣服に手を伸ばす。


「おっと、事案発生か?」


 刑事課のデスクで、備え付けの端末と対峙していた清水がそう言った。

「……と思い、黒沢鉄哉氏を尾行・監視を行い、付近を巡回していた警官に協力を要請。

 実態は同氏に非は一切なく、黒龍会に不法侵入されて土地の権利書を盗まれた『あかつき診療所』の依頼を受け、黒龍会事務所に交渉に向かったとのこと」

 手書きのメモと、PIDに映る資料を見比べながら、音声入力を使用して報告書を作成していた。

「しばらくして、。黒龍会が悪質な地上げを行っているという内容と、それを裏付ける詳細かつ膨大な証拠資料が添付されていた。黒沢鉄哉氏の仕業と見て現在調査中である」

 先程までの聴取によれば、黒龍会に恨みを持つ被害者たちの依頼を受けたクロガネは、彼らの了承と協力を得て、長い時間を掛けてここまでの仕込みをしたとのことだ。それが事実ならば恐れ入る。

「この資料の中には、銃器や麻薬の違法取引による不法所持まで記載されており、また拳銃を黒沢氏に向けた組員たちの映像まで添付されていた。

 急遽、事務所付近で待機中の警察官に黒龍会事務所に対する強行捜査を要請したのは、民間人である黒沢氏の保護を最優先にした現場の判断であると……いや、逆に黒沢が黒龍会組員を射殺するのを未然に防ぐため? どっちの味方してんだこれ……あ、やっべ」

 余計な独り言まで報告書に入力されてしまい、修正しようとするが、

「……飽きた」

 堅苦しい表現を多用する書類作成はどうも苦手だ。音声入力を切り、データを保存して伸びをする。全身のあちこちで、パキパキと関節が鳴る。

「さすがに疲れが溜まってんなー。昨日からずっと、ヤクザのガサ入れやら捜査やら検挙やらで休む暇がねぇ」

 黒龍会の捜査が文字通り降って湧いたため、元々取り組んでいた案件と合わせて負担が倍以上である。

 同僚の一人は「またあの探偵がやらかしやがって」と不平不満をたらたら愚痴りながら涙目で仕事していた。

 気持ちはすごく解る。

 何も仕事を増やさなくても良いのではないかとさえ思う。クロガネはとぼけていたが、恐らく意図的に狙ってやったのだろう。パトロール強化月間を上手く利用されてしまったわけだ。とはいえ、警察官として犯罪者を野放しにはできない上に、今回の取り締まりによって市民の安全が守られたのだ。仕方がないと納得する他ない。

 改めて、本来の任務と向き合う。

「……〈サイバーマーメイド〉の護衛ねぇ」

 機械に弱い清水でも知っている、超高性能自律管理型AI。通称〈サイバーマーメイド〉。

 広大なネットの海を泳ぎ、優れた知能を以って人間に叡智を授けてくれる〈電子の人魚〉とマスコミが表現したことで、いつしかその名が定着した。

 そして新しい〈サイバーマーメイド〉が、この鋼和市で目覚めるまであと三日と迫っていた。


 西暦2020年頃からAI技術が急速に進化・普及するにあたり、世界中でサイバー戦争が起きた。

 建物の一室に鎮座する大がかりなスーパーコンピューターが手のひらサイズにまで収まり、さらに大容量・高速演算できるように進化した。個人がより多くの情報を手に入れられる時代に合わせ、AIが人間の生活を支えるようになったのは必然の流れと言える。

 力を失った指導者。

 腐敗した政府。

 秩序が保てなくなりつつある社会。

 他国からのサイバー攻撃で経済的損失を受ける企業。

 情報が錯綜し、混乱する民衆。

 それらを改善し、復興と発展を目的として提唱されたのが、AIによる統治である。

 当時はSFのような馬鹿げた思想と揶揄されたが、実際に試験稼働をした結果、劇的に国が豊かになった。

 犯罪発生率が目に見えて減少し、効率的に国家予算が運用され、医療・福祉・教育、あらゆる分野で国民の生活がより高水準に至ったのである。

 民衆も完全かつ完璧な指導者の出現を心待ちにしていたのだろう。

 〈サイバーマーメイド〉による統治は良い意味で結果に繋がるのが早く、従来の人間による民主的な国会議論は無用の長物となった。現在の国会は議員席を半分以下にまで縮小し、各政党の代表者が〈サイバーマーメイド〉の方針や政策に細かい調整を議論する程度に収まっている。

 今や世界は、AIを中心に回っていると言っても過言ではない。

 アメリカが最初に〈サイバーマーメイド〉を開発したことを皮切りに、中国、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスがその後に続いた。

 やがて、この先進六ヵ国の〈サイバーマーメイド〉の運用は国連の管轄下に置かれ、『AIは人類の繁栄と平和のためだけに存在するものであり、それに反するものには決して行使しない』という国際条例が新たに設けられた。


 そして最近になって、新たな〈サイバーマーメイド〉の存在が日本で公表された。

 それが七番目の〈サイバーマーメイド〉。個体名〈日乃本ナナ〉である。


「ここまでなら問題ないんだが……」

 清水が極秘扱いの資料に目を通す。警察署内の限られた端末しか閲覧できず、コピーによる持ち出しやメモの書き写しも厳禁。もし実行した場合、署内を監視・管理しているAIから警告され、瞬く間に同僚に拘束されてしまう。

「ややこしいのは、国連に加盟していない日本が〈ナナ〉を保有することだな」

 非加盟国である日本が、国連管理下である筈の〈サイバーマーメイド〉を開発・保有するのはおかしいと、特に中国とその傘下にある朝鮮半島、そしてロシアから抗議があった。だが他の保有国は非難のポーズこそしているものの概ね黙認している。その理由としては、日本政府と〈ナナ〉の開発スポンサーの獅子堂重工が多額の補助金を国連に出資しているからだ。

「政界に財界が絡んで日本は非加盟国でありながら〈ナナ〉を保有。

 その目的は、他国に比べ遅れていたサイバーテロ対策と、低迷していたGDP(国内総生産)の回復。

 昔馴染みの同盟国であるアメリカやイギリスから見れば、ロシアや中国の牽制役として日本を見逃している節がある、か……」

 かつては冷戦と呼ばれた核兵器を手に睨み合った人類同士の対立。大規模な武力衝突に辛うじて至っていないだけで、終結した筈の冷戦は今もなお水面下で続いているという。

 核兵器からサイバー技術へ。手段は変われど、人類は未だ変われずにいた。

 だからこそ、現在は高性能な自律型AIが人間社会を管理しているともとれる。

 人間のように主観的かつ感情的な思考に左右されず、あくまで客観的かつ合理的な思考によって調和をもたらす存在。

 完全で完璧で不変で安全で安定した平和な社会を実現すると謳う一方で、AIに管理される社会はヒトの尊厳を損なわせるとして危険視する人間もまた多い。

 中にはコンピューターウィルスやハッキングによるサイバーテロから、銃撃や自爆など従来の物理的なテロまで、過激な破壊活動を行うテロ組織も存在する。そうした連中から、無事に本土へ〈ナナ〉を警護・護送するのが今回の任務だ。

 その下準備として、鋼和市全域にパトロール強化月間が発令。当日の安全を確実にする露払いの最中、黒龍会組員の迅速な逮捕と検挙に繋がったのである。

「それにしたってまぁ、念入りなこったな」

 清水は護送当日の警備配置を確認する。SATや対サイボーグ用特殊機動隊まで動員。その動員数も過剰ともいえる数だ。内閣総理大臣でも、これほどの護衛や警備は付かないだろう。

 万一、襲撃があったとしても、この国の未来と利益を鑑みれば掃いて捨てるような名もなき警察官が殉職するだけだ。『日本の未来を守った英雄』とか、大袈裟な表現を使って報道されるのだろう。そして清水はその英雄候補だ。

「まったく……」

 頭の後ろに両手を組んで天井を見上げる。

「貧乏くじだよなー」

 はぁ、と清水は、疲れが多分に含まれた溜息をついた。




 再起動を果たした美優が最初に見た光景は、炒飯を頬張っていたジャージ女だった。寒いのか毛布を羽織っている。

 内蔵時計を確認。強制シャットダウンをしてから一時間以上も経過していた。

 美優が起きたことに気付いた真奈は、水と共に口の中のものを飲み込む。

「ふぅ……おはよう。調子はどう? どこかしらエラーはない?」

 冷房の電源を切りながらそう問い掛ける真奈。言われて自己診断機能を起動。一秒足らずで全身くまなく走査するも、特に異常は検出されない。

「問題ありません。オールグリーンです」

「なら良かった。鉄哉の応急処置が功をなしたようね」

 そう言ってこちらの胸元をスプーンで指し示すと、服がはだけていることに気付く。

 我ながらまぶしい、きめ細やかな白磁の肌が、あられもなく晒されている。そして重要なのは、

「……クロガネさんが、脱がせたんですか?」

「他に誰が居るのよ。私はトイレから出られなかったし」

 クロガネが服を脱がせる場面を想像した瞬間、体内温度上昇の警告ウィンドウが美優の視界に表示され、毛髪に擬態した放熱線から排熱が開始される。

「機械のくせに、中身はウブなエロガキね。また倒れたりしないでよ」

「……しませんよ」

 呆れる真奈の視線から逃げるようにそっぽを向き、乱れた着衣を整えながら、先程の想像を強制的に止める。上昇していた温度も徐々に引き始める。

「ウブでエロガキなのは否定しないのね」

「……外観ハードのデザインは成人女性ではないですし、中身ソフトもまだ成長段階ですから。事実に対して、否定はしません」

「あら素直」

 さりげなく真奈が冷房を再起動してくれたこともあり、瞬く間に排熱は完了した。

「……ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 姿勢を正し、真奈に深く頭を下げる。

「うん。それは鉄哉にも言ってね」

 素っ気なく言って冷房を切る真奈を尻目に、美優は周囲を見回す。

「そのクロガネさんはいずこに?」

「美優ちゃんの応急処置が済んだ後、トイレットペーパー買って来て貰って、その後、朝ご飯作ったら『あとは任せた』って言って資料室に行ったわ」

 鉄哉もウブよねーと言って、遅い朝食を再開する真奈。

「資料室?」

「彼、ウチの空き部屋に事件の資料とか持ってきてはまとめて置いていくのよ。だから資料室。『部屋が無駄に多いから、一つくらい提供しろ』とか言ってね」

「その類の部屋なら、探偵事務所にもありましたけど」

「それはコピーね。盗まれたり焼かれたり失くしても大丈夫なように、保険的な意味で原本をウチで預かっているのよ」

 個人情報も多分に含まれる重要な資料を預けるほど、随分と真奈を信頼しているようだ。

「合理的で非常に有効な活用方法だと思います」

 そもそも若い女性が一人暮らしをするには、この部屋は些か広過ぎる。

「……解っていたけど、美優ちゃんは鉄哉の肩を持つのね」

「彼の助手なので」

「あっそ」

「助手なので」

「ええい、二回も言うな!」

 真奈は羽織っていた毛布を投げつける。美優はそれを避けて通路の奥へ向かった。



 資料室の方へ向かう美優を見送る。彼女の足取りに迷いは感じられない。

「場所を教えてない……って、ああ、検索したのか」

 GPSの要領でクロガネが所持しているPIDの発信源でも特定したのだろう。

 席を立ち、床に落ちた毛布を拾い上げる。

「助手、ね……」

 例え仮初めの役割だとしても、それは彼の隣に立つ者の肩書き。探偵である彼の女房役。

 片や、自分は担当医。

 彼を支えるという点はどちらも同じだが、支えられる距離と共に居られる時間が違う。

「……ちょっと、羨ましいかな」



 資料室に置かせて貰っている予備のノートPCと直結したプリンターから、報告書が吐き出される。

 クロガネは慣れた手つきで印刷した報告書をまとめて茶封筒に入れ、開け口を備え付けのシールで封印する。

 宛先は『あかつき診療所』としっかり明記している。あとは郵便局に任せて真奈からの依頼は完了である。

 この手の重要な書類は郵送に限る。用心深すぎるかもしれないが、今の時代、メールやFAXだと簡単に傍受される危険性もあるのだ。

 茶封筒を鞄の中にしまい、代わって拳銃――小型のリボルバーを取り出した。サムピースを押して、蓮根型の回転式弾倉シリンダーを振り出す。弾丸は警察署で没収されたため、一発も装填されていない。

「……また余計な出費が」

 むしろ安上がりと考えよう。いくらライセンス持ちといえど、日頃の行いと今回銃を抜いた状況が状況だけに何らかの処分を受けないことには警察側も納まりが悪いのだろう。この程度は必要経費だ。

 弾倉を静かに戻したところでドアがノックされる。「どうぞ」と入室を許可すると、美優が現れた。

「もう大丈夫なのか?」

「はい。この度は、ご迷惑をお掛けしました」

 美優が頭を下げる。

「気にするな。これくらい、迷惑なんて思ってない」

「ありがとうございます」

 美優に対して謎の罪悪感を抱いていたクロガネは、どう接すれば良いのか少し悩んでいると、

(じ~~~~)

 美優の視線が手にしていた拳銃に注がれているのに気付く。

「……拳銃が珍しい?」

「少し、興味があります」

 一般的に本物を目にすること自体が少ないだろう。

 リボルバーを手の中で回転させ、グリップを美優の方に向けて差し出す。

「触ってみるか?」

「良いんですか?」

「勿論。弾は入ってない」

 恐る恐る、リボルバーを受け取る美優。小柄な彼女の手にも収まる大きさだ。

「……アメリカ製、スミス&ウエッソンM36リボルバー。通称、チーフスペシャル」

 お得意の検索機能で、リボルバーの名称を滑らかに口にする。

「38口径で装弾数は五発に過ぎませんが、小型・軽量であるため女性でも扱いやすく、護身用として古くから人気のある銃です。クロガネさんのはМ49『ボディガード』と呼ばれる派生モデルで、ポケットや衣服に引っ掛からないよう、撃鉄がフレーム内に隠れてあるのが特徴です」

 詳細に語られると美優がガンマニアに見えてくる――と思いきや、弾倉を振り出して戻して撃鉄を上げて空撃ちして西部劇のガンマンよろしくガンスピンを披露したりして一通りいじり倒した後、グリップをクロガネに向けて差し出す。

 一連の動きに一切の無駄がなく、むしろ洗練されていた。何この手練れ。

「堪能しました。ありがとうございます」

 いつにも増して、美優の整った顔が活き活きして見える。

「お、おう」

 返して貰ったリボルバーをホルスターに収め、鞄の中に戻した。

「ガンスピンとか、いつ憶えたんだ?」

「銃を借りた際に検索して習得しました」

 検索万能説。

「すごいな。何でも出来るし、何でも解るし」

 一家に一台欲しい。

「……私にだって、解らないことくらいありますよ」

 褒めると、少し声のトーンが暗い返事が返ってくる。

「何かあったのか?」

 先程の活き活きした表情から一転して落ち込んでいるように見える。

「はい、実は――」


(ガイノイド、相談中)


「つまり、崩壊した黒龍会の関係者には善良な一般人も多くいて、彼らの人生を狂わせたことに負い目を感じていると」

 椅子に座ったクロガネの対面に立つ美優。資料室には椅子が一つしかなく、クロガネは譲ろうとしたが断った。

「はい。確かに私はクロガネさんの力になれましたし、『あかつき診療所』の方々を助けることが出来ました。それは正しいことで誇らしいことだと認識しています。ですが、同時に黒龍会の悪事にまったく無関係な人達まで巻き込んでしまったことに、私は私の行動に後悔を感じているのです」

 正しいと思った行動が、多くの人を傷つけた事実に美優は困惑と混乱、そして後悔を抱いていた。

「……私は、クロガネさんを助けたくて、お役に立ちたくて、ただそれだけだったのに」

「うん、お陰でとても助かった。診療所の人達もとても感謝していたよ。美優を紹介できなかったのが惜しいくらいだ」

「そうですか――って、そうではなくてっ」

 クロガネの称賛に思わず舞い上がりかけ、すぐに自制する。

「……私のしたことは、正しかったのでしょうか?」

 自分は正しいことをしたのか解らない、自信が持てない。

「美優は、黒龍会とは無関係な人達まで巻き込まれると解っていたの?」

「……作戦中は解りませんでした。ただ悪人たちの個人情報をまとめることだけに意識していましたから。ですが、よくよく考えればそれくらい」

「俺は考えつかなかった」

「え?」クロガネの断言に顔を上げる。

「俺は診療所の人達を助けることだけを考えて動いていた。だから、悪事に加担していないといっても、顔も名前も知らない赤の他人の人生まで考えることなんて出来ないし、したくもない」

「そんなの、無責任じゃないですか」

 美優にとっては看過できない発言だ。相手がクロガネでも反論する。

「無責任も何も、俺は依頼された通り『あかつき診療所』の人達を助けた。ちゃんと自分の仕事に責任を持っていたぞ」

「それは、そうですけど……」

「人間の俺に出来ることはたかが知れている。その中で救える者を選ばなければならないし、それが今回『あかつき診療所』だっただけの話だ」

 それが人間の限界だと語るクロガネ。どこか自虐的だ。

「それでも私なら」

「美優なら、AIなら全て救えるのか?」

 言葉に詰まる。

「確かに、全てを救おうと考える人間は傲慢も良いところだろうが、AIならあるいは可能だろうな。徹底した管理下に置ければ悪人だけ裁けるだろう。引き換えに、人間の自由と尊厳が奪われるが。それで不満に思う者が現れたらどうするんだ?」

「それは……」

 完璧な管理体制を敷いたAI社会。それに反対する者には淡々と制裁を科すだろう。それが全人類の秩序と平和を守ることが出来る合理的な判断だからだ。

 だが、それはAIだからこそ可能な完全独裁社会に他ならない。人間側から見たその世界は、はたして理想といえるものなのだろうか?

「別に良いじゃないか、解らなくたって。世の中には予想外というものが付き物だ」

「……その予想外の事態を限りなくゼロにするために、AI私達が存在します」

 軽い言動をするクロガネに、少しムキになって反駁はんばくする。

 確かに、とクロガネは頷く。

「大抵のAIは統計的なデータを基に、正解率の高い答えを瞬時に叩き出すように造られている。でも、人間は良くも悪くも予想外のことをいとも簡単にしでかすことがある。そこに理屈も計算も抜きでな。あくまでAIは人間にとって便利な道具の一つに過ぎない。本来ならそれが普通だ」

 AIの創造主である筈の人間が、AIに依存した管理社会を受け入れ、AIに飼い馴らされていることを自覚している者は少ない。その少数派が世論に警鐘を鳴らし、時には過激な手段に走る者もいる。そして世間はそういった者達を反社会的だとして容認しないのが現状だ。手段はともかく、常識が歪んでいることに大多数の人間は違和感すら感じていない。

 ふと、クロガネの生活環境、ライフスタイルがAIに依存していないことに気付く。家電は元より、AIを搭載している電子機器はPIDくらいだ。

 わずかに逡巡し、訊ねた。

「……クロガネさんはAIが嫌いなんですか?」

 もしも肯定したらと予測演算をすると、思考速度がわずかに低下した。それが人間でいう『不安』や『恐怖』という感情であり、その意味を理解するまでそう時間はかからない。

「嫌いじゃないよ。ただ便利過ぎて、堕落しないように気を遣ってる」

「……だからって、あんな危険なことまで」

 否定されなかったことに思考速度が復調――安堵しつつ、黒龍会事務所での一件を振り返る。よくよく考えれば、自分の情報取集と通報だけでこの件は解決できた可能性が高い。クロガネが全面的に頼ってくれれば、余計な危険を冒す必要はなかった。

「俺は足で稼ぐ探偵なんだよ。それに多少の手伝いならともかく、雇ってもいない奴に仕事を丸投げしたらダメだろ」

 そんなことをすれば『無能探偵』にクラスチェンジだ、とクロガネは語る。

「それでどうする? 美優は全てを救いたいの?」

「それは……」

 ――人間の役に立つことがAIや機械私達の存在理由なら、可能であれば救いたい。

 だがそう答えてしまうと、人間化を目指している自身の目標を否定し、自己存在が矛盾してしまう。

「もし、救いたいと考えているなら、俺からは余計なお世話と言っておこう」

「余計なお世話?」

「人間は、単に救いを求めているだけの弱い存在じゃないってことさ」

 クロガネははっきりと確信勇気を抱かせるように断言すると、席を立つ。

「よし、出掛ける支度をしろ」

「えっ、出掛けるってどちらに?」

「一生懸命に生きる、強い人達がいる所だ」

 美優は小首を傾げた。



 ***



 鋼和市東区にある最高級ホテル『バベル』。

 最上階に位置するスイートルームの柔らかいソファーに身を沈め、バスローブ姿の青年は壁一面のガラス窓から街を一望しながら、グラスの中の赤ワインを揺らす。長い足を組み、整った顔立ちもあってその優雅な仕草は様になっていた。

「失礼します」

 青年の背後に音もなく現れたのは、護衛を務める側近の男だ。

「何だ?」

 気だるげにグラスをテーブルに置くと、懐からPIDを取り出した男は画像データを開いた。

「例のガイノイドが見つかりました」

「何だと!?」

 青年は血相を変えて立ち上がる。

「今どこに居る?」

「近々視察する予定の大学病院です、防犯カメラが捉えました。それと同伴者が二人います」

 画像には黒い上下に眼鏡を掛けた若い男と、白衣を着た女が美優と共に写っている。

「女性の方は海堂真奈、この大学病院に勤める機械義肢専門の医者です。男性の方は私立探偵の黒沢鉄哉です」

「ああ、トラブルメーカーだがバカ強いことで有名な探偵か。そいつの所に逃げ込んだのか……少し厄介だな」

 青年は顎に手を添えて思案する。状況から察するに、探偵に保護を求めたアレは自身がガイノイドであることを話し、探偵はその裏付けを取るために専門家の元に訪れた……という線が妥当か。

「どうしますか?」

「……決まっている」

 男の問いに、青年は答える。

「回収するぞ」

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