琵琶湖畔の戦い Ⅳ

 羽柴軍の突撃を防いだことで、形勢はじりじりと新発田軍有利になっていった。また、時間が経つにつれて蓄積した疲労により羽柴軍は動きが鈍くなっている。あとは秀吉がどのように戦をまとめるかというところを俺は注視していた。

 物見によれば今日明日中に徳川軍の追撃がくることはなさそうなので、いったん立て直して再戦にするのか。諦めて撤退するのか。それとも関ヶ原の島津軍のように玉砕覚悟で敵中突破するのか。

 俺は特に秀吉本陣周辺に多数の忍びや物見を集中させていた。


「申し上げます! 羽柴軍本隊から秀吉の馬印を立てた部隊五百ほどが北へ向かっていきました!」

「北か!」


 近江北部は長浜城周辺が佐々成政の領地であるが、成政の警戒は若狭に向いているため、そこまで警戒が厳重な訳ではない。そこから丹羽長重の領地に逃げ込むことは出来る。

 問題は秀吉が負けた場合、長重がどのような判断を下すのかは不明な点だ。そのまま秀吉を逃がすのか、所領安堵を条件に秀吉の身を引き渡すのか。

 とはいえ、長重が秀吉の弁舌で言いくるめられる可能性もある以上、出来れば入れたくはない。追手を出すべく指示を出そうとすると、次の物見が駆け込んできた。


「羽柴軍より別動隊五百ほど、秀吉の馬印をかかげて山中を迂回しております!」

 現在我々が戦っているところは左手が琵琶湖、右手が山になっている。道は険しいがその山の中を通れば近江南部へ逃れることが出来るかもしれない。


「申し上げます! 秀吉の馬印を掲げた船が琵琶湖へ漕ぎ出しています!」

「どの程度の船だ」

「数人が乗れる程度の漁船数隻です」

「さすがにそれは……」


 そんな数人程度の護衛とともに本人が逃げる訳がない、と思うが劣勢に陥った以上一か八かという思いもある。一番順当なのは山中から近江南部へ向かう経路だが、秀吉なら丹羽領へ向かうこともありえるし、そう思わせて琵琶湖に漕ぎ出す可能性もある。考えて分かることではなかった。


「どれが本物なのか分からぬのか!」

 思わず語気が強まってしまう。

「申し訳ありません、その上本陣にも秀吉の馬印が残っておりまして……」

「そのような小細工を……弄しおって! よし、急ぎ佐々殿に使者を! また琵琶湖に漕ぎ出す漁船を探すのだ! そして盛喜には山中の敵軍を追撃するよう命令を出せ!」


 分からない以上全てに対して命令を出す他ない。ここで秀吉が逃げ切れば、毛利軍に領地を献上してでも抵抗を続ける可能性がある。そうなっても負けるとは思えないが、討伐には多大な時間がかかってしまうだろう。


 その間も羽柴軍の攻撃自体は止まないので軍勢はそちらの応戦も迫られる。勝利はほぼ確実だというのに俺はじりじりしながら続報を待っていた。

 お昼を少し回ったころである。俺の本陣にぼろぼろになった望月千代女が現れた。装束は破れ、腕や腹に複数の切り傷がある。全体的に優勢な戦況で体から血を流している彼女の姿は異様であった。


「一体何があった!」

「秀吉ですが、馬印を捨て、ただいま少数の供回りを伴って琵琶湖畔を北上しております……」

「何だと」


 確かにわざわざ馬印を立てた軍勢を各所に散らすのはわざとらしすぎた。もっとも、だからといって無視する訳にもいかないのでどうしようもないことだったが。情報が遅くなったのは羽柴軍もそれだけ必死に秘匿を図ったということだろう。

 普通なら降伏して家臣らの助命を請うところではあるが、逆に言えば、秀吉一人でも領地まで逃げ延びれば挽回の自信があるということの表れでもある。


「よくやった。秀吉は若狭に向かうのか、それとも京に向かうのか、分かるか」

「おそらく、京だと思われます……」

 そう言って千代女はばたりと倒れる。さすがの秀吉も自分の命運を面識のない長重に委ねることは出来なかったということなのだろうか。

 しかし秀吉が軍勢を離れて馬で北近江へ向かったのであればその後を追って成政に使者を送っても捕えるには間に合わないだろう。秀吉は琵琶湖を北から一周し、京へ向かうはずだ。


「誰ぞ、早く千代女の手当を頼む! それから柴田勝敏殿と京の毛受勝照殿に至急使者を!」

「使者にはどのように伝えさせましょうか」

 そこで俺は言葉に詰まる。二人ともこのたびの戦いでは中立を明言している。いくら秀吉が単独で逃げ出したとはいえ、二つ返事で捕えてくれるとは思えない。中立を要請したのは俺ということもあり、一瞬言葉に悩む。


「仕方ない、俺が書状を書く」

 時間がない以上なりふり構うことは出来ない。俺は秀吉が合議に従う振りをして毛利と組んで滝川一益を追い落とし織田家を簒奪しようとしていた、だから秀吉を逃がしてはならない、とあることないこと(証拠がないだけで当たってはいるのだが)を書き連ねて秀吉の捕縛を要請する。

 急いでいるというのに同じ内容の書状を何通も書かなければならないのがもどかしい。


「これを届けよ!」

 書き上がるたびに一枚ずつ使者に渡していく。とはいえ、琵琶湖を南から回る方が距離的には短い以上使者は間に合いはするはずだ。問題はない勝敏や柴田家臣の動向と、仮に捕まえようとしたとして成功するかどうかだ。


「それから佐々殿にもこれを」

 万一千代女の予想が外れ、秀吉が丹羽領に逃げ込んだ時に備えてその可能性がある旨を成政にも連絡する。


「申し上げます! 琵琶湖に向かった追手は羽柴軍によって返り討ちに遭いました! 船に乗っていた者たちは坂本城に向かったようでございます」

 なるほど、もしかすると秀吉は柴田勝敏領を通過するにあたって事前に使者を出しておこうとしたのかもしれない。しかしその船に秀吉が乗っていなかったことに俺は安堵する。


「秀吉がいなくなった以上残りの軍勢に用はない。攻めてくるもののみ防ぎ、逃げるのであれば深追いはするな」

 秀吉の動向に振り回された午後だったが、それ以上に羽柴軍は秀吉の離脱で動揺していたため、戦闘は新発田軍優勢のまま夕暮れとともに幕を下ろした。

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