第一章 夜叉の目覚めた日(12)


 覚悟を決めて一つせきばらいすると、ハクの言葉を彼らに伝えていく。


「ではせんえつながら通訳させていただきますが、ハク様はこう仰っておられます。まずは白陽殿に許可無く立ち入ったことを謝罪せよ。ここは我が治める領域である、と」

「それは申し訳なかった。誠心誠意謝罪させていただこう」


 緑峰は何の抵抗もなく、すぐに頭を下げた。


「申し遅れたが、枢密使の役にある緑峰と申すものだ。以後お見知りおきを」


 中書侍郎の綺進です、と隣も続けて頭を下げる。

 猫と挨拶を交わす男たち。彼らはそれでいいのだろうか。

 ハクもハクだ。いきなり謝罪要求はやめて欲しい。まだ手探りで会話しているのに刺激するような真似を……。むしろこちらが申し訳なくなってきたが、もうヤケだ。


「通訳を続けます。謝罪は受け入れた。ならば本題に入るとしよう。昨夜、桂花宮でどんな事件が起きたのか聞かせてくれ。沙夜にどんな容疑がかかっているのかも」

「容疑が何かは言えない。だが、陛下の命を受けて桂花宮の調査に来たとだけ答えておこう」

「緑峰様はお立場がありますので、私が答えましょう」と綺進。「実は桂花宮の香妃という妃に、反逆の疑いがかけられているのです」

「にゃ、にゃにゃにゃ?」


 つまり暗殺か? とハクが口にしたのでそのまま伝えた。

 すると綺進は「恐らく」と肯定する。


「先日のことですが、皇帝陛下の毒味役が原因不明の高熱で倒れました。そのため、香妃に疑いが向いたのでしょうね。寵妃である彼女は、陛下のお渡りがある度に手製の料理を振るまっていましたから」

「おかしな話だ」ハクは小首を傾げる。「料理を食べてすぐに倒れたのなら、その場で捕らえればいいだけのこと。夜討ちなどせずともな」

「仰る通りです。ですがすぐに倒れたわけではないのです。毒味役は徐々に体調を悪くしていき、ついに寝込んでしまったわけでして……。恐らくは遅効性と思われますが、確証もなかった。ですから昨夜、お渡りがあると偽の事前通告を出して、禁軍が立ち入り調査を行ったのでしょう。動かぬ証拠を押さえるために」

「で、あったのか? 証拠は」

「それも答えられぬ」


 緑峰は厳しい顔つきになってそう言ったが、再び綺進が代弁する。


「無かったのでしょう。ですから宮女を捕らえて尋問しようとしているのです。それに首謀者も捕まえることはできませんでした。昨夜、禁軍が宮殿内になだれ込むと、香妃は私室に立てこもって鍵をかけ、自ら火をつけたそうですから」

「火を……? では首謀者が燃え死ぬところを指をくわえて見ていたのか? いかに火の回りが早かろうと、一瞬で燃え尽きたわけではあるまい。水でもかぶって飛び込めば取り押さえることはできたはずだろう」

「無論だ」それには緑峰が答えた。「部屋の扉は頑強だったので、窓を壊して中に立ち入った。しかしそのときには既に、香妃は息絶えていた。彼女に折り重なるようにして侍女たちもみな死んでいた」

「……侍女が、全員ですか?」


 そのとき発した沙夜の言葉は通訳によるものではなく、自身の疑問だった。


「身元の確認はこれからだ」と緑峰。「ただ、人数は五人だ」

「五人……そうですか、ありがとうございます」


 沙夜は礼を言った。一人足りなかったからだ。ならばその一人は蘭華に違いない。沙夜だけを逃がしたわけではなく、彼女もまたどこかへ逃げたのだろう。心中でほっとあんの息を吐く。


「なるほど」とハクは言い、後ろ足でヒゲの辺りを搔いた。「暗殺の証拠を押さえるために踏み込んだが容疑者は死亡。証拠も見つからない。だから手当たり次第に宮女を捕まえようとし、逃げた沙夜を追ってここへ来たと、そういうわけだな?」

「ご明察です。自害した以上、香妃の容疑は濃厚ですが、証拠はありません」


 綺進はそう言って、沙夜に向かってにこりと微笑む。


「首謀者が死んだため、真相は闇の中。桂花宮の宮女には取り調べが行われますが、私の名にかけて適正に行うことを保証します。無実だと判断すれば、即時解放されることでしょう」

「それは何よりです」


 ようやく事情が飲み込めてきた。そんな経緯だったのか。

 追いかけられたときには生きた心地がしなかったが、少なくとも緑峰はあのときから誠実な態度をとっていたと思える。今だってそうだ。こんな貧相な下女と正体不明の猫に対して、ちゃんと礼をとって話している。それは凄いことだと思う。

 だから信用できると沙夜は思った。こちらも誠意を見せなければと。


「……あの、わたしは本当に、何も知りません」


 恐る恐るではあるが、自分の言葉で彼に答えることにした。


「桂花宮では未だに見習いの身分です。主な仕事は洗濯で、夜のお勤めにもまだ参加したことはありません。香妃様とお話ししたことも数える程しかなくて、ご期待には沿えないかと思います」

「そうか」


 緑峰が落ち着いた声で呟く。何の感慨もない「そうか」だった。

 ああやはり、この人は真面目な人なのだ。ただ純粋に皇帝命に従って動いているだけなのだろう。静かないわおのように泰然とした人物だという印象が強まった。

 そうして何もない正殿の広間に、一拍の静寂が訪れたが、


「──なかなか面白いな」


 一人だけ空気の読めていないハクが言った。


「火が回りきっていないのに、わずかな時間で香妃とやらは絶命していたのだろう。つまり事前に準備をしていたのだな。となれば予測していたことになる。禁軍が押し入ってくる可能性を」

「何だと? どういう意味だ」


 沙夜が通訳した言葉に、緑峰が鋭敏な反応を見せた。

 何か思い当たることでもあるのか、と訊ねる彼に、ハクは何やら嬉しそうに答える。


「わからんか。備えていたということは、後ろめたさがあったということ。毒物が見つからずとも反逆の意思は見てとれる。問題はどのような手段をとったかだが──」


 歯をいて笑みを見せ、思案を巡らせるように顎を上げるその仕草は、もはやどう見てもただの猫ではなかった。



【次回更新は、2020年3月1日(日)予定!】

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