【改訂版】機巧探偵クロガネの事件簿 ~機械の人形と電子の人魚~
五月雨サツキ
プロローグ
「まさか探偵なぞ始めるとはな」
そう言ったのは壮年の男だ。老人と呼ぶにははばかる程に生気が
スラム区の一角にある老朽化した建物。今まで手付かずだった給料の大半を費やして買い取り、全面改修の末、新たに探偵事務所として生まれ変わった姿を男と共に見上げる。
「昔取った杵柄か、貴様なら人捜しも尾行もお手の物だろう。適職ではあるな」
――お陰様で。
「本当は他に就ける職がなかっただけであろう?」
――まぁ、その通りですが。
真っ当な社会の中で働く自信はなかった。彼以外の者に雇われる気もなかった。
必然、独立して食って生きるには起業した方が早いと気付き、何をやるか、何が出来るかを考え抜いた結果、探偵に行き着いたのである。
「ところで貴様、自分の名前はもう決まっているのか?」
言われて気付く。そういえばまだ決めていなかった。建物の改修費用と土地代は自分が払ったが、名義やその他諸々の手続きは男が代理で全部やってくれたのだ。名義変更と引継ぎなどには自分の名前が必要だ。
名前くらい最初に考えておくべきだったが、前の職場を離れる際の挨拶回りなどですっかり忘れていた。
現役時代は『田中太郎』やら『山田次郎』やら適当な偽名を使っていたことを話す。
「なんだ、そのモブ過ぎて逆に怪しい偽名は?」
――仕事が一つ片付けば、すぐに捨てるものだったもので。
当然、愛着など持ちようがなかった。
やれやれと、男は首を横に振る。
「『名は体を表す』というように、名前は命の次に大切なものだ。名付けた親の願いや祈りが込められている以上、名に愛着がなければ人は形を成さん。意思のない人形以下の存在に成り果てるぞ」
――最近までそういう存在でした。
産みの親は、もう顔すら思い出せない。
育ての親は何人もいたが、彼らから与えられたのは願いや祈りなどではなく――
「……すまない、そうだったな」
別に貴方が謝ることでもないのだが。
「では逆に考えるか。『名は体を表す』のならば、『体は名を表す』こともあり得よう」
そう言って、じっとこちらを見つめる。
「そういえば、今も昔も貴様はいつも黒い服ばかりを着ているな」
――貴方に仕えていた頃はそれが制服でしたから。仕事の都合上、色は暗めで目立たない服を着ることが多かったですし。
「それで娘や一部の同僚から『クロ』と呼ばれていたのか。犬猫じゃあるまいし」
『飼い犬』という意味では、あながち間違っていないと思う。
「仕事ぶりは徹底していたな。貴様ほどブレず、折れない奴は中々いなかった。こと娘に関しても、この私に逆らったのは貴様くらいだ」
飼い犬に手を噛まれる、と言ったら怒られるな。
――その件に関しては、今も撤回も謝罪も後悔もしません。
「頑固な奴だ。その頭は石ではなく鉄であろうな……ふむ、『黒』に『鉄』、か……」
何やらぶつぶつと呟いている。やがて考えがまとまったのか、男は顔を上げた。
「よし、お前は今日から
――クロ、ガネ……? クロサワテツヤ?
首を傾げると、男は手帳に達筆な字で書いて見せた。
「仕事の時は日本刀の如き鋭さと強靭さを感じさせる一方で、娘の世話をして貰った時は優しく、柔軟になる。剛柔相反する性質を持つ貴様には『鉄』の一字が相応しい」
そこまで評価が高かったのは意外だった。立場上、褒められることはなかったから素直に嬉しい。
――『黒沢』の由来は?
「この国で有名な映画監督の名前から取った。古い映画を見るのが貴様の趣味なのだろう? 今度その監督の作品もチェックしておけ、面白いぞ」
――では、『鉄哉』は?
「『黒沢』と組み合わせて、語呂の響きが良さげだ」
――適当っすね。
「とにかく、今後は黒沢鉄哉と名乗れ。役所への手続きなどはこちらで済ませておく」
戸籍自体が偽造だから、結局は偽名である。
だがしかし……黒沢鉄哉、か。
「例え偽名でも、愛着が湧けば真名にもなろう。……ほぅ、少しは気に入ったか? 笑っておるぞ」
言われて口元に手をやるも、いつもの一文字だ。本当に笑っていたのか?
クロガネ、黒沢鉄哉……俺の名前。
今日、この日、この瞬間を以って、俺が生まれた。
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