第3話 園児殺し
(1)
「パパ」
娘のミナが僕に銀色の指輪を持ってきて言った。
「これね、拾ったの。キラキラ輝いてすごいでしょう?」
僕は娘が持ってきた指輪をおもちゃだと思っていたから半ば相手にせず振り向くことなく、リビングでネットの動画を見ていた。
だからそんな僕を見て娘が怒りだして、指輪を投げつけた。
そいつが見事僕の額に命中。
顔を抑える僕は、走り出して逃げる娘に声をかける間もなかった。
「ぃ、痛ぇ」
床に転がる銀色の指輪。僕は舌打ちしながらそれを拾う。
僕の名は田中陽一、妻は恵子。一人娘がいま指輪を投げつけて逃げた娘のミナ。
娘は幼稚園に入ったばかりの遊び盛り、いたずら盛りと言ったところだ。今も指輪を投げつけて隣の部屋に逃げたが大きな瞳をくるくるさせてドアの隙間から僕をそっと見ている。僕にはその眼差しが愛くるしくて可愛い。
妻は今日、同窓会があるからと言って早朝から出かけている。つまり日曜日の娘の遊び当番は今日一日僕が受け持つということだ。
娘は元気に部屋中のあらゆるおもちゃ類を引っ張り出して遊んでいたが、僕は何も言わず動画を見ながら娘の気分に任せるままにしていた。
勿論、普段この状況であれば早々に妻の雷が娘に落ちているところだが、普段から娘と過ごす時間が少ない父親の僕にとっては娘の愛らしい姿が可愛い。だからそのまま娘が想像力のなすままの遊びに没頭させておくのを邪魔したくなかった。
しかし、突然の痛みの洗礼を額に受けた僕は娘を叱って、遊びを中断させなければならないと思った。
時計を見れば正午も近い。娘と近くのファミリーレストランに行くには良い時間でもあった。
「ミナ」
僕は拾った指輪をテーブルに置いた。
「今日はママが居ないから、外に食事に行くよ。さぁ、おいで」
しかし娘は隣の部屋から出てこない。じっと僕を見つめ居ている。
「こらっ、ミナ。いつまでもそこにいるとパパ怒っちゃうよ」
ちぇ、
ぶー
娘の舌打ちした後の声が聞こえる。愛くるしいがそこはきちんとしなくては。
「ミナ!!」
言って立ち上がったがミナはじっとドアから動かない。
――頑固だな。反抗期に入ったかな
そんなことを思いながら娘の所へ行こうとしたが、娘が僕を見ていないのに気付いた。娘の視線は微動せず、指輪を見ているのだ。それがあまりにも真剣で何かぞくりとさせた。僕はテーブルに置いた指輪を振り返る。
――銀色に輝く指輪。どこか錆びついた感じがするが、それは指輪が醸し出す気分なのかもしれない。
僕は指輪を手に取った。
それをゆっくりと指先で回す。その様子を見て娘がドアを開けて僕の側に歩み寄って来た。
日曜の優しい休日の陽光が窓から差し込み、時計が正午を指す。
「あれ…」
僕は思わず声に出した。
(裏側に文字がある)
目を細めてそれを読む。
――K
(アルファベット一文字・・?)
娘を見る。
「ミナ、これどこで拾ったの?」
持ち主が居ればこれを返さなければならないと思った。
娘が僕の太腿を触る。
「ねぇ、どこ?どこでひろったの?」
僕の質問に娘が頬を膨らます。
「パパ、ミナにあそこのケーキ買ってくれる?」
あそこのケーキ?と聞いて僕はマンションの下にあるケーキ屋の事だと分かった。
それで僕は娘がどうして指輪を僕に持ってきたかわかった。
それは結局のところ僕がこうして指輪の持ち主を聞くはずだと娘は思ったのだろう、そうすれば娘は必ずこう切り出す予定だったのだ。
普段、妻は娘に好きなものは厳しく制限させている。まぁ、我慢ということを教育しているのだろう。父親としては時にそうした姿を見るのは実に忍びないのだが、その分僕には娘に対して隙間が広いわけで、それを娘も幼いなりにそれなりに知ってるのだ。
こうしたやり取りの結果として、それが娘の幼心の父親としての期待に添えて行くわけだが・・。
苦笑して僕は娘の頭を撫でる。
「勿論、今からパパと出かけた後に一緒に買おうよ」
それを聞いて娘が破顔する。
やはり娘の笑顔を可愛い。妻には悪いが今日はめい一杯甘やかせてやるつもりだ。
「それでミナ、これをどこで拾ったの?」
僕は優しく聞く。
「うん、これね。幼稚園で拾ったの」
「幼稚園?」
「そう、幼稚園の道具部屋」
「道具部屋?」
「そ、道具部屋」
僕はそこで眉間に皺を寄せる。
(道具部屋だって…?)
眉間に皺を寄せた僕向かって娘が言う。
「パパ、怖い顔してる。ママに怒られたときみたい」
娘の声は聞こえない。既に心の中で踏切の警報機が鳴っているのだ。それはカンカンと高く鳴り響く。その踏切の先に、少年が見える。
娘と同じ年頃の少年。
――その少年の名前は夏目
なつめ
優
ゆう
。
今年の保護者参加のお遊戯会で跳び箱の中で死体が発見された少年。保護者が一斉に集まるあのお遊戯会の最中に突然姿を消し、そして死体となって発見された。首に絞首された生々しい跡と小さく手に握られた折り紙と小さなヒーロー人形を残して。
僕はその時妻とその現場にいた。
彼は確かに発見された。
道具箱部屋の跳び箱の中から。
カンカンと鳴り響く音を聞きながら、娘に言った。
「ミナ、いつ見つけたの?」
「だいぶ前だよ。優君と鬼ごっこしたとき」
「優君と?だいぶ前だって…」
僕はそこで唾を呑み込んだ。ますます険しい眼差しの僕を見て娘が言う。
「パパ、怖いよ。節分の時の先生が付けてた鬼さんの仮面みたい」
娘がいやいやしながら言う。
「パパぁ、早く行こうよ、レストラン。それからケーキ屋さんいくのぉ!!」
太ももを強く握る娘の手が僕を振り程そうとしてる。
あの縊死した少年の姿から。
(2)
ケーキを食べ終えた娘は隣の部屋で寝ている。僕はその寝顔を見つめてから、そっと指輪を取り出した。
銀色に輝く指輪の輪郭がどこか儚げに見える。
僕は寝入る娘を見ながら、あの事件の日の事を思い返した。
それは六月の梅雨に入った頃だった。
娘が通う幼稚園での定例のお遊戯会。小さな可愛い園児たちがそれぞれのアニメのヒーローや昔話の主人公たちになって綺羅星のように着飾り、演技を小さな壇上でしている。それを囲む様に多くの保護者が我が子達の姿を写真やビデオに撮っていた。
幼稚園の先生達は遊戯会の進行もさることながら昼に行われる保護者とのお食事会の準備に忙しいようで誰もゆっくりとしておらず、それぞれの持ち場を行ったり来たりしている。
こうしたことはどこにでもあるごく普通のささやかな幸せな情景だった。
それが突如として惨劇の場面へと変わった。
一人の若い女性の先生が年配の先生の一人に話しかけている声がビデオを回している僕に聞こえた。
「立花先生…優君が…夏目君が居ないんです」
問いかけられた年配の立花先生が若い先生に振り返る。
「藤田さん、居ない?本当?」
「ええ。いないんです。次の演目があるんですが、見当たらないんです」
藤田と言われた若い先生が答える。その眼差しが不安げに揺れている。
「本当に、どこに行ったのかしら。私も探すわ」
「すいません」
そう言ってから姿を僕の目から消した。
ちょうど娘が壇上から降りたところだった。
一瞬だけ僕は出て行く二人の先生の姿を見た。だから僕はその瞬間を鮮明に覚えている。
僕はビデオをしまった。
やがて数分が過ぎただろうか。園児たちの遊戯が段々熱を帯びて行き、保護者の笑い声が頂点を迎えつつあった。
その時、突然、悲鳴が幼稚園中に響いた。
そのあまりにも悲痛な声にそこに居る人は一瞬我を忘れた。
――何事が起きたのか?
それを図れない人々の戸惑いとはこれほどの静寂と沈黙を一瞬に引き起こすのか。
二人の狂乱者が僕らの目の前に現れるまで静寂と沈黙が続いた。僕等の面前に現れた二人の狂態、それはまるでシェークスピアの悲劇を演じる崇高な魂の演者のようだった。
多くの人々が突如現れた二人の狂態者に寄りかかり、僕も妻もなだれ込む様に寄りかかった。
――何ごとが起きたのか!!。
年老いた女性は胸を押さえ、息ができない。かろうじて年若い女性は顔を白くさせながら、指を指した。
――どうした?どうしたというのだ!!
群衆の叫びが震える指先から答えを探り出す。
――指先の向こうに何があると言うのか?
保護者の誰か若い男がその場から走り出した。
それに続くようにまた誰かが走り出す。それにつられて多くの人が走り出した。
幼稚園の正面玄関へ行く廊下だ。ここからそこは丸見えだ。それが少しの所で角が折れている。その角先に通路がある。そこは普段使われていない裏口へ行く道だ。
立ったまま走り出した男が叫ぶ。
「何も?無いぞ!!」
その男の怒声に倒れそうになりながら若い女性が小さく呟いた。
僕はそれに耳を寄せた。
息も絶え絶えに呟いた。
「…道具、……道具部屋……」
僕はそれを聞くや走り出し、群衆を掻き分けて男の立っている場所へ行き、見渡した。
見れば部屋の仕切りの中で『道具部屋』という木札があった。裏口へ向かう廊下へと急ぎ進み、僕は部屋の引き戸を開けた。
その瞬間、僕は声が無かった。
いや後からついてきた誰もが声が無かった。
その情景を今でも僕は思い出すと身震いする。
そこには跳び箱の上段が外されて、縊死している少年の着飾った姿があったからだ。
(3)
その日突如として起きた惨劇は誰をも不安にさせた。警察が呼ばれ現場検証や全ての人に事情聴取が行われ、ささやかな日常の平和で幸せな日常は儚くも散華した。
その散華にふさわしい夏目優君の母親の悲鳴はより一層そこに居る全ての人を煉獄の冷たさに凍えさせたに違いない。
いやぁあああああぁぁあ
誰もが我が子を無くせば、あのように半狂乱になるだろう。
彼女は精神を打ちひしがれ、突如失われた幸せを叫ぶことで取り戻したいと思ったにちがいない。庭に飛び出して、彼女は天を仰ぎ見て何度も何度も叫んだ。発狂したと思っても仕方が無かった。
園児たちの遊戯会は突如として最大の惨劇の場に代わり、悲劇へと変わった。その後に行なわれる予定だった食事会は中止になり、それぞれの子息はうなだれる様に保護者に連れられて家庭へとひっそりと帰って行った。
僕は妻と共に娘の手を引いて惨劇の場所を後にした。手をつないで歩きながら妻が僕に言う。
「優君のお父さん、今日は来てなかったみたいね」
「そうかい?」
僕は妻に言う。
「うん、見えなかった」
「そうか」
そう思うと胸が辛くなる。母親一人であの悲劇を受け止めることなどできようか?
「なんでも、あそこの御夫婦、あまり仲が良くなかったみたいよ」
「二人の仲が?」
妻はそれ以上何も言わなかったし、それ以上聞こうとはしなかった。結婚した夫婦が全て幸せだとは限らない。それは僕達でもそうだ。娘の手を繋いで歩いている僕達だってこれから先何が起きるかわからない。
今日のような悲劇に見舞われなくても、幸せを引き裂くものはどこにでも潜んでいるのだ。物理的な場所だけではない、人間の心の中にも潜んでいるのだ。
(4)
ファミリーレストランは正午とは言え、人は疎らだった。食事をする側にすればうれしい。待つ時間も少なく、バイキングも取り放題だ。
娘の為にいくつかの品を皿に乗せると娘の待つテーブルに戻る。娘は既に小さなカップに注がれたジュースを飲んで僕を待っていた。テーブルに置くと僕は娘に言った。
「おまちどう様」
娘が笑ってフォークを皿に出す。それを僕が急に手でふさいだ。
それを見て娘が顔を膨らませる。
「パパ、何でそんな嫌な事、ミナにするの?」
僕が笑う。
「ミナにパパが聞きたいことがあるからだよ?」
「聞きたいこと?」
首を傾げる。
「そう、パパが聞きたい事にちゃんと答えてくれたらちゃんとあげるよ」
「えー!!」
娘が目を丸くして藪睨み。可愛い眼差しに僕は微笑む。
「何を聞きたいの?」
うん、と僕は娘に言う。
「指輪を見つけた時さ、優君と遊んでいたんだよね?その時の事」
(5)
娘が言ったことはこうだった。
「あの日ねぇ、ミナ、お遊戯の番が来るまで時間があったから優君と鬼ごっこしてたの。それでミナが鬼になったから優君をさがしてたらねぇ、優君が廊下を曲がるのが見えたの。それで見つけに行こうとしたら、突然遊戯の番が来て、ミナお遊戯室に戻ったの。お遊戯が終わって先生が優君を探しているのが見えたから、ミナねぇ、道具箱室へ行ったの。そこにはお遊戯の道具もあったから優君が隠れるにはいい場所だって思った。それで行ってみたら、優君が跳び箱で隠れていたの。それで『見つけた』と言って出て行ったの。だって直ぐに鬼になったら追いかけてくるからね。その時、その跳び箱の下に落ちてたのこの指輪。それでそれを拾ってずっとね、ミナ持ってたのよ」
(6)
僕は指輪を置いて、鉛筆と紙を取り出した。それで幼稚園の図面を描く。
幼稚園は四方形の土地で囲むように塀があり、四方は全て道路に面していて、その道路は半時計回りの一方通行になっている。
正門が北にあり、西に非常用の裏門がある。その正門から南にある建物に向かって廊下が直線に伸びており、途中横に折れて裏門へ抜ける廊下がある。この前のお遊戯会の舞台になった建物が南になり、廊下を空から見ればL型でそのLの開いた場所が運動ができる庭になっている。
お遊戯はその南側の建物で行われ、勿論、午後の食事会もその建物の隣に併設されている調理場で行われる予定だった。
僕は図面を書いて廊下を指でなぞる。廊下の角を折れて道具部屋へ。そこで少年はその建物の裏門へ抜ける道具部屋で死体となって見つかった。
娘の言葉を真に受ければ、優君は娘が舞台に上がるまでは生きていた、ということになる。
不審者は園内にはいなかった。その日、人の出入りは正門しか開いておらず、そこには警備を兼ねた保護者が交代で詰めていた。
とすれば、だれが犯人かということになるが、個人的に優君の家庭に怨恨を持つ者は誰もいなかった。優君の家庭もごく普通の家庭で幼稚園に通う他の保護者とも何もトラブルなど無い。
警察が犯人を特定できなかった理由に現場で指紋が出なかったこともある。それが怨恨説も含め、証拠もないため、犯人が見つからないという状況を事件が起きて行く月も過ぎた現在も尚、作り続けている。
しかしながら、ここに現場に落ちていた指輪があるのだ。
これがどういう状況を説明すると言うのか。
今は分からない。
(7)
夕飯を作るのも僕の仕事になった。同窓会で盛り上がった妻から夕飯もお願いと連絡があったからだ。
僕は眠る娘を起こさないようにそっとマンションを降りて商店街へと向かった。そこでなじみの精肉屋へと顔を出す。
「よっ、田中さん。今日は旦那さんが買い出しに?」
カウンター越しに肉屋の若店主が声をかける。ここの肉屋の若店主も娘と同じ年頃の娘が居て、同じ幼稚園に通っている。
「そうだね」
僕は笑う。
「それで何にする?」
「そうだなぁ…」
そこでガラス越しに肉の種類を見る。
妻もいない夜だ。できれば簡単な料理にしたい。
そうできれば、カレーなんかが良いな。
「カレーにしようかと思って、何が良いかな」
「カレー?ああ、それならこの牛の切り落としなんかどう?」
「じゃぁ、それにしようか」
「でしょう?こいつ中々いいですよ。だって…」
そこで声が小さくなる。
「どうしたの?」
僕が聞く。若店主が顔を近づけて来た。
「ほら、田中さん。優君が亡くなったでしょ?あの日、実は食事会でカレーを作ることになってましてね。その時はうちがこの肉を薦めて幼稚園に卸したんですよ。カレーに入れると風味も出て、コクも出るもんだし。何よりもそこで評判になればうちも売り上げが上がるってもんで、それで僕は遊戯会に出ず、ここで仕事して配達に行ったんですよ」
僕は顔を上げた。
「えっ?本当。それって…何時ぐらい」
「そうですね…妻が娘の遊戯を見ていたから。そうそうお宅のミナちゃんが出る前ぐらいですよ」
「ミナが出る前?」
僕は、突如、踏切の警報がけたたましくなるのを感じた。
「ええ、間違いないです。ミナちゃんの前がうちの娘だったから。実はね、田中さん。その日、僕ね…幼稚園に持って行くための肉の選別に時間がかかって幼稚園との約束の時間に遅れたんですよ。それで勢いよく飛び出してね。正門まで回るとあそこ反時計回りに行かなくちゃいけないから焦っていたら、裏口に先生が居て…」
「そ、それは本当に?」
「ええ、そうですよ。もし本当かどうか知りたいならその先生に聞いてください。裏口に立って僕を待っていた先生を見つけたので直ぐに渡したんです。肉は腐るといけないですからね」
僕はどきりとした。
「先生って?一体…誰…?」
「先生ですか?ええ、藤田先生です」
僕の脳裏に踏切の音を聞きながら指輪が落ちて響く音が聞こえた。
(8)
カレーを煮込みながら僕は考えている。娘は起きてテレビを見て、何やら声を上げて笑っていた。
その日、肉屋の若店主は裏口で藤田という先生に肉を渡した。普段その裏口は使用していない。それは入園最初の保護者説明会で言われた。
――現在は不審者が多いため、裏門は常時閉めている。あくまで人の出入りは正門だけ。
ただ一時的な宅急便などの受け取りには利用している。つまりこの幼稚園を囲む道路が反時計回りの一方通行で囲まれており、その為、宅急便業者から裏門での受け取りを希望されている。
宅急便業者からはそうすることで一周することなく、そこで手渡しで受け取ることが可能で時間のロスをなくすことができるからだ。
それには特に保護者からの反対は無かった。
裏門も鍵が掛けられ、また不審者が乗り越えて入ってくることは高さもありできない。
幼稚園は四方に塀があり、正面さえしっかりとしていれば園児保護には問題ないからだ。
玉ねぎを娘に見られない様に手元に寄せてまな板にのせた。玉ねぎは娘が嫌いなものの一つだ。そっと調理しなければならない。
(裏口で藤田先生が肉を受け取った)
その肉は当然調理場へ。
何も不思議な点はない。
僕は藤田先生の容姿を思い浮かべた。
年頃は二十代前半ぐらいだろうか?妻から聞いたところに拠れば大学を出て二年目らしい。
僕もたまに幼稚園に娘を送る時に見るが、普段は綺麗な女性であるのは分かる。女優とか誰かに似ているというわけではないが、鼻筋が通り、二重瞼が目尻で下がっていて、雑誌とかのモデルになっていてもおかしくはない。
特に園児の間では人気のある先生で、保護者からの受けも非常に良かった。
それよりもなによりも最初にあの悲劇を伝えた一人だ。
(彼女に不審な点があると言うのか?)
「パパ!!」
声に驚いて娘を振り返る。
「ママに怒られるよ!!野菜とか触る時は手袋しなくちゃ!!だって冬はインフルエンザになるんだから!!」
僕は娘に言われて本当に慌てた。娘の嫌いな玉ねぎを見られたからだ。
「それと、パパ!!」
思わず、ヒッとした。
玉ねぎ嫌いの絶叫が部屋中に響くのを予想して身体が反応する。
「料理する時は指輪を取らないと無くすよ!!ママはいつも取ってるんだから!!」
娘の思わぬ言葉に、僕ははっとして言葉もなく思わず飛び上がりそうになった。
(9)
娘はこたつの中で眠っている。恐らく今日一日はしゃぎすぎたのだろう。明日から寒気が来ると先程見ていたニュースで気象予報士が伝えていた。
朝の出勤が辛くなりそうだ。
時計を見ると夜の八時を過ぎている。妻はまだ帰らない。余程居心地がいいのだろう。
僕はパソコンの前に立ち、文章を打ちこんでゆく。
これは手紙だ。
宛先人はK。
性別も分からぬ指輪の持ち主へ、僕は手紙を書く。
『K氏へ
あなたがこの手紙を拾えば、全てが明るみになったのだという意味を知るでしょう。
あなたは自首すべきです。そして亡くなったあの幼子の魂に悔い改めて、これからを償いで生きなければなりません。
すべては幼き名探偵が知っています』
もしこの手紙がKへ渡れば何かが起こるかもしれない。
僕はそれを紙に印刷すると指輪と一緒に同封して、娘の幼稚園のバッグにいれた。
勿論、その作業は手袋をして指紋が付着しないように。
娘の寝言が聞こえる。
「パパ、明日…、頑張るぅ…」
僕はそれに満足するように笑った。
明日、娘はKが恐れおののく名探偵になるだろう。
僕は言った。
「明日、幼稚園に行ったら誰にも分からぬようにパパがバックに入れた便箋を跳び箱の所に置いてね。誰にも分からないようにだよ」
(10)
三日後の昼間、妻からかかって来た電話に出た時、僕は自分が軽率なことをしたと悔いた。もし、あの手紙が招いたことならば、それが娘の生命を脅かしてもおかしくはないと思った。
まさかこんな結果になるとは。
妻は電話口で慌ててまくしたてるように言う。
「あなた!!ミナの幼稚園で先生が焼身自殺したのよ!!そう……そう!!今日から寒気が来るっていうことで用意したストーブの灯油を突然、庭で全身に被って!!さっきからもう救急車やら…消防車やらが沢山来て騒然としてる!!…もう肉の焦げるようなひどい臭いが辺りに充満してるの…もう、すごい人だかりで……、え?先生?誰が自殺したかだって?そう!!藤田先生!!藤田先生が自殺したのよ!!」
(11)
この若い先生の自殺はその後、この事件に連なる人々をそれぞれ死へと追いやった。
自殺した藤田先生は実は優君の父親と不倫の関係があった。
これは危険な大人の痴戯で、それを聞けば人間の愚かさが招く痴情ごとだが、いけないことにこの若い女性は不倫を真の愛に昇華しようとして、幼い優君を手に掛けたことが問題だった。
その生命を奪うまでの彼女の目的は何だったのか?
女とは自分の愛の為に自らとは異なる血の血脈が生きることを許せぬものだろうか?
娘は誰にも気づかれること無く、手紙を置いたのだろう。
藤田先生の引き出しには非常に筆跡が落ちついて書かれた便箋があった。
それが彼女のこの世に残した遺言となった。
『名探偵様
そうです。私が優君を殺しました。私は優君の父上の聡さんと不倫関係にありました。
私は彼を愛す度、母親に連れられてくる優君が心の底から憎らしくなってきたのです。実は私は聡さんとの間に妊娠した子を泣く泣く…手に…いえ、もうこれ以上は言い憚ります。私は自分が得ることができなかった彼の子を手にかけました。愛した彼の子だと言うかもしれませんが、その存在意味など愛の隅に追いやられる女にどんな意味があるでしょうか?世の女性はきっとそう思うはずです。また優君は皮肉なことに私に良くなつきました。この般若のような鬼にです。
名探偵様はもうなぞ解きを終えている筈でしょう。ですがここにあの日の事を書かせてください。
そう、私はあのお遊戯会の日を犯行の日に決めました。多くの人の目がある時ほど、犯人はその姿をくらませられると思ったからです。
私はあの日、優君が誰かと鬼ごっこをしているのを見つけました。そして彼が鬼になってひとり幼稚園を歩いている時、私はちょうど良いタイミングだと思ったのです。
肉屋の配達が遅れていたので、私は自然を装い優君にわざと見つかるように、裏門へ向かう廊下を歩きました。案の定、優君は私を見つけて尾行してきました。勿論、私は後ろから追う優君を知っています。ほくそ笑みました。
般若の嗤いとはどれほどのものか?
わかりますか?
それから私はおもむろに道具部屋の引き戸を開けて、優君が入って来たところ一気に首を絞めたのです。それから跳び箱を開けて、放り込んだ。
それだけです。
私はその時、指輪を取って調理用のエプロンのポケットに入れていたのですよ。それがその時の犯行の為に落ちたようです。私は気づきませんでした。それをあなたが拾っていたなんて。
それから裏口に出て、さも遅れているお肉を待っている誠実な先生を演じて、肉を受け取りました。
あとはあの日その場所に居た全ての人が証言した通り、立花先生と私が優君を探しに行き、縊死した優君を発見した。
ビニールの手袋をした私の指紋はどこにも出てきませんでしたね。それも計算だったのです。食事会ともなれば調理をする為、絶対手袋をしなければなりません。病気の感染もありますから。
ただひとつ心残りは調理するために指輪を外しということですね。指輪など気にする必要などないのに、違いますか?それで何も調理が不潔になると言う理由など本当はないというのに。
しかしそれ以外は何も問題なく、私は皆の盲点ともいうべき死角に入りながら、証拠なき殺人者としてその日を終えました。
指輪を恐れた?それは違いますよ、名探偵様。
確かにその指輪は聡さんから頂いた物です。私との将来を誓う証に。
私はその発見を恐れたのではありません。だって聡さんが黙っていれば問題ないのですし、実際彼は私を責めませんでした。
しかし
その指輪の真の所有者は驚いたでしょうがね。
如何でしたか?
私の殺人劇は名探偵様の推理に符合するでしょうか?
しかしながら最後に付け加えさえていただきます。
いくら名探偵とはいえど、これから起こる惨劇は止めることはできないでしょう。
せめて般若のような鬼女が仕掛けた最後の復讐劇を見届けて下さい。
私はこの世に遺髪一つ残すことはありません。勿論、あなたからのお手紙も。
そうですね、せめて指輪だけ残しておきます。
Kにお伝え下さい。
天罰があなたにも下りますように、と 』
(12)
一月後、優君の父親である夏目聡氏は自分の住むマンションのベランダから飛び降りて自殺した。
焼身自殺した故人の残した遺言の手紙から不倫が発覚、それが夫婦としての破局を招いた。彼は夫人との口論の末、突如としてベランダへ飛び出し、身を投げた。激情の果ての自殺と言えた。
だが、惨劇は終わらなかった。
桜が咲き始めた三月、今度はその妻である夏目加奈子が刺殺された。
彼女は街の通りを歩いていたところ突如として、一人の男に刺されたのである。その男は古賀竜二と言う電気工事職人だった。
なんでも警察に捕まったところ、こう述べたそうだ。
――加奈子が言ったんです。旦那を一緒に殺してほしいと。
ええ、そうです。俺は加奈子の男でした。加奈子はね…そりゃひどい奴です。あの優君というのは実は自殺した旦那の子じゃないんですよ。遊んでできた子なんです。だからあの子に多額の保険をかけて、いつか…という企みを持っていた。それがうまいことにですよ、偶然にその機会が転がり込んできた。その時彼女さぁ、悲劇の人物を演じる為に発狂乱しないと保険屋を騙せないと思ったらしく、絶叫して万人の情けを受けるよう演技をしたんです。
ええ、旦那ですよね?それは俺がベランダから投げました。あの日俺はマンションの電気工事として呼ばれて加奈子の部屋に行き、旦那を掴んでベランダから投げました。あのマンションは会社の得意先で僕一人の担当でしたからちょくちょく行くわけです。だから誰も怪しまない。そのうち俺と加奈子は工事で顔を合わせるうちに懇ろ(ねんごろ)になり、やがてできてしまったという訳です。あの日もネット回線を引く電気工事があって、そのタイミングに合わせて…始末したというわけですよ。
どうして、加奈子を刺殺したかですか?
僕の所にね、手紙が来たんです。宛先人不明の手紙が。
それにはですね。あいつ他に男ができたって書いてあってラブホテルに行ってる写真が入っていたんです。
驚きましたよ!!。
僕は加奈子を呼んで聞いたんです。そしたら「そうよ」と言うんです。それから「あなたは人殺しだから、もう終わりにする」と言う訳です。終いには「あの時の事は全て部屋に隠して仕掛けたウェブカメラで録画してる」っていう始末。
刑事さん、そんな理不尽ありますか?
あいつだけ手を汚すことなく金も入り男もでき、天国のようなこの世の楽園を歩けるのかなんて、だれが許せるものか!!
あの般若のような鬼め!!
そう思って刺したんですよ。
天罰を受けろってんだ!!
ええ、そいつですか?勿論、知ってますよ、刑事さん。
この銀色の指輪、中にKとあるでしょう。これはね、俺があいつにやった婚約指輪ですよ。
旦那と別れたら結婚しようと思ってやった指輪です。そしたらいつの頃からか分からないが無くしたらしいんです…、えっ?幼稚園の先生の焼身自殺の場所にあったって。そりゃ、自分には関係ないです。もしかしたらあいつその犯人にしようとしたのかな。ちなみに言っときますが、旦那も優君とかいう子が自分の息子じゃないと知っていたらしくて不倫していたらしいですよ。なんでも加奈子にも黙って自分を受取人にして保険をかけていたらしくて。
本当に酷い夫婦だ、そんな奴等が夫婦としてこの世に居るなんて本当にこの世も末です!!
(12)
桜が舞い散る中を僕は娘と歩いている。今日は亡くなった優君のお墓を参るために、歩いているのだが、僕の心はどこか切ない。
事件は明るみになり、世間を騒がせた。唾棄すべき不倫の果ての保険金殺人。世間ではそう言われている。
しかしながら僕には縊死した優君の姿が離れない。
彼はその手に小さな折り紙を握っていた。聞けば大好きな藤田先生と過ごすための彼なりのやり方だったようだ。
亡くなった優君は寂しい心を持っていたようだ。時折そうした微笑を浮かべていたという。
そんな中、唯一、藤田先生と折り紙をするのが楽しみだったようで、おそらくあの日先生の後姿を見つけて優君は手にしたポケットに仕舞い込んだ折り紙を出して先生と楽しく過ごそうと思ったに違いない。
人間は性というカルマの定めに従い死を導き、生を生む。
何のために、生きようとするのか。
僕は今、娘の手を握りながらそれを考えると切なくなった。
「パパ」
娘の言葉に振り向く。
「桜が散ってるね。綺麗」
僕は娘と立ち止まる。
「ねぇ。優君、ヒーローになれたかなぁ?」
「えっ?どうしてそう思うの?」
娘に言う。
「だってね。私に言ったんだ。大きくなったらヒーローになるんだ。そしてお父さんとお母さんを守るんだって、それが夢だって言ってたもん」
桜が一片舞い落ちて来た。
それを掌でそっと受ける。
「そうだね。きっとなれたと思うよ。だって彼は沢山、鬼を退治したんだからさ」
「鬼を?」
そうさ、とだけ僕は言った。
「変なのぉ。鬼何て、ヒーローじゃないみたい。ヒーローは悪を退治するのに」
僕はそういう娘を突如肩車した。それに娘が驚く。
「どうしたのさぁ、パパぁ!!」
娘の小さな手が僕の頬を鷲掴みする。 僕は鷲掴みされた優しい手を頬に感じながら進んでいく。
名探偵は娘、
そしてヒーローは優君。
もう出会うことのない二人だ。
切ない事件に僕は思う。
誰が幼子の苦しみを救えるのだろうかと。
僕はそんな思いを噛みしめながら、桜の舞い散る中、娘を肩に担ぎながら歩いて行った。
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