第24話  夏陽炎

その日も、いつも通りの朝だった。


僕が二人よりも先に家を出て、手前の街灯に寄りかかりながら彼女達がくるのを待つ。


そんないつも通りの日常を、僕は送ろうとしていた。






…分かってる。本当は、そんなことはもう無理であることなんて、分かってるのだ。


あの日、僕が綾乃に告白され、初めてを奪われてから、当たり前の日々なんてものはもうこないのだと、内心理解はできていた。ただ、その事実から、目をそらしたいだけなんだ。








…いや、それも違う。だって、最初にこの関係を壊したのは―――






「みーくん、おはよう」




「湊ー、おはよー」




物思いにふけっていた僕に、綾乃と渚が声をかけてきた。


一瞬反応が遅れるものの、僕はいつものように挨拶を返す。慣れというのは恐ろしいけど、同時に頼りにもなる。心に反して、僕の体は勝手に笑顔を作ってくれた。




そのはずだけど、僕は今、ちゃんと笑えているだろうか。




「二人ともおはよう。それじゃいこうか」




「うん。だけど湊、ほんとにもう大丈夫なの?」




「そうだよ、試験休みの間もずっと返事してくれないし、心配してたんだよ?」




心配そうな顔でこちらの顔を覗き込んでくる綾乃に、誰のせいだよと言いたくなる気持ちを僕は必死に押し殺し、曖昧な言葉で場を濁した。




あのあと、僕達の学校は土日を挟んで試験休みに入っていた。


その間、僕はずっと幼馴染と会うことを避けていた。その結果、予定していた佐々木さんとのデートもキャンセルすることにもなっていたのだ。


それを伝えたところ、彼女はすぐに夏休みだから大丈夫と言ってくれたが、正直今は、佐々木さんに会わせる顔がなかった。




「ごめん、検査は問題なかったんだけど、あのあとちょっと体調悪くなって寝込んでたんだ。あまり心配もかけたくなかったし…」




「え、ほんと!そっちのほうが心配だよ!言ってくれればお見舞いも行ったのに…」




「ごめんって。もう大丈夫だから」




僕の考えすぎだろうか。過剰なほどに綾乃が反応しているような気がする。


それに、距離も近い。少し手を伸ばせば、綾乃の顔にも手が届く距離だ。




それに、あの唇にも―――






…なに考えてるんだ、僕は。




あの時感じてしまった柔らかさを、僕は必死に記憶から追い払った。




僕はそんな目で、綾乃のことを見たことなんてなかったはずだ。


綾乃のことを女の子として意識したことなんて、今までなかった。


苦手意識のほうが、よほど大きかった、はずだ。


なのに、なんで、今。僕は―――




「湊ー、綾乃ー、そろそろ行こうよ。遅刻しちゃうよー」




渚の声で、我に返った。


渚を見ると、僕らよりかなり先まで歩いて、こちらに手を振っている。


チラリと見た腕時計の長針も、いつもの時間より10分ほど先に進んでいた。


急がないとまずいかもしれない。




「綾乃、ちょっと急ごう」




「あ、うん。そうだね、いこっか」




僕は綾乃に声をかけ、渚のことを追いかけた。


助かった。あれ以上思考の渦にはまっていたら、きっと考えてはいけないことに、僕はたどり着いてしまっていただろう。


浮かんだ考えを置き去りにして、僕達は三人並んでまた歩き出す。






いつもより少し慌ただしい、朝の風景だった。












「みんな、おっはよーう!」




いつかの焼き直しのように、渚が勢いよく教室のドアを開けた。


クラスメイト達が集まってくるが、あの時とは違うのは、渚よりも僕のほうへと声をかけてくることだろうか。


綾乃達と同じように、皆一様に安堵した表情を浮かべていた。




「湊くん大丈夫?」「怪我は直ったの?」「綺麗な顔に傷とか付かなくて良かったー」「やっぱ湊くんの髪撫でると落ち着くわぁ…」




…約一名、変わらない人もいた気がするけど。


なんとか囲みを抜け出して、既に疲れ始めた体を動かし席へ向かうと、圭吾が待っていた。


健人はいない。まだ登校もしていないようだった。




「おはよう、圭吾」




「おっす湊、もう大丈夫なのか?」




「うん、大丈夫だよ。検査でも問題なかったしね」




そか、という圭吾の顔は、どこか嬉しそうだった。彼にも心配かけてしまったようだ。


倒れた僕を運んでくれたのも圭吾らしい。そのうちなにか奢ろうと思いながら、僕は圭吾に声をかけた。




「健人はまだきてないの?いつもならもうきてるのに」




僕の言葉に圭吾は顔をしかめる。…なにかまずいことでも言っただろうか。




「どうしたの?」




「健人はまだきてねぇよ。てか、湊は怒ってないのか?お前がわざわざ病院いくことになったの、あいつが悪いだろ。俺も結構キレてたんだぜ?」




圭吾は露骨に不機嫌そうな顔をした。嫌悪感を隠す気もないらしい。


正直僕は、あまり気にしてないのだが。




「あれは事故みたいなものだし、別に怒ってないよ。受身を取れなかった僕も悪いんだし」




「お前はちっと自罰的すぎだ」




そう言って圭吾は僕に怒りを向けてきた。どうも虎の尾を踏んでしまったようだ。


反射的に身構えてしまう。




「そういうのは責任感強いとは言わないんだよ。ありゃ誰が見ても健人が悪い。湊が仲直りしたいっていうなら止めないが、俺は当分は勘弁だな。女の子泣かせるやつとは反りが合わねぇ」




「圭吾…」




諭すように話す圭吾に、僕は何も言えずにいた。




その時、ドアが開く音が聞こえた。反射的にそちらに目を向けると、眼鏡をかけた中肉中背の、見慣れた男子生徒の姿がある。健人だった。




僕と同じくドアの方向を見ていた圭吾は舌打ちして、自分の席に戻っていく。


どうやら彼の怒りは、まだ収まりそうにないようだ。




そんな圭吾を見届けて、僕は健人に話しかけるべく、近寄ろうとした。


なにか話さなくてはいけないと思ったのだ。


近づいてくる僕を見て、健人の表情が一瞬だけ変化する。


その表情には、見覚えがあった。




あれは、誰かを嫌悪している顔だ。憎んでいるといってもいいかもしれない。


何故そんな敵意を向けられるのか分からず、思わず立ちすくんでしまうと、逆に健人のほうからこちらに向かって歩いてくる。




先程の顔は既に消え失せ、今は申し訳なさそうな表情を浮かべているが、僕にはあの顔が脳裏にこびりついて離れない。


戸惑う僕をよそに、数歩離れた位置で立ち止まった。




「けん…」




「湊、悪かった!」




なにか声をかけなければと思い、口を開いた僕を遮るように、健人は勢いよく頭を下げてきた。


その勢いに、僕は思わず気圧されてしまう。




「あんなつもりことになるとは思わなかったんだ。悪い、本当にごめんな」




「いいから、顔を上げてよ。僕はなんとも思ってないから!」




慌てる僕とそれを見守るクラスメイト。未だに頭を下げ続ける健人にどうしようもない気恥ずかしさを感じ、健人の顔を無理やり上げさせた。


だけど、その顔を見て僕はぞっとした。先ほどと同じ、明確な敵意を宿した瞳で、健人は僕のことをじっと見ていた。




そんな僕達をよそに、チャイムが鳴る。


どこか弛緩しかんした空気を醸し出しながら、生徒がほうぼうへと散っていった。


それを見ながらも、僕は動けない。


ようやく体を動かすことができたのは、教室に入ってきた先生に注意されてからのことだった。




ふらつきながら席に戻ると、スマホが震動していることに気付く。


休み時間に震える手で密かに確認すると、画面には前原健人の名前が表示されている。




件名は放課後、屋上まで


僕は呆然としながら、その文字を眺めていた。














その時は思っていたより、ずっと早く訪れた。


期末テストが終わった今は、元々半日授業だ。夏休みも目前となり、周りの生徒もどこか浮かれていた。


遊びの誘いを丁重に断り、僕は今、一人で屋上に向かっていた。


健人も一人で教室を出たことは確認している。きっと僕より早く、屋上まで着いていることだろう。




カツンカツンと音を鳴らし、踏みしめながら進む階段が、何故か僕には絞首刑に向かう囚人のもののように思えた。夏の暑さを遮るようなコンクリートの冷たさも、今の僕には感じられない。


口の中はもうカラカラだった。




そしてようやくたどり着いた屋上のドアを、僕は開ける。






その先には夏の青空と、一人の生徒が待っていた。








「よう、湊」




いつもの調子で、健人が話しかけてくる。


だけどその瞳はもう僕に対する敵意を隠そうともしていない。


なんで、という言葉が浮かんでくるが、僕は答えなくてはいけなかった。




「健人、どうして…」




「俺、綾乃ちゃんに振られちゃったんだわ」




なんてことのないような口調で、健人は言った。


その言葉を、僕は理解できなかった。




振られた?なんで?




でも、まさか




僕には心当たりが、ある






「な、なんで…」




「綾乃ちゃん、お前が好きなんだってさ。それに気付いたからもう俺とは付き合えないんだと」




脳裏に浮かんだ考えを否定する時間さえ与えてくれず、健人がまくし立てるように吐き出した。


苛立ちが隠しきれてない、そんな様子だ。


なにも言えずにいる僕に、健人が言葉を叩きつける。




「なぁ、どういうことだよ?お前、綾乃ちゃんの気持ちに気付いてたのか?気付いてて佐々木と付き合ったのか?」




「…………」




僕は、やはりなにも言えない。




「なんとか言えよ!」




「ぐっ!」




そんな僕に詰め寄ってきた健人が、胸ぐらに掴みかかってくる。


それを僕は、避けられなかった。




健人はもう、泣いていたから


避けることなんて、できなかった。




「俺さぁ、ほんとに綾乃ちゃんのこと好きだったんだよ…なんでこんなことになるんだよ…」




健人はもう涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。声だって鼻声だ。


でも、それを笑うことなんてできない。そんな資格は僕には、ない。




「…ごめん」




「だから!なんでお前が謝るんだよ!」




言ってることも滅茶苦茶だ。健人にもなにが言いたいかなど、もう分かってはいないだろう。


きっと健人は、自分の感情を全てここで吐き出したいんだ。


ここまで健人を追い込んだのは、僕だ。






なら、僕がやらなくちゃ、いけないことは






「…知ってたよ」




「は…?」




健人が呆然とした瞳で僕を見る。その目からは、今も涙が流れたままだ。




「綾乃の気持ちは、知ってたよ。知ってた上で、僕は佐々木さんと付き合ったんだ」




「なに言ってんだよ、お前…」




もちろん、嘘だ。




僕は綾乃の気持ちなんて知らなかった。向き合おうともしなかった。


だからこうなった。目を瞑り、耳を塞いで逃げ出したから、こうなったんだ。




これは全部、僕の罪だ。最後に僕は、皮肉げに笑った。




こういうことは、得意だから。




「健人の頼みに乗ったのも、綾乃のことをいい加減ウザいと思ってたからだよ。誰かと付き合えば、離れてくれると思ったから、いい機会だと思ったんだ。そのままちゃんと、つなぎ止めてくれたら良かったのに」




「湊ぉっ!」




ゴッという衝撃が、口内に響いた。


どうやら上手くいったようだ。血の味がする。


視界も滲にじんで、僕も泣いてしまっているようだった。




「綾乃ちゃん、言ってたんだぞ。それでも好きだって!お前、お前!」




「知ら、ないよ。もう関係ないだろ。振られたんだよ、健人は」




それでも精一杯虚勢を張って、僕は笑う。


綾乃みたいに頭も良くない。渚みたいに口も上手くない。


そんな僕にはこんなことしかできなかった。




健人が僕を離し、そのまま落下した僕は尻もちをついた。痛みは感じない。


殴られた口内のほうが、ずっとジクジク痛んでいた。




そんな僕を、健人が軽蔑した目で見下ろしてくる。


友人に向けるものではない、冷え切った瞳だった。




「そうだな、もういい。どうでもよくなった…お前、上手いことやってるよな。こんなやつなのに、みんな俺よりお前のこと信じるだろうし。佐々木のことも、紹介なんてするんじゃなかった」




悔さが滲んだ、だけどどこか吹っ切れたような調子で、健人は言う。




「俺、もうお前の顔見たくないわ。部活も辞めるし、これから話しかけんな。お友達や佐々木と仲良くやってろ…最低だよ、お前」




そう言って、健人は屋上から去っていく。


もう迷いのない、しっかりとした足取りで。


それを見て、僕は小さく呟いた。




「知ってるよ…」




そんなことは、僕が1番よく分かってる。


僕はそのまま蹲うずくまった。






なにがいけなかったんだろう




逃げ出すのが、そんなに悪いことなのかよ




ただ楽になりたいって望むのが、駄目なことなのかよ






僕はただ、泣き続ける。




分かってる。ちゃんと分かってるよ。


他人の気持ちを利用して、そこに逃げ場を勝手に作って、それでも誰かを傷付けることを怖がった僕が、全部悪いんだってことは。






だから、こうなったんだ。


幼馴染という関係が望み通り壊れて、実は好かれてましたって。


それで付き合ってた友達と別れて、告白されるとか、僕の好きなラブコメみたいな展開じゃん。


ほら、笑えよ。水瀬湊。








幼馴染を失って、友達もなくして




僕はどうすればいいんだろう、なにが正しかったんだろう、なにが悪かったんだろう




僕には分からない




それでも、時は進んでいく














一年目の夏が、もうすぐそこまできていた

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