1:優しさの温度
空が金色に燃える。
夕焼けのせいだけではない。
天使がいるのだ。
木々の隙間で輝きを纏う彼女が、微笑んでいる。
「カオルさんに御用のようですが」
「っぽいなあ」
「こっちを、まったく見ませんもの」
クリーティアは複雑な思いで、困った風に顎をさする魔王に眼を向けた。
私は神によって選ばれたというのに、その使いは男のことだけを見つめている。
だけど、これはただの嫉妬などではない。
直前に否定された、彼女の持つ信仰への絶対性。善徳を重ね、死後の救いを求めることを当然としてきた、これまでの十六年間に積み重ねた価値観。
今は言葉を持っていないから、天使との対峙は恐ろしい。
だから、カオルへはすがる気持ちが、ほんのり強い。
そんな思いを知ってか、黒いジャケットの裾を揺らして彼は前へ。
応じるように、輝く天使が白銀の羽とともに舞い降りる。
二人の距離が、もどかしさを味わうようにゆるりと縮んで、
「お久しぶりです」
驚いた。教会の徒である勇者は、思いもよらない事態に目を剥く。
翼を持つ女は溶けるような微笑みを男の大きな胸にうずめ、男もそれを受け入れたのだ。
天使が、魔王とだ。
だが、彼女の混乱など構わず、金の瞳を持つ天使は、懐古に喜ぶ。
「あなたのおかげで、こうして生きております」
「そいつは結構だ、メノウ。もう、泣いてないか?」
「時々寂しくはなりますけれど、今は父がおりますので」
そうか、と呟く魔王の声は、どこか陰があった。
その質がよくわからない。後悔にも聞こえるし、諦めが含まれているような気も。自分の短い経験の中からでは、答えを見つけられない。
この相反する存在である二人が、過去において蜜月な関係にあったということだけで、混乱は目いっぱいに広がっているのだから。
「ですから、少し彼女とお話をさせてもらいます」
「え?」
だから、不意な天使の言葉に、間抜けな声を返してしまった。
見れば、微笑む瞳がじっと、射抜くようにこちらを見つめている。
「!」
存在の質自体が、圧倒的に違う。
ただの視線が、まるで質量を持ったようにぶつけられた。
背中に寒気として広がり、べったりと冷や汗をかかせる。あるべき自己を押しつぶされそうな、甘美な、だからこそ危険な圧力。
屈すれば、きっと自分は、天使へ心酔するだろう。
それほどの正しさと美しさが、彼女にはある。
人類の触れ得なかった、世界に潜んでいた神秘が、今目の前にある。
圧力がこちらへ近づく気配を見て、クリーティアは体を固く。
「ダメ。魔城に連れていく気だろ?」
と、悪戯を叱りでもするような男の声が。
捕われかけた心の中に、温かく柔らかく、カオルの言葉が染み込む。そこに隠れる優しさに。
だから、
「あなたがおっしゃったのですよ。そうすれば、父を感じることができると」
「っ!」
抱きしめていた魔王の腕をあっさりと振り払い、今度は真正面に向きなおられたとしても、少しばかりは強く、視線を返すことができるのだ。
※
「さあ、勇者よ。まいりましょう」
差し伸べられる手は、夕暮れに染まるほどに白く、細い。
そこには、ただの人では拒みきれない力が、確かにある。
「魔王を討つために、彼の城へ」
だがクリーティアは、彼女が討たんと言う男から、僅かながら勇気を分けてもらっている。
「魔王でしたら、そこにいるではありませんか」
心臓を跳ねさせながらの、懸命の抵抗。
風もないのにそよぐ銀の髪と、首から下がる指輪をふわりと浮かばせて、天使は微笑む。
「魔城で魔王を討つことが、父の望みなのです」
優しげな眼差し。
しかし、少女の背中は、突然の悪寒に掻きまわされた。
メノウと名乗る金眼の天使の目的が、理解できない。
敵を討つだけでは適わない。
己の手で討つことも適わない。
ただ一つ。
彼女が父と呼ぶ、神が望んだがままに、全てを終わらせなければいけない。
……どうして?
わかりようもない。
おそらくは、ただそうすることが目的なのだから。
聖なる使命を帯びて旅を続け、しかし、己の正義を貫くために使命を一時的に中断しているクリーティアにしてみれば、相容れない思考である。
意思の介在が見えない天使の言動に、少女は心底を冷えさせられる。
「さあ、勇者よ。越えられない問題は、一つもありませんよ」
ぐ、と端正な顔が近づけられた。
そっと腕を取られ、手の冷たさに、こもる力に驚く。
逃れられない。
本能がそう悟った時に、
「魔城に行く必要なんか、ありゃしねぇよ」
「カオル?」
天使の体が、後ろから羽交い絞めに。
長い銀の髪のかげから覗くのは、黒髪の青年の苦笑い。
「あそこにゃ、もう魔王はいやしないんだ」
驚く天使の手は、クリーティアの腕を思わず放す。
だが、圧迫からの解放は、同時に虚脱を生んだ。
動けず、推移を見つめるばかり。
「もう、百年も続けたんだ。十人以上の勇者を犠牲にしてな。もういいだろ?」
「良くなんかないわ」
沈む声で、メノウはゆっくりと、まず右腕を振りほどいた。
体を回して向き直れば、今度は男の左腕を、逆に捕まえる。
「なら、私のこの孤独は、どうすればいいの!?」
声に涙がにじみ、勢いはすがるように叩きつけるように。
「父の言葉が無理だというのなら、昔みたいに、あなたが私を救ってくれるというの!?」
激情だった。
天使の声にはキセキが宿る。
その、神々しい力を見せつけるほどに、彼女は失意に吼える。
衝撃が波となって奔った。
木々が数多の葉擦れに叫び、細い枝は簡単に吹き折られる。
「っ!」
力が抜けていたクリーティアの足は、あっさりと、主に尻もちをつかせた。
ごく近いカオルは、姿勢を保っているものの、しかしそれが精いっぱいの様子。
が、そんな中で視線を飛ばし、
「逃げろ! で、メグを頼れ!」
こちらを気遣う。
クリーティアは自訓に従えば、恩には恩で報いなければならない。
彼には、いくつもの恩がある。
返すまでは、勇者としてその男を討つことは先延ばしだ。
だから今、腰の戦闘杖を握ることが、少女のあるべき姿。
しかし、
「早くしろ!」
クリーティアは薄い下唇を噛みしめながら、背を向けて村へと駆けだした。
あれほど優しい男の、足手まといにだけはなりたくなかったから。
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