ブストサル 第三巻
かつたけい
第一章 リーグ制覇! ……したものの
1
それは間違いなく優勝をぐっと手繰り寄せるゴールであるはずなのに、訪れ方としては劇的なものでもなんでもなく、むしろ拍子抜けするほどにあっさりと決まってしまった。
でも技と経験とがぎゅっと凝縮された、
それは、次のようなものであった。
ゴール前での攻防。
東洋子はボールを右足で踏み付け、視線は真っ直ぐ目の前の相手へ向けたまま、右に左に小さく転がした。と、いきなり仕掛けた。
アウトサイドでちょんと蹴り、右側から抜きにかかる…と見せて、股抜きシュートを狙ったのだ。
相手選手が慌てて脚を閉じようとした時には、もう遅かった。
味方の足元から、ふっといきなり視界に表れたボールに、まったく反応が出来ず、びくりと震える足に当たりつつも、そのままゴールイン。
こうして我が
東洋子はネットが揺れたのを確認するや、小さくガッツポーズ。
仲間たちの方を振り返ると、にんまり笑みを浮かべて両腕を突き上げた。
「やったな、こいつ!」
同じピッチの上、逆転を許してしまった
ゴレイロなど両膝をついて、拳で何度も床を殴り続けている。
ショックなのは当然だろう。彼女たちにしてみれば、あと数分を耐え切れば優勝、三連覇達成だったのだから。
「このまま一気に畳み掛けて、突き放すぞ!」
澤田由紀江が叫び、目にも耳にも野太い気合いの粒子を周囲に振り撒いた。
ごっつい身体に、側面を刈り込んだ髪型に、と実に男らしい我が部の主将は、こういう時に実に頼もしく思える。
「どんどん攻めて絶対に追い付くよ!」
と叫んでいるのは鎌倉教育大の主将、
試合再開。
残り時間は、約二分。
鎌倉教育大としては、前節終了時点で首位であるため、この試合、一点返して同点に持ち込むことさえ出来れば優勝だ。
となればもう、あちらのやってくることは一つだろう。
などと考えていると、やはり向こう側、鎌倉教育大学のベンチに、選手交代の動きが見られた。
ゴレイロに代わって、FPの選手が入るようだ。
まあ、そうくるに決まってるよな。
FPはユニフォームの上から、素早くゴレイロのユニフォームを着ると、ぎゅっぎゅっと裾を回して整えながら交代ゾーンへと向かった。
プレーの切れたところで、ゴレイロの選手も交代ゾーンへ。二人は肩を叩き合い、入れ代わった。
「パワープレー、気をつけろ! 前線でフリーの選手を絶対に作らせるな!」
澤田由紀江が大声をあげ、味方に注意を促した。
パワープレーとは、要するにゴレイロを上がらせて攻撃参加させる戦術だ。
ペナルティエリアを出て敵陣へ向かって上がるため、当然ながら手でボールを扱うことは許されない。しかしながら、FPが一人増えることになるため、フィールドプレーヤーの少ないフットサルという競技では得点のチャンスが倍増することになる。
語るまでもなくデメリットとしては、失点する可能性も倍増するということ。奪われて、遠くから精度の高いシュートを打たれでもしたら、それで終了だ。
足元の基本技術に自信のあるゴレイロならば、交代せずにそのまま自分自身が攻め上がる場合もあるが、フットサルは選手交代に制限がないため、今回の鎌倉教育大学のように、ゴレイロに代わってFPの選手がゴレイロユニフォームを着てプレーすることの方が多い。
トーナメント戦や、このような負けられない直接対決など大事な試合で、試合終盤にリードされている側が用いることの多い戦術である。投げやりな博打プレーなどでは決してなく、これはフットサルの基本戦術の一つといってもいい。
「バカか!」
澤田由紀江主将の怒鳴り声が、場内の空気をバリバリ震わせた。
これまでなんとか守備に攻撃に奮闘していた二年生の
追い付けば優勝、という鎌倉教育大の選手たちは、そうなるための絶好の状況が生まれたことにより、主将や監督の指示を待つまでもなく全員が迷わず攻め上がって行った。
こうして習明院大学は、この試合で何度目かの絶対的な危機をむかえることになった。残り時間や状況を考えると、最悪中の最悪と呼んでも過言でないくらいの。
最前線を走る鎌倉教育大ピヴォの選手が、ゴール近くでくるり振り向きボールを受けた。キープして味方の攻め上がりを待とうとしてる、という素振りを見せたその瞬間に、すっと反転して、迷わず右足をボールに叩き付け、振り抜いていた。
ゴールに近い距離から放たれた弾丸は、振り向きざまにもかかわらず、しっかりと枠を捉えていた。
決定的であったが、しかし、決まらなかった。
我が習明院のゴレイロである
ポロリと前へこぼれたところを、すっと前進して、相手に詰め寄られる寸前に危なげなくキャッチ。
「うっしゃああーーっ! ノッてきたああっ!」
名場幹枝は勢いよく拳を前へ突き出すと、四秒ルールを取られる前に、ボールをぽいと放して、強く大きく蹴った。
いまのゴレイロのファインプレーに、観客席にいるまばらな観客たちから拍手が起きた。
試合中にまったくの余談ではあるが、大学のフットサルリーグ、特に女子は、観客などはほとんどいない。淋しいものだ。
わたしが高校生の頃は、注目の集まるような大会にばかり出場していたから、そこそこ客席が賑やかで、だからその時の記憶とついつい比較してしまう。でももし高校時代にリーグ戦があったなら、きっと現在より遥かに淋しいものだったと思うけど。
「ミッキー、サンキュ、助かった。つうか内藤、てめえ、このブタ、なにやってんだよバカ! 死ね! ブタ!」
主将の、とても女とは思えないような実に容赦のない罵詈雑言の数々がマシンガンの銃弾のように内藤の全身を撃ち抜いていた。
「すみません」
「すみませんじゃないよ。ダメだお前は。みどり、交代!」
内藤幸子は我が部で一番の巨体であるが、それをなんだか幼稚園児かと見まごうほどに小さく縮ませて、すごすごと交代ゾーンへ向かって行った。
というわけで習明院大学に選手交代。
内藤幸子 アウト
交代で入った早乙女みどりは、フィクソ専門の選手。
つまり、この交代は守備固めだ。
おそらくリードで終盤をむかえられたら彼女に交代する予定だったというだけで、別に内藤がダメだから引っ込めるわけではないだろう。
内藤は同点の大事な場面で投入され、そこそこ攻守に貢献していたと思うし。だから、なんだその、おそらく主将としては、内藤が罵倒を真に受けてしゅんと縮こまるのが面白い、というただそれだけのことなのだろう。
奴をからかいたくなるその気持ちは、わたしも実によく分かる。
「はあ、怒鳴られちゃったよ」
内藤は、わたしの隣に座ると、はああああっとため息をついた。
体型が異様にごつく、顔も怖いため、なんだか怪しげな中国拳法の使い手が必殺技を繰り出そうと気を発しているようにも見えるが、彼女は小心者、怒鳴られたことに対してただ単に落ち込んでいるだけだ。
その巨体に、さすがにパイプ椅子がぎぎいと軋んだ。
「お疲れ。そんな気にすることないよ」
わたしは、内藤にタオルを渡してやった。
そんなことより、パイプ椅子が壊れないかを気にした方がいいよ。
内藤は、まだ怒鳴られたことにしょんぼりしているようだ。
ほんと、気が小さいんだからな。
わたしも先ほど前半に少し出た時には、自分では良いプレーをしたと思っていてもダメだしされたし、軽いミスしただけなのに殺すぞとか、この低脳とか、クズとか、全裸で家帰れとか、散々に怒鳴られたけど、まるで気にしてないというのに。
そもそも内藤、お前は高校生の頃、どちらかというまでもなく、死ねだクズだと怒鳴る側だったじゃないかよ、まったく。忘れたとはいわさないからな。
上級生になると、突然いばりだすタイプなんだろうな、きっと。よくいるよ、こういうの。
っと、内藤なんかの話が続いて、すっかりわたし自身の紹介が遅くなってしまった。
わたしの名前は
習明院大学の二年生だ。
そして、当然ながらフットサル部の部員である。
いま、わたしの目の前で行われているこの試合は、関東大学女子フットサルリーグ、最終節。
場所は、神奈川県にある鎌倉教育大学の体育館。
首位の鎌倉教育大学と、勝ち点差ニで後を追う習明院大学、強豪二校による直接対決。勝利の勝ち点は三であるため、勝った方が文句なしの優勝である。
そしてこの試合、現在一点をリードしているのは我が習明院大。
もう残り時間はほとんどない。
あと一分半ほどだ。
それだけに、相手は死に物狂いで攻めてくる。
失点のショックを振り払い、とにかくガムシャラに、前へ、前へ。焦りを勢いに変え、パワープレーという単純な人数有利を生かして、鎌倉教育大は攻め続ける。
習明院は、すっかり防戦一方になっていた。
ボールを奪えさえすればチャンスも作れるというのに、または時間も稼げるというのに、それは非常に困難だった。
ゴール前がガラ空きという背水の陣による必死さの故か、鎌倉教育大の選手たちは、まったくボールを失わないのだ。
習明院の綻びを見付けて切り裂いてやろうと、素早くパスを回し続けている。
もしも相手のパワープレーに屈して失点をして追い付かれてしまおうものなら、残り時間からして、もう我々の優勝はないだろう。
だから、優勝がもう目と鼻の先にあるというのに、わたしは全然そんな実感などは持てなかった。
おそらく、ほかのみんなも同じような気持ちなのではないだろうか。ピッチに立つ選手たちは、相手の猛攻を食い止めるのに精一杯で、そもそもそんなことを考える余裕もなかっただろうが。
「オジャ、出るよ!」
主将の大声。
ここでまた、習明院に選手交代。
なお習明院の女子フットサル部に、監督はいない。正式には男女兼任で一人いるのだけど、男子にかかりきりで、実質のところ監督のいない状態。
だから、主将である澤田由紀江が監督を代行している。だから、選手交代の支持を出すのも彼女の役割だ。
東洋子 アウト
オジャ先輩、いや和子先輩が入った。まあオジャでもいいけど。
三年生の、ピヴォ同士の交代だ。
当たり前であるが、オジャとはあだ名である。
東洋子は、足元の技術がしっかりして視野も広い選手、ピヴォ当てによる同点弾の基点にもなったし、逆転弾を決めた本人でもある。しかし疲労の色が濃く出ていたし、ガムシャラに相手に食らい付くのなら剛寺和子の方が適任、そう主将は考えたのだろう。
オジャ先輩はガツガツと行くタイプだし、なんといっても瞬発力の高さが武器(足元の技術は、後輩のわたしから見てもちょっと頼りないけど)、だからきっと、相手の前掛かりを突いて一気に前線へ、そこでキープしあわよくば得点を狙おう、と、そういう狙いでの交代だろう。
チャンスはさっそく訪れた。
澤田主将の狙いは、実にあっけなく、現実のものとなった。
それは次のように。
フィクソの早乙女みどりが、相手と競り合い、ボールが跳ね上がった。
マークをかい潜って抜け出したオジャ先輩こと剛寺和子がファーストタッチ、そのボールをちょんと前へ蹴った。
と、次の瞬間には既にトップスピード、そのボールを追って全力疾走、そして完全独走。
風を切るかのような勢いで駆け上がり、背中を追い掛ける選手をどんどん引き離していく。
フットサルは狭いピッチでの競技であるため、前へのスペースなどそれほどないというのに。いかに彼女が俊足かということである。相手の前掛かりもあるにせよ。
ゴール前で速度を落とすと、ゴレイロのタイミングを外し、右足を振った。
逆をついたシュートが決まり、ゴールネットが豪快に揺れた。
3-1
習明院が突き放した。
ピッチ内外から、どっと歓声が起きた。
悲痛な表情でキックオフを急ぐ鎌倉教育大の選手たちであったが、しかしそれからほどなくして、試合終了の笛が鳴った。
「優勝だあ!」
わたしの隣で、三年生の
ピッチ上では、習明院の選手たちが喜びを爆発させ、抱き合っている。その中へ、ベンチからも、どどっとなだれ込んでいった。
大の字に寝そべって無気力にライトを見上げる鎌倉教育大の選手たちに、まるで同情することもなく。
彼女たちは去年も一昨年もこのような経験をしているのだから、さほど同情する必要などない。わたしたちは、なんといってもリーグ初制覇なのだ。
「なあにボケッとしてんの、もう」
わたしも立ち上がり、内藤幸子の手をぐいと引っ張ってピッチへと入り、お祭り騒ぎの中に加わった。
何人かのスポーツ関係の記者が、ピッチに入り込み、試合が終ったこともあり容赦なくフラッシュをたいている。
優勝したということもあってか、その眩しさやシャッター音が、結構気持ちいい。
振り返ってみればそんなたっぷりと出番のあったリーグ戦ではなかったけれど、来年はわたしたちが中心となって、またこんな気分を味わいたいな。
それはそれとして、いまはこの優勝を喜ぼう。
わたしは、主将のそばへと近寄った。
抱き合ってウオーと絶叫している澤田由紀江主将の後頭部を、ボカンと思い切り殴りつけると、何食わぬ顔で前に回り込み、
「やりましたね!」
と、ニッコリ笑顔で祝福の言葉を投げかけた。
こんなどさくさに紛れてでもなければ、とてもこんなこと出来ない。ほんと優勝してよかった。
頭を押さえ、キョロキョロ辺りを見回す主将であったが、気を取り直し、
「うん、まあな。お前もさ、よくやったよ。内藤もさ」
と、わたしの肩を優しく叩き、次の瞬間、内藤の腹に思い切りパンチ。
どずっ、と主将の拳が見事にめり込んで、内藤は身を屈ませ思いきりむせた。
油断しているからだよ。主将のわたしへの態度が優しかったという時点で、次の行動を疑うべきだったのに。
「よくやったもなにも、死ねだなんだって文句ばっかりいってたくせに」
と、わたしはげほげほ咳込む内藤を完全無視して、主将との会話を続けていた。内藤、咳がうるさくて邪魔、消えて。
「いいんだよ。お前はそれで伸びるタイプなんだから」
主将は暴論を暴論とも思わぬ爽やかな表情で、歯を見せて笑った。
ほんっと、無茶苦茶な先輩たちだよ。
2
わたし、そういえばどうしてこの大学に入ろうと思ったのだろうか。
明確な志望動機があったはずなのだが、全然、思い出せない。
あれだけ千葉県内の国立大を目差して猛勉強していたのだから、そこを諦めるにいたった理由を思い出せないのもおかしな話なのだけど。
成績が届かなかったから、という理由ならもっともっぽいけど、結局、私立とはいえ同じような学力レベルのところに入ったわけだからそれはないだろうし。
東京都
学力レベルは、そこそこ高い。
三年前までの、どうしようもないくらいバカだったわたししか知らない者ならば、そのような大学に通っているということをいくら説明しようともなかなか信じてもらえないと思う。
なにか子供と触れ合うような仕事をしたいな、と思ったのが、真面目に受験勉強に取り組むようになったきっかけだ。
では、その将来の夢をかなえるために、より良い環境や条件を求めて、千葉の田舎から東京まで出てきたのだろうか。
それとも、女子フットサル部がそこそこ強いと評判だったからかな。
いや、ここ最近力をつけてきているけどまだ優勝経験がないと聞いて、ならばわたしの力で優勝に導いてやる、と入部したのは間違いないが、受験の時点ではフットサル部があることを知らなかったはずだ。
と、どうしてこんな二年生の夏頃になって、そのようなことを考えているのか。
理由はある。
ちら、と、わたしはわたしの隣を歩いている縦にも横にもでかい、いまにも口から火でも吐くんじゃないかという怪獣のような図体の女の顔を見た。
「なんか、ついてる?」
「いや、なにも」
わたしたち二人はこのように、一緒に行動することが多いのだけど、でも改めて考えてみると何故ここまでの仲になってしまったのだろうか。
などとなんとなく考えているうち、まあこの大学にこいつがいたからだよな、それならどうしてこの大学に入ることになったのだろうな、という疑問が生じ、志望動機を思い出そうとしていたというわけである。
まあ要するに、暇だったからだ。
優勝も決まり、張り詰めていたものがなくなったというか。
わたしたちは、若者のごたごたする青春の喧騒の中を通り抜けて、キャンパスを出た。ちょうど到着していたバスに乗って、小平駅へと向かう。
「梨乃、今日の予定は?」
バスの中で、内藤が尋ねてきた。彼女はガラガラの車内一番後ろでどっかと偉そうに腰をおろしている。先輩がいたらへこへこ腰曲げて無駄に頭下げまくるくせに。
「水曜日だけど今日は夜のバイトはないし、明日の講義は午後だけだから、彼氏と会ってゆっくりしようかなって思ってる」
わたしは座らず、座席の背もたれに手をかけて、爪先立ちをしている。
結構いいよ、このトレーニング。ふくらはぎに来る。
まあ、部活でへとへとになった後にやるものじゃないかも知れないけどね。下手するとオーバーワークで筋肉が減るし。
「えー、出掛けんの?」
内藤は、なんだか幼児が駄々をこねているかのような、なんとも情けない表情を作った。ごつい顔のくせに。ほら、早く火を吐け。
「ああ、いったん帰るから。ご飯はちゃんと作ってくから、心配しないでよ。明日の朝の分も」
その言葉を聞いて、怪獣はそこでようやくほっとした表情を浮かべた。
本当に、ただそのことだけが心配だったようだ。ほんの少しでいいから寂しがれよ。
わたしは、居酒屋でアルバイトをしている。たまに臨時で呼ばれることもあるけど、基本は週に三回。
その居酒屋には内藤も一緒に入ったのだが、なんとこのアホは信じられないことに一週間足らずのうちに皿を百枚近くも割ってしまい、早々にお払い箱。わたし一人だけが、その後も働き続けているというわけだ。
「あたしもなあ、そろそろまたバイトしないとなー。今度は花屋でバイトしたいなー」
怪獣女はギャングのボスのように座席にふんぞり返って、分もわきまえずに好き勝手なことをいっている。
「やめといたほうがいいよ。その顔に、花が片っ端から枯れるから」
「なにを!」
「だってそうやって、皿を百枚割ったでしょうが」
「顔で皿が割れたわけじゃねえよ。バーカ!」
「彼氏んとこ直行するぞ!」
「ごめん! ご飯食べたい!」
などと下らないやりとりをしているうちに、バスは小平駅へ到着。
西武新宿線で、小平から二駅のところにある東村山へ。
東口のヨーカドーで食材を買い、レジ袋を内藤の両手に持たせて、そこから徒歩で七分。
わたしたちの暮らしている、ワンルームマンションに到着だ。
3
「ねえ、ご飯まだーー?」
「うるさい! いま作り始めたばかりだろが、バーカ!」
わたしは、身体の異様に大きな三歳児を一喝して黙らせると、作業を続けた。
まな板を置いてまず長ネギを切りはじめたというだけの時点で催促なんかされていたら、いつまでたっても料理なんか出来やしない。
さて、特に説明はしていなかったものの、でももうなんとなく、分かって頂けているのではないだろうか。
わたしたち二人がこの狭いワンルームを、シェアして暮らしているということを。
シェアなどというクールっぽい響きの言葉よりは、もう完全に大昔の青春ドラマ再放送のような同棲生活である。要するに、むさ苦しい。華がかけらもない。
わたしとしては文字通りに単なるシェアでやっていきたいのだけど、むこうが生活能力皆無でわたしにべったりなものだから、必然、こうなってしまう。
一種の腐れ縁であろうか、とわたしは諦めているけど。
内藤幸子との仲であるが、大学生になってからのものではない。いや、「仲」に昇華したのは大学生になってからだが、初対面はその一年以上も前に既に済ませている。
わたしが高校生二年生の時に、戦ったことがあるのだ。
死闘といっても過言ではない、それは凄まじい戦いを。
その戦いで、わたしは足首の筋を傷めてしまい、しばらく松葉杖生活を余儀なくされた。
などというとなんだかヤンキーの喧嘩みたいだが、別に殴り合ったわけではない。フットサルの話だ。
関東高校生フットサル大会、千葉県予選の初戦、わたしの率いる
茂原藤ケ谷は、それはもう噂に聞いていた通りラフプレーのオンパレード。
みんながみんな内藤のような体型で、こちらは相対的にもやしのような貧弱軍団で、フィジカルでまるで勝負にならなかった。
技術面では佐原南の方が有利であるものの、それを踏み砕くかのような、茂原藤ケ谷の破壊力。
わたしたちは耐えに耐えつつ、相手をカリカリさせてラフプレーをわざと誘うようなやりかたで戦った。
その効果はテキメンで、確か内藤は、我を忘れて
勝ったのは佐原南。
終了間際の、わたしのゴールによるものだ。
しかし選手たちはもうボロボロ、わたしを含め何人かが病院に運ばれ、残る者も疲労や痛みに満身創痍の状態で、次の試合ではボロ負けして県予選敗退。
と、そんなフットサル離れした凄まじい試合であっただけに簡単に忘れられるものではなく、特に主将であった内藤の顔はよく覚えていた。
だから大学で出会った時は、本当にびっくりした。
フットサル部に入部してみたら、すぐ隣になんだか知った顔がいて。
あー、とお互いを指さして間抜けな声を出してしまったっけ。
年齢は彼女の方が一歳上なのだけど、一年浪人しているため学年はわたしと同じ。
つまり出会った時は、お互いまだ大学生になったばかりだった。
実感はまったくないのだけど、わたしたち二人は部では非常に目立つ存在らしく、いじめられているのか、いじられているだけなのか、境の曖昧なちょっと理不尽な扱いを受け続けているうちに、ちょっとした友情が芽生え、仲良くなったのである。
でもいま思えば、本来いじめられるべきは内藤一人だけで、わたしはただ一緒にいたから被害を受けていただけのような気もする。
わたしがいちいち逆らってしまう性格のせいか、いまはわたしへの風当たりの方が遥かに強いけど。
仲良くなった理由はそれだけではない。
二人とも、境遇が似ているのだ。
千葉県出身で、高校の頃にフットサル部の主将で、だから大学でも初っ端からそれなりの扱いを受けるかと思っていたらろくに出番もなく、先輩たちには罵倒され背中に飛び蹴り食らったり、いきなりジャージのズボンを下ろされたり、いじめられ続ける毎日、と。
父子家庭で育ったという点も。
家がお店をやっているという点も。
頻繁にお互いの部屋を行き来したり、同じバイト先で働いたりしているうちに、どちらからともなく節約のために一緒に住もうかという話になり、わたしが引っ越しをして内藤のワンルームへと入ることになったのだ。
まあそれなりに馬も合って、うまくやっている。
高校時代にわたしが感じたままの内藤の性格だったら、絶対に相容れなかっただろうけどね。
試合の時に一回会っただけとはいえ、それはもう本当に酷かったんだから。
酷いファールをしたくせに、貧弱なくせに試合に出てくんな迷惑だ、とかこっちに切れたりしてさ。
でも大学での再会後に聞いたところによると、荒っぽい伝統のあるフットサル部で、自分なんかが次期主将に選ばれてしまって、そうとう悩んでいたらしい。
突然がらりと軟弱な部にするわけにもいかず、それにそんな態度を取ろうものなら後輩に舐められることは確実で、だから半ば演技で荒っぽいふりをしているところもあったとのこと。
わたしは内藤たちとの試合中、まるで漫画だよ、とか、こいつもう死ねよ、とか、心の中で散々罵倒していたので、それを聞いてちょっとだけ後悔した。
人は見た目で判断出来ない、とはよく聞く言葉だけれど、態度からも安易に人間を決め付けることは出来ないことを学んだ。
茂原藤ケ谷の雰囲気は、現在ではかなり変わってきているとのこと。
例の死闘の時に、
なおその巴和希だけど、現在大学一年生、この春に、なんと日本代表に選出されたという話だ。
やっぱり、凄い選手だったんだな。
そして、そんな凄い選手を子供扱いにして手も足も出させなかった佐治ケ江優は、やっぱりとんでもない奴だったんだな。
飛び級でフル代表に選ばれてもおかしくない逸材だとわたしは思っているけど、でもそんな話、まったく聞かないよな。佐治ケ江。
フル代表どころか、世代別代表でも。
やっぱり絶望的に体力がないせいかな。
あ、後輩に、そういう娘がいたのね。佐治ケ江優っていって、華奢なんだけど個人技が人間離れしてて、ほんと凄かったんだから……って、話がどんどん横道にそれてしまった。
戻そう。
わたしが内藤の部屋に引っ越しをした、というところまで話したのだっけ。
これ、どちらかといえばわたしの方にこそ有難い話だった。
だってそれまで住んでいたところは、風呂無しでトイレは共同、部屋もカビ臭く、と、実に酷いところだったのだから。
住民は男ばかりだし、多分わたしの住んでいた部屋も、これまでずっとそうだったんだろう。
最初はあまり気にしてなかったけど、周囲が色々と心配して吹き込んでくるものだから、段々と心配になってきて。壁や畳の染みを見付けては、色々と変な想像してしまって鳥肌立てるくらいになってきてしまって。
そんなタイミングでシェアの話になったものだったから、これは渡りに舟とばかりに飛びついた。
彼氏を安心させたいという気持ちもあったし。
わたしには、高校二年の頃から付き合っている彼氏がおり、やはり進学のために東京に出て来ている。
一緒に暮らしちゃえば、などと友達からいわれることもあるが、わたしは未婚カップルの同棲というのがどうも好きではないのだ。
娘の側の親の気持ちを想像すると、最近の若者は、よく平気でそんなことするよな、と不思議に思ってしまう。
あとまあ、向こうは住んでいる場所が杉並区だから、わたしが大学に通うのに遠過ぎるというのもあるし。
というわけで、わたしはこのワンルームマンションの一室で、怪獣と共に暮らしているというわけである。
二人でいると、ほんと狭いけどね。
内藤の身体が、とにかく無駄にでかいから。
まあ、楽しいけど。
それなりに、この生活は。
カラーボックスを突っ張りラックに置き換えたり、部屋のオーナーに内緒で壁に折り畳めるベッドを取り付けてしまうなど、狭さもいくらか解消されてきたし。
あとは内藤がもっと痩せてくれるとよいのだが。
って、わたしもどちらかといえばがっちり体型なので、あまり他人のことをいえないのだけど。
現在わたしが料理しているのは、今夜と明朝のための内藤のご飯だ。
余ったらわたしの昼用に弁当箱に詰めて持ってきてとお願いしてあるが、まあ余ることはないだろうな。
みんな食べちゃったあ、とかいって、代わりに購買のパンかコンビニ弁当でも受け渡してくることだろう。
明朝どころか今夜中に食べ尽くしてしまうかも知れないな。相当量を作るつもりだというのに。
料理をするのは、いつもわたしが担当である。
共同生活をするにあたり、ゴミ出しやフロ掃除は交代、料理はわたし、洗濯は内藤、と当番を決めてあるのだ。
最初の予定ではすべてのことを交代でやるはずだった。しかし内藤の料理を食べてみたらまあ不味いこと不味いこと。
この時代、男子の方が遥かに美味しいものを作るだろう。
内藤曰く、金がないから毎日自炊していたけどどう頑張ってもとてつもなく不味いものしか出来ず、いっこうに経験値が蓄積されることもなく、いつも我慢して食べていたとのこと。
そのようなわけで、お互いの利害のためにも、料理はわたし一人で引き受けることになったのである。
ほんっとに不味いんだから。
筆舌に尽くしがたいという表現があるけど、まさにそれ。
野良犬になんとなく味見させたら大暴走の上コロリと死んでしまった、などという都市伝説を作って広めたいくらい。いや、やってみたら本当にそうなると思う。
わたしは千葉県の実家で高二の頃から節約のために料理をしていたから、得意かどうかはともかくとして、きちんと食べられなおかつ財布に優しい食事を作ることが出来るから、貧乏二人組であることを考えるとどのみちわたし一人が担当した方がいいのだろう。
「梨乃がいないんじゃあ、今夜はなにして暇を潰そうかなー」
内藤が、テレビの前でゴロゴロゴロゴロ。でっけえ図体して、中年オヤジか。
なんか暇そうにしてて、腹立つな。
こっちはお前の料理に忙しいってのに。
「夜の街に逆ナンパにでも出掛けたら? あたしはひっさびさに彼氏んとこにお泊りだからあ、もう腰抜けるくらいバンバンやっちゃう!」
「色情狂か、てめえ!」
別にそこまで好きなわけではない。まあ、人並み以上には好きかも知れないが。
それよりなにより、彼氏いない歴イコール年齢という内藤をからかうのが実に楽しいだけである。
悔しがり、羨ましがるのが。
「今日も彼氏に手作り料理食べさせてあげよーっと。スプーン持って、ダーリンあーん、って」
「黙れやコラ!」
内藤は上体を起こすと、抱き枕を床に叩き付けた。
まあ、そんな怒るな。
君にもいつか、白馬に乗った王子様があらわれる日が来るだろう。
それまでせいぜい悔しがっているといい。
いや、一生来ないかな。
あの料理じゃ……
4
「どうした?」
この男はわたしにとって、俗にいうところの彼氏などという存在である。
わたしが、なんだかそわそわと落ち着きのない態度だったものだから、心配になったようだ。
「いやあ、なんか高そうなお店だなーって。大丈夫なの?」
ここは
今日は会うのも数週間ぶりだから、外食しようと誘われたのだけど、お互い貧乏大学生の分際でまさかこのような洒落た店に連れて来るとは。
競馬か麻雀で儲けたのだろうか。
「ああ、いいのいいの。
と、ミットは生意気にワイングラスを口に運び、ちびりと含んだ。
先日、わたしよりひと足お先に二十歳を迎えたものだから、こういう公の場でお酒の飲めるところに来たかったのだろう。
わたしは、飲み物は炭酸水にした。
まだ未成年で、特に背伸びするつもりもないので。
中学生の頃にお父さんのビールをこっそり飲んでしまったことはあるけど、それは背伸びというより単なる好奇心だろう。
唐突ではあるが、高木ミットのミットは、漢字で三人と書く。「高木三人って……さんにんくん? みつひとくん? それとも名前じゃないの?」などと、読む人からいちいち聞かれるのがわずらわしいらしく、正式に書く必要のない場ではカタカナで表記するようにしているとのこと。
わたしも、頭の中ではいつもカタカナだ。たまに三人と漢字で書かれているのを見ると、やっぱり「え? さんにん?」って反応してしまう。
お父さんが野球選手に育てたくて、そんな名前にしたらしい。ヒネクレ者で、小中高とサッカーやフットサルをやってたけど。
こいつとは小学生からの腐れ縁で、付き合うことになったのは高校二年生からだ。
大学生になったことか、東京に出て来たことか、それともそういう友達でも出来たのか、なにが原因なのか分からないけど、ミットは凄くお洒落な感じになった。
以前は髪の毛なんか寝癖のままじゃないかっていうくらいボッサボサで、ジャージ姿でどこでもうろつきまわるようなところがあったのに。
人間は変わるものだ。
わたしはといえば、相変わらずだけど。
小学生の頃からの、ショートヘアのまま。なにも気を使わなくていいからそうしているだけ。
高三の夏にフットサル部を引退したあたりから、セミロングにまで伸ばしてみたことあるけど、どうにもしっくりこずに、また短くしてしまった。
たまにちょっと脱色して茶髪っぽくするくらいはやるけど。
服装に関しては、親友の
自分自身にまったくセンスのないことがいつばれるかと思うと、冷や冷やしちゃうけどね。
「そういやさ、梨乃のお父さんとこ、どう? 変わりない?」
「特にはね。でも、あのお父さんが全然喧嘩しないってのも、気持ち悪いけどね。でも、唐突になによ。気持ち悪いなあ」
「いや、ちょっと聞いてみただけだよ」
まあ、付き合っているということは、このまま交際が続けばいつかは……ということだもんな。相手の家のことが気になるのは当然のことか。
千葉県
つまり、わたしに新しいお母さんが出来たのである。
お父さんは生っ粋の佐原っ子なんだけど、なんだか江戸っ子のように気が短いところがあって、わたしとはつまらないことでしょっちゅう喧嘩していた。生っ粋の佐原っ子がどんな性格かなんて知らないけど。
記憶にはほとんどないのだけど、前のお母さんともよく喧嘩していたと思う。
ところが新しいお母さんとは、全然喧嘩らしい喧嘩をしないのだ。お父さんの方が先回りしてしまって、全然勃発しそうな雰囲気にならない。
喧嘩でガス抜きするようなところがあったのに、大丈夫なのかな、と老婆心ながら心配している。まあ、娘も家を出てしまったし、不安なのかもね、一人きりになるのが。
など、そんなことを時折わたしが話しているものだから、ミットもちょっと気になったのだろう。
「ミットの家の方こそ、どうなのよ?」
わたしは尋ねた。
将来わたしたちがめでたく……となった場合の話、
まあどこかに就職して働いているであろうミットの勤務先にも左右されるのだろうけど、都内で部屋を借りて暮らすという可能性が一番高く、そして次に可能性が高いのが高木家にお世話になることだから、わたしにとっては非常に気になることなのだ。
引っ越す予定などないか、家族仲はどうか、また新しく家族が増える予定はないか、など。
佐原は東京へのアクセスがとにかく最悪なので、そこへ住むことなどまずないとは思うが。
しかしあの家は狭い割にとんでもない大家族で、それは呪いがかった求心力があるからなのか、なんだかわたしも引き込まれてしまいそうな、そんな気がしてくることがある。
もしもそういう運命なのだとしたら、正直いってその運命に逆らう自信がない。
だからなおさら気になるのだ。
まあそこに住むことになろうとも、通勤が大変なのはおそらくミットだけだ。大丈夫。なるようになる。
「おれの実家も相変わらずだよ。
「へえ。夏休みに、会いに行きたいね。豪ちゃん、でっかくなっただろうなあ~」
わたしたちが付き合い始めて間もなかった頃に、ミットの家に遊び行くことになって、そこでミットのお兄さんである
「生命と時の流れというのは、本当に神秘的だよね」
「なに高尚ぶっていってんだか」
「うるさいなあ」
茶化すなバカミット。
さて、その後、待ちに待った料理が運ばれてきたのだけど、
なんだか、わたしには、よく分からなかった。
よいのか、悪いのか。
ミットも同じ感想だった。
今度の土曜日から通常価格になるとのことだが、そうなったらそれは世にいうボッタクリというものではないだろうか。
フランスで修業したシェフの作るフランス料理、という権威に負けて、きっと田舎者である我々の舌が悪いんだろう、ということに落ち着いたわたしとミット。
なんだか悔しいけれど、権威に打ち勝つだけの舌の経験値を持っていないし。
というわけで、せっかくの外食だというのに、ミットがただ公の場で二十歳を堪能したという、ただそれだけになってしまったのであった。
まあ、楽しかったけどね。
5
わたしと
ミットの部屋の、ベッドの上。二人とも、一糸まとわぬ姿で。
余韻を楽しむというよりは、単に体力を使い果たしていて動くのが面倒で、常夜灯のほのかなオレンジだけが光源の暗い部屋の中、いつまでもどうでもいい話なんかをしていた。
「そうだ」
どれくらい経ったか、ようやく動く気力の出てきたわたしは、ずるりとベッドからおりると、下着すらも一切身に付けることなく壁際の小さなテーブルの前へと移動した。そこには、ノートパソコンが置かれている。
久しぶりに、わたし宛てのメールをチェックをしようと思ったのだ。
「まったく、携帯もパソコンも持ってないんだからな」
ミットがぼやく。なんだよ、素っ裸のくせにえらそうに。
「いいじゃん、そんなの持ってなくても。お金がかかるだけだし」
ここに一緒に住めばいくらでもパソコンが出来るけど、別にパソコンどうでもいいし、あるから使ってるだけで、そもそも同棲などはしたくない。
婚前交渉はダメとかそこまでは古くはないし、むしろそういうことは積極的なわたしだけど、とにかく同棲は嫌。
わたしなりの倫理感云々というところもあるけれど、一番の理由としては、一緒に生活してしまうと、なんかもう恋人じゃなくなってしまう気がするということかな。現実的過ぎて夢覚めるというか。
同棲もせずに結婚すると、相手との生活のギャップに苦しんで、それで離婚したりもするよ、などと友人からいわれたことがあるけど、そうやって同棲を結婚のお試し期間として捉えるのがわたしは嫌なのだ。
別々に暮らしていればこそ、会う時が楽しくなるし。普段は普段で、自分の時間がしっかり取れるし。
そのうち嫌でも一緒に暮らすことになるのであれば、なおさらのこと。
あと今となってはだけど、内藤が一人きりでかわいそうというのもあるかな。今日は、思い切り一人にして置いてきちゃったけど。今頃淋しくて泣いてないかな。
内藤のことなんか、どうでもいいや。メール、メールと。
うお、変なメールが一杯だ。単純なアドレスにしてしまったせいかな。「あけみです昨日は楽しかったね」とか。
アドレス変えるのも面倒だけど、こんなんじゃ大切なメールを見落としちゃうなあ。そもそも送ってくるなよ、なにがあけみじゃい。
などとぼやきながらのメールチェックにも飽きて小休止。なんとなく、明日の天気予報を見て、そこからの流れでネットニュースへ。
「交通死亡事故か。……フットサル、やってた子だって」
親の運転で練習に向かう途中に、暴走してきた酔っ払いの車に後ろから追突されたらしい。
広島県の地元では有名なクラブに所属していて、高一の頃から日本代表の常連だったって。
まだ十八歳か。かわいそうだな。
酔っ払い運転って、最低だよな。
そんな奴に殺されて、浮かばれないだろうな。
フットサル、もっともっとやりたかっただろうに。
「広島といえばさあ、サジ、広島に行ったきり、元気かな。王子の話では、向こうの大学に入ったということだけど。せのなんとか女子大とかいってたかな。瀬野浦、瀬野崎……なんだっけ」
常夜灯の明かりの下、ぼそりぼそりと独り言。
サジというのは、高校時代の後輩、
王子というのは、やはりわたしの後輩で佐治ケ江の友達、
特にミットに話し掛けていたつもりもなかったが、あまりにも無反応なのでちらりとベッドの上の奴めに視線を向けると、すっかりテレビのお笑い番組に夢中だ。
しかも缶チューハイなんか飲んでやがる。
ちょっと前に二十歳の誕生日を迎えてからというもの、やたらとお酒飲むよな。お酒なんて、別にそんな美味しいものでもないと思うんだけど。なに背伸びなんかしてるんだよ、ミットのくせに。
それよりなにより、まだいまさっき
またメールチェックに戻る。
「
日付を見ると、三週間前のだ。
この前、ここでチェックした直後に来たメールだな。
ここに来た時くらいしかメールなんか見ないからな。どうしても読むのが遅れてしまうな。
大学にもネット環境はあるのだけど、パスワードがどうとか、よく分からないし、覚えるのも面倒だから全然触ってもいない。ここなら全部ミットがやってくれるし。
クリックという言葉すら、最近覚えたくらいだからな、わたし。
「お、久樹、身長が一センチ伸びたって。……って、ほら、やっぱり背が低いの気にしてたんじゃないかよ。わざわざそんなこと報告してきてさあ、こいつはもう」
男のような名前だが、れっきとした女である。あ、いや、分からない。多分、女。
いつフットサル代表に呼ばれてもおかしくないような、それは凄い実力を持っていたのだけど、高三の夏から、静岡のサッカーレディースチームに誘われて加入。現在もそこで、なでしこリーグ入りを目差して頑張っている。
彼女は、身長が百五十くらいしかない。
対戦する側としては、小さくちょこまかして本当に嫌だし、久樹本人もそこが自分の武器と自慢していた。
でもやっぱり、一人の女の子としては、ちょっと低すぎるんじゃないだろうかと気にしていたんだ。
ぱっと見ガサツな、なんだか小学生の男の子みたいなくせに、かわいいとこもあるんだな。
よし、それじゃ次のメール。
と、飲み会のお誘いだ。
わたしまだ十九だから、参加したところで飲めないけど。
飲みたくもないし、仮にこっそり飲んだとして、ばれたらフットサル部にとんでもない迷惑がかかるからな。
そもそもこれも、もうとっくに開催日が過ぎている。
ま、いいか。どうせ合コンだろう。興味なし。削除。
しかし、現在はすっかり電子メールの時代なんだな。まさか自分宛てのメールが、こんなに届いているとは思わなかった。
実家もちょっと前までVHSのビデオデッキだったし、わたしが機械に無知なのって絶対に親譲りだよな。
「これからは、ちょいちょいここに来ないとダメだな。ことごとく、期日が過ぎちゃってるよ。それか、ミットがチェックして教えてよ」
「他人のメールを読むのはマナー違反なの。送る人は、お前だけが読むこと考えて送っているんだぞ」
「そりゃそうだけど。じゃあ、やっぱりここにちょいちょい来るしかない」
「だからあ、パソコンか携帯買えよ」
「いいじゃん、その方が。……こうやってさあ」
と、わたしはベッドへのぼると、ミットへとすりよった。
そっと顔を近付けた。
唇を、合わせた。
ミットが肩からかけてくるまっているシーツに、わたしも潜り込んだ。
肌の温もりを感じながら腕を伸ばし、抱き着いていた。
そして、ゆっくりと手を下の方へと滑らせていった。
指の先が、熱く硬いものに触れた。
「お、凄い回復力」
ミットの元気な証に、わたしは笑みを浮かべた。
思わず、ぎゅっと強く握ってしまった。
びくびくと、脈打ってる。
「なに喜んでんだよお前は!」
「だってえ、三週間ぶりなんだもん」
だめだ、もう我慢出来ない。
さっき散々と自分の中に迎え入れ、お互い体力の限りを振り絞ったばかりだというのに。
わたしはシーツを両手で掴んで思い切り広げると、二人の足先から頭まで隠すように、すっぽりと被ってしまった。
闇の中で、わたしはミットの身体をゆっくりと押し倒し、お腹同士をぴたり密着させ合ったまま、跨っていた。
わたし、変態かな。
いやあ、みんなこんなもんだろう。知らんけどきっと。
6
すっと身体を寄せられたかと思った次の瞬間、予期せぬ喪失感。空気を蹴ってしまい、反対の膝ががくりと崩れた。
「ったく、ボケッとしてんなよ!」
二人はもつれ、転んでしまった。
「そこ、ビシッとやれ!」
いまわたしたちは、フットサル練習で二対二をやっているところ。鬼のような形相で腕組みしている
「はーい! くそ、
剛寺和子は、先に立ち上がると亀尾取奈美に手を伸ばして引っ張り起こしてやった。
「すみません、オジャ先輩。居酒屋のバイトで、遅番の子が出られなくなって、閉店まで残業させられまして」
わたしは正直に答えた。
でもそれは、ますます彼女らの怒りの炎に油を注いでしまうだけだった。まあ、この先輩たちはそういう刺激を常に求めているような人種なので、どのみちわたしの運命は変わらなかったとは思うが。
「理由になるか、そんなん! 残業代を貰っておいて、なおかつ部活で楽しようとしやがって!」
剛寺和子は暴論のような正論のような理屈を吐きながら、わたしの右腕をぐいと掴んだ。それとほとんど同時に、
「ウルトラキーック!」
背中にどうんと衝撃を受け、わたしは大きく前へと吹っ飛ばされていた。まるで特撮ヒーローのアクションシーンみたいに。
亀尾取奈美から容赦のない飛び蹴りを受けたわたしは、顔から床に落ち、ぐるんと回転して床に背中を叩き付けられた。よく首の骨が折れなかったと、我ながら自分の頑丈さに感心だ。
「お前はさあ、昨日だってぼけっとしてたじゃねえか……よ!」
奈美先輩は、わたしを起き上がらせると、お尻に回し蹴りをしてきた。ズパーン、と体育館中に音が響き渡った。やられているのが自分でなければ、聞いていて凄く気持ちいいくらいの音だ。
しかしわたしのことばかり蹴飛ばしてくるんだからな、この先輩。
入部して間もない頃だったかな、澤田主将(当時は主将じゃなかったけど)が、奈美先輩のプレーを叱る際に「だいたい、お前の名前、卑猥なんだよ!」などと冗談なのかなんなのか、とにかくそんな余計なこと付け足したりして、その言葉に、わたし一人だけが反応して、ぷっと吹き出してしまい、奈美先輩から思い切り顔面にパンチを食らってどばどばと鼻血出したことがある。
確かそれからだよな、なにかにつけてわたしのお尻を蹴っ飛ばしてくるようになったのは。
自分の名前が卑猥なのを棚にあげて、なにかにつけてかわいい後輩を蹴飛ばしてきやがって。なにが亀が踊るだよ。と、ちょっと頭にきたわたしは、ちくりとくるような一言を投げ返してやった。
「いや、昨日調子が悪かったのはですね、一昨日、彼氏の家に泊まって……」
奈美先輩は最近彼氏に振られたという話。案の定、みなまでいうのを待つことなく、がっと手でわたしの口を押さえ付けてきた。
むぎゅーっと絞るように押さえられて、わたしきっと、ひょっとこみたいな変な口になってると思う。
「はい、飛び蹴り第二弾、けって~い」
奈美先輩の言葉と同時に、またわたしは両腕を和子&紗希両先輩に掴まれ抑え付けられていた。
かくして再び、わたしの身体は宙を舞ったのであった。
こうやって勝手に人の身体をボロボロにしておいて、明日は明日で、動きが悪いだのとまた絡んでくるんだろうな。
ほんと、理不尽。
まあ好きで入った体育会系の部活、嘆いていても仕方がないか。
さて、今日は珍しく
まずは四年生から!
主将の
ポジション、アラ(ポルトガル語でサイドという意味。役割を単純にサッカーに置き換えると、ミッドフィールダーに相当する)。
彼女は髪は短く刈り上げており、見た目も性格も実に怖い。わたしは入部してしばらくは、男の先輩が混じっていると信じて疑わなかった。
非常に意固地なところがあるが、根は面倒見の良い先輩だ。
ポジション、ゴレイロ(サッカーでいうゴールキーパー。まあフットサルでも、ゴールキーパーといったりもするけど)。
最近ろくに部活に来ていない。
頭脳明晰の才女で、なんでもここの大学院に進学するらしい。
運動神経は抜群で、二年生の時にはまだそれほど強くなかったフットサル部の中で、ゴレイロの身ながら攻め上がってはシュートを決め、引いては相手の決定機を潰しまくり、まさに獅子奮迅の大活躍をしていたらしい。まだリーグ自体が洗練されていない時代で、対戦相手も弱いのが多かったから出来たことだろうけれども、それにしても凄い話だ。
四年生はほとんど引退しており、この二人しかいない。絵里香先輩は、ほとんど姿を見せることがないので、実質のところ主将一人だけだ。
それじゃ次、現在の習明院の主力であり主役である三年生!
ポジション、ピヴォ(ポルトガル語で先端、軸などの意味で、役割はサッカーでいうところのフォワード)。
非常に敏捷かつ俊足であるが、足元の技術に難あり。ただその俊足というのが半端じゃなく、そこに自信を持っているのかプレーぶりが実に圧巻。ボール扱いが下手なくせに、心の中ですら「下手!」などと迂闊に呟けない迫力がある。実際、今期のリーグ戦も、最終節で優勝を決定付けるゴールを決めているし。
普段は単なるバカ。下らないダジャレばかりいっている。きっと前世がオヤジなのだろう。
そこからついたわけではないらしいが、あだ名は、オジャ。
ポジション、ピヴォ。
オジャ先輩ほどの俊足さはないが、足元の技術がとにかく高く、視野も広く判断も適確。プレーが安定しており計算が出来るため、主力中の主力だ。
変態揃いの三年生の中で、唯一まともな存在だ。
アラ。
特筆する能力はないものの、すべてにおいて平均点以上の万能タイプ。
ことあるごとにわたしのお尻を蹴飛ばしてくる。なんでもわたしのは人一倍蹴り心地がよいとのこと。ほんと迷惑な話だ。下品な名前しやがって。
アラ。
亀先輩同様に、バランスの取れた万能タイプだけど、特筆すべきは技術やプレーぶりというよりはガサツな性格かな。フットサルにおいても、普段の生活においても。昔の映画のキザな不良学生みたいな顔で、主将と並んでいると、もう男同士にしか見えない。いやきっと男、パンツ下ろせばついてる。
あだ名はバン。本人は、同じ二文字なんだからサキと呼べよなどと常々いってくるのであるが、そんな可愛い名前で呼んであげる優しい者は一人もいない。
フィクソ(サッカーでいうところの、ディフェンダー。ベッキともいう。舵取りという意味で、とにかく重要なポジションだ)。
彼女は身体能力が高く、経験も豊富。なにより的確な読みで相手のチャンスの芽を潰す。
世代別代表に選ばれたこともあるらしい。
がっしり体型で、寡黙。
でも時々、突然甲高い奇声を上げたり、下らない話が止まらなくなったりする。明るいのか暗いのか、よく分からない人だ。というか、とにかく妙な人。
ニコニコ笑いながら、いきなり大量のラムネ菓子を押し付けてきたりするし。
変ではあるが、相対的に地味で目立たない存在ではある。
ゴレイロ。
反射神経や身体能力はゴレイロとしては普通だと思うけど、コーチングやポジショニングが的確で、今回のリーグ優勝の立役者だ。
特に決まったあだ名はないが、ここ最近はミッキーと呼ばれることが多い。
とにかく喜怒哀楽の異様に激しい性格。
試合中にも周囲の迷惑をかえりみず気合いの雄叫びを上げまくるし、あんな弾けているゴレイロ、見たことない。
これまで四年生の絵里香先輩に、高校時代を振り返れば
ノッてくると、実力を遥かに越えた能力を発揮するので、対戦相手としては嫌だろうな。「ちょっと、なんでそれ止めちゃうの!?」みたいな。
さて、次は二年生だ。
まずはわたし、
アラ。
とりあえずの特徴としては、万能型だろうか。
仕掛ける能力などは、あまり高くないけど、決定力や、キープ力、状況判断力などには自信がある。あと、中学では陸上の中長距離をやっていて全国大会に出たこともあり、スタミナも自慢だ。
チームの舵を取る能力もそれなりに高い、と高校の頃は思っていたけど、ここの先輩たちの舵取りをする自信は、はっきりいってない。
アラ。
肉の壁、とでもいうような非常にどっしりがっしりした体格。
一見贅肉まみれのような感じだが実は筋肉の塊で、だから見かけと裏腹に意外と敏捷。
高校時代にいつも砂浜トレーニングをやっていただけある。
基礎技術はしっかりしておりパワーも申し分ないが、惜しいかなメンタル最弱。
ピヴォ。
敏捷性、決定力が売りで、ポストも得意。
凄まじく高い声の持ち主で、試合中にいきなり大声をだされると調子が狂って仕方ない。
能力は申し分ないため、今後はいかにその高い声を抑えるかというところが、チームに溶け込めるかどうかの鍵になると思われる。
アラ。
とにかく真面目一筋、練習の虫だ。技術的にはまだまだだけど、でもこういうのがいきなり大化けしたりするんだよな。
現在のところ、シュートはそこそこ上手い、という以外の特徴はない。
アラ。
大学からなので、まだすべてにおいてレベルが低く、どういったプレーヤーなのかも評価が出来ない。
笑い上戸で、とにかくお腹をかかえてよく笑い、無意識に周囲を元気づけるような存在だ。
そういう意味で、もしかしたらリーグ優勝の影の立役者かも知れない。
癒し系であるためか、彼女のことだけは、先輩が怒っているのを見たことがない。その点だけでも、実にうらやましい。
ピヴォ。
あだ名、ヅラ。
三年生に勝るとも劣らない優秀な能力を持っているというのに、そのあだ名の一点だけで、本人の性格性質を無視してギャグキャラクターにされてしまっているという、不遇の存在である。
最近、それでやけっぱちになっているのか、ちょっとグレ始めているところがある。
フィクソ。
あだ名、ウマヨ。
フィクソを任されているものの、まだまだ守備に難あり。しかし、随所に見せるポテンシャルの高さから、先輩たちからはかなり期待されているらしい。
能力的にだか性格的にだか、とにかく攻撃参加が得意で、表情を見ていても、実に嬉々として駆け上がる。
ガリガリ体型のせいか、ふわんふわんと空気の間を縫うように、かつ異常に高速に走るその二律背反ぶりが矛盾無く融合している姿は、見ていて本当に面白い。一度、動画を撮って投稿サイトに送ってみたい。
最後、一年生だ。
ピヴォ。
なぜだか分からないけど、梨乃先輩梨乃先輩とわたしを慕うところがある。
優等生タイプで、性格は実に明るいが、練習態度は非常に真面目で、一種の不思議ちゃんといったところか。
まあわたしも、そんな子に好かれて悪い気はしない。
ゴレイロ。
目立たず、もくもく寡黙に練習するタイプ。
やっぱりゴレイロで幹枝先輩みたく弾けているのはとても稀なのでは……
他は、まだ経験も浅いし、今後続けるのかどうかも分からないし、名前をあげるにとどめておこう。
以上二十一名、これが習明院大学、本年度の女子フットサル部の全員だ。
「うわ!」
突然のことに、わたしは思わず悲鳴というかなんというか、そんな声を上げていた。
内藤幸子の巨体が、なんだか風を切るような凄まじい速度で視界をすっと通り抜けたのだ。
彼女は、背中から倒れてごろんごろんと床に転がると、きゅーっとのびてしまった。
またなにかミスをやらかして、先輩たちから体当たりだか飛び膝蹴りだか、攻撃を受けたのだろう。
わたしはこういったことにはもうすっかり慣れていて、大学の体育会系なんてこんなところなのかなと思っているのだけど、
でもやっぱり、ここの先輩たちって、ちょっとおかしいのだろうか……
「おかしいに決まってんだろ!」
目覚めよろよろ立ち上がった内藤から、八つ当たりの肘鉄を脇腹に受けた。
「ああ、聞こえてた?」
わたし、考えてることがいつの間にか口をついて出てしまうからな。
それでどれだけ無駄に、先輩たちに殴られたことか。
さて、ここからはパス練習の時間だ。
わたしは一年生の堂本梢とである。
「あ、ごめん」
さっそく蹴り損ねて遠くへ転がしてしまった。
「いいですいいです、取ってきまあす」
かわいい奴だ。
やっぱりいいよね、一年生相手だと気楽で。失敗してブン殴られることもないし。
などと思っていたのが、まさに気の緩みだった。
またまた蹴り損ねて、オジャ先輩の後頭部にぶち当ててしまった。
「いまの、誰かなあ」
オジャこと剛寺和子は、ゆーっくりと、こちらを振り向いた。
「はい、内藤君でーす」
わたしは間髪入れず、手を上げて答えていた。
「ええーーーーーっ!」
内藤幸子の魂の絶叫が、体育館中に響き渡ったのであった。
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