悠久のオリハルコン

長谷川ルイ

決意

第1話

 横断歩道の直前で赤に変わった信号機を見上げ、五十嵐真紀は深く嘆息を吐いた。息の上がった肩を落とし、点字ブロックを避けて立ち止まる。余裕を持って家を出たはずなのに、電車が車両故障で遅れ、乗り込んだ列車は猛烈に混んでいて、それがさらなる遅延を生むという悪循環。高校最寄りの駅に着いたのが予定より二十分も遅れたとあっては、さすがにのんびりと歩くわけにはいかなかった。せっかく走ってきたのに、こうして信号に捕まるあたり、つくづくついていない。


 目の前の大通りは、片側二車線の幹線道路だ。乗用車やトラックが勢いよく通りすぎ、朝の喧騒を作っている。入試の時には歩道橋があったはずなのに、どうやら春休みの間に撤去されたらしく、真新しい横断歩道が朝日を浴びて鈍く光っていた。


 待つしかない時間は長く感じる。真紀は手持ち無沙汰の意識を周りに向けた。この通りを渡れば高校までは目と鼻の先なのだが、信号待ちをしているのはランニングウェアを着たサングラスにスキンヘッドの男性と、スーツ姿の女性がひとりずつで、同じ制服の生徒は誰もいなかった。バッグからスマートフォンを取り出し、手帳タイプのカバーを開く。

 表示された時刻は自分の想定したもので、入学式の開始まではあと三十分、事前に通知されている集合時刻まではあと十分だった。今日は入学式だけだということで在校生は休みのようだが、それにしてもあの電車に乗り合わせた生徒がひとりもいないというのはどういうわけだろう。みんなもっと早く着くように準備をしていたのだろうか。


 もしかしたら、自分が認識している時間が間違っているのだろうか。すでに入学式は始まっていて、扉を開けるとそこは無人の教室、という嫌に現実味のある想像が脳裏に浮かぶ。いや、そもそも本当に今日だっただろうか。疑心暗鬼は収まる気配を見せず、真紀はバッグを弄り今日の予定が書かれた書類を探したが、どうやら家に忘れてきたらしく見当たらない。


 途端にバッグが重たく感じた。志望校に無事合格できたことが未だに信じられず、気持ちが浮ついているから今日のような日にしっぺ返しを食らうのだろうか。

 初日からこれでは先が思いやられる、と真紀はため息をつく。猛勉強をしてこの高校に入ったのも、そんな失敗ばかりでパッとしない人生をリセットするためだった。容姿も勉強も体力も性格も、全て普通という二文字で片付くような没個性的な人間ではなく、誰からも認められ、そしてそんな自分を好きでいられるような人になりたい。


 真紀はこれまで幾度となく抱いたその決意を胸に、スマートフォンをバッグに戻し、肩にかかった紐を抱え直した。行ってみればわかるだろう、と無理に楽観的な言葉で不安に蓋をする。

 歩行者用信号が青に変わった。もう少しだと自分を鼓舞し、一歩足を踏み出した時、唐突に鼓膜を震わせる甲高い音がすぐ頭上に響き、真紀は引き寄せられるように上を向いた。


 最初は、飛行機かと思った。この近くには自衛隊の基地があるらしく、入試の日にも戦闘機が数機往来していた。締め切った窓に遮られ、それはほとんど気に触ることはなかった。それでも、普段耳にする機会のないエンジン音は試験問題に臨む心臓を打ち、いつもとは違う場所にいるのだということを真紀に印象付けた。


 太陽を背にシルエットとなって飛ぶ振動の源は、しかし飛行機とは言い難い姿をしていた。左右に張り出した突起は翼と形容するには短すぎ、胴体と一体化しているように見えた。丸みを帯びた機首、そして胴体からまっすぐに伸びた機尾。そこには航空力学の鱗片は全く見当たらなかった。


 真紀の頭上を行き過ぎるかと思われた機影は、高校のあるあたりで急旋回し、耳を刺すような高音をひらめかせながら真紀が歩く交差点に近づいてきた。高度が下がるにつれ、その姿が明瞭になっていく。像を結んだそれがブレザーの制服を着た青年だと気づく頃には、往来する自動車の屋根をかすめた彼が、中央分離帯であんぐりと口を開ける真紀の傍に、静かに降り立った。


 真紀は終始驚愕と困惑の渦中にいた。青年が巻き起こした風に髪を乱されながら、言葉にならない声をあげ、目を瞬き、前に立つその人物をまじまじと見た。高校生とすれば小柄で、けれど整った顔立ちをしていた。その襟元に自身のものと同じ校章のバッジを見つけ、真紀は驚きを新たにした。おろおろと顔色を変える真紀を、その青年は涼しい顔で眺め、そしておもむろに口を開いた。


「新入生だろ? 早くしないと集合時間に遅れるぞ」そう言いながら、その青年は真紀に手を伸ばした。前に出した足が地面の数センチ上で止まり、接地する前にもう一方の足が宙に浮く。前傾姿勢で浮遊する彼を見て、時間に間違いはなかったと安堵する気にはなれなかった。常識から逸脱する感覚が拒否反応となって真紀を後退させる。人が重力から解放されたなどという話はない。これは夢か幻か、そうでなければ自分は高校入試を経てどうかなってしまったか。いずれしても、この場所に留まるのは危険だと真紀の無意識が叫んでいた。


 視界の端に映る信号が点滅を始め、真紀は踵を返して交差点を走り出した。高校の門をくぐれば全てが元通りになる。そう信じ、腕を振る。すると後ろから強引に手首を掴まれた。

「え……!」

 反射的に振り向く真紀の体が、まるで浮力を得たようにふわりと軽くなる。

「ほら、掴まってろよ」


 青年は、真紀の手首を掴んだまま一気に宙空を駆け上がった。途端に空気が弾力を持った物質に変わる。風を切る感覚とは違う、それはまるで水の中を滑るような感触が体を包んだが、その違和感を知覚するよりも早く、見る間に小さくなる横断歩道が視界を横切った。


「高い高い高い高い……!」

 自分を掴む腕にすがりつき、大声を張り上げた。耳元で風が鳴り、その声はすぐに遠くへ流されていく。心臓が早鐘を打つように唸りを上げて状況の異様さを訴えていた。アドレナリンが放出され、臨戦状態となった体が硬くなる。しかし、真紀のこわばった腕を持つ隣の青年は、ちらりと真紀を見ると、「お前飛べないんだな」と感想めいたことを言っただけだった。そこに真紀への侮蔑や自身の優越感を見ることはできず、ただできることとできないことを知ったというだけの雰囲気に、真紀は小さく頷いた。けれど、それで事態が収束するはずもない。


 高さはせいぜい地上三十メートルといった具合だったが、体の下に遮るものが何もない状態で地上を見下ろす機会などこれまでになく、それが正確かどうかも定かではない。真紀は目を開いたりつむったりを繰り返し、できる限り下を見ないようにした。


 早くしないと、と言っていた割に速度が出ていないのは、飛べない自分を慮ってのことだろうか。走るのとさほど変わらないスピードで緩やかな弧を描く体が、次第に下降していく。自然と視線が落ちる。眼下に高校のグラウンドが広がり、どうやらその向こうの校舎前に降り立つようだと思う間に、ズームアップをするように周りの全てが大きく見え、真紀は手を引かれた状態のまま校庭に着地した。


 慣性をほとんど感じさせない、それはまるで最後の一歩と同じような軽快さだった。地面の感触を足の裏に確かめると、胸の鼓動が徐々に収まっていく。青年は着地と同時に腕を離し、呼吸を整える真紀を残して立ち去ろうとする。

「ちょっと待ってください。いったい、何がどうなって……」


 真紀はその袖口を掴み、戸惑いがちに話しかけた。青年は「何って、何がだ?」と首を傾げた。まるで真紀の方がおかしいとでも言いたげな雰囲気である。脱力しそうな体を支え、真紀は再度質問を口にした。

「何で、空なんか……?」


 真紀の言葉に、青年の表情が怪訝なものに変わる。「お前、もしかして……」そう言いながら近づく青年が、「おーい」と発せられた声に視点を転じた。真紀もつられて校舎を見上げる。ブレザーを来た女の子がベランダの柵に寄りかかって手を振っていた。


「恵庭くん、先生が呼んでるよ」

 恵庭と呼ばれた青年は、「わかった」と手を振って真紀に向き直り「お前も急げ。時間がない」と早口に言って昇降口に駆け込んでいった。


 びゅうっと風が吹き、ざわざわと真紀の心を乱していく。ざらりと砂埃を巻き上げた風はすぐに収まり、あたりは急に静かになった。いったい何だったのだろう。無事に高校にたどり着いたことと引き換えに、何か大切なものを失い、そしてとんでもない物を手にしてしまったような気がした。

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